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冷たい婚約者 "Indeed"
しおりを挟む誰もがマージョリー・バイルを一目見ると、なんと愛らしい娘だとか、目を奪われるような美しさだとか、そういった類の感嘆を漏らした。
もちろん、マージュはそのすべてを真に受けるほど、ナイーブではない。
多くは単なる社交辞令だろうし、そもそも容姿といったものは、両親から与えられたものであってマージュ本人が努力した結果ではないのだ。だから、いくら褒め言葉を受けてもマージュはおごらず、ただ軽く頭を下げて礼を言うにとどめていた。
しかし、馬車の窓から見える景色を眺めながら、こういった社交辞令とネイサン・ウェンストンはまったく縁がないのだと、あらためて理解するに至った。
ダルトンの牧歌的な風景は影を潜め、馬車の歩みが進むにつれ、空がかげって灰色になっていく。自然が減り、緑が消え、すべてが人工的な眺めに変わっていった。マージュはいつだってこの街に来ると、落ち着かない気分になったものだ。それはいまも変わらない。
英国のもっと南の街……たとえばダルトンでは、大地は秋の実りにあふれ、色を変えた草木が香り高い風に乗って踊るように揺れ動いているところだろう。そこでは空は澄み切っていて、人々は人生を謳歌している。
しかしウィングレーンはそうではなかった。
林立する巨大な煙突からもうもうと灰色の煙が吐き出され、その分厚い煙が陽の光さえさえぎり、街全体を黄土色にかすめている。街を行く人々は必ずと言っていいほど、なにかに急き立てられるように駆け足で消えていった。ここには、散歩を楽しむ人間はあまりいないらしい。
その横では、馬に引かれた押し車が、信じられないほど高く積まれた原綿のかたまりを乗せて、のろのろと石畳の道を進む。
ウィングレーンは暗く冷たい産業の街だった。
そう、ちょうど、ネイサン・ウェンストンそのひとのように。
心に重りを乗せられたような、沈んだ気持ちで窓から視線を外すと、目の前に座っているネイサン・ウェンストンと目が合った。彼はにらむようにじっとマージュを見つめていて、その男性的なあごをきつく結んでいる。
マージュの心はますます落ち込んだ。
「もうすぐ着きますね、ミスター・ウェンストン」
誰かと目が合って、黙りこくっているほど無礼なことはない。マージュはやんわりと、あまり意味のない会話を始めようとした。
「ここに来るのは本当に久しぶりです。小さい頃に何度か訪ねたきりだわ……お父様が、存命だったころに」
しかし、ネイサン・ウェンストンに無意味な会話を継続する意思はないらしかった。
「確かに」
という短い返事が返ってきて、馬車の中は再び沈黙に包まれた。
マージュは深いため息を吐き、ふたたび窓から見える陰鬱な景色に目を移した。
空を染める灰色の煙を見上げて、ああ、これはネイサン・ウェンストンの瞳の色だ、と思った。同じ兄弟でも、フレドリックの瞳は晴れ渡った空のような水色をしている。
ずっと我慢していた涙が、細い線となってマージュの左のほおに流れていった。見咎められてはまずいと、すぐにハンカチを出して拭き取ったが、きっとネイサン・ウェンストンには見られてしまっただろう。
しかし、彼はなにも言わなかった。
慰めの言葉も、叱責もない。
当然だ……彼はネイサン・ウェンストンなのだから、馬鹿な小娘の失恋の涙などに心を動かされるはずがないのだ。彼の頭の中は、利益や、仕入れ高や、労働者への賃金といった問題で埋め尽くされている。きっと今ここでマージュが息を引き取っても、彼がまず考えるのは、葬儀屋への手配とその料金についてだろう。
マージュは彼を見ることができなかったから、たいして好きでもないウィングレーンの冷たい街景色をじっと見つめ続けた。
ただ、今だけは、ネイサン・ウェンストンの沈黙を少しありがたく感じた。本当は会話をしたいような気分ではなかったのだ。
*
馬車がウェンストン・ホールと呼ばれるウェンストン家の屋敷の前にたどり着くと、正面玄関から白い髪をした老執事が現れて、足早に階段を駆け下りてきた。
「あれは……ディクソン?」
マージュは彼に見覚えがあって、懐かしさに感嘆をもらした。
子供のころ、父に連れられてやってきたこのウェンストン・ホールで、マージュ達を迎えてくれたのが彼だった。ただし当時、彼の頭はまだごま塩で、元の黒髪と白髪が混じった落ち着いた色合いだった。それが今はすっかり真っ白になっている。
ネイサンは答える代わりに身をかがめて席から立ち、馬車の扉を開いて、先に外へ出た。
「おかえりなさいませ、若旦那様」
外からディクソンの声が聞こえてくる。「思ったよりもずいぶんと早いおかえりで。フレドリック坊ちゃんのお式はいかがでしたか?」
「わたしには、結婚式などみな同じに見えるよ、ディクソン」
冷たい外気が吹き込んできて、マージュは思わず身震いした。外套の前身頃を片手でぎゅっと握りしめ、ひとりで外に出ようとすると、ネイサンが振り返ってマージュに降車を助ける手を差し出した。
マージュは一瞬、手袋をはめていないその手に、じっと見入ってしまった。
顔を上げると、無機質な灰色の瞳が、まばたきもせずマージュの顔を睨みつけている。マージュは息を呑み、ゆっくりと馬車を降りながらネイサンの手を取った。
地面にたどり着くと、何時間も馬車に揺られていたマージュは、不動の大地に足をもつれさせてしまった。ネイサンはそれをもう片方の手でしっかりと支えると、マージュをまっすぐに立たせる。
「ご、ごめんなさい……」
マージュは謝ったが、ネイサンはわずかに目を伏せる以外の反応を示さなかった。
すると、
「ウェンストン・ホールへようこそ、ミス・バイル」
にこやかに微笑んだディクソンが、手を胸元に置いてそう挨拶してくる。こそばゆく感じて、マージュも微笑み返した。
「お久しぶりね、ディクソン。今日からまたお世話になります。どうかマージュと呼んでちょうだい?」
「お心のままに」
表向きはディクソンとの会話に集中しようとしていたが、マージュの心の内側はすっかり乱れていた。すぐに離れると思っていたネイサンの手が、いつまでもマージュの手と腰をぎゅっとつかんだままだったからだ。
そんなふたりの姿を見て、ディクソンはなにか勘違いをしたらしかった。
「ご婚約おめでとうございます、マージュ様。屋敷の使用人を代表し、未来のウェンストン夫人を歓迎いたします」
「あ、ありがとう……」
「長旅でさぞお疲れでしょう。部屋を用意してあります。さあ、中へいらしてください」
経験豊富で執事の鏡のようなディクソンは、マージュの複雑な事情について嫌味を言ったり詮索したりはしなかった。ひとまず安堵して、ネイサンの顔を見上げる。
ネイサン・ウェンストンの、氷のような瞳を。
「さあ、来なさい」
と、低い声でうながすと、ネイサンはマージュを連れて玄関に続く階段を登った。
上部が半円状になった幅の広いマホガニーの玄関扉は、たっぷりの漆を塗られたうえに完璧に磨かれていて、正面に立つと自分の顔が映りそうなほど輝いている。マージュは背筋が冷えるのを感じた。
きっとここでは、マージュも完璧でいることを期待されるのだろう。完璧な婚約者、完璧な妻、完璧な母親……マージュはそういったものになるべきだと、ネイサンは思っているはずだ。
ディクソンがうやうやしく開けてくれた扉を、ネイサンの手に引かれてゆっくりとくぐる。
その瞬間、マージュの人生はきっぱりふたつに分かれたのだと思う。
昔の、ほがらかで明るい希望に満ち溢れていた「フレドリックのマージュ」と、今の、冷たく愛のない……事務的で形だけの「ネイサンのマージュ」とに。
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