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O Holy Night
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誰だって恋に落ちる……月が、微笑むのを見れば。
【太陽と月の終わらない恋の歌 O Holy Night 7.】
酒を一瓶買ってくれれば馬を貸してやるという酔った男がいたので、ダヴィッドはその男に小銭を突き出し、リーの為の馬を用意した。
「まさかこんな夜中に、馬で駆けることになるとは……」
ぶつぶつ文句を呟きながら馬にまたがるリーを差し置いて、一足先に愛馬を駆けさせたダヴィッドは、友人を振り返って声を上げた。
「早くしろ! いいから、急いでくれ!」
そして、薄暗い路地へ馬を駆っていく。
もともと全体的に黒っぽいダヴィッドの容姿──漆黒の髪と瞳──は、すぐに闇にまぎれていった。
リーは観念して手綱を引き、慣れない乗り手相手に哀れっぽくいなないて首を振っていた馬を叱咤すると、ダヴィッドの後を追った。
二人の男がサイデン邸に着いたのは、やっと朝日のまどろみが始まろうという時間だ。
ダヴィッドは、屋敷の入り口が見えるなり、馬を乗り捨てるように飛び降りて玄関へ駆けあがった。少し遅れて辿り着いたリーも、手早く馬を降りてダヴィッドにならう。感心なことに、木々も眠ろうというこの時間にも、サイデン家の執事は主人を迎えるために玄関まで下りてきていた。
「それで、あれの様子は?」
足を止めようともせず、ずんずんと中に入りながらダヴィッドは尋ねた。
「まだ息はありますが……なにぶん、私たちでは出来ることも限られています。女中が着替えをさせ、部屋を出来るだけ暖かくしていますが、薄めた紅茶を飲ませようとしても、受けつけなくて」
執事が答え終わるまえに、ダヴィッドはすでに大エントランスを抜け階段を上りはじめていた。
さすがの執事も、呆気にとられた顔で棒立ちになったまま、ダヴィッドの背中を見送っている。リーとて同じだ。途中自宅に寄って調達してきた診察道具の入ったかばんを腕にさげたまま、豪奢で広いエントランスに立ちつくした。
執事は、リーの存在に気がつくと頭を下げて挨拶した。
「あなたが医師の方でしょうか」
「ついでに、ダヴィッドの古い友人でもあるんだけどね。あんな彼は初めて見るんで、本当にあれが僕の知っているダヴィッドかどうか、あまり自信がなくなってきたな」
「私もですよ。バトラーと申します」
「リー・レジェ医師だ。さぁ、僕も患者のところへ案内してもらおうか……ダヴィッドは僕を置いて先に行っちゃったからね」
ダヴィッドは混乱していた──とりあえず、その自覚だけは、あった。
冬、裏路地に暮らす孤児が凍え死ぬのは、けっして珍しい出来事ではなく、ダヴィッドは誰よりもそれをよく知っているはずだった。実際にその不幸を何度も見てきたし、自分自身がそうなりかけたことだってある。
しかし、今感じている焦りは、そんな過去の経験とはまったく異なっていた。
たった一度、瞳を覗きこんで見ただけの薄汚れた少女。
土まみれで、泥水に濡れていて、垢の匂いさえするような孤児。
それに、どうして一体、ここまで心を揺さぶられるのだろう? 答えはみつからなかったし、その理由を考え込んでいる余裕もなかった。
白い石膏造りの階段を二段飛ばしで駆け上がると、ダヴィッドは早足で寝室へ向かい、扉を開け放った。
最初にダヴィッドを振り返ったのは、女中だ。
ダヴィッドの黒髪は振り乱され、霧のせいか、汗のせいか、額に乱雑に張り付いている。彼を見た彼女が怯えるような表情を見せたのも、無理からぬことだった。
「おかわいそうに、とても息苦しいようです。いくら飲ませようとしても駄目で……」
「見せてくれ」
ダヴィッドがベッド脇へ進むと、女中は一歩下がってダヴィッドに場所をゆずった。
「医者を呼んできた」
と、ダヴィッドはかすれた声で言った。誰に対して言っているのか、自分でも分からなかったが。「きっと助かる……もう少し頑張ってくれ」
少女は目を閉じていた。
タオルで清めたものの、肌にはまだ汚れが残っている。長い金髪は枕に流れて、燭台の明かりを受けて鈍く輝いていた。ぶかぶかの白い寝着と厚いシーツに包まれた姿は、ひどく小さく、儚げに見える。
そして、小刻みに紡がれる、かすれた呼吸が聞こえる。
少女のものだ。
喉に息が引っかかるような、つまった声が時々して、あまり容態がよくないのを感じさせた。
「リー! さっさと上がって来い!」
招いた客を置き去りにしたのは自分なのにも関わらず、ダヴィッドは廊下に向かって声を張り上げた。しばらくするとバトラーに案内されたリーが寝室へ入ってくる。
すぐにダヴィッドの隣へ向かったリーは、黒い鞄を足元に置いて、ベッドの上を覗き込む。
「この子かい? またひどいのを連れ帰ってきたな……肺炎を起こしてるかもしれないぞ」
そう言って枕元にひざまずいたリーは、手早く鞄を開けて、聴診器を取り出す。
イヤピースを耳にあて、黒いチューブの先にある吸盤のようなものを少女の胸元へ滑り込ませた。
しばらくの沈黙。
リーが黙って難しい顔をしているので、ダヴィッドは声を落として、少女についてぼんやりと分かっている数少ない情報を与えた。
「四日間、外を彷徨ってたはずだ。それまで外の暮らしはしたことがなかったと思う」
「…………」
「俺が見つけたとき、ずいぶん濡れてた。多分、川に落ちたか、誰かに水を掛けられたんだろう」
お腹を空かせて商店からパンを盗ろうとした少女が、店番に見つかって水をかぶせられる……そんな場面が想像できた。そんな……なじみのある光景が。
リーは聴診器を耳から外すと、短い溜息をついて、背後に控えていた女中にいくつかの物を持ってくるようにと指示を与えた。清潔なタオル、水桶、湯、蜂蜜……。ダヴィッドは黙ってそれを聞いていた。
「助かるのか?」
自分の声が自信なげにかすれているのを、ダヴィッドは感じた。
立ち上がったリーは、同じく立ったまま眉間に皺を寄せているダヴィッドと視線を交わす。
「『助かる』んじゃない、『助ける』んだ。僕はそのために医者になったんだからな」
リーはそう答えた。
それから三日間。
夜が異常に長く、そして昼が異様に短く感じる日々が続いた。
その頃には、女中が探り出したロケットに彫られていた文字から、少女は「マノン」と呼ばれていた。マノン・オルフェーヴル。
マノンはあれから高熱を出し続け、リーか、ダヴィッドか、例の女中が四六時中付きっきりで看病を続けていた。
助かるか、助からないか……。
二つの可能性に振り続ける天秤にかけられた小さな命を、ダヴィッドはどうしても手放せなかった。
いくつかの商談をふいにしたが、気にならなかった。
もしそれで彼女を助けられるなら、ダヴィッドは喜んで一財産手放しただろう。
そして、四日目の夜だった。
やっとマノンの熱がほんの少し下がりはじめ、回復の兆候を見せ始めたのは。
「まったく、なんてお嬢さんだ!」
疲れと喜びの混じった微笑を浮かべつつ、リーが叫んだ。「僕やダヴィッドのような大の男を、三日三晩も右往左往させて惑わしたんだからな」
近いうちに目を覚ますだろうといわれたマノンの周りを、ダヴィッドは落ち着きなくうろうろとしていた。そんな彼を、檻に入れられた虎のようだとリーはからかった。
実際、ダヴィッドは自分の落ち着きのなさの理由が分からなかった。
もうすぐ、あの瞳を──あの、満月のように大きく輝く瞳を見られると思うと、どうにも心が落ち着かなくなる。たんなる期待とも、純粋な喜びとも違う、不可思議な躍動が胸をかき乱した。
(ただの子供だ)
ダヴィッドは何度か心の中で繰り返した。
(ただの子供なんだよ。家まで連れ帰ったのがはじめてだから、焦るだけだ)
すると、なぜかこうして言い訳がましいことを考えている自分に気が付く。
マノンのため、いつもの冬より温かくしてある寝室が、いっそうダヴィッドの落ち着かない気分を増長した。
そして、五日目の夕方。
始まりは、小さな、聞きなれないけれど心地良い、少女の声だった。
「う……ん……」
という呟きが聞こえて、ちょうど暖炉の火を調節していたダヴィッドは、何かに弾かれたようにベッドの方を振り返った。「マノン?」
ダヴィッドはベッドへ近付くと、大柄な背をわずかに屈めて、マノンを覗き込んだ。
長い睫毛に縁取られた瞳が震えて、何度かまたたきを繰り返す。
同時に、少女らしい小さな唇が、何かを求めるように動かされる。
ダヴィッドはそれらを、息を呑んで見守っていた。
そして、マノンは目を開いた──ゆっくりと、まどろみながら。
「マノン」
ダヴィッドはもう一度彼女の名を呼んだ。
彼の前に再びうっすらと現れた大きな瞳は、ハシバミ色にも見えたし、蜂蜜色にも見えて、頬の周りに遊んでいたくすんだ金髪と綺麗に調和していた。
そして、しばらく宙を彷徨ったあと、彼女の瞳は静かにダヴィッドを見据えた。
【太陽と月の終わらない恋の歌 O Holy Night 7.】
酒を一瓶買ってくれれば馬を貸してやるという酔った男がいたので、ダヴィッドはその男に小銭を突き出し、リーの為の馬を用意した。
「まさかこんな夜中に、馬で駆けることになるとは……」
ぶつぶつ文句を呟きながら馬にまたがるリーを差し置いて、一足先に愛馬を駆けさせたダヴィッドは、友人を振り返って声を上げた。
「早くしろ! いいから、急いでくれ!」
そして、薄暗い路地へ馬を駆っていく。
もともと全体的に黒っぽいダヴィッドの容姿──漆黒の髪と瞳──は、すぐに闇にまぎれていった。
リーは観念して手綱を引き、慣れない乗り手相手に哀れっぽくいなないて首を振っていた馬を叱咤すると、ダヴィッドの後を追った。
二人の男がサイデン邸に着いたのは、やっと朝日のまどろみが始まろうという時間だ。
ダヴィッドは、屋敷の入り口が見えるなり、馬を乗り捨てるように飛び降りて玄関へ駆けあがった。少し遅れて辿り着いたリーも、手早く馬を降りてダヴィッドにならう。感心なことに、木々も眠ろうというこの時間にも、サイデン家の執事は主人を迎えるために玄関まで下りてきていた。
「それで、あれの様子は?」
足を止めようともせず、ずんずんと中に入りながらダヴィッドは尋ねた。
「まだ息はありますが……なにぶん、私たちでは出来ることも限られています。女中が着替えをさせ、部屋を出来るだけ暖かくしていますが、薄めた紅茶を飲ませようとしても、受けつけなくて」
執事が答え終わるまえに、ダヴィッドはすでに大エントランスを抜け階段を上りはじめていた。
さすがの執事も、呆気にとられた顔で棒立ちになったまま、ダヴィッドの背中を見送っている。リーとて同じだ。途中自宅に寄って調達してきた診察道具の入ったかばんを腕にさげたまま、豪奢で広いエントランスに立ちつくした。
執事は、リーの存在に気がつくと頭を下げて挨拶した。
「あなたが医師の方でしょうか」
「ついでに、ダヴィッドの古い友人でもあるんだけどね。あんな彼は初めて見るんで、本当にあれが僕の知っているダヴィッドかどうか、あまり自信がなくなってきたな」
「私もですよ。バトラーと申します」
「リー・レジェ医師だ。さぁ、僕も患者のところへ案内してもらおうか……ダヴィッドは僕を置いて先に行っちゃったからね」
ダヴィッドは混乱していた──とりあえず、その自覚だけは、あった。
冬、裏路地に暮らす孤児が凍え死ぬのは、けっして珍しい出来事ではなく、ダヴィッドは誰よりもそれをよく知っているはずだった。実際にその不幸を何度も見てきたし、自分自身がそうなりかけたことだってある。
しかし、今感じている焦りは、そんな過去の経験とはまったく異なっていた。
たった一度、瞳を覗きこんで見ただけの薄汚れた少女。
土まみれで、泥水に濡れていて、垢の匂いさえするような孤児。
それに、どうして一体、ここまで心を揺さぶられるのだろう? 答えはみつからなかったし、その理由を考え込んでいる余裕もなかった。
白い石膏造りの階段を二段飛ばしで駆け上がると、ダヴィッドは早足で寝室へ向かい、扉を開け放った。
最初にダヴィッドを振り返ったのは、女中だ。
ダヴィッドの黒髪は振り乱され、霧のせいか、汗のせいか、額に乱雑に張り付いている。彼を見た彼女が怯えるような表情を見せたのも、無理からぬことだった。
「おかわいそうに、とても息苦しいようです。いくら飲ませようとしても駄目で……」
「見せてくれ」
ダヴィッドがベッド脇へ進むと、女中は一歩下がってダヴィッドに場所をゆずった。
「医者を呼んできた」
と、ダヴィッドはかすれた声で言った。誰に対して言っているのか、自分でも分からなかったが。「きっと助かる……もう少し頑張ってくれ」
少女は目を閉じていた。
タオルで清めたものの、肌にはまだ汚れが残っている。長い金髪は枕に流れて、燭台の明かりを受けて鈍く輝いていた。ぶかぶかの白い寝着と厚いシーツに包まれた姿は、ひどく小さく、儚げに見える。
そして、小刻みに紡がれる、かすれた呼吸が聞こえる。
少女のものだ。
喉に息が引っかかるような、つまった声が時々して、あまり容態がよくないのを感じさせた。
「リー! さっさと上がって来い!」
招いた客を置き去りにしたのは自分なのにも関わらず、ダヴィッドは廊下に向かって声を張り上げた。しばらくするとバトラーに案内されたリーが寝室へ入ってくる。
すぐにダヴィッドの隣へ向かったリーは、黒い鞄を足元に置いて、ベッドの上を覗き込む。
「この子かい? またひどいのを連れ帰ってきたな……肺炎を起こしてるかもしれないぞ」
そう言って枕元にひざまずいたリーは、手早く鞄を開けて、聴診器を取り出す。
イヤピースを耳にあて、黒いチューブの先にある吸盤のようなものを少女の胸元へ滑り込ませた。
しばらくの沈黙。
リーが黙って難しい顔をしているので、ダヴィッドは声を落として、少女についてぼんやりと分かっている数少ない情報を与えた。
「四日間、外を彷徨ってたはずだ。それまで外の暮らしはしたことがなかったと思う」
「…………」
「俺が見つけたとき、ずいぶん濡れてた。多分、川に落ちたか、誰かに水を掛けられたんだろう」
お腹を空かせて商店からパンを盗ろうとした少女が、店番に見つかって水をかぶせられる……そんな場面が想像できた。そんな……なじみのある光景が。
リーは聴診器を耳から外すと、短い溜息をついて、背後に控えていた女中にいくつかの物を持ってくるようにと指示を与えた。清潔なタオル、水桶、湯、蜂蜜……。ダヴィッドは黙ってそれを聞いていた。
「助かるのか?」
自分の声が自信なげにかすれているのを、ダヴィッドは感じた。
立ち上がったリーは、同じく立ったまま眉間に皺を寄せているダヴィッドと視線を交わす。
「『助かる』んじゃない、『助ける』んだ。僕はそのために医者になったんだからな」
リーはそう答えた。
それから三日間。
夜が異常に長く、そして昼が異様に短く感じる日々が続いた。
その頃には、女中が探り出したロケットに彫られていた文字から、少女は「マノン」と呼ばれていた。マノン・オルフェーヴル。
マノンはあれから高熱を出し続け、リーか、ダヴィッドか、例の女中が四六時中付きっきりで看病を続けていた。
助かるか、助からないか……。
二つの可能性に振り続ける天秤にかけられた小さな命を、ダヴィッドはどうしても手放せなかった。
いくつかの商談をふいにしたが、気にならなかった。
もしそれで彼女を助けられるなら、ダヴィッドは喜んで一財産手放しただろう。
そして、四日目の夜だった。
やっとマノンの熱がほんの少し下がりはじめ、回復の兆候を見せ始めたのは。
「まったく、なんてお嬢さんだ!」
疲れと喜びの混じった微笑を浮かべつつ、リーが叫んだ。「僕やダヴィッドのような大の男を、三日三晩も右往左往させて惑わしたんだからな」
近いうちに目を覚ますだろうといわれたマノンの周りを、ダヴィッドは落ち着きなくうろうろとしていた。そんな彼を、檻に入れられた虎のようだとリーはからかった。
実際、ダヴィッドは自分の落ち着きのなさの理由が分からなかった。
もうすぐ、あの瞳を──あの、満月のように大きく輝く瞳を見られると思うと、どうにも心が落ち着かなくなる。たんなる期待とも、純粋な喜びとも違う、不可思議な躍動が胸をかき乱した。
(ただの子供だ)
ダヴィッドは何度か心の中で繰り返した。
(ただの子供なんだよ。家まで連れ帰ったのがはじめてだから、焦るだけだ)
すると、なぜかこうして言い訳がましいことを考えている自分に気が付く。
マノンのため、いつもの冬より温かくしてある寝室が、いっそうダヴィッドの落ち着かない気分を増長した。
そして、五日目の夕方。
始まりは、小さな、聞きなれないけれど心地良い、少女の声だった。
「う……ん……」
という呟きが聞こえて、ちょうど暖炉の火を調節していたダヴィッドは、何かに弾かれたようにベッドの方を振り返った。「マノン?」
ダヴィッドはベッドへ近付くと、大柄な背をわずかに屈めて、マノンを覗き込んだ。
長い睫毛に縁取られた瞳が震えて、何度かまたたきを繰り返す。
同時に、少女らしい小さな唇が、何かを求めるように動かされる。
ダヴィッドはそれらを、息を呑んで見守っていた。
そして、マノンは目を開いた──ゆっくりと、まどろみながら。
「マノン」
ダヴィッドはもう一度彼女の名を呼んだ。
彼の前に再びうっすらと現れた大きな瞳は、ハシバミ色にも見えたし、蜂蜜色にも見えて、頬の周りに遊んでいたくすんだ金髪と綺麗に調和していた。
そして、しばらく宙を彷徨ったあと、彼女の瞳は静かにダヴィッドを見据えた。
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