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1巻
1-1
しおりを挟むこんなの、絶対に本当の自分じゃない――
日本から飛行機で約八時間の距離にあるこの南の島は、サバナ気候に属し年間の平均気温は二十八度。
けれど、さほど不快に感じないのは海からの風が暑さを和らげているからだろうか。
聞こえてくる波の音に導かれるように、佳乃は今夜はじめて会った男性に跨り、ゆったりとした笑みを浮かべた。
広げた脚の間にいる男性が、低い呻き声を上げる。硬い胸筋が上下し、割れた腹筋が薄闇の中でくっきりと浮かび上がった。
「すごい……これって、ジムで鍛えてるの? それとも、スポーツとかで自然についた筋肉?」
佳乃は少しだけ前屈みになり、男性の腹筋を指先でなぞった。
「バスケ、やってるんだ。そのためのトレーニングでマシンも使うけどね。だから、割と柔軟だし瞬発力もあるよ。なんなら、試してみる?」
「ぁんっ……! あ……っ……!」
突然の突き上げを食らって、上体が激しく揺れる。差し伸べられた両方の掌に指先を絡め、倒れそうになった身体を支えられた。
「君は? 日頃身体を使って何かしてる?」
緩く腰を上下させたまま、男性が訊ねる。
「し……してな……い、あんっ……! やぁっ……ん、んっ……」
返事をしようとすると、男性の突き上げがいっそう激しくなった。
絡め合った指に力を込め、佳乃は目を閉じて思うままに腰を揺らめかせる。途端に下腹から脳天を突き抜けるみたいな快感が襲ってきて、目の前にキラキラと小さな星が舞う。
「……やっ……気持ち……いいっ……。なに……これ……あ、ああっ……!」
まるでエロティックなメリーゴーランドに乗っているみたいだ。
「もっと……お願……、もっと……あ、あっ! あぁっ……!」
目の前に降り続ける星が、時折大きな光の塊になって身体の中に溶け込んでいく。
「エロい……それに、すごく綺麗だよ。……まるで神鳥に乗って空を駆ける女神みたいだ」
まさか自分が、こんな事をするとは思ってもみなかった。
日本から遠く離れ、南国の島の熱気に晒されたせいか、心の箍が完全に外れてしまったみたいだ。
きっとこれは、この五年間ただただ品行方正に生きてきた自分に対する、神さまからのご褒美に違いない。
そうでなければ、これほど眉目秀麗な男性と、こんなにも濃厚な夜を過ごしているはずがなかった。
今このときが真に南国の神々による賜物だというのなら、思いっきり楽しんで我を忘れるほどの快楽に溺れても誰も文句は言わないだろう。
忘れ去っていた性的な欲求が、身体の奥からこんこんと湧き出てくる。こんな感覚に陥った事など、今までに一度たりともなかったのに……
佳乃が夢心地になっている間にも、男性は佳乃の乳房を掌で包み込み、先端をねじるようにしていたぶってくる。
ゆっくりと捏ね回す手つきが、たまらなく淫靡だ。
「エロいって……どっちが……」
いつの間にか動きを止めた男性の腰の上で、佳乃はうっとりと目を閉じてため息を吐いた。
「君だろう? こんなにそそられる女性ははじめてだよ」
彼の手が慣れた感じで身体のあちこちを触るたびに、脚の間が新たにじんわりとぬめるのを感じた。
身体を開いたのは、はじめてじゃない。
だけど、いまだかつて自ら望んだ事はなかったし、快楽など自分には無縁のものだと思い込んでいた。
「私だって、こんなに惹きつけられる男性に会ったのは、はじめて……。ねえ、どうせなら一生忘れられないような時間を過ごしたい。もし、今後二度と会えなくても、死ぬまで憶えていられるような快感を味わいたい……。いい?」
普段の自分なら、絶対にこんな台詞は吐かない。
今みたいな喋り方はしないし、思わせぶりな態度で男性を誘惑するような真似をしようと思った事すらなかった。
「いいよ。……ほら、こうしてじっとしているだけでも、すごく感じる。きっと俺達、身体の相性が抜群にいいんだ」
男性が鷹揚に笑うと、硬い腹筋が上下して花芽の突端に甘やかな炎が宿る。自然と声が漏れ、顎が上を向いた。
こんなのは、まったくもって予想外だ。
まさか自分が、こんなふうに奔放な振る舞いをするだなんて――
今まで知らなかった自身の性癖が、ついさっき会ったばかりの男性によって暴かれてしまった。
眼下にいる男性の一部が、自分の中に入っている――そう思うだけで身体が勝手に反応する。自分がこんなにも感じる事ができるなんて知らなかった。
気分は、さしずめ物語に出てくる高級娼婦だ。
ウィットにとんだ会話とともに、見ず知らずの相手と濃厚な夜を過ごす。でも、当然お金なんかいらない。ほしいのは、過去を洗い流してくれるほどの強烈な記憶と、我を忘れるくらい甘やかでスリリングな一夜だ。
そう、たった一晩でいい。
たとえ一生に一度しかない天からのプレゼントであっても、所詮旅先で出会ったゆきずりの人だ。
いくら相手が、驚くほど容姿端麗で身体の相性が抜群によくても、これが一夜限りの関係である事には変わりない。佳乃は偶然もたらされたアバンチュールを日本に持ち帰るほど初心じゃなかった。
「君は本当に素敵な女性だ。泣いたり笑ったり怒ったり……一緒にいてこれほど楽しいと思った女性は君がはじめてだよ。外見も中身も、完全に俺の好みだ。……特に、下から見る君の胸……彫刻にして遺しておきたいほど完璧なフォルムだな」
男性の指先が佳乃の胸元を下り、花芽の先を摘まんだ。
たったそれだけの刺激に耐え切れず、佳乃はまたしても小さく声を漏らしてしまう。
「くくっ……かーわいい……。ほんと、たまらない」
そう言って笑う男性の笑顔は、思いのほか優しかった。
男なんて、もうこりごり――そう思ってこんな南国の島まで逃げてきたのに、向けられる微笑みに心がとろけそうになっている。
佳乃は無意識に首を横に振った。
(ダメ……絶対にダメ……!)
これ以上、見つめ合い、言葉を交わしていると、本気で恋をしてしまいそうだ。
こうして男性と睦み合っているのは、あくまでも今宵限りの事であり、この先の未来はない。ただのアバンチュールの相手に、身体だけならまだしも、心まで許してしまうなんて決してあってはならない事だ。
そうならないためには、心が置き去りになるほど淫らに、この行為だけに溺れるしかない。佳乃は揺れる気持ちを振り切るように、身を屈めて自分から彼の唇にキスをする。
そして、伸びてきた男性の腕に包み込まれながら、彼の硬く膨張する屹立をさらに奥深く自らの中に招き入れた。
◇ ◇ ◇
六月最初の水曜日。
天気予報のとおり、空には今にも雨が降り出しそうな厚い曇が垂れ込めている。
「おはようございます」
都内中心部に位置するビジネス街のビルの中で、清水佳乃は居合わせた社員達に朝の挨拶をした。
「あ、清水さん。おはようございます」
「おはよう。清水さん。今にも降ってきそうな天気だね」
向けられる返事に微笑みを返しながら、佳乃はエレベーターに乗り込んで操作盤の前に立った。
それと同時に、同乗した社員達が降りる階のボタンを押す。
時間は午前七時二十分。
こんな時間に出社してくる人間は、ある程度顔ぶれが決まっている。
「今日は午後から奈良に出張なんだよ。あっちは今、晴れてるよね。どうせ地下を通るし、傘は置いていって大丈夫かな」
「奈良ですか。そうですね、昨夜から降り続いていた雨は、もう止んでいるみたいです。でも、また南から雨雲が近づいてきているようですから、もし夜遅くまで外にいらっしゃるなら、折り畳みの傘を持参されたほうがいいかもしれません」
「そうなの? じゃあ、そうするか。いやぁ、いつも役立つ情報をありがとう」
そう言って営業部の男性社員が、七階で降りていった。
鏡面仕上げの壁面に映る黒髪は、ここ十年来ずっと変わらないボブスタイル。パーマやカラーリングとは無縁のせいか、髪の毛はいつも艶やかで健康的だ。
「清水さん。この間取材に来たケーブルテレビの……えーっと、誰だっけ? 眼鏡で口元に髭があるディレクター」
そう聞いてきたのは、第二営業部の主任だ。
「もしかして、笹野さんの事でしょうか」
「あ、そうそう笹野さんだ! 彼と連絡を取りたいんだけど、連絡先、保管してあるかな?」
「はい。後ほど内線でお知らせしますか?」
「うん、そうしてもらえると助かる」
「清水さん、明日トミマス商事の田中常務を訪ねるんだが、手土産は何がいいだろう?」
「田中常務は甘党なので、烏雪堂の新作和菓子がいいかと――」
ほんのわずかな時間に、あれこれと質問を投げかけられる。佳乃はその都度的確な返答をして、このあとやるべき事を頭の中に書き留めていく。
佳乃の勤務先である「七和コーポレーション」は、日本各地に大型スーパーを展開しており、今や海外にも多く支店を置く国内小売業の最大手だ。
そこで社長秘書をしている佳乃は、現在三十二歳で独身。勤続五年目にして秘書課主任という役職についている。
身長は百六十五センチで、体重は五十三キロ。まあまあ整った目鼻立ちは、年配の人からは美人だと言ってもらえる。どちらかといえばレトロな印象の顔をあっさりメイクでカバーし、モノトーンのスーツで身を固めれば、いかにも堅そうなデキる秘書の出来上がりだ。
社内の評判は概ね良好だし、人事評価は常にAランク以上。直属の上司である村井秀一社長からの信頼も厚く、ときに秘書というよりは右腕に近い役割を担う事もある。
しかし、恋愛に関していえば、仕事で大勢の男性に関わる事はあっても、今後恋に発展しそうな気配は皆無。あえて相手を探そうという気もないし、一人きりの穏やかな生活を楽しみながら暮らしている。
今のところ、その生活を手放すつもりはないし、むしろこのまま独身を貫いたほうが幸せになれる気がする今日この頃だ。
「清水さん、朝一で副社長に伝えておきたい事があるんだけど」
佳乃の斜めうしろにいた広報部の部長が、おもむろに話しかけてきた。少々いらだっている様子からすると、あまりいい話ではないのかもしれない。
「わかりました。では、出社されたらすぐにお知らせします」
「うん、頼むよ」
広報部長が頷いた直後、エレベーターのドアが九階で開く。
降りていく彼に会釈して顔を上げる。エレベーターの中にいるのは、佳乃ただ一人だ。
ほっと一息つく暇もなく秘書課がある十二階に到着した。
降り立ったフロアはしんと静まり返っている。役員達が来るまでにはあと一時間以上あるし、おそらくこの階に勤務する者はまだ誰一人出社してきていないだろう。
佳乃はホールをさっと見回してから、自席に向かって歩き出す。
「ん?」
いったんはスルーしたものの、視線を巡らせたときにちょっとした違和感を覚えた。振り返ると、一列に並べられた観葉植物の鉢の間に、見覚えのある小瓶が置かれている。それは、佳乃が好んで買う南国の島で売られているビールの小瓶だった。
綺麗な緑色をしたそれは、専門店でたまに見かける事はあるが、どこにでも売っているというものではない。
「え? 何でこんなものが……」
拾い上げた瓶は、蓋が開いていて中身は空っぽだった。
いったい誰が放置したのだろう?
佳乃は口をへの字にして考え込む。金曜日の夜にここを通ったときには、絶対になかった。
そうなると、これが置かれたのは金曜日の夜遅くか、土日の間という事になる。
(残業して遅くなった人か、休日出勤した誰かが置いたのかな……。それにしても、どうして十二階に?)
このフロアは、役員の執務室と秘書課のみ。一般社員はよほどの事がない限り足を踏み入れる機会のない場所だ。十三階には展望台を兼ねたフリースペースがあるが、今は内装工事をしていて閉鎖されている。仮に間違えて十二階で降りたにせよ、オフィスにアルコールを持ち込むとは言語道断。ましてや飲んだあとの空き瓶を放置するなど、いったいどこの不届き者だろうか。
(もし見つけたら、厳重注意しなくちゃ。……って、まさか役員の中の誰かじゃないよね?)
だが、佳乃の知る限り該当しそうな役員は見当たらない。
空き瓶を片手に、佳乃はふたたび歩きはじめる。途中、給湯室に立ち寄り、空き瓶を専用のダストボックスに入れた。
(そういえば、しばらくこのビール飲んでないなぁ)
自席に着いてパソコンの電源を入れると、画面いっぱいに南国の島の風景が広がる。
その写真は、五年前に佳乃がスマートフォンで撮ったものだ。せっかくだからと壁紙に設定して以来、ずっと変更しないまま今に至る。普段はすぐに必要なソフトを立ち上げるから、壁紙を見るのはほんの一瞬だけだ。
しかし今日は、あのビール瓶のせいか、つい視線が画面の青い海に吸い寄せられてしまう。
(さてと。まずはやるべき事を片付けなきゃ)
気持ちを切り替えて、画面に連絡先管理ソフトを開いた。先ほど頼まれた第二営業部の主任に内線を入れて、必要な情報を伝える。
そのあと、いつもどおりルーチン業務を終わらせ、立ち上げた画面を最小化させた。ふたたび現れた南国の風景を眺めながら、出勤途中に買ってきたコーヒーを一口飲む。
写真を見るうちに、頭の中に旅行に行った当時の事がぼんやりと思い浮かんできた。
(もう五年も前になるんだな……)
二口目のコーヒーを飲みつつ、佳乃は少しの間だけ過去の思い出に浸る。
そこは成田から直行便でおよそ八時間かかる南国の島だ。日本での季節は春。現地はちょうど乾季にあたり、絶好の観光シーズンだった。
当時、佳乃は二十七歳で、新卒で入社した会社を辞めたばかり。
旅の目的は、四年と少しの間、身を粉にして働いた自分へのご褒美――というのは表向きで、本当は誰も知らない国で一人きりになりたかったから。そして、一年半付き合った元カレへの感情を整理してリセットするため――
今思い出しても、心がざらついてくる。元カレは前の勤務先の上司だった。
年齢は佳乃よりも六つ年上。勤務先の創業者一族の御曹司でもある彼は、佳乃がはじめて付き合った相手だ。何もわからないまま恋人関係を続け、最後は元カレの裏切り行為で終わりを告げた。佳乃は彼に別れを告げると同時に、逃げるように会社を退職したのだった。
その足で旅行会社へ駆け込み、ものの三十分で南国の島に向かう契約を結んだ。行き先を選ぶ決め手となったのは、パンフレットに載っていた空と海の青さだったように思う。
過去、何度か海外旅行の経験はあったものの、単独で国外に出るのはそのときがはじめてだった。それでも躊躇なく一人旅を決めたのは、それだけ切羽詰まっていたからだろう。
旅の日程は十日間。
特に何も予定を決めず、日がな一日ビーチで昼寝をしたり観光客で賑わう繁華街を歩いたりした。そして、帰国する前日、佳乃は生まれてはじめてのアバンチュールを経験したのだ。
相手は佳乃より三つも若い日本人男性で、滅多にお目にかかれないほどのイケメンだった。
(何もかもが素敵で、まるで夢みたいだったな……)
いかにも女性にモテそうな彼が、どうして自分とそんな関係になったのか、今でも不思議で仕方がない。むろん、そんな関係はその場限りのものだし、帰国した当初は早く忘れてしまおうと躍起になっていた。
だけど、どれほど努力しても思い出は一向に消えず、事あるごとに蘇ってきては、よりいっそう鮮明な記憶として頭の中に刷り込まれる。どうしようもなくなった佳乃は、大学時代からの親友である水沢真奈に洗いざらいぜんぶぶちまけてみた。けれど、かえって記憶がくっきりと脳に刻み込まれ、逆効果になってしまった。
結局、時間が流れるに任せているうちに、あっという間に五年の月日が流れ、今に至っている。
時間にすれば、ほんの十時間ほどの出来事にすぎない。それなのに、どうしてこうも忘れられず記憶を辿り続けてしまうのだろうか……
(……って、やめやめ!)
佳乃は頭の中に広がりそうになっていた映像をかき消し、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。そして、ソフトを立ち上げて今日一日のスケジュールを確認する。
その間に、次々と秘書課の社員が出社してきた。
現在、秘書課社員は佳乃の他に男性の課長と女性社員が四人。課長を除くと、全員が年下の後輩であり直属の部下となる。
「清水主任、これなんですけど――」
隣席に座る岡が書類を示しながら質問をしてきた。三年前、新卒で入社してきた彼女は、几帳面でどちらかといえば大人しい性格をしている。人柄もよく、仲のいい同期社員も多くいるみたいだ。
一方、中途採用である佳乃には、同期はいない。入社して五年経った今でもランチタイムはだいたい一人だし、アフターファイブを共有するほど親しくしている同僚もいなかった。
仕事の事を考えれば、もっと自分からコミュニケーションをとって和気藹々とした秘書課を目指したほうがいいのかもしれない。
けれど今は、ある問題からそうするのは得策ではないと思っていた。
秘書課の課長である丸越が出勤してきたので、頼まれていた書類を渡しに行く。
「ありがとう。相変わらず仕事が速いね。えっと、今日は特にスケジュールの変更はなかったかな?」
「はい、変更ありません」
「OK」
丸越が親指と人差し指で丸を作った。現在五十五歳の彼は、年齢よりもかなり若く見える。だからというわけではないが、今ひとつ貫禄に欠ける印象があった。
席に戻り、かかってきた内線に対応をしているうちに八時半の始業時間を迎えた。
パソコンでメールソフトを立ち上げ、受信ボックスを開く。佳乃が現在管理しているアドレスはふたつある。そのうちのひとつは自分自身のもの。もうひとつは、社長である村井のものだ。
社長秘書である佳乃は、本来なら朝一番に村井の執務室に出向き、一日のスケジュールを確認する。しかし、彼は先月末にかねてから経過観察をしていた脳の血管狭窄の悪化のため、都内大学病院で入院加療中だ。入院期間は三カ月の予定で、その間に送られてくる村井宛の書類やメールは、彼から直々に委託された佳乃が開封し確認する事になっている。もともと主任として秘書課全体の統括も任されていた事もあり、このところ仕事の忙しさに拍車がかかっていた。社長不在の今、佳乃が担当する業務も一時的にとはいえ大きく変化している。
一秘書である佳乃が、どうしてそこまで――
そう思われても不思議ではないが、それにはふたつ理由があった。
ひとつは、佳乃がそれだけ村井から信頼されているから。
もうひとつは、副社長の高石恵三を筆頭とする〝高石派〟と呼ばれる派閥に、トップの不在中、勝手な振る舞いをさせないためだ。
高石派がコソコソと何か企んでいるらしい――
そういった話が漏れ聞こえてくるようになり、必然的にできたのが〝村井派〟と呼ばれる現社長の派閥だ。会社を二分しかねない今の状態になったのは、佳乃が入社する何年も前の話だと聞く。
一秘書である佳乃にはどうしようもない事であり、憂えてもふたつの派閥が相容れる要素などないように思える。
救いがあるとすれば、これまで何かあっても、相容れないなりに均衡を保ちつつ、さざ波程度の争いで済んでいる事だ。
その均衡が今、村井の不在により崩れようとしている。
高石はここぞとばかりに村井派の人間に接触を持とうとしているし、実際に彼に懐柔されそうな人間が何人か出ていた。穏健派で物事を長い目で見るというスタンスをとっている村井に対し、高石は強硬派で迅速な利益追求を重視しがちだ。
佳乃自身、担当である以上どうしても村井サイドの人間にならざるを得ないし、もし仮に今の立場でなくても同様の姿勢をとっていると思う。それだけ彼の事を信頼しているし、転職してはじめてのボスが村井でよかったと思った事は一度や二度ではない。
そんな事もあり、佳乃は少しでも高石におかしなところがあれば、すぐに報告できるよう準備している。できれば入院中の村井を煩わせたくないが、高石がこのまま大人しく社長の帰りを待っているとは思えない……
「じゃあ、僕はこのあと人事部に行って、本城代表をお迎えする準備をしてくるから」
丸越が席を立ち、いそいそとエレベーターホールのほうに歩いていく。
〝本城代表〟とは、今日から新しく「七和コーポレーション」のCEОに就任する人物だ。
本城敦彦というその男性は現在、二十九歳。高校卒業後渡米し、世界最高ランクの大学を経て同国のメガバンクに入社を果たす。そこで、経営戦略において多大な功績を上げるなどの実績を残したあと、退職。自身で経営コンサルティング会社を設立すると、瞬く間に目覚ましい実績を上げて莫大な財を築きあげた。その経営手腕たるや、名だたる経済学者も舌を巻くほど見事なものであるらしい。
若くして国内最大級の企業の最高経営責任者になる彼は、代表取締役も兼ねる。つまり、社長を除くもう一人の会社代表であり取締役副社長である高石よりも権力を持つ。
『本城君は信頼に値する男だ』
村井にそう言わしめた本城とは、共通の知人を介して知り合い、意気投合したのだと聞く。ビジネスにおいては、性別や年齢差など関係ないし、村井の人を見る能力は確かだ。
本城がどんな人物であろうと、仕事さえできれば文句などない。
ただ、不思議に思うのは、本城が出社するまで彼自身の顔写真や住所などの個人情報が一切明らかにされていない事だ。
もっとも、事前にそれらを明かしてしまうと、就任前に彼に接触を持とうとする者が出ないとも限らない。
ネットの検索で顔写真くらいヒットするかと思ったが、一件もヒットしなかった。高石派への対策なのかもしれないが、そこまで大がかりな事ができるのだろうか。
今風のイケメン? それとも、強面の体育会系だろうか?
(ま、どっちみち私には関係ないけど)
要は、自社にとって有益であるかどうかだ。
(社長が入院してすぐに就任とか、ほんとタイミングがよくて助かったかも。これで、多少なりとも高石派の増長は抑えられるはず……)
そんな事を思いながら、手際よく目の前の仕事をこなしていく。気がつけば、もう十時半になっていた。本城の出社予定時間は午前十一時のはずだ。
佳乃はキーボードを叩く指を止めて、席を立った。秘書課を囲むパーティションの外へ出て、役員室が並ぶ方向へ進む。
廊下右手奥が社長の執務室。その正面の部屋を本城に使ってもらう事になっている。
佳乃は本城の執務室に入った。彼を迎え入れる準備はすでに整っているが、念のため最終チェックをしておこうと思ったのだ。
(机周り、よし。窓、よし。観葉植物もよし……と)
部屋をぐるりと歩き回り、ついでにガラスに映った自分自身の身だしなみをチェックする。
「自分、よし」
小さく呟いたとき、廊下の向こうからエレベーターの到着を知らせる電子音が聞こえてきた。無意識に耳をそばだてると、役員のものではない若くはつらつとした男性の声が聞こえてくる。
「案内ご苦労さま。もう仕事に戻っていいよ」
声の主は、大股でこちらに近づいてきている。
エレベーターホールから今いる部屋まで、男性の歩幅でおよそ二十歩の距離だ。
(もしや、本城代表がいらっしゃったんじゃ……)
佳乃は急ぎドアの近くまで駆け寄り、一歩外に出てかしこまった。そして、こちらに向かって歩いてくる男性を見た途端、驚きのあまり石のように固まってしまう。
(まさか……嘘でしょ?)
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メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
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