太陽と月の終わらない恋の歌

泉野ジュール

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O Holy Night

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 ちらちらと雪が降り始めていたのに、ダヴィッドはすぐには気が付かなかった。

 肌に触れる空気が鋭く冷えきっていて、すべての吐く息を白い煙に変える。雪が降り始めるほどだから、当然、今までにも増して冷え込む夜だった。

 よりにもよって、こんな夜に。
 ダヴィッドの宝物は彼の手をすり抜け、魑魅魍魎が跋扈するルザーンの街を一人さまよっているのかもしれないのだ。しかも、こんな深夜になるまで。

 ダヴィッドは軽く発狂気味だった。
 乗り潰してしまうのではないかというほどの勢いで愛馬を駆り、屋敷から郊外へ繋がる道を走った。街の中心と違い、このあたりの夜はほとんどひと気がなく、しんと静まり返っている。

「マノン、どこだ!」
 ダヴィッドの叫びは、大砲が爆発し弾を放つほどの勢いで周囲に響いた。
「マノン! 返事をしろ!」
 しかし返事はない。

 人の気配もなく、ただダヴィッドの怒声に応えるような野犬の遠吠えが一つ夜空に響いただけだった。それでもダヴィッドは叫び続けた。そうしないと本当に気が狂ってしまいそうだった。

 心臓が痛いほど強く脈打つ。

 それでも、いつまで経っても彼女が見付からないと分かると、不安はさらに膨れ上がった。時が経つにつれ、想像は悪い方へ転がり出して止まらない。ああ、まさか自分の意思で逃げ出したわけではなく、また誰かに連れ去られていたのだろうか。

 間違って森に迷い込み野犬に襲われて……。
 貧困街へまぎれこんで暴力の餌食に……。

「マノン……!」
 いつしか声は枯れだし、ダヴィッドの叫びは擦り切れるような響きに変わっていった。

「返事をしてくれ! 俺にもう一度、お前を見つけさせてくれ……!」

 叫びきると、ダヴィッドは夜空を仰いだ。
 その時やっと、ダヴィッドは雪の存在を意識した。はらり、はらりと、今はまだ儚げに散る白い粉が空を舞い、地面にうっすらと層を作りはじめている。

 肩を上下させながら息をするダヴィッドの口元から、湯気のように浮かぶ白い蒸気。
 雪は、目に染み入るような白をしていた。

(違う……)
 マノンはここにはいない。

 どうしてそう思うのか、説明するのは難しかったが、しかし本能がダヴィッドにそう告げてきた。雪雲に覆われた空に、見えない月を探す。手探りの探索の中で、本能は確かに一つの指針だった。

(ここから街中へ戻る道は二つに分かれている)

 静かに降りしきる雪の情景になぐさめられてか、いくぶん落ち着きを取り戻し始めたダヴィッドは、肩で息を繰り返しながら冷静に状況を把握しようと考えを巡らせた。

 もし、マノンが本当にダヴィッドに会いたくて逃げ出したのだとして。
 ポーリンの牧場のある郊外へ抜ける道は、ダヴィッドの住むルザーン西地区から出る道と、北地区から出る道とがある時点で繋がって伸びている。つまり、マノンがルザーンに戻ろうとすれば、どこかで二通りの道から一つ選ばなければいけなくなるのだ。

 道に不案内なはずの彼女が、正しく西地区へ伸びる道を選ぶとは限らない。実際、ダヴィッドは今ここを通ってきたのに、マノンの形跡は何一つなかった。

 だとすれば、間違って北地区へ入っていった可能性は高い……。
(北か)
 そうと考えが定まれば、ダヴィッドの行動は早かった。慣れた動きで手綱を操ると、粉雪に彩られ始めた夜道を一直線に駆け抜けた。雪は視界をさえぎり、肌を凍らせたが、ダヴィッドを止めることはできなかった。

 今は、奇跡を願おう。
 この広い世界の中で、運命の相手に出逢える奇跡を。そうだ、あの夜マノンを見つけたのは最初の奇跡だった。

 今夜、二度目の奇跡を起こしてみせる。



 雪を、「天からの手紙」とよぶ者もいる。

 この詩的な表現を最初に考え付いたのは、間違いなく浮世離れした詩人かなにかで、雪の夜に馬を駆ったことなどなかった人物に違いない。

 皮製の手袋をはめているとはいえ、早駆けをし続けたダヴィッドの手は少しずつ悴かじかみはじめていた。肺が冷たい空気を受け入れすぎて、ぴりぴりと痛みはじめる。
 雪は天の無情な答えだった。昔からそうだ。
 今さらその答えが変わることもない。

 あれからダヴィッドは方向を変え、マノンが間違って選んだかもしれないルザーンの北へ入る道を進んだ。途中、まだ明かりの灯った民家が一つ、二つあったので、心当たりがないかどうか聞いて回ったが、それらしい手がかりは何も掴めなかった。

 素晴らしい。もう何キロ馬を駆ったかも覚えていない。
 いくら駆けても疲れは感じなかったが、絶望に似た空虚がダヴィッドの胸をじわじわと襲い、蝕んでいった。

 それでも、くじけているわけにはいかなかった。

 マノンもまた、同じ不安と戦っているはずだ。探しても探しても見つからない相手の名を呼んで喉を枯らし、冷たい雪に耐え、消えそうになる希望の光をそっと守りながら……太陽が昇るのを待っている。
 きっと。



 ダヴィッドがとある行商人の後ろ姿を道影に見つけたのは、ルザーンの北地区内に入ってからだった。

 一頭の、あまり若いとは思えない鹿毛馬に荷物いっぱいの荷台をつけて、本人は御者台で背を曲げながら手綱を握っている。馬が疲れているのか、乗り手が疲れているのか、その両方か。
 とにかく、歩いているのとほぼ変わらない速度で、雪に降られながらのろのろと道の端を進んでいる。

 ダヴィッドはすぐに追いついて、荷台の横にぴたりとついた。

「失礼する。人を探しているのだが。九歳ほどの、金髪の少女だ」

 ダヴィッドは行商人に声を掛けた。行商人は背を曲げたまま、ちらりと横目でダヴィッドを見上げると、うさんくさそうに目を細めた。

 それほど年寄りには見えないのに、髪はほとんど真っ白という年齢不祥な男だ。商人独特の抜け目のなさが匂ってくるような雰囲気でもあった。ただ幸い、ダヴィッドは連中との綱渡りの仕方をよく知っている。
 行商人はふんと短く鼻をならした。

「そんな娘っこは、ルザーンに行けばいくらでもいるだろうよ」
「昼間ならそうだろう。しかし、この時間に郊外から街へ入る道をうろついているのは、少ないはずだ」

 ダヴィッドが多少強気に出ると、行商人はダヴィッドに顔を向けてじろじろと眺めた。

 値踏みされているのだということは、すぐに分かった。相手がどれだけ払えるかを計算している濁った目が、ダヴィッドに無遠慮に向けられている。
 実際、ダヴィッドはいくらでも払えそうだった。問題は、この行商人がダヴィッドの欲しいものを持っているかどうか……だ。

「確かに、そんな娘っこがいたな……。長い、くすんだ感じの金髪で、たいそう綺麗な顔をした子だったよ」
「それだ」
 ダヴィッドは即座に答えた。

「どこで見かけた? いつ頃、どこに居たのを見たんだ?」
「旦那、この通り、俺は行商人なんでね。売れるものは魂でも売るんだ。情報はただじゃないな」

 うっすらと肩に雪をかぶった行商人は、そう言って親指を他の指とこすり合わせる仕草をして見せた。金を出せ、というサインだ。

 普段のダヴィッドがここで素直に従うことはまずないが……今は話が違う。
 ダヴィッドは外套の内ポケットを探り、見つけた何枚かの十ルビー札を差し出した。どちらも馬を歩かせたままだったが、行商人は素早く金を受け取った。

「実は、旦那が探してるらしい娘は、そう遠くない前までこの荷台に乗ってたんだよ」
 十ルビー札を器用に懐に収めながら、行商人は言った。「どこからか急に現れてなぁ、ルザーンまで乗せてくれって言うんでな」
「それで、彼女を降ろしたのはいつで、どこなんだ」
「もう二十ルビーくらいあれば、俺みたいな老いぼれの口も滑らかになるだろうね」

 ダヴィッドは舌打ちをしたが、もう一度言われた金額を差し出した。

 その時、ダヴィッドは自分にあまり持ち合わせがないことに気がついた。現金などいちいち用意する暇もなく飛び出してきていたのだ。早くこの茶番劇を終わらせなければ、まずいことになりそうだった。

「ルザーンまでだというんで、ルザーンに入ったところで下ろしたよ。ダヴィッドの家とやらに行きたいと言うんだが、そんな名前はいくらでもあるから知らんといったら、自分で探すと言ってね」
 そこまで言うと、行商人はくっと乾いた笑いを洩らした。
「……あんたがそのダヴィッドなんだろう?」

「答えが聞きたければ、それなりの値段を払うんだな」
「はは! 俺から金をとるのは、尼さんにスカートをめくらせるより難しいだろうよ。しかしいい挑戦だ」
「もういい。ルザーンの入り口辺りだな」

 ダヴィッドはすでにその辺りを通っていたが、もしかしたら見落としたのかも知れない。どこか裏路地に入ってしまって見つけられなかったというのもあり得る。どちらにしても、マノンの足ならそう遠くまでは行けないはずだ。

「旦那、いいものがあるよ」
 ダヴィッドが馬の向きを変えようとしたとき。
 行商人は唐突にそう言って、腰元にあった布袋から、シャラリと音のする貴金属を取り出して掲げた。

 マノンのロケットだった。

 例の、中に名前が彫ってあった、彼女の父親が作ったというロケットだ。ダヴィッドがこれを彼女に返しただけで、すっかり信頼を勝ち取った、あの……。

「荷台に乗せるのも、ただってわけにはいかなくてね」

 ああ、マノンはこの、今にもバラバラに崩れ落ちそうなぼろ荷台に乗るために、父親との思い出の品を強欲な行商人に差し出さなければいけなかったのだ。それを思うと、ダヴィッドの顔は後悔で歪んだ。

「もちろん俺は行商人だが、悪魔じゃねぇ。金も必要だって言うんで、ちゃんとこれと引き換えに渡したさ。運賃を差し引いてだけどね」
「買い取ろう。いくらだ」
「三百ルビー」

 行商人は法外な値段を提示してきた。ダヴィッドは再び内ポケットを探ったが、言い値の半分もない。

「物でいいさ、旦那の手袋は皮製だろう?」

 ダヴィッドの足元を見た行商人は、上質な衣類に目を付けてきた。

「ついでにその温かそうな外套を渡してくれれば、商談成立だ」
「ふざけるな、手袋だけでも釣りがくるはずだ!」
「文句があるならこの話はおしまいだな」
「…………っ」

 ダヴィッドは焦っていた。
 そうでなければ、さっさとこの強欲男を縛り上げて、ロケットを奪っていたところだ。しかしダヴィッドはそうするかわりに、手袋を抜き取り、外套を外して、苦々しげにそれらを男の荷台へ投げつけた。

「さあ!」
 声を上げたダヴィッドに、行商人は勝利の笑みを隠そうともせず、ロケットを差し出した。ダヴィッドはそれを無言でもぎ取る。

 怒れる古代の戦士のような形相をしたダヴィッドを横目に、行商人はかぶっていた帽子を軽く外して、うやうやしく言った。

「よい聖誕祭を、旦那」

 雪は、静かに降り続けていた。
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