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【乃亜の章】
厩舎にて①
数分後──。
最初こそぎこちなくはじまった乗馬は、次第に乃亜の緊張を解いていった。
頬を撫でる風。
視界を流れていく雄大な景色。
チャンピオンが大地を蹴るたびに跳ねる身体の揺れさえも、慣れてくると楽しくなっていった。
乃亜は歓喜を抑えきれずに「わあっ」と声を漏らしながら、荒野を吹き抜ける風と一体になる感覚に身を任せた。
曾祖母にコロラドの牧場行きを頼まれたとき、乃亜はこんな喜びを期待してはいなかった。きっと退屈なばかりで、虫が沢山いて、用事だけすませたら一目散に都市部に戻ろうと……。
「すごい、すごい……っ、ダグ──ミスター・マクブライト、すごいです! 最高!」
とはいえ、乃亜の興奮にダグラスはこれといった反応を示さなかった……のだと思う。「手を離すな」とか「前を向いて」といった指示やお叱りを背後からささやかれた以外、ダグラスは乃亜の背後で鉄壁の守りに徹した。
どこがはじまりで、どこが終わりかわからないくらい広大な敷地を駆け抜けると、視界の先にいわゆる厩舎が入ってきた。
中央だけ屋根が高くて、左右に広がっている木造建築だ。周囲はぐるっと丸太の柵で囲まれている。
柵に近づくと、ダグラスは乃亜を馬上に残してすとんと地上に降りた。その動きを見るのは二度目だけれど、やはり見惚れてしまう。自分が彼のように優雅に降りられる自信は……ない。
まったく。
「あなたはここで寝泊まりしているの、チャンピオン?」
ダグラスが降りてしまったので、乃亜はひとりでチャンピオンのたてがみを撫でながらささやいた。
おそらくこの馬は英語を理解している。
チャンピオンは問いを肯定するように首を縦に振るのと同時に、尻尾をブンブンと派手に振った。
ダグラスが手綱を引いて、乃亜を乗せたチャンピオンを厩舎へといざなう。
動物の匂いがした。獣の匂い。
チャンピオン単体から発せられるよりもずっと強い、牧草や藁や、馬糞の匂いが混じった、もっとこう……総合的な動物の生活臭。
厩舎の入り口に立つと、ダグラスはチャンピオンを止めて乃亜に手を伸ばした。降りるのを手伝ってくれるのだと気づいて、その手に甘えることにした。
もちろんダグラスのような優雅さはなかったけれど、なんとか無事に降馬に成功した。
「ひゃあっ」
足が地面についた途端に、足元に散らばった干し草に滑って転びそうになる。ダグラスはそれを予測していたのか、乃亜の二の腕をしっかり掴んでくれていたので、みじめな転倒は回避できた。
「あ……りがとうございます、ごめんなさい」
乃亜がきちんと立ったのを確認すると、ダグラスは半分しか開いていなかった厩舎の入り口を全開にした。スライディングドアになっていて、車輪がゴロゴロと音を立てて横に開く。
「わぁ……すごい、いっぱい……」
厩舎の中には数え切れないくらいの馬がいた。
いや、数え切れないというのは大袈裟かもしれない……パッと見ただけでも三十……もしかしたら四十頭くらいいるだろうか。
ダグラスと乃亜の方に顔を向けている個体もいれば、そんなことはお構いなしに足元の干し草を食み続けているのも少なくない。
でもどの馬も光沢のある毛並みが美しかった。
「足元に気をつけてくれ。その靴じゃここは歩きづらいはずだ」
「はい……」
正直、運動靴で歩きづらい場所というのは想像がつかなかった。だって歩くための靴なのに。
とはいえ、さすがにここではダグラスの言に従うのが賢いらしいことを学びはじめていたので、乃亜は大人しく足元に注意しながら進むことにした。
厩舎の中は鉄パイプのようなものでできた低い柵で個々の馬を分けて住まわせている個所と、背の高い板で個室のように分けている区画がある。
ダグラスはチャンピオンを低い柵の方に入れた。
「乗せてくれてありがとう……チャンピオン。素晴らしい体験だったわ。また今度も乗せてくれる?」
チャンピオンの返事は、鼻水っぽい粘液が掛かってきそうなくらい激しい鼻息だった。ブホッ。
「もうっ。それはイエスね、そうでしょう?」
粘液っぽいものを手で払いながらチャンピオンに向かって微笑むと、乃亜はダグラスに向き直った。「そうですよね?」
「そうらしいな。ただ、ひとりで乗るのはおすすめしないよ。こいつは好き嫌いが激しい」
「へえ……そんな感じはしませんでしたけど、そう仰るなら」
どちらかといえば、好き嫌いが激しいのはチャンピオンよりその馬主の方では? と言いかけたのを飲み込む。
別にダグラスと口論をするためにここに来たわけではないのだ。乃亜には目的がある。この牧場の手伝いをするという目的が。
「さあ、なにをすればいいんですか? なんでもできます。馬の歯磨きだってしますよ」
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