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第三章 運命の人

64 さざめく予感

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 翌朝。清々しく目覚めたはずのヨルナは、なぜか胸騒ぎを覚えた。

 夢も見ていない。
 したがって、ご無沙汰な神様の訪問があったわけでもない。

 気のせいかな、と頭を振り、寝台を滑り降りる。柔らかな紗の垂れ布を両手でよけ、素足で床に踏み出した。



   *   *   *



「――アイリス様を訪問。これからですか?」

「えぇ。これから」

 迎賓館の食堂で朝食を終えたあと、客間を訪れたサジェスとアストラッドに、ヨルナはぱちりと目を瞬いた。
 では、ミュゼル様をお呼びして参ります、と次の間へと去るサリィを見送り、彼らの後ろを探す。が、護衛の騎士が二人いるだけ。いつの間にか見慣れてしまった藍色の髪は見当たらない。

「お二人だけなんですね。ルピナスは?」

ルピナスあいつは、先にアイリスの部屋だと聞いてる。王城でのことを全部教えなきゃいけないからって」

「! あ、そうか。……そうですね」

 双子の利便性と、身代わりを成立させるために必要な影の努力に、しみじみ頷いてしまう。
 すると、後ろから軽い足音がしてトンッと背に衝撃と温もり。抱きつかれてしまった。

「お待たせヨルナ。ご機嫌よう、殿下がた。アイリス様のところへ伺われるのですね? お誘いくださりありがとうございます。ぜひ、ご一緒したいですわ」

 身支度を終えたミュゼルが嬉しそうに肩の上で告げる。
 行ってらっしゃいませ、と二人の侍女に見送られ、ヨルナとミュゼルは部屋をあとにした。



   *   *   *



 昨夜は暗くて見えなかったが、迎賓館に入るために渡った池にはもう一本橋が架けてある。
 そこから公爵の家族が住まう塔へと入ることができた。
 すでに訪問の旨は伝えてあったらしく、衛兵が恭しくサジェス一行を迎え入れる。

 コツ、コツ、と石の螺旋階段を登ると二階の一室に通され、「こちらでお待ちを」と残された。

 応接室、というには広い気がする。
 いくつかのソファーが配され、三、四組ほどの人間がそれぞれで歓談しても良さそうな、サロンのような作り。部屋の奥にはグランドピアノが置かれ、奏者が使いやすそうな椅子が数脚、壁際に寄せてある。趣味のよい空間だった。

「おいで、アーシュ。お嬢さんがた。待たせてもらおう」

「はい」

 ヨルナたちが部屋を見渡している間に、サジェスは部屋のヌシのように寛いでいる。
 彼が選んだ薔薇色のソファーセットは華やかで、白い石材のテーブルとの対比がうつくしい。なるほど、確かにそこがサロンの中心点のようだった。

 結果、奥のソファーにサジェスとアストラッド。手前の席にミュゼルとヨルナが並ぶ。
 全員が座ったのを確認したアストラッドは、ふと隣のサジェスを窺った。

「兄上。本当に、このような手順全部をすっ飛ばしてアイリス嬢のお部屋に“翔んで”いたんですか?」

「「!!?」」

「若気の至りだ」

「若いって……今も充分お若いですわ、殿下。一体いつのお話ですの?」

 おずおずとミュゼルが問う。サジェスは、うーん、と誤魔化そうとした。
 苦笑したアストラッドが、兄の代わりに口をひらく。

「峠の関所を越えてから、馬車のなかで話していたでしょう? 十五歳で北部に来た兄上は、たいそうこの城が気に入って。探検がてら人気ひとけが少なそうな場所を狙っては“転移”して遊んでいたそうです。ほかに王族はいませんからね。やりたい放題だったんでしょう」

「やめろアーシュ。刺さる」
「あらー」
「……あっ。まさか?」

 間延びした相づちを打つミュゼルのかたわら、ヨルナはハッとした。
 『姉には友人がいない』と暴露していたルピナスを思い出して、つい声をあげる。
 アストラッドは困ったように微笑んだ。

「そう。ある日、翔んだ先が離れの塔で療養中だったアイリス嬢のお部屋だった。――そこから、はた目には逢瀬に近い感覚で第一王子からの訪問を受ける姫と噂が立ってしまったらしく」

「それは……アイリス様、おいくつでしたっけ」

 ちょっと考え込んでしまう。
 ゼローナの貴族の娘は、早ければ十五。遅くとも十六までに社交界でのお披露目デビュタントを終える。本格的に夜会に招待され始めるのは十六歳からだ。

 通常、それまでにも茶会などで近隣の令嬢と親睦を深めるものだが、体が弱かったとなればそうもいかない。公の場ではひどく心細い思いをしたのではないだろうか。
 サジェスは重々しい口ぶりで答えた。

「十五だな。去年の夏に誕生日で、社交界での顔見せは終えている。だから王城では夜会のほうに出ても良かったはずなんだが……たぶん、風当たりの強い一派がいたんだろう。茶会の席で『ルピナス』を見たときは、なるほどと思った」

「ああぁ」

 ――なんとなく、激しく予想に近いものを察して呻いてしまう。
 とても気の毒なかただと額を押さえた。その時だった。


 コンコン。
 扉がノックされ、ひらく。
 すぐにチリン、と愛らしい鈴の音がした。


「にゃあ」
「あ、だめ。っ!」

「?」

 首を傾げ、入り口を向くと、一匹の猫がこちらに走り寄るところだった。猫は軽やかに、一直線にサジェスの膝に上がる。
 なるほどアクア。
 乳白色の短毛はつややかで、足のあたりがほのかな灰色。瞳は紺。きれいな猫だ。それよりも。

 ――目をみはる。
 ルピナスの双子なのだから当然同じ顔を想定していたが、すばらしい美少女がそこにいた。
 男子の衣服に改めたルピナスが、そっとエスコートしている。その自然な子息ぶりにも驚かされたが。

 流れる藍色の髪。夜色の瞳。顔だちは彼らの母であるイゾルデにそっくりだが、もてる要素のすべてを《可憐》に極振りしたような姫君が恥ずかしそうに頬を染めている。

 優雅な足取りで面々に近づいた姫君は、お手本のような礼をとって、はにかんだ。

「ごめんなさいね、猫が急に逃げてしまって……お久しぶりですサジェス殿下。初めまして、皆様。わたくしはアイリス。ルピナスの双子の姉です」



 ――――声が。
 彼女の姿と、存在にかさなってヨルナの深い場所の記憶を刺激する。
 ヨルナは、雷に打たれたようにすくんだ。
(このかた)
 覚えている。間違いない。




 最初の、銀色の王女様だった。

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