翠の子

汐の音

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2章 学術都市へ

20 黒い瞳のスイ

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 水の乙女ウンディーネは、そのあと姿を現さなかった。
 弟子達から呼ばれはしたものの、スイもセディオも走ったりはしない。のんびり会話をしながら歩いている。
 会話といっても――主にスイが男性に対して如何いかに不用心な振る舞いをしているかに関し、こんこんと説教を受けているわけだが。

 そうして何度めかの「わかった。気を付けるよ」が黒髪の美女の口から漏らされたとき。
 ふと風に乗り、眼前の森の手前から騒ぎの気配がした。

「――行くか」
「えぇ」

 それまでの緩さが、ぴしりと打ち払われるように霧散する。きっ、とまなじりをきつくしたスイは、同じく気配を澄ませたセディオを伴い、足元の柔らかい草を蹴ってすみやかに森へと駆けた。

 ほどなく、フードを下ろした金茶のふわふわ頭と翠のふわふわ頭を見つけたが―――

「だからぁっ! キリクに触んないで! 悪趣味にもほどがあるわっ。ちょうど良いのがもうすぐ来るから、待ってなさいよ!!」

 ――とんでもない場面に出くわした。
 オリーブ色の肌の乙女と、茶褐色の肌をした乙女が両脇からキリクを奪い合っている。

 当のキリクは意識がない。少し性質たちの良くないものに捕まったらしい。
 乙女達の髪はくるぶしまで届くほどの暗緑色。つやつやと様々な色合いの緑へ変化する様は、陽光を受ける常緑樹の葉のようだ。どちらもエメルダの言葉には耳を貸さず、キリクを掴んだまま互いに睨み合っている。

 スイは、ため息を一つ溢すと右手を額に当てて呻いた。

「うぅ……さすがは節操なしの樹の乙女ドライアド……。そうだよね、キリクだもの。狙われないわけがない……」
「?! あっ、師匠!! お願い、キリクを助けてっ。あいつら全然わたしの言うこと聞かないの!」
「おい、エメルダお前。『ちょうど良いのが』ってまさか、俺か……?」
「当たり前でしょ、さっさと行きなさいよ。大人の優しさの見せどころよ!?」
「はぁっ? 優しさの証明のためだけに命張れるかよ。つうか、あれ、見るからに……」

 ぱちんっ!

 突如、混沌とした場を収めるようにスイが鋭く指を鳴らした。周囲の視線がたちまち彼女に集まる。
 ぶわっ……と、スイの外套の裾がはためき、フードがぱさりと落ちる。あらわになった黒髪が、身の内から沸き起こる光に煽られ靡いた。
 再び唇から奏でられた言語ルーンは、しずかな怒気をはらんでいた。

“――来たれ、炎の子。灯火でいい。悪戯が過ぎた樹の乙女ドライアドらを、懲らしめて――!”

 言うや否や、ボウッ……! と赤い火花が乙女達の周りに散った。合わせて四つ。火花は瞬く間に緑の髪に燃え移り、たちまち乙女らを逃げ惑わせる。

「! あぶな……っ!!」

 視界の端で素早く、セディオが動いた。
 乙女らに放り出されたキリクに、咄嗟に長い腕を伸ばして―――抱き止める。間一髪、間に合った。

 二体の樹の乙女ドライアドは、なんとか消し止めた火の名残に燻る煙を纏わせながら、恨みがましい視線をスイに向けてきた。

“ひどい、ひどい! たかが魔術師のくせに!!”
“私たちから、力を借りるだけの存在のくせに!”

 かちん、と。
 それは、スイの心の何かに触れた。温厚だった魔術師は一転、冷めた光を黒一色の双眸に置く。ばちばちっ! と、白い火花が二つ、スイの周りに生じた。

“お黙り。約定を違え、見境なく人の子を襲う若輩の力などいらない―――去るといいわ。旅人の生気をみだりに吸う愚か者。残るなら、今宵の薪にしてあげる”

“!”
“……覚えておいで! 生意気な魔術師!”

 すぅっ……と、二体の乙女は空気にかき消えた。スイの髪と外套も靡くのをやめ、ふわりと身体の線に添う。白い火花は、とうにない。

「ふう…」
「師匠…! ごめんね。私が付いてたのに、キリクをあんな目に……」

 翠色の瞳に、涙をいっぱい溜めたエメルダが駆け寄って来た。

「大丈夫だよ。元はと言えば私がわるい。彼女らの餌食になるには、キリクはまだ若いかなと思って油断してた」
「え……それだと、俺は確実に獲物認定か?」
「うん。―――でも、私が一緒なら大丈夫。エメルダみたいに人の手が関わった精霊は人の言葉を先に覚えちゃうから……それが災いしたね。彼女らは数多あまたいる精霊のなかでも《自然霊アニマ》に近い。善悪の観念が曖昧で、失われた言語ルーンでないと話も通じないんだ」
「へぇ…そうなんだ。師匠は? どうやって両方の言葉を学んだの?」

 小首を傾げて、一心に師を見上げるエメルダ。瞳にはもう涙の気配はない。スイは、にこっと微笑みかけた。ぽふぽふ、と柔らかな髪を撫でる。

「――内緒」

 『ずるい、教えて!』と、言い募ろうとしたちょうどそのとき、「うー…ん…」というキリクの覚醒の呻き声が届き、ハッとしたエメルダは身を翻して少年の元へと駆けていった。

 師が隠したがった話題は、自然とここまでになった。
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