専属秘書は極上CEOに囚われる

有允ひろみ

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1巻

1-3

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 過去の出来事について何か言われるのだろうか。さすがに、昔話を盾に何かされたりとかはないと思いたい。しかし内容が内容だけに、彼の出方がはっきりするまで油断はできなかった。

「失礼します」

 ドアをノックして中に入ると、そこには先客がいた。

「ん? ……ああ、清水さんか」

 来たばかりなのか、副社長の高石がデスクの前に立ったまま佳乃のほうを振り返ってきた。

「副社長。おはようございます」

 高石が小さく頷き、またすぐに正面を向く。
 その隣には、彼の秘書であり実の娘でもある高石まいが立っていた。一呼吸置いて振り返った舞が、佳乃を見て軽く会釈えしゃくをする。佳乃はそれにこたえて、二人の斜めうしろに控えた。
 小顔ではっきりとした顔立ちをした舞は、自他ともに認める今時の美人だ。彼女は、現在入社三年目の二十五歳。入社後すぐ秘書課に配属され、父親である副社長の秘書になった。
 朝、秘書課に彼女の姿が見えなかったのは、出勤後そのまま副社長の執務室へ出向いたからだろう。

「やあ、清水さん。君を呼んですぐに副社長がお見えになってね。でも、ちょうどよかった。実は昨日、村井社長のところにお見舞いに行かせてもらったんだ」

 本城はデスクの椅子からおもむろに立ち上がり、高石を四人用の応接セットのほうへ誘導する。
 高石はちらりと舞のほうを見て、ソファに座った。その横に舞が座り、本城に手招きされた佳乃は、必然的に彼の隣に腰を下ろす。

「社長は思ったよりお元気そうでしたよ」
「そうですか。それはなにより」

 佳乃自身、症状が落ち着いてきた村井の病室を週に一度は必ず訪れている。先週は二度面会に行ったが、確かにずいぶんと顔色がよくなってきていた。

「そのときに少し話をさせてもらって、もう社長の了承は得てあるんだが……清水さん、君は今日から僕の秘書になってもらう」

 隣にいる本城が、身体ごと佳乃のほうを向いた。思いがけない彼の言葉に、佳乃は少なからず驚いて表情を硬くする。彼は口元に穏やかな微笑みを浮かべているが、その視線は佳乃の心の奥まで見透かそうとしているほど強い。

「えっ? いや、しかし、先ほども言ったとおり、本城代表の秘書には、ここにいる高石舞さんが適任だと思いますよ」

 先に声を上げたのは、佳乃ではなく高石だった。

「清水さんは、ただでさえ社長不在で忙しいですしね。それに、主任として秘書課全体の統括も任されている事ですし――」
「確かに清水さんは、両手に余るほどの仕事を抱えているのかもしれません。しかし、彼女の秘書としての能力は非常に高いと社長から聞かされています。それに、高石さんは現在副社長の秘書を担当していますよね」

 本城の視線が、佳乃から高石へ移った。
 直前まで舞に何やら目配せをしていた高石は、本城と目が合った途端あからさまに渋い表情を浮かべる。隣でかしこまっている舞が、ちらりと佳乃のほうをうかがってきた。

「いやいや、私の秘書の件は、どうとでもなります。高石さんは、このとおり若くて綺麗ですし……これからあちこち連れ歩くには彼女みたいに華やかな女性が好ましいと思いますよ。彼女自身、本城代表の秘書になるつもりで、いろいろと準備を……ねぇ、高石さん」

 高石が、妙に意味ありげな視線を舞に投げかける。

「はい」

 高石に同意を求められて、舞はにっこりと微笑んで本城を見た。その頬には、くっきりとしたえくぼが浮かんでいる。
 いったい何が「はい」なのかはさておき、高石の持論には少々ムッときてしまった。確かに佳乃は舞よりも七つも年上だし、外見上見劣りするのは否定しないが――

「私、本城代表のお役に立てるよう、精一杯頑張ります!」

 舞が出した、いかにも芝居がかった声が部屋の中に響き渡る。それを聞いた高石は、満面の笑みを浮かべて頷いた。

「うん、頑張りなさい。ねえ、本城代表。高石さんもやる気十分ですし、いろいろと足りない部分はあるかもしれませんが、ここはひとつ社長の意向よりもご自身の英断で高石さんを秘書にしてやってくれませんか」

 おもねるような高石の声に、佳乃は密かに鳥肌を立てた。普段、部下に横柄おうへいな態度を取りがちな彼のそんな声を聞くのは、何年振りだろうか。

「いや、清水さんに秘書をお願いするのは、僕の意向でもあるんです。僕自身の英断で――とおっしゃるなら、なおの事僕の秘書は清水さんにお願いしたい」

 それまでにこやかに話していた本城が、一変して冷静沈着なビジネスマンの表情を見せた。
 途端に高石が顔をゆがめる。

「しかしですね――」
「そもそも僕がこの会社に来たのは、これまでの経営を見直し将来に向けてさらなる躍進をげるためです。そのためには〝いろいろと足りない部分があるかもしれない〟秘書をそばに置く余裕などありません。僕が秘書に求めているのは、外見ではなく中身です」

 本城に真正面から見つめられて、高石はたじろいで口ごもった。

「……しかし、人事部長の意向では――」
「人事の最終的な決定権は誰にあるか、ご存じですよね?」

 そう言われて、高石はさすがに口をつぐむ。
 高石と対峙する本城は、相手に有無うむを言わせないほどの圧倒的なオーラを放っていた。
 あのときと同じだ――
 五年前、はじめて会ったときの彼も、今と同じように一瞬で相手を黙らせて屈服させてしまった。ただし、当時と違い彼の顔に浮かぶ微笑みは驚くほどクールでビジネスライクだ。

「では、僕の秘書は清水さんで決まりですね。他に何か聞きたい事はありますか?」

 本城は、いくぶん表情をやわらげて高石のほうに身を乗り出した。

「あ……いえ、特には――」
「そうですか。では、それぞれの仕事に戻りましょう。――という事で、よろしく、清水さん。さっそくだが、君が社長に出したこれまでのデータを適当にまとめて僕に再提出してくれるかな? できれば、明日の午前中までにお願いしたい」

 佳乃が社長秘書になってから、今月でちょうど五年経った。
 その間の膨大なデータを再提出する――しかも〝適当にまとめて〟という事は、それなりにデータを集積して整理してから出さなければならない。

「はい、承知しました。すぐとりかかります」

 佳乃が即答すると、本城は満足そうに頷いてソファから立ち上がった。
 置いてきぼり状態だった高石は、どうにも納得がいかないといった表情を浮かべながらそれにならう。そして、隣にいる舞をき立てるようにして部屋の入口に向かった。佳乃の横を通り過ぎた舞は、あからさまに不満そうな表情を浮かべている。
 それを見た佳乃は、昨日ロッカー室で聞いた舞のおしゃべりを思い出した。

『まだ内緒なんだけど、本城代表の秘書は、私よ。パパ――じゃなくって、副社長が人事部長と話し合いをしてそう決めたみたい』

 二人の様子を見る限り、まさか本城に断られるとは思ってもいなかったのだろう。
 佳乃とて、まさか自分が本城の秘書になるとは思っていなかった。彼とは二度と個人的な接触を持つまいと誓い、会社でも極力近づかないで済むよう努力するつもりだった。しかし、専属の秘書ともなると、少なくとも仕事中は頭の中から彼を追い出せなくなる。
 ものすごく憂鬱ゆううつだし、悪い予感しかしない。けれど、村井の意向でもあるのなら、割り切って秘書としての業務をまっとうするしかないだろう。
 佳乃は、そう自分をふるい立たせる。ただひとつ気がかりなのは、これをきっかけに舞の態度が悪化するのではないかという事だ。
 副社長の娘だからといって、佳乃は舞を特別視した事はない。しかし、舞のほうはそれが不満であるらしく、普段から何かにつけて佳乃に反抗的な態度をとっていた。
 自席に戻ると、案の定先に戻っているはずの舞の姿がない。彼女の行動パターンから推測するに、たぶんあのまま高石の執務室に向かったのだろう。

(やれやれ……。ただでさえ、しょっちゅう席を外してるのに)

 佳乃は必要なデータの抽出をはじめながら、舞がこれからするはずだったルーチン業務について考えた。担当する役員がいるとはいえ、秘書がやらなければならない仕事は他にも多くある。一見華やかに見える秘書という仕事だけど、実のところそのほとんどが、縁の下の力持ち的な地味で目立たない雑務で占められているのだ。
 もちろん、ただ坦々と与えられた仕事をこなすだけではいけない。何をするにしても、常にプロフェッショナルとしての自覚を持ち、一度請け負った仕事は最後まで責任を持ってやりげる。
 それに加えて、常時関連業界の情報にアンテナを張り、何事においてもたえず一歩先を行く努力が必須なのだ。
 少なくとも「七和コーポレーション」での秘書業務はそうだし、だからこそ日々緊張感とモチベーションを保ちながら仕事にはげむ事ができる。

(いくら何でも、こう頻繁ひんぱんに自由行動をとられるとさすがに困るな……)

 舞が副社長の専属秘書になって以来、秘書課ではある種独特の緊張感が常に存在している。
 それは、舞が仕事でミスを頻発するから。そして、彼女のミスのほとんどを副社長みずからがフォローして、あわよくばそれを隠蔽いんぺいしようとするからだ。
 それで事なきを得るならまだしも、彼女のミスの影響が他の役員に及ぶ事が少なくない。そのたびに、佳乃は事態の収拾に奔走ほんそうし、結構なしりぬぐいをさせられていた。
 そんな状態がずっと続いていたところに、今回の代表取締役CEOの秘書騒ぎだ。
 きっと舞は、今回のゴリ押し人事の失敗で、相当頭に血がのぼっている事だろう。そうでなくても、徐々にエスカレートしている舞のわがままぶりには、高石ですら手を焼いている様子だ。
 いい加減、舞の勤務態度についてはどうにかしなければならなかった。
 しかし、自分の立場ではやれる事が限られているし、課を取り仕切る立場の丸越もあてにはならない。
 それを不甲斐なく思うものの、今の体制ではどうにも解決策が見つかりそうもなかった。
 そして、この件が解決しない限りは、和気藹々わきあいあいとした秘書課など望むべくもないと考えている。

(はぁ……本城代表の秘書か……)

 正直言って、彼の秘書になどなりたくはない。むしろまっぴらごめんだし、今後の展開を思うと鬱々うつうつとした気分になる。
 しかし、それはあくまで個人的な見解であり、会社の今後や自身のキャリアアップを思えば積極的に喜ぶべき人事なのだろう。
 これまで海外で活躍していた彼の事だ。一緒に仕事をするだけでも視野が広がりそうだし、いろいろと勉強になるに違いない。
 それに、村井がいない今、高石のストッパー役になってくれそうな人間とは、できる限り連携を取っておきたい。もっとも、村井に招かれたのだから彼と同じ考えを持っていると考えるのは早計だろうが……
 その事も踏まえて、本城の動向を自然とうかがえる立場になれたのは幸いだったと思う。

(ここは素直に喜んでおくべきだよね? まさかオフィスで、公私混同したりしないだろうし……)

 途中、持ち込まれる業務をこなしながら、ランチタイムを挟み、本城に頼まれた作業を続けた。

「清水主任、何かお手伝いする事はありますか?」

 隣席から岡が声をかけてきた。
 彼女が担当する佐伯さえき常務取締役経営企画部長は、昨日から出張に出かけている。彼はとても几帳面きちょうめんで日頃から秘書の手をわずらわせる事がほとんどない。それはそれでありがたい事だが、岡にしてみれば少々手持無沙汰のようだった。

「ううん、今のところは大丈夫。ありがとう」

 佳乃は岡の気遣いに、小さく微笑んだ。

「もし何かあれば、いつでも遠慮なく言ってください。清水主任、ただでさえ忙しいんですから」

 本城の秘書になった事は、あのあとすぐに課長から皆に伝えられた。その場にいた全員が納得したような表情を浮かべると同時に、一部では佳乃の業務量を心配する声も上がっていたのだ。

「うん、ありがとう。そのときはお願いするわね」
「はい、本当にそうしてください」

 佳乃は頷いて、さらに口元をほころばせた。
 岡の事務処理能力は信用している。それに、後輩を育てると言う意味ではもっと下に仕事を回したほうがいいのだろう。

(わかってるんだけどなぁ……。ほんと、私ったら、頼むのがヘタだよね……)

 秘書課主任として、積極的且つタイミングよく部下に仕事を任せる――それを役職者としての今後の課題にしたほうがいいかもしれない。そう思いながらも、結局一人フル稼働で仕事を完結させてしまった。

(はい、完了……っと)

 佳乃は必要なファイルを作成し終えて、ロック機能付きの社内共有フォルダーへ保存する。
 頼まれてからものの四時間でデータを完成できたのは、新しくCEOが就任すると聞いてから、あらかじめ必要になるだろう仕事を予測していたからだ。
 仕事が速いと定評がある佳乃だけど、そのノウハウを教えてくれたのが村井だった。
 社長でありながら少しもおごる事なく、何が起きても常に平常心を保っている。そんな彼の事を、佳乃は上司としてだけではなく、一人の人間として心から尊敬していた。
 できる事なら、一日も早く職場復帰してほしい。しかし、いくら顔色がよくなったとはいえ、まだ健康状態は安定しておらず、早期退院の可能性は低い。
 プログラムを終わらせると、佳乃は本城に内線を入れるべく受話器に指をかけた。
 彼に連絡をするというだけで必要以上に緊張してしまい、我ながら嫌になる。
 以前の会社と合わせて八年間も秘書をしているのに、感情のコントロールすらできなくてどうするのだ。

(何やってんの、佳乃。もっとしっかりして!)

 佳乃は自分にはっぱをかけ、深呼吸をした。
 どうにか平静を取り戻したところで受話器を取り、本城に内線を入れる。

『はい、本城です』

 ツーコールあとに聞こえてきた彼の声が、佳乃の耳の奥で響く。
 ああ、こんなにいい声だっただろうか? 
 そう思ってしまうほど、本城の声がじんわりと鼓膜に溶け込んで聴覚を刺激してくる。

「お疲れ様です。秘書課の清水です。データの取りまとめが終わりました。お渡ししておきたい書類もあるのですが、今からお持ちしてもよろしいでしょうか?」

 いて平常心を保ち、意識して若干低いトーンで話をする。すると、思っていた以上に事務的なしゃべり方になってしまった。

『ああ、いいよ。っていうか、もうできたの? さすが社長お墨付きの敏腕秘書だ。書類はどのくらいあるのかな? たくさんあるようなら、運ぶのを手伝うけど?』

 朝とは打って変わった親しげな口調に、一瞬戸惑う。

「いえ、私一人で大丈夫です。では、今からおうかがいします」
『そう? じゃあ、待ってる』

 通話を終えた途端、佳乃は眉間に縦皺たてじわを寄せた。
 やはり、明らかにこれまでと声のトーンが違う。それに、やけに馴れ馴れしい。
 内線での通話とはいえ、オフィスでの発言は公的なものだ。少なくとも、午前中の彼はそういった事をわきまえた振る舞いをしていたように思う。それなのに、いくら周りに誰もいないからといって、いきなりタメ口はいかがなものだろう。

(いや、ここでイライラしちゃダメでしょ)

 佳乃は立ち上がり、デスク横に置いた台車のハンドルを握った。岡に一声かけて、段ボール箱を二個載せた台車をゆっくりと押しはじめる。

(それにしたって、あの変わりようは何なの?)

 秘書の経験上、コロコロと態度を変えるお偉方には、ある程度慣れっこになっている。しかし、あんなふうにいきなり口調を変えて、距離を詰めてこられたのははじめてだった。
 いったいどういうつもりなのだろう?
 そんな事を思いながら歩いていると、ついさっき消えた眉間のしわが、いつの間にか復活していた。

(おっと……平常心、平常心……)

 本城の執務室の前に到着し、ドアの前に立つ。ノックする前に、大きく目を見開いて思いっきり口角を上げる。り固まっていた表情筋が柔らかくなったところで、ノックしようと右手を上げた途端、勢いよくドアが開き本城と鉢合わせになった。

「うお、びっくりした! ……って、どうしたの? すごい笑顔だけど」

 しまった、と思ったけれど時すでに遅し。
 彼は佳乃の全力の作り笑顔を見て、笑いをこらえている。

「くくっ……。いや、失敬。君が笑顔でここに来てくれてなによりだ」

 本城が台車のハンドルをとって中に移動させる。

「あ……す、すみません、ありがとうございます」

 とっさに礼を言い、その場に立ち尽くす。
 本城も驚いただろうが、佳乃だっていきなり目の前に現れた彼のドアップにびっくりした。
 台車を中に運び終えた本城は、佳乃を部屋に招き入れるなり、部屋の外に首を出して辺りをうかがうような動きをする。
 不思議に思って見ていると、彼は素早くドアを閉めて佳乃の背をドアに押し付けた。その上、顔の両側に手をついて逃げられなくしてくる。

「ちょっ……何のつもりですか?」

 不意打ちを食らって、佳乃はさすがにうろたえて目をしばたたかせる。

「あぁ、長かった。やっとだ……ようやく君と二人きりになれた」

 こちらをのぞき込んでくる本城の顔には、またしても不遜ふそんなほどセクシーな微笑みが浮かんでいる。まるで心臓を鷲掴わしづかみにされたようになり、佳乃は声も出せず彼の瞳を見つめ返す。
 脳天が熱くなり、頭の中でけたたましく警鐘けいしょうが鳴りはじめた。
 このままではいけない――
 すぐさま秘書としての自分を取り戻した佳乃は、直立の姿勢を保ったまま素早く下に沈み込んで本城の腕から脱出した。

「おっと――君はなかなかすばしっこいね。油断すると、すぐに僕の前からいなくなる。そういうところ、五年前と同じだ」

 あからさまな嫌味を言いながら微笑んだ顔が、憎らしいほど魅力的だ。

「だけど、そういった行動は今後、改めてもらいたいな。そうじゃなきゃ、こっちとしても逃げられないように対策を講じる必要がでてくる」
「は? た……対策って何ですか」

 努めて冷静さを保ちながら、質問を投げかける。

「まあ、いろいろと種類があるよね。身体的な拘束や、心理的な掌握しょうあく。僕もあれから個人的に心理学を学んだりしてみたんだ。特に『人心掌握しょうあく術』ってやつが興味深かったな。人の心をガッツリとつかんで、自分の意のままに操作する――すごく魅力的に聞こえるだろ?」

 饒舌じょうぜつしゃべる本城の顔が、少しずつ近づいてくる。

「どう、試してみない?」
「申し訳ありませんが、お断りします」

 自分でも驚くほど、きっぱりと拒絶していた。

「『人心掌握しょうあく術』は知っています。ビジネスをする上で活かせれば、とても有益だと思います。ですが、その実験台を探していらっしゃるのなら、他をあたってください」
「やだ。君じゃなきゃ意味がないから」

 即断され、さらにじりじりと距離を縮められる。
 さっきからの本城の言動は、およそ上司としてふさわしくないものだ。佳乃は彼が近づいてきただけ、後ずさって距離を保つ。高まりつつある緊張感のせいか、背筋がぞわぞわする。

(落ち着いて、佳乃……。大丈夫、あなたは秘書で、この人はただの上司。それにここは、神聖なオフィスなんだから……)

 そう思いながらも、心臓がバクバクするのを抑える事ができない。
 本城が、大きく一歩近づいてきた。思わずりそうになりながらも、佳乃は小さく深呼吸をして自分を落ち着かせる。

「いったい、どういうつもりでこんな事をなさるんですか?」

 佳乃は、できる限り低くはっきりとした声で話すよう心掛けながら、本城をにらみつけた。

「どういうつもりかって? それはまた、ずいぶんと漠然とした質問だね。うーん、逆に聞くけど、君はどう思う? 僕が今どんな気持ちか……。それに、どうして今になって君の前に現れたか。当てたらご褒美ほうびにいいものをあげるよ」

 本城の顔に浮かぶ笑みに、突然いたずらっぽい表情が混じる。
 こちらの質問に答えもせず、逆に質問を投げかけてくるなんて――
 佳乃は、あえて何も答えずに本城の顔を見つめ続けた。

「ふぅん……。君は賢いね。余計な事をしゃべって、自分を不利な立場に追い込むような真似はしないんだな」

 実際に顔を合わせている今、本城の口調の馴れ馴れしさにいっそう拍車がかかっている。無邪気な親密さを感じると同時に、若干の警戒心と刺々とげとげしさも含まれているように思う。

(ああもう……わけわかんない)

 本城の謎めいた微笑みを前に、佳乃は混乱していっそう固く口を閉ざし沈黙する。
 とにもかくにも、今の彼は五年前とは違う親しさで佳乃に迫ってきていた。
 本城が、また一歩佳乃のほうに近づく。ダークカラーのスーツを着こなした彼から、ほんのりといい香りがただよってきた。
 それは香水ではなく、彼自身から立ちのぼってくるセクシーでエロティックな甘い香りだ。佳乃は、知らず知らずのうちにその香りを深く吸い込んでいた。
 そういえば、五年前の彼からもいい香りがしていた事を思い出す。確か、あのときの香りはもっとエキゾチックなものだったような気がするが――

「さて、とりあえずもっと奥までどうぞ」

 声をかけられ、はっとして動き出した本城を見る。
 彼は台車を押してデスクの横に立った。そして、段ボール箱の中をざっとあらためたあと、部屋の一角にしつらえてあるカフェコーナーに向かう。

「えっ? いつの間にそんなものを……」

 驚いて思わず声を上げると、本城が振り返りざま嬉しそうに笑った。

「ああ、これ? これがあれば、君の手をわずらわせる事なく、いつでも好きなときに好きなものが飲めるだろう? で、何飲む? 紅茶もあるけど、おすすめはやっぱりコーヒーかな」

 本城がメタリックカラーのコーヒーマシンを指さす。

「……じゃあ、コーヒーを……」

 まばたきもせずに見つめられて、佳乃は思わずそう答えていた。
 飲み物を提供して、一気にこちらの警戒心を解く作戦なのだろうか。佳乃は心の周りにバリケードを張って身構える。佳乃の警戒をよそに、本城はまるで自宅にいるみたいにくつろいだ様子でコーヒーマシンを操作しはじめた。

「了解。どうぞ、そこにかけて。データの件で詳しく聞きたい事がある。それと『パンジーマート』と我が社との関わりについて、ちょっと確認したい事があるから」

 そう言う彼の顔には、さっきまでとは打って変わったビジネスマンとしての表情が浮かんでいた。
 いくら何でも振り幅が大きすぎる。気分屋のお偉方に慣れているとはいえ、さすがに面食らってしまう。

「はい。では、失礼します」

 心なしギクシャクとした動きで、とりあえずソファに腰をかけた。

「そういえば、エレベーターホールに置きっぱなしにしてたき瓶、いつの間にかなくなっていたけど、もしかして片づけてくれた?」
「あっ……」

 思わず立ち上がりそうになってしまい、あわててもとの位置に座り直す。

「はい、転がって誰かがつまずいたりしたら危ないので」
「そうか、ありがとう。つい、いろいろとなつかしくなってね。週末に、荷物を運び込んだときにこっそり祝杯をあげてそのままにしてしまったんだ」
「そうでしたか」

 やっぱり、あれを持ち込んだのは彼だったのだ!
 ひと言苦言をていしようかとも思ったが、藪蛇やぶへびになりそうだったからやめておく。

(だけど、祝杯って何……?)

 長い間日本を離れていたそうだから、帰国して職を得た事に対してかもしれない。それとも――

(って、やめやめ!)

 本城といると、どうしても憶測ばかりしてしまう。
 直接聞こうにも、かえってこちらの都合が悪くなりそうで、安易に質問するわけにもいかない。
 佳乃は、本城がうしろを向いている隙に彼の立ち姿を観察する。
 コーヒーをれる背中は、がっしりとしてたくましい。髪の毛はきちんと整えられているが、えりあしに少しだけ癖が残っている。そのアンバランスさが、やけに気になって目が離せない。
 そういえば、五年前もそうだった事を思い出した。胸に込み上げてくるなつかしさを、佳乃は急いで振り払った。

「コーヒーはブラックでよかったよね?」
「――はい。ありがとうございます」

 コーヒーのいい香りがただよいはじめる中、佳乃は本城の背中を見つめ続ける。
 彼の中には、いったいどれくらい五年前の記憶が残っているのだろう?
 南国の島で本城と一緒にコーヒーを飲んだのは、たった一度だけだ。それなのに、彼は佳乃がコーヒーに何も入れないのを覚えていた。


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