二度目の永遠 ~ある夏にコロラドで見つけた牧場主との運命の恋~

泉野ジュール

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【乃亜の章】

「君の言う通りのようだな」

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 風が乃亜の髪を揺らす。
 土と草の香りが鼻腔を満たして、乃亜の中に眠っていたなにかを目覚めさせた。

 ──どうして運命は乃亜をこの土地に導いたのだろう?
 曾祖母春子ではなく、乃亜を。

 半世紀以上昔に儚く消えた夢を叶えるみたいに、おそらくウィリアムの死期を前にして、乃亜だけを。乃亜はどうすればいいんだろう。
 本当に、手紙を渡しただけで、去ればいいの?
 あまりにも壮麗たる地を目にしているからだろうか。こんなふうに感傷的になるのは。

 意味なんてないかもしれないのに。
 運命なんてただの偶然かもしれないのに。

 でも、逃げるわけにはいかなくて。立ち向かうにはまだ心もとなくて。どうしていいかわからない……。答えが欲しい。

「いけない……ダグラスさんを探すんだった……」
 日本語でつぶやいた乃亜は、両手で涙の跡を拭うと牧場を歩き出した。

 ああ、日差しが強い。
 あのカウボーイハットが欲しい。
 やっぱりあれは他のものと同じく、実用性に優れた装備だったんだ……。

 よく考えれば、まったく土地勘のない乃亜がこの広大なスプリング・ヘイブン牧場をほっつき歩いても、得られるものはほとんどない。
 でもなぜか、乃亜はダグラスを探さなければならない気がした。
 もしかしたら凶暴なクロコダイルに襲われているかもしれないカウボーイを救わないと。乃亜がどこまでクロコダイルと戦えるかはわからないが、ダグラスひとりよりは、ふたりで協力した方が有利かもしれないし……。

 ドッ、ドドッ、ドッ、と規則的でいて機械音とは違う、馬の蹄が大地を蹴る音が響いてきたのは、しばらく経ってからだった。

 間違いなく馬のギャロップだけど、穏やかだったチャンピオンのそれとは違う。圧倒的に力強くて、荒い飛躍の響き。
「あ……」
 ダグラスだった。

 例の漆黒の駿馬に跨り、乃亜をチャンピオンに乗せたときとは明らかに違う厳しい顔つきと躍動する姿勢で、こちらに向かって駆けてくる。

「ノア!」
 風に乗ってダグラスの叫びが大地にこだまする。「そこをどけ! 早く! どくんだ!」
「え」

 乃亜の立つ牧草地はとにかく広くて平らで、「どく」と言ってもどこへ移動するべきか判断しかねた。いくらか避けたところで、なにか違いがあるだろうか? まだ一度乗っただけだが、もしチャンピオンならきっと向こうから避けてくれるはず……。

 しかし、漆黒の馬はすごい勢いで一直線に乃亜を目指して駆けてくる。
 それはまるで赤い布に向かって突進してくる闘牛の雄牛……。

 ──本当だ、これはまずい!
 と、自覚に至ったとき、馬はすでにかなり接近していた。
 乃亜は渾身の力で横に飛び跳ねた。そのまま勢いで草の上を数回、回転する。

 馬はすぐに方向転換はできないらしく、まさに乃亜の立っていた場所をなぎ倒すように爆走していった。

「……あ……」
 二時間に及ぶ厩舎の掃除で痛んでいた手首も、擦り傷のついた脚も、もう気にならなかった。ドクドクと痛いくらいに心臓が鳴る。

「ノーチェ! どうっ!」
 地面に這うように倒れたままの乃亜は、そんなダグラスの怒声を遠くに聞いた。
 本当に憤怒しているような叫び声だ。彼には何度かきついことを言われたけれど、そんなのはただの甘いささやき同然だった……と思えるくらいに、険しい声が。
 乃亜は恐る恐る顔を上げた。

 もう、立ち上がっても大丈夫だろうか。なにもない牧草地の真ん中に立ったら、また気の立った黒い馬の標的になったりして……。

 というか、ダグラスは大丈夫だろうか?

 それだけはどうしても確認したくて、乃亜は大地の上に膝立ちになってダグラスが走り去った方向に目を向けた。
 彼らは厩舎を目指していたらしく、ダグラスは馬上で青毛の馬を叱咤しながら裏口をくぐろうとしていた。
 とりあえず彼が無事なことに安心して、ひと息つくことができたが、なんだかもう足が震えて立ち上がれない。
「どうしよう……」
 コロラドに来てからもう何度目かわからない涙が、乃亜の目尻に溢れてくる。

 乃亜が考えなしだったことは認める。
 でも東京育ちの乃亜にコロラドの牧場でどう振舞えばいいかなんて、わかるわけがない。少なくとも乃亜には学ぶ意欲はあるのだから、誰かもう少し親切に教えてくれても……。

 まさに試される大地だ。
 二十一世紀でこれでは、曾祖母があのまま移住していたらどうなっていただろう。


 しばらくするとダグラスが厩舎の裏口から出てきた。
 すでに例のチャップスは脱いでおり、あの黒い馬もいない。彼ひとりだ。帽子は被っているけれど、いつものアビエーター・サングラスはしておらず、太陽に目を細めている。

「ノア!」
 ダグラスは遠くから叫んだ。
「は……はい!」
 乃亜も思わず叫び返す。
「無事か?」
「はい……っ!」

 なんの……点呼? 点検? 確認?

 そんな距離の離れたやり取りがあって、やがてダグラスは乃亜の目の前まで辿り着いた。
 なんだかんだ言っても彼が紳士なのは覚えたので、立ち上がるために手を差し伸べてくれるのかと思ったのに、ダグラスがしたのは乃亜の前に片膝をついて、乃亜と視線の高さを合わせることだった。

「どうしてこんなところにいたんだ?」
 なんだかもう、彼は完全に呆れている。

 おそらくダグラスにとって乃亜は未知の生物なのだ。どう扱っていいかわからなくて、とりあえず生態系を調べたいという感じの顔だった。

「……もしクロコダイルと戦うなら、ふたりの方が有利かと思って」
「は?」
「いえ……あの、掃除が終わったのにあなたが戻ってこないので心配になって、もしなにか助けが必要だったらと思って、探しに……」
 ダグラスは首を横に振った。
「近づかないでくれと言っただろう。俺が乗っていたあの黒いのは、馬の皮を被った雄牛なんだ」
「そうみたい……デスネ」
「立てるか? どこか打ったところは?」
「大丈夫です。どちらかというと、その前に鍬と干し草でできたかすり傷の方が痛いくらいで」

 ほら、と。
 どちらかといえば褒めて欲しい気持ちで、手のひらとひじの名誉の負傷をダグラスに見せる。ダグラスは目に見えて身体を固くした。

 そういえば、おでこのフライパンのあざでも、彼は過剰といっていいような反応を見せた気がする。なんだか申し訳ない気持ちになって、乃亜はすぐ手を引っ込めようとした。
 遅かった。
 ダグラスの腕が伸びてきて、乃亜の手を掴む。

「ひゃあっ!」
 変な声が出た。
 だって、だって、だって。
 ダグラスは目蓋を伏せると乃亜の手のひらに唇を寄せた。ちゅ、と肌を吸うような短い音がして、擦り傷の表面に彼の舌が柔らかく這う。
 そんな……!

「消毒をしないと」
 ダグラスはぼそりとつぶやいた。乃亜に対してというより、彼自身に言い聞かせているような口調だった。

「ただのかすり傷ですから……。そんなつもりで見せたわけじゃないの」
「君があそこまで本気で掃除するとは思っていなかった。厩舎の地面には塵ひとつなかったよ。君はその辺のカウボーイの倍は仕事をした」

 ダグラスは乃亜の仕事の成果を褒めて、くくっと短く笑った。
 乃亜は確信を持って胸を反らせて言った。

「コロラドのカウボーイが、掃除のスキルで日本の女子に勝てるわけないんです」
 ダグラスは特に反論はせず、うなずくと乃亜の手を取って立ち上がった。

「君の言うとおりのようだな」
 そう、かすかに微笑んで。
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