太陽と月の終わらない恋の歌

泉野ジュール

文字の大きさ
6 / 33
月の盗人

03

しおりを挟む
 次の朝、マノンが目を覚ますと、見慣れた純白の枕が目に入ってきた。
(あれ……)
 ふわりと弾む枕に顔を埋めたまま、何度か目覚めの瞬きを繰り返すと、だんだん昨夜の記憶が鮮明になってくる。

 昨夜は確か、ダヴィッドの書斎に入れてもらって、一緒に本を読んだ。
 それからしばらくして……。
 しばらくして……?
 どうやらあのまま寝入ってしまったらしい。

「ふぅ……」
 ぼんやりと、後悔のような、諦めのようなものが頭をもたげてくる。
 早く大人になりたいと願って、毎日頑張っているつもりなのに、気が付くとすぐこういった赤ん坊のような事を繰り返してしまう。

 よく見てみるとマノンはきちんと寝巻きを身に着けていて、それがダヴィッドが着替えさせてくれたものなのか、それとも女中の一人がやってくれたのかさえも、まったく記憶にない。

 マノンはのそのそとベッドから身を起こした。
 ベッド脇に置いている籠の中に白猫がいて、マノンが起きた音に目を覚ましたのか、大きなあくびと伸びを気だるげにする。

「ブラン」
 それが白猫の名前だった。
「あなたは知っているんでしょう?」

 ──昨夜、マノンがどうやって部屋に帰ってきたか。誰が着替えさせてくれたのか。
 ひょいと抱き上げられた白猫は、マノンという小さな飼い主を見つめて、「ニャオ」と鳴いた。どうも肯定の返事に聞こえる……が、だからといって答えを得られないのが、猫の厄介なところだ。

 ベッドの後ろの出窓を見ると、レースのカーテンを通じて、柔らかな朝日が差し込んでいる。
 ブランを籠の中に戻すと、マノンは立ち上がった。


 よほどの事がない限り、ダヴィッドはマノンよりずっと早起きだ。
 この朝も例外に漏れず、マノンが朝食用のガラス張りのテラス風サロンに顔を出すと、家の主人であるダヴィッドはすでにテーブルについてコーヒーに口を付けているところだった。彼の後ろには、当然のように、執事が恭しく陣取っている。

「おはよう……ダヴィッド」
「おはよう」
 まるで何事もなかったような、普段どおりのダヴィッドの口調。
 小さく溜息を吐くとマノンもテーブルについた。
「バトラーもおはよう」
「おはようございます、マノン様」

 ふざけたことに、サイデン家の執事の名前はそのまま『バトラー』だった。本名なのか、偽名なのか、ニックネームなのかもよく分からない。ただ彼についてマノンが分かっている数少ない事項の一つに、バトラーの前でダヴィッドの夜の話をしても、ダヴィッドは怒らない……というのがあった。

 つまり──この執事は、ダヴィッドの夜の姿を知る、マノン以外の、恐らく唯一の存在だ。

 はっきりそう宣言された事も、バトラーがそれを明言した事も、ないけれど。
 そもそも本名かどうかさえ分からない名前以外、彼の素性は誰にも何も知られていない。知っているのは、多分、ダヴィッドだけだ。
 主人のダヴィッドより一回りほど年上で、濃い茶色の髪はまるで、寝ている時もそうなのではないかと思えるほど常に、丁寧に後ろへ撫で付けられている。よく見ると綺麗な顔をしているのかもしれない。しかし、彼は常にダヴィッドの影のような存在だった。

「どうぞ、今朝の朝食です。茹でたての鶏卵とミルクを加えました」
 そう言うとバトラーは主人のダヴィッドに一礼して、時計の秒針のように規則正しい足音を響かせながら、サロンを出て行った。

 香ばしい匂いがテーブルの上に広げられた朝食から漂う。
 一見すると、どうも、バターは取り上げられてしまったらしかった。ミルクはその慰めなのだろう。

「早く食べなさい。今日は家庭教師が来る日だ」
「ん……」

 マノンは朝食に手を付け始めた。
 どうしてだろう。昨日、珍しくも病院などを訪れたせいだろうか。妙に胸の中がもやもやするのを、マノンは朝から感じている。

 短い訪問だったが、良くも悪くも新鮮な出来事だった。自分より小さい子供達が病床に伏せっていた姿……それから、あの少年、確か名前をサイモンといった……急に口付けされそうになって。

 そっとパンを齧りながら、マノンはちらりとダヴィッドの顔を見た。
 相変わらずの、実業家ダヴィッド・サイデンの姿がそこにある──すらりと伸びた背に白いシャツ、軽く漉かれた漆黒の髪、彫りの深い精悍な顔立ち、引き込まれてしまいそうな黒の瞳。

 そうだ、大丈夫──あの病院の不正はすぐに暴かれる。
 だって、黒の怪盗がいる。
 きっと彼は、今夜にも──。

「お食事中に大変申し訳ありません」
 その時だった。
 サロンから出て行ったはずのバトラーが突然、ダヴィッドとマノンの前にまた現れた。ダヴィッドは訝しげに片眉を上げて、マノンはぽかんと口を開けて瞳を瞬きながら、再びサロンの入り口に立つ執事の姿を眺める。
 彼の腕には、狩られた後のウサギのように首根っこを掴まれた少年がいた。
 ──『サイモン』だ。

「『黒の怪盗』を名乗る者です。今、外の茂みで隠れていたところを捕まえました。何でも──」
 バトラーの淡々とした説明に、サイモンが顔を赤くして抵抗した。
「言うなよっ!」
「何でも、マノン様の唇を奪いに来たのだとか」



「サイモン、君はドロレス小児病院に入院中じゃなかったのか」
「別に……一々、確かめることないだろ」
「分かってる。じゃあもっと直接的に言おうか。どうやって私達の家を探り当てた? 病院を抜け出したのはいつだ?」

 バトラーに頼んでマノンを下がらせると、二人きりになったダヴィッドとサイモンは、弾けそうな緊張感と共に、談話室で対峙していた。
 とはいえ実際に緊張していたのは一人サイモンだけだ。対するダヴィッドは、少年からすれば恐ろしいほどに冷静だった。

 否、これを冷『静』と呼んでいいのだろうか?
 まるで氷塊のように冷たい表面の下に潜んだ、熱い何かが、強く躍動している。脈を打ちながら、噴き上がるのを今か今かと待っている。そんな──。

「あ、明け方だよ……。通りがかった馬車に乗せてもらって、場所は、人に聞いたらすぐ分かった。あんたは有名人みたいだね」
「さあな」
「それで、脇の茂みから這ってこっそり入ろうとしたら、あいつが」

 執事のことを指すらしい。
 深い溜息を吐くと、ダヴィッドはコツ、コツと指先でテーブルの上を叩いた。ダヴィッドの前に棒立ちになったサイモンは、その指先が今にも自分の首をかくのではないかと戦慄して、身体を硬くした。
 昨日病院で会った時には感じなかった、野生の鋭さの様なものが、今のダヴィッドにはある。
 自分を見据える視線は、まるで凶器のようだ。

 サイモンはごくりと息を呑んだ。
 しかし、
「馬車を用意する。今すぐ病院へ帰りなさい」
 ダヴィッドはそう言うと立ち上がって、そのままサイモンの横を通りすぎようとした。
「ま、待ってよ!」
 サイモンは慌ててそのダヴィッドの袖にすがった。

「昨日……昨日、見ただろう? 俺、病気なんだ……大人しくしていないと死んじゃうかもしれないって言われてる。副院長さんは静かに養生してれば治るって言ってくれてるけど、俺、分かるんだ」
 声の奥が震えていて、今にも泣き出しそうだ。
「俺、きっともうすぐ死ぬんだ……だから、最期に一度だけでいいから、好きな子の唇に触れてみたい……」

 そこまで言い切ったサイモンは、ダヴィッドの袖を掴んだままで、頭を垂れた。
 ──泣き出した、らしい。
 ダヴィッドはもう一度深い溜息を繰り返した。

「だったらなおさら、今すぐ病院へ戻るべきだろう。副院長は嘘を付いていないよ」
「そんなの……っ」
「サイモン」

 名前を呼ばれて、サイモンは潤んだ瞳を上げた。
 窮鼠猫を噛む、というやつだろうか。今の少年の瞳には、ダヴィッドに対する挑戦が、ありありと浮かんでいた。

「昨日、あんた達が病院に入ってくるとこ、見たんだ……風に飛ばされそうだった麦わら帽子を押さえる女の子が見えた」
 ──きっと一目惚れってあの事を言うんだ。
 サイモンは語尾にそう付け加えた。

「一度だけでいいよ……最期に一度だけ、あの子と……」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

冷徹宰相様の嫁探し

菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。 その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。 マレーヌは思う。 いやいやいやっ。 私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!? 実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。 (「小説家になろう」でも公開しています)

俺と結婚してくれ〜若き御曹司の真実の愛

ラヴ KAZU
恋愛
村藤潤一郎 潤一郎は村藤コーポレーションの社長を就任したばかりの二十五歳。 大学卒業後、海外に留学した。 過去の恋愛にトラウマを抱えていた。 そんな時、気になる女性社員と巡り会う。 八神あやか 村藤コーポレーション社員の四十歳。 過去の恋愛にトラウマを抱えて、男性の言葉を信じられない。 恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。 そんな時、バッグを取られ、怪我をして潤一郎のマンションでお世話になる羽目に...... 八神あやかは元恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。そんな矢先あやかの勤める村藤コーポレーション社長村藤潤一郎と巡り会う。ある日あやかはバッグを取られ、怪我をする。あやかを放っておけない潤一郎は自分のマンションへ誘った。あやかは優しい潤一郎に惹かれて行くが、会社が倒産の危機にあり、合併先のお嬢さんと婚約すると知る。潤一郎はあやかへの愛を貫こうとするが、あやかは潤一郎の前から姿を消すのであった。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

男装官吏と花散る後宮〜禹国謎解き物語〜

春日あざみ
キャラ文芸
<第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。応援ありがとうございました!> 宮廷で史書編纂事業が立ち上がると聞き、居ても立ってもいられなくなった歴史オタクの柳羅刹(りゅうらせつ)。男と偽り官吏登用試験、科挙を受験し、見事第一等の成績で官吏となった彼女だったが。珍妙な仮面の貴人、雲嵐に女であることがバレてしまう。皇帝の食客であるという彼は、羅刹の秘密を守る代わり、後宮の悪霊によるとされる妃嬪の連続不審死事件の調査を命じる。 しかたなく羅刹は、悪霊について調べ始めるが——? 「歴女×仮面の貴人(奇人?)」が紡ぐ、中華風世界を舞台にしたミステリ開幕!

芙蓉は後宮で花開く

速見 沙弥
キャラ文芸
下級貴族の親をもつ5人姉弟の長女 蓮花《リェンファ》。 借金返済で苦しむ家計を助けるために後宮へと働きに出る。忙しくも穏やかな暮らしの中、出会ったのは翡翠の色の目をした青年。さらに思いもよらぬ思惑に巻き込まれてゆくーーー カクヨムでも連載しております。

処理中です...