氷と花

泉野ジュール

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ことのなりゆき "This is me. Open the door"

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 ディクソンに案内された部屋は、二階の左端にあって、白いレースのカーテンがかけられた大きな窓と桃色のバラをあしらった壁紙が綺麗な小部屋だった。
 いつのまにか従僕がひとり、マージュの皮トランクを持ち込んで部屋の入り口に置いていく。
「ありがとう」
 マージュが礼を口にすると、中年を超えた小柄な従者は照れて、隠れるようにいそいそと部屋を出ていった。黒いベストを着たその従者の後ろ姿を眺めながら、マージュはしばらくなにも言えずにたたずんでいた。
「他になにがご入り用がありますか、マージュ様。女中に紅茶と菓子を運ばせましょうか?」
 ディクソンの優しい声かけにハッとして、マージュは顔を上げた。
「い、いいえ。必要ないわ。ありがとう……今は、少しひとりで休みたい気分なの」
「そうでしょうとも」
 それだけ言うと、ディクソンは「では」と言ってマージュを残して部屋を去ろうとした。しかし、なぜかマージュは急に焦りと寂しさを感じて、ディクソンを引き止めた。
「待って、ディクソン」
 それまで出したことがないような、かすれた声がマージュの口をついて出た。「ネイサン……ミスター・ウェンストンはどこにいらっしゃるのかしら?」
「たぶん、書斎におられると思います。たいていのお仕事はそこでなされるので、工場に出ていない時の若旦那様は、いつも書斎におられます」
 ディクソンはなにげなさを装っていたが、言葉の端々に感じられるマージュへの同情の響きは消せていない。
 ──玄関をくぐった後のネイサンは、婚約者に屋敷を案内することも、使用人にマージュを紹介することもなく、すべてをディクソンに任せてふらりと消えてしまっていたのだ。

「……きっと、あなたにはわたしが、ひどくみじめに見えるでしょうね」

 下を向いて、ポツリとそうこぼしたマージュに、ディクソンは否定も肯定もしなかった。しばらくの思案するような沈黙の後、ディクソンは静かに言った。
「若旦那様は、きっとあなたを大切にしてくださいますよ」
 マージュはゆっくりと顔を上げた。
 いくつか質問が湧き上がってきて、なにから聞くべきなのか迷ってしまうほどだった。ディクソンは辛抱強くマージュの続きを待って直立している。
 マージュはたずねた。
「先代のポール様はもう亡くなったのに、あなたは彼を『若旦那』と呼ぶのね?」
「ええ。長年の習慣を変えるのには、わたしは歳をとりすぎてしまっているのですよ……ネイサン様も、好きにしろとおっしゃってくださいましたので」
「そう……」
 初めて、ネイサンについてなにか人間的な意見を聞いたような気がして、マージュの心がほんの少し軽くなった。
 年老いた執事が昔からの呼び方を続けるのを、好きにしていいと許可するネイサン・ウェンストン。とりあえず彼は、血も涙もない伝票を持った悪魔ではないらしかった。
 それはそうだろう……彼は、マージュを救ってくれたのだから。
「でも、大切にしてくださるかどうかは疑問だわ……。彼にとってわたしは、突然降って湧いた迷惑以外のなにものでもないでしょうから」
 ディクソンは答えず、じっとマージュの言葉に聞き入っていた。
 彼の優しげな水色の瞳がなにを考えているのかは分からない。ただ、恐れていたような軽蔑や嫌悪を感じることはなかったので、マージュはいくらか救われる思いでいた。
「もちろん、贅沢を言うつもりはないの。ミスター・ウェンストンがこうしてわたしを拾ってくださらなかったら、今頃お金も家もなくさまよっていたかもしれないもの」
 だから。
 だから、たとえ彼が冷たくても、マージュにそれを非難する資格はない。
 これは愛のない結婚になるのだ……。マージュは世間の冷たい視線を逃れ、無一文になる危機を救われ、夫という社会的庇護を手に入れる。
 ネイサンは……ただ、父親の遺言に従うことで、良心の呵責に悩まされずに安眠できる権利を手に入れるのだろうか。
「愚痴を言ってごめんなさい、ディクソン、もう下がっていいわ」
 これ以上、他人の視線に耐えられる気がしなかった。たとえそれが優しさを含んだディクソンの瞳でも。ひとりの世界に逃げ込みたくて、マージュは窓辺に移り、そこから見渡せる灰色の景色に集中するふりをした。

 ディクソンは頭を下げ、なにも言わずに扉を閉めて部屋を出ていった。



 六年前に亡くなったマージュの父は、名をトーマス・バイルといった。
 彼は宣教師で、ネイサンとフレドリックの父である故・ポール・ウェンストンの親友であり、恩人であり、恩師でさえあった。
 精力的な新興実業家であるポールと、真面目な宣教師であるトーマスがどういう経緯で親友となったのかは今も疑問が残るが、マージュが物心ついた時にはすでに、父は毎日のようにダルトンにあるウェンストン家の屋敷に入り浸り、政治や文学や哲学について時を忘れて語り合っていたものだ。
 ふたりの男の友情は、実業家であるポールが、新しく産業に栄え始めた街・ウィングレーンに移り、綿工場を経営し始めてからも続いていた。

 しかし、六年前に流行病がトーマスを蝕み、懸命の看病もむなしくあっというまに亡くなってしまう。
 早くに母親も亡くしていたマージュは、天涯孤独になるところだった……。
 しかし、ポール・ウェンストンは義理堅く、親友の忘れ形見である一人娘マージュが孤児院に送られるのを、黙って許すような男ではなかった。
 学校に通うためダルトンに残っていたフレドリックと、ポールの妻がマージュの身柄を引き受け、体面上「奥方の話し相手」という職名を与えられ、ウェンストン家の世話になることになったのだ。

 ポール本人と、当時すでに二十歳を超していた長男ネイサンは、ビジネスのために一年の大半をウィングレーンで過ごしていたので、年末やなにかの記念日に数週間滞在するだけで、あまり顔を合わせる機会はなく。
 そのうえ、ポールは年々、ネイサンに工場の経営権を譲り始めていたらしく、ポールがひとりで帰省することも珍しくなかった……マージュにとってネイサンは、年に一度顔を合わせるか合わせないかの、縁遠い存在だったのだ。
 対して、一年しか年の違わなかったフレドリックとマージュは、すぐに切っても切れない親友となり、年を重ねるにつれ恋仲になっていった。

 一年の終わりが来ると、ダルトンの屋敷に一週間ほど滞在して、挨拶もそこそこに消えてしまう厳しい顔をしたフレドリックの兄。
 それが長年、マージュにとってのネイサンだった。

「トーマスが亡くなる前に、君の面倒を一生見ると約束したんだ……」
 ポールは時々、亡き親友の娘を懐かしそうに眺めながら、そう語った。

「君がフレドリックと結婚してくれるなら、これほど素晴らしいことはない。わたしは近いうちに老いゆくが、わたしの息子が君の面倒を見続けてくれるだろう。おまけにわたしの息子は英国一美しい娘を手に入れるわけだ」

 もちろん、マージュの容姿はせいぜい、ダルトンで一番可愛らしいとか、その程度である。
 ポールはおおらかで周囲の人間を楽しませるのが好きな男性で、フレドリックは間違いなく父の性格を受け継いでいた。大げさにマージュを褒めそやし、受け入れ、愛してくれていた。
 すべてはおとぎ話のように順調に進んでいたのだ……。
 一年前に、ウェンストン夫妻が、馬車の事故で二人一緒に亡くなってしまうまでは。



 トントン、と部屋の扉を叩く音がして、マージュは白昼夢から目を覚まして顔を上げた。
 いつのまにか目尻を濡らしていた涙を慌てて手の甲で拭い、扉に向けて声を上げる。
「はい、どなた?」
 きっと女中だろう。ディクソンには断ったが、気を利かせて紅茶を持ってきてくれたのかもしれない……そう思って、マージュは窓辺から離れないで扉を叩いた人物が入ってくるのを待っていた。
 しかし、
「わたしだ。開けなさい」
 うなじの毛を逆立たせるような、低くて落ち着きはらった声が、扉の向こうから響く。マージュは心臓が止まるかと思うほど驚いて、目を見開いた。
「ミ、ミスター・ウェンストン?」
 声が震える。
そうだアイ・アム
 ネイサンの声は──マージュの本能が正しく物事を察知していれば──危険なほど苛立っているような気がした。

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