道で拾ったイケメン社長が極上のスパダリになりました

有允ひろみ

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1巻

1-1

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 人生、七転び八起き。
 いい時もあれば悪い時もあるし、気の持ちようで自己肯定感も幸福度も上下する。
 そういった意味で言えば、野元風花のもとふうかはポジティブでむやみに過去を引きずったりしない。常に前を向いていれば、辛かったり苦しかったりした事にとらわれずにいられる。
 けれど、ものには限度があるし、時折心が折れそうになる時もあった。

「はぁ……今月も赤字か……」

 極寒の冬の日、風花は取引先との仕事を終えて一人帰途についていた。
 風花はインテリアコーディネート会社「FUKAフウカ」の社長兼インテリアコーディネーターであり、会社は都内の下町のど真ん中にある。
 比較的治安もよく住みやすい町だが、駅から自宅まで徒歩二十分と微妙に遠い。駅の反対側は開発が進んでかなりにぎやかだけれど、風花の住む地域は昔ながらの風景が未だ保たれている。
 時刻は午後十一時五十三分。
 駅の外に出ると、朝から続いている雪で道路は真っ白になっていた。

「うう……寒い……」

 思わず声が出て、コートを着た肩をすぼめた。天気予報では夜になったら晴れると言っていたが、雪は一向にやむ気配がない。
 視界が悪い上に風もある。まさか、こんなに帰宅が遅くなるとは思わなかったし、一月下旬の寒さがこれほど厳しいなんて予想外だ。駅からまっすぐ続く商店街はすべてシャッターが下ろされており、周りには誰一人おらずシンとしている。

(レインブーツを履いてきてよかった~)

 道の両側に立ち並ぶ店の軒先のきさきテントが白くなり、道路のわだちも雪で隠れつつある。
 風花は転ばないよう慎重に歩を進め、通りすがりにある地蔵尊じぞうそんに手を合わせた。ほんの少し立ち止まっていただけなのに、寒さで凍えそうになる。
 自宅兼会社の事務所まで、あと五分。
 商店街が終わり、雪道を照らす街灯の数が減ったせいか、辺りが薄暗くなった。治安がいいとはいえ、夜道の一人歩きは物騒だ。こんな雪の夜にうろつく不審者はいないだろうが、歩く足は自然と速くなっていく。
 自宅の近くには大きめの公園があり、その入り口にある時計塔を見ると、もう午前零時二十分になっていた。

(雪道め……本当ならもう家に着いているはずなのに)

 風花は心の中で文句を言いながら、公園の前を通り過ぎようとした。その時、視線の端に何か黒いかたまりのようなものが映り、なんの気なしに振り返る。
 その物体は公園入り口の石碑せきひに寄りかかっており、はじめは大きなゴミ袋でも落ちているのかと思った。けれど、ところどころ雪で白くなっているそれは、よく見ると人の形をしている。

「えっ!?」

 びっくりして後ずさり、改めて目をらしてそれを見る。
 やはり、間違いなく人だ!
 風花は咄嗟とっさにその人に近づき、横向きになっている顔を覗き込んだ。

「大丈夫ですか?」

 明らかに大丈夫ではないその人物は男性で、ロングコートのえり元からは白いワイシャツとネクタイが覗いている。いったいどれくらいの時間ここにいたのか、髪の毛はもとより目を閉じた睫毛まつげにもうっすらと雪が降り積もっている。

「どうされました? 生きてますか? 私の声、聞こえますか?」

 話しかけながら肩をトントンと叩くと、男性の眉間にかすかなしわが寄った。見たところ怪我はしていないようだが、明らかに緊急事態だ。

「どこか痛いところはありますか? こんなところに座ってちゃ風邪をひきますよ」

 いや、風邪をひくどころか、このまま放置しておけば命を落としかねない。
 少し強めに肩を揺すると、男性が低くうめいた。
 かすかにアルコールの匂いがしているから、おそらく酔っぱらった状態で歩いているうちにここに倒れ込んでしまったのだろう。
 だんだんと風が強くなってきているし、雪に雨がまじり始めた。辺りを見回してみるも、こんな悪天候の夜に通りかかる者など誰一人いない。近くにある民家はどれも灯りが消えているし、一一〇番通報をしようにもスマートフォンのバッテリーは電車の中で切れてしまっている。

(どうしよう!)

 困り果てて男性の顔を見ると、心なしかさっきよりも顔色が悪くなっている気がする。
 自分が助けなければ、この人は間違いなく死んでしまう!
 そう思った風花は、男性の頬を何度か軽く叩いて、今一度反応を見た。彼は眉間の縦皺たてじわをさらに深くして、風花の手をうるさそうに払う仕草をする。

「起きてください! このままだと死んじゃいますよ! ほら、立って!」

 男性の肩を石碑せきひから引きがすと、風花は彼の左腕を担ぐようにして自分の左肩の上にのせた。
 自宅まで、あと二十メートルほどだ。
 とにかく今は、ここを離れて彼を自宅に避難させなければならない。身長百六十三センチの風花と比べると、男性はかなりの長身だ。風花が男性の左手をグッと引っ張ると、彼の上体がぐらりと揺れてずっしりとした重さが頭の上にのしかかってきた。

「ちょっ……しっかりしてください! いくらなんでも私一人の力じゃ立ち上がれませんよ!」

 風花は彼の頬や肩をてのひらで容赦なく叩きながら、繰り返し「起きて!」と声を掛けた。

「わかっ……た……」

 ごく小さな声だが、男性が頷きながら反応した。
 風花は叩くのをやめて、男性のコートの上から彼の腰のベルトを掴んだ。

「じゃあ、せーの、で立ち上がりますよ。いいですか? せーのっ!」

 掛け声とともに、男性がよろめきながらも腰かけていた石垣から立ち上がった。
 風花は彼を背負うような格好で、一歩一歩自宅に向かって進む。ただでさえ雪道を歩くのは苦労するのに、成人男性に肩を貸してその体重を支えねばならないのだ。
 男性の身長は少なくとも百八十センチ以上ある。普通なら途中でへたばってしまうところだが、日頃からインテリアを持ち運んだりしているからか、風花はこう見えて結構な力持ちだった。
 たとえ見知らぬ酔っ払いであっても、このまま見捨てるわけにはいかないし共倒れもまっぴら御免だ。
 意地でも彼を自宅に避難させてみせる!
 ただ一心にそう思いながら前進して、ようやく自宅兼会社に辿たどり着いた。建物は鉄骨造りの三階建てで、入り口と正面の壁はガラス張りになっている。
 男性を入り口横の壁に寄りかからせている間に鍵を開け、彼の身体を押し込むようにして中に入った。

「まだ倒れないで! 上っ……とりあえず、そこの階段をのぼって!」

 建物の一階は事務所、二階は物置で、最上階がプライベートスペースになっている。
 とりあえず、彼を三階まで連れていかなければならない。
 幸いにも男性は風花が言った事を理解してくれたようで、二人して壁をこするようにして一段ずつ階段をのぼり、踊り場を経てどうにか三階まで辿たどり着いた。
 ドアを開けるなり、男性がよろめきながら部屋の入り口に倒れ込んだ。仰向けになっている男性の靴を脱がせ、うしろから両脇を抱きかかえるようにして部屋の奥に引きずっていく。
 入居時に自らコーディネートして改装した部屋は、広さが二十五平米で、間取りは1DKだ。
 厚さ一・八ミリのクッションフロアは、フローリングよりも柔らかで一見本物に見える木目模様だ。部屋の奥まで進むと、床にびっしょりと濡れた道筋ができている。
 撥水性があり掃除が楽な床はさておき、とにかく男性を介抱しなければ――

「ちょっと待っててくださいね。今、部屋を暖めますから」

 男性を壁際のベッドに寄りかからせたあと、エアコンと電気ストーブをつける。こまめに声を掛け、様子を窺いながら大急ぎでワンピース型の部屋着に着替えた。
 それからすぐに冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、介助しながら彼に水を飲ませる。
 男性が少しせき込み、唇から水が零れた。
 それをそで口で拭きながら、風花は彼の顔をじっと見つめた。

(ちょっ……この人、ものすごいイケメンじゃないの!?)

 秀でた眉にスッと伸びた鼻筋。酔っているせいで口元は緩んでいるが、唇は適度に薄く綺麗な形をしている。
 職業柄か、風花はフォルムの美しいものを見ると無意識に見入ってしまう癖があった。助けるのに夢中で気づかなかったが、男性の顔はびっくりするほど整っている。
 男性の目蓋まぶたがピクリと痙攣けいれんし、一瞬目が開きそうになった。風花はあわてて目を逸らし、軽くせき払いをする。

「そ、そうだ。コート、濡れているので、とりあえず脱がせますね」

 雪と雨で濡れたコートはずっしりと重く、身体から引きがすのに苦労した。コートと一緒にスーツのジャケットも脱げてしまい、それぞれにハンガーにかけて窓枠に引っかける。
 バスルームから戻ると、男性が床の上で仰向けになっていた。

(わっ……やっぱり、大きい)

 大の字になっている男性は思っていた以上に手足が長く、見たところ三十歳前後だろう。
 髪の毛が多少乱れてはいるが、コートは海外の有名ブランドのものだったし、スーツの生地きじは上質で高級な品に違いない。身なりはきちんとしているし怪しい人ではなさそうだが、見ず知らずの若い男性という事に変わりはない。
 家に連れ込んでしまったけれど、これからどうしたらいいのだろう?

「う……ん……」

 男性が、ふいに苦しそうに顔をしかめ、手で胸元を引っ掻くようなしぐさをする。おそらく、濡れたワイシャツが肌にくっついて首元が窮屈きゅうくつなのだろう。
 そう思った風花は、再び彼に近づいてネクタイを緩め、首元のボタンを二つ外した。
 男性が大きく深呼吸をする。胸元がゆっくりと上下し、それと同時に表情も穏やかになった。
 それを見た風花は、ホッとして一息つく。
 部屋は急速に温まりつつあり、もう凍え死ぬ心配はない。しかし、まだ濡れた衣類を着ている事に変わりはなく、雨を含んだ雪のせいで彼が穿いているスラックスの下半分と靴下は絞れるほど水分を含んでいる。
 本当なら今すぐにでも着替えてもらいたいくらいだ。引き続き男性を見守っていると、時折かすかに頭を動かすようなそぶりをしている。酩酊めいてい状態ではあるけれど多少意識はあるし、言っている事は理解してくれているようだが……
 しばらくの間、部屋の中をうろうろしたあと、風花は三人掛けのソファに掛けていたブランケットで男性の胸元から膝下までを覆った。少し迷ったあと、彼の足元にひざまずいて濡れた靴下をそっと脱がせ始める。スラックスなど、着ているものを脱がすのははばかられるが、これくらいなら差し支えないだろう。
 思っていたとおり、男性の足は冷え切っており、つま先が赤くなっている。
 見かねた風花は、急いでタオルを持ってきて彼の足を丁寧に拭いた。そして、別に持ってきていたバスタオルで両足を覆い隠す。
 床から立ち上がった風花は、無意識に身震いをした。男性の面倒ばかり見ていて自分の事は後回しになっていたが、風花だって芯から身体が冷え切っているのだ。
 キッチンに向かい、電気ケトルでお湯を沸かす。マグカップに熱々のココアをれると、立ったままふうふう息を吹きかけてひと口飲む。

「あぁ……あったまる……」

 思わず声を出して流し台に寄りかかる。飲みながら男性を見ると、彼はまだ大の字になったままだ。
 風花は、今一度男性の全体像をじっくりと観察した。行き倒れの酔っ払いにもかかわらず、男性からはどこかセレブでハイソサエティな雰囲気がただよっている。
 少なくとも、いきなり起き上がって襲い掛かられる心配はなさそうだ。
 ココアを飲みながら壁に掛けてある鏡を見て、髪の毛がボサボサになっているのに気づいた。しかも、少々寝不足気味だからか、目の下にうっすらとクマができている。
 前髪ありのミディアムヘアをてのひらで撫でつけながら、顔を鏡に近づけてみた。
 卵型の輪郭に、ちんまりと納まった目鼻立ち。色白ではあるが、どこかひと昔前に流行はやった抱き人形を思わせる顔だ。
 暖房が部屋の隅々にまで行き渡り、風花自身もようやく身体の芯から温まってきた。そうなると、改めて男性が濡れた洋服を着たままなのが気になり始める。
 せめて、スラックスだけでも脱がせたほうがいいのではないだろうか?
 確か、クローゼットの中にビッグサイズのスウェットの上下があったはずだ。たけは足りないにしろ濡れた洋服を着ているよりはマシだろう。
 いずれにせよ、彼が起きた時に着られるように準備を整えておいたほうがいい。
 キッチンを離れ、なるべく音を立てないようにしながらクローゼットの中を探った。目当てのスウェットを見つけ出し、ソファの背もたれの上に置く。
 男性は一向に起きる気配がないが、もう呼吸は安定しているし、いつの間にか眉間の縦皺たてじわも消えている。

(よかった。とりあえず一安心ってとこかな)

 部屋の照明を消し、フロアランプをけた。もしかすると、このまま朝まで目を覚まさないかもしれないが、幸いにも今日は土曜日で明日は休みだ。
 ソファに腰を下ろし、男性を見守りながらこれからどうするか考えをめぐらせる。すると、男性が突然ぶるりと身を震わせてくしゃみをした。

(やっぱり、まだ寒いのかな?)

 スラックスのすそはタオルで押さえて水気を取ったけれど、膝からすねの辺りはまだじっとりと湿っている。ソファから下りると、風花は指先で男性の足首に触ってみた。案の定、足はまだ冷たいままだ。

(下だけでも脱がそう!)

 風花はそう決めて、男性に掛けたブランケットを少しだけめくり上げた。腰のベルトを手探りで見つけ出し、バックルの金具とスラックスのボタンを恐る恐る外していく。
 いったい自分は何をやっているのだろう?
 そう考えて途中で手を止めそうになったが、やり始めたからには最後までやり通すのが風花のポリシーのひとつだ。震える手でスラックスのジッパーを下ろし、ベルトに両手をかける。そろそろと引き下ろしてみると、案外簡単に膝まで脱がせる事ができた。

(あれ? 今、ちょっとだけ腰を上げてくれたような……)

 しかし、男性はまだ目を閉じたままだ。
 どうにか無事スラックスを脱がし終え、彼の首から下をすっぽりとブランケットで覆った。
 これでもう足が冷える事はなくなるはずだ。やれるだけはやったし、あとは濡れたコートとスラックスが乾くのを待つだけ。
 こんな寒い夜はバスタブにお湯を張ってゆっくりとかりたい――
 けれど、さすがにこんな状況で風呂に入るわけにもいかないし、疲れてはいるけれど誰とも知れない男性がいる部屋で気を抜くわけにはいかなかった。

(あ~あ……、なんでこんな事になっちゃってるのかなぁ?)

 男性をチラリと見てから、キッチンに戻り飲み終えたココアのカップを洗った。
 気詰まりなままここで朝を迎えるより、一階に下りて仕事をしていたほうがマシかもしれない。
 そうするにしても、今の状況がわかるようなメモを書き残しておかないと、男性が起きた時に驚いてしまうだろう。
 そう考えた風花は、壁際にある本棚からスケッチブックを取り出した。開いた紙面に男性がここに連れてこられた経緯を簡単に書き置いて、一階に向かう。
 階段の全面は縦長の大きな窓になっており、日中は十分に日が差し込んでくる。二階まで下りて縦型のブラインドをめくり外を覗くと、いつの間にか雪はだいぶ小降りになっていた。

(朝までにはやむといいけど……)

 建物の斜め前には街灯があり、辺りを薄く照らしている。前の道は狭くはないが、この時間ともなると通りすがる人など一人もいない。
 一階に下りる前に少しだけ二階の片付けをしようと思い立ち、三十分ばかりそれに没頭する。
 一段落ついてふと窓から下を見ると、車のヘッドライトがこちらに近づいてくるところだった。
 そのまま通り過ぎるかと思いきや、やってきた赤い車が建物の真ん前に停まった。

(あれっ? あの車は――)

 運転席のドアが開き、やや小太りの男性が出てくる。
 間違いない。
 あれは先月事務所の改装に伴うインテリアコーディネートを依頼してくれた、脇本わきもとという中小企業の社長だ。すでに仕事は完了しているが、彼は未だ壁紙や床のタイルについて質問があると言い、やたらと会社の電話に連絡を寄越してくるのだ。
 はじめはアフターフォローの一環として丁寧に対応していたが、そのうち個人的に食事に誘われたりセクハラまがいの言動を取られたりするようになった。
 脇本には妻子がおり、会社には大勢の社員が働いている。なるべくなら事を荒立てたくなくて、これまでずっとやんわりとかわし続けてきた。
 最近は連絡が来なくなって安心していたのに、こんな夜中に訪ねてくるなんて、いったいなんの用があるというのだろう?
 車から降りた脇本が、一階の窓の外から会社の中を窺っている。
 もっと近くで様子を見ようとして、風花は階段を下りて一階に続く踊り場まで進んだ。すると、突然入り口のドアをトントンとノックする音が聞こえてくる。驚いて身がすくんだが、営業時間外だから、当然真っ暗だし入り口にも鍵がかかっているはず――
 そう思った時、ハタと気がついて「あっ」と声を上げそうになった。

(入り口の鍵……閉めたっけ?)

 男性を連れて帰宅した時、必死になって鍵を開けたはいいが、そのあと施錠せじょうした記憶がない。
 風花は必死になって、その時の記憶を手繰たぐった。
 三階に上がった時、確かに鍵は手に持っていた。けれど、よくよく思い返してみると、男性を支えるのに必死で鍵をかけるのを忘れてしまっていた。
 今ドアノブに手をかけられでもしたら――
 青くなって窓辺に立ち尽くしていると、脇本がふいに上を見上げた。咄嗟とっさに対応できず、彼とバッチリ目が合ってしまう。あわてて隠れたが、いるのはもうバレてしまっている。
 こうなったら、下りて対応すべきだろうか?
 けれど、こんな時間にやってくるなんて、ぜったいにおかしい。
 どうしたものかと思い悩んでいるうちに、一階から電話の鳴る音が聞こえてきた。
 すぐに留守番電話に切り替わり、営業時間外である事を知らせるメッセージが流れる。ピーという発信音がしたあと、脇本が話す声が辺りに鳴り響いた。

『もしもーし、野元さ~ん。脇本で~す。いるのはわかってるし、せっかく来たんだから、ちょっとだけでも顔を見せてくれないかなぁ。「クリーム専科」のシュークリーム、好きだって言ってたよね? お土産みやげに買ってきたんだ。だから中入れて――あれ、ドアが開いてるぞ?』

 ガチャリとドアが開く音が聞こえてきて、入り口から入ってきた冷たい外気が一気に二階にまで上がってきた。足音が建物の中に入ってきて、バタンとドアが閉まる。留守番電話が切れた音がして、辺りがシンと静まり返った。
 まさか、このまま上に上がってきたりしないよね?
 そう思っている矢先に、一階の廊下を歩く音とともに気味の悪い猫なで声が聞こえてきた。

「野元さ~ん。ちょっとお邪魔させてもらってもいいよねぇ?」

 声が廊下の奥に移動し、足音が階段をゆっくりとのぼり始める。よもや、こちらの了承なしに上がってくるとは思ってもみなかった。いくら鍵が開いていたからとはいえ、これは不法侵入だ。

「ダ……ダメですっ! もうこんな時間ですし、今は営業時間外ですから!」

 風花はできるだけ声を大きくして、脇本をこれ以上来させまいとした。恐怖のせいか明らかに声が震えている。

「なんで? 一緒にシュークリームを食べるだけだし、そんなに警戒しなくてもいいよ。それとも、何か特別な事が起こるんじゃないかって期待してる? もしそうなら、喜んでこたえるけど……」

 脇本がスイッチを入れたのか、階段の電気が灯った。足音が一段一段近づいてくる。

「野元さん、俺の気持ちに気づいてたよね? だってほら、いつも俺を見るとニコニコしてくれてたし、あれってつまり、たまにこっそりこんなふうに会って、俺ともっと親しい関係になりたいなぁって思ってるって事でいいんだよね?」
「はあ?」

 勘違いもはなはだしい!
 しかし、今それを説明している暇はなさそうだ。
 こうなったらダッシュで三階に駆け上り、中から鍵を掛けて締め出すしかない――
 風花は急いで二階の踊り場から離れ、階段を駆け上がろうとした。しかし、五段目に足をかけた直後何かにぶつかって、うしろに倒れそうになる。

「わっ……わわ……」

 咄嗟とっさに伸びてきた腕に助けられ、そのまま横を向いた格好で脇に抱え込まれた。びっくりして顔を上げると、三階で横になっているはずの男性が風花を見下ろしている。

「え?」

 わけもわからず彼の顔に見入っていると、小さな声で「しーっ」と言われた。呆気に取られているうちに、脇本が階段をのぼり切って踊り場までやってきた。

「風花さ~ん。何も逃げなくてもいいでしょうに――え……だ、誰だ?」

 まさか男がいるとは思わなかったのか、脇本のニヤニヤ顔が一瞬にして引きる。男性がふっと笑い声を漏らし、風花を抱えている腕にグッと力を込めた。

「誰って、風花の恋人ですよ。見ればわかるでしょう?」

 男性の胸元は大きく開いており、その下は黒いボクサーパンツのみだ。そんな乱れた格好をしているのに、彼は威風堂々いふうどうどうとしており、いかにも屈強そうだ。
 彼は風花の肩をそっと撫でたあと、手を離し大股で脇本のすぐそばまで近づいていった。

「そういうあなたは、どなたですか?」

 男性が慇懃いんぎんにそうたずね、鷹揚おうように微笑みを浮かべた。及び腰になった脇本が、膝を震わせながら手すりにもたれかかる。

「お……俺はその人と仕事で関わりがあった者で……」
「ああ、取引先の方でしたか。〝あった〟という事は、もう過去の話なんですよね。そんな方が、こんな時間になんの用です? 事と次第によっては、警察に連絡させてもらいますが」
「い……いや、その……。ちょっと近くを通りかかったもので……」

 しどろもどろになっている脇本が、じりじりと後ずさる。彼はへびにらまれたかえるよろしく、思うように身動きが取れなくなっている様子だ。

「近くを通りかかっただけで、夜中に若い女性の家に押しかけるとは、あまりよろしくない行動ですね。見たところ既婚者のようですが、奥様はこの事をご存じなんでしょうか」

 男性が脇本の左手薬指につけられた指輪を見た。そして、いかにも不愉快だといったふうに深くため息をつく。

「あなたの今後の出方次第で、こちらの対応も変わってきます。とりあえず、今のような形で風花に関わるのはやめてもらえますね?」

 男性の声が壁に反響して、迫力ある雰囲気が倍増する。脇本が、たじろいだ様子でその場にへたり込みそうになった。しかし、そうなる前に男性が脇本の腕を掴んで立ったままにさせる。

「返事、聞かせてもらえますか」

 スーツ姿の脇本が、ワイシャツとボクサーパンツ姿の男性に押され、びびっている。
 普通なら笑ってもおかしくないシュールさだ。けれど、不思議と男性の雄々おおしさが際立っており、気がつけば彼の気迫に圧倒されて口を開けたまま男性に見入っていた。

「は、はい。もう関わりませんっ……!」
「そうですか。では、速やかにお帰り願います。おっと、一応これはいただいておきますね。『脇本会計事務所』の脇本さん」

 男性が脇本の胸ポケットから覗いていた名刺を指先でつまんだ。紙片を見る彼の顔には、氷のように冷たい笑みが浮かんでいる。
 男性が手を離すと、途端に脇本の膝が折れて尻もちをついた。彼は両方のかかとを蹴るようにして男性から離れると、よろよろと立ち上がって壁の向こうに走り去る。
 バタバタと階段を下りる音を追うように、男性が一階に向かう。入り口のドアが開き、再び外気が階段を駆け上がってきた。
 ほどなくして車のエンジン音が響き、バタンとドアが閉まる音がした。寒さに身体を縮こまらせていると、いつの間にか男性が踊り場に戻ってきている。
 一時はどうなる事かと思ったし、いろいろと危なかった。
 とりあえず、助けてくれた礼を言わなければ――
 そう思うものの、あごがガクガクするばかりで声が出ない。そうこうしているうちに、男性が階段に足をかけ、風花の目前まで近づいてきた。

「鍵、かけておいたよ。寒いから上に行こうか」

 男性に誘導され、風花は彼とともに三階に戻った。出た時はフロアランプのみだったが、今はそれが消え天井てんじょうのシーリングライトが煌々こうこういている。
 ソファに並んで腰かけ、ようやくホッとして脱力した。けれど、短時間の間にいろいろと起こりすぎて、頭がついていっていない感じだ。

「大丈夫か?」

 そっと顔を覗き込まれ、ハッとして息を呑んだ。
 鼻先三十センチの距離に男性の顔がある――
 これほど間近に異性を感じたのは、いつぶりだろうか?
 少なくとも元カレと別れて三年以上経っているし、それは別にしても、彼ほどのイケメンには生まれてこの方お目にかかった事がなかった。

「だ、大丈夫です。……あなたこそ、大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫だが、実はちょっと混乱してて――」

 男性は風花が書いたメモ書きを読む間もなく助けに来てくれたようで、自分がどうしてここにいるのかわかっていない様子だった。


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