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Here Comes A Danger
しおりを挟むすれ違いは、一度始まってしまうと、どうしてなかなか元に戻るのが難しいようだった。
特に、戻ろう戻ろうと努力すればするほど、運命は手厳しいいたずらを仕掛けてくるものらしい。
二階にたどり着いたオリヴィアは、いったいどこから何を探していいのか分からなくなって、軽い混乱に目眩を感じずにはいられなくなった。ファレル家の二階は、豪華で細々とした造りの一階と比べるとだいぶ落ち着いたもので、長くまっすぐとした廊下が延々と続き、いくつもの扉が向かい合って伸びている。
いくつもの、閉じた扉が。
ピートを探し出すためには、これを一つ一つ開けて調べなくてはならないのだろうか?
オリヴィアは一瞬だけ躊躇したが、すぐに気概をとりもどして、決心を新たに前に足を進めた。
途中で誰かに出くわすことがあれば、すぐにピートの行方について尋ねることができるのに。不幸中の幸いというべきか、あの老執事は実によく目立つ容姿をしている。態度も大きい。誰か彼を見たものがいれば、その消息を聞き出すのは簡単である……はずだ。
しかし。
長い廊下はほとんど人気がなく、がらんとしていて、下の階での賑やかな舞踏会がまるで嘘のように静かだった。
まあ、まだ宴もたけなわな頃であるから、二階で休もうという客人も少ないのかもしれない。もしくは、いなくなった執事を探しにくるような人も。
オリヴィアはまず、慎重に、最も近くにある扉の前に立って、短く息を吸った。
いくら切羽詰まった状況だとはいえ、礼儀を忘れていいはずがない。まず、ノックを。
コン、コンとオリヴィアが最初の扉を控えめに叩くと、すぐに野獣のうなりのようなくぐもった声が聞こえてきた。
オリヴィアは驚きに背筋を伸ばし、逃げるように扉から一歩下がった。
しかし、
「くそ、だれだ! だれも邪魔するなと言っただろう!」
という荒っぽい男の怒鳴り声がすぐに続いて、オリヴィアは逃げ去ることができずに立ち往生した。男の声は怒りと苛立ちに満ちていて、まるでオリヴィアが彼のお気に入りのクリスタルの収集品を片っ端から割ってしまったかのような勢いだった。
どうして、ただ扉をノックしただけなのに!
「あの、邪魔をしてしまったなら申し訳ありません。ただわたしは、うちの執事を捜しているのですけど、もしここに……」
「このアマめ、逃げるな!」
怒声とともに、ぴたりと閉まっていた扉が突然勢いよく開いて、中から小さな人影が飛び出してきた。扉の前に立っていたオリヴィアに肩が当たって、その人物は一瞬だけオリヴィアを見上げた。くりくりとした茶色の瞳の、まだうら若いメイドだった。しかし、そのメイド服は無惨に乱れ、瞳には大粒の涙が溜まっている。
「ま、まあ、大丈夫ですか? どうして……」
と、オリヴィアが尋ねきらないうちに、メイドはきゅっと苦しそうに唇を結んで、そのまま廊下を走り去っていった。屋敷をよく知る者の動きだった。階段を素早く降りきり、すぐにどこかへ消えていく。
オリヴィアが呆然として立っていたのもつかの間、すかさず扉の内側から別の人物が顔を見せた。まだそれほど年配ではないのに、すっかり贅肉のついた顔と身体をした、乱れた姿の大柄の紳士だった。
こういう人物を紳士と呼んでいいのなら、の話だが。
「おや」
紳士の皮をかぶったこのろくでなしは、オリヴィアの姿を認めるなり、すぐに怒りを和らげたようだった。「小さい獲物に逃げられたと思ったら、代わりにずいぶん上等な品が届けられたようで……」
オリヴィアは、自分が世事にうといことを理解している。
とはいえ、明日も知れぬ立場であるとはいえ人妻であるし、何も知らない赤ん坊でもない。脂ぎった顔をしたこの男が、閉ざされた扉の向こうで何をしようとしていたのか、オリヴィアを見て何を思いついたのか、きちんと分かっている。
なんという恥知らず!
そして、なんという皮肉だろう。
オリヴィアが愛する夫は、結婚してから今までのひと月以上を、彼女がどんなに頑張って魅惑しようとしても無視を決め込んだというのに。こんなどうでもいい男の気を引くのには二秒とかからないなんて。
オリヴィアは、自分の顔が悔しさのあまり赤く染まっていくのを感じた。
「邪魔をしてしまったのは申し訳ありませんけど」と、オリヴィアは先ほどの台詞を繰り返した。「わたしはうちの執事を捜しているところだったのです。どうもここにはいないようですね」
思いっきり皮肉を込めて言ったつもりだった。
しかし、オリヴィアが威勢よく踵きびすを返そうとした途端、男の腕がオリヴィアの手首をがっと掴んだ。
「! 放してください!」
「まあまあ、固いことを言わなくてもいいじゃないか……ここには上等の酒もある。少しの間、お互いにいい思いをしてみるだけさ。まず誰も気が付かないだろう」
「さっきのお嬢さんの泣き顔を見ました。なにが『お互い』なものですか!」
男の腕力は、大柄な身体に見合ってかなりの強さだった。
オリヴィアが振り払おうともがいても、せいぜい少し揺すぶれる程度で、とても太刀打ちできていない。つい勢い余って反抗的な態度に出てしまったが、それはこの酔っ払ったろくでなしの対抗心に火をつけてしまっただけのようだった。
男の目に異様なほどの邪さが光る。
それを見てはじめて、オリヴィアの心に焦りと恐怖が目覚めた。
掴まれた腕が、まるで自分のものではないように思えてきた。屈辱……そして、愛してもいない男性に触られる嫌悪感。
「放してください。人を呼ぶわ……」
と、言った自分の声が、情けないほど震えているのにオリヴィアは気付いた。しかし、それ以上に、すくんだ足を奮い立たせるのが難して、オリヴィアは狼狽した。
——エドモンドは私を捜してくれているのだろうか?
——叫べば、私の声を聞いて、助けに来てくれるだろうか?
状況を悲観している間もなく、男がかがみ込むようにオリヴィアに覆い被さってきた。
酔っ払い独特の酒臭い息がオリヴィアの顔に迫ってきて、オリヴィアは自由な方の腕で男を押しのけようとしたが、成功したとは言い難かった。
男を押しのけようとするオリヴィアと、オリヴィアを押さえ込もうとする男とが、もつれ合って床に倒れる。
オリヴィアは男の下敷きになり、肩を強く打って、一瞬、痛みに息をのんだ。
ああ、こんなふうにエドモンドと床に倒れたことがあった。
でもあの時のエドモンドはオリヴィアをしっかりと包み込み、力強く守ってくれた。痛みなんてなにも感じなかった。
ほら、見なさい。
エドモンドがどれほど素晴らしい男性なのか……。
疎うとんじている妻さえ身体を持って守ってくれたのだ。こんな、誘惑しようとしている女性さえろくに守れない男とはまるで違う。それなのにオリヴィアは、こんなところで好きでもない男の下敷きになっている。
怒りがオリヴィアに力を与えた。
「どいてください、私は、こんなところであなたの相手をしている暇はないの!」
オリヴィアは男の腕からもがき出て、床を転がるようにして男から離れた。そして、立ち上がりながら威勢良く言い加える。「あなたが何をしようとしたのか、私の夫が知ったら大変なことになるわ」
オリヴィアは一度、エドモンドが斧を振り上げて大きな丸太をまっぷたつに割るところを見たことがある。あの乾いた丸太と、この酔っ払った男が重なって見えた。
きっとエドモンドは躊躇さえしないだろう。
しかし、
「君の夫か、ふん」
酒が判断力を鈍らせているのか、男はオリヴィアの脅しを理解していないようだった。
「どこの誰だか知らないが、こんなところに自分の妻を放っておく男に、私が負けるとは思えないな」
男はよろよろと立ち上がった。
すでに乱れていた服が、さらにだらしなく垂れ下がっている。オリヴィアは眉をしかめた。自分の足下を飾る、舞踏会用の小さなレース編みの靴が、今は呪わしく思える。どれだけ美しくても、この靴はあまり早く走れない。ここまで急いで来たせいで、すでに踵がずきずきと痛み始めていた。
「いいですか、私の夫は——」
オリヴィアがそう言いかけたところだった。
背後からパン、パン、という手を叩く乾いた音が響いてきて、二人はそちらを振り返った。廊下の先に、優雅なたたずまいのヒューバート・ファレルが立っていて、こちらを興味深そうな目で見ていた。
「ヒューバートじゃないか」
酔っ払った大男は、嫌らしい笑みに唇をゆがめながら、さっきまでとは少し口調の違う猫なで声を出しながら言った。「ちょうどいい、私は嫉妬深いたちではないんだ。君とお楽しみを共有するのも悪くないな」
オリヴィアは当然のように、彼に助けを求める視線を送った。
しかし、ヒューバートは少し考えているようだった。
どんなに鈍い人間でも、今のこの状況を理解するのは難しくないはずだ。ヒューバートはこの屋敷の主人で、オリヴィアとエドモンドはその客人である。オリヴィアをこの魔の手から救い出すのは、彼の紳士としての義務であるように思えた。が——
「あなたは男性の心を狂わせるのが得意のようだ、オリヴィア」
ヒューバートは意味ありげにそう言って、オリヴィアを頭のてっぺんからドレスの裾まで食い入るように見つめた。そのときになってやっと、オリヴィアは自分のドレスと髪が男と同じように乱れているらしいことを感じ取った。
ああ!
両手ですっかりずれていた襟元を隠したオリヴィアは、もう一度ヒューバートに懇願の視線を走らせた。
しかし楽天家であるオリヴィアにさえ、彼にその気がないのがすぐに分かった。ヒューバートはこの酔っぱらいの提案に心を傾けているのだ……。
どうすればいい? どうすればいいの?
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