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【乃亜の章】
厩舎にて⑤
しおりを挟む本物の美形カウボーイが目の前で腹を抱えて笑う姿を前に、乃亜は怒っていいのか、見惚れていいのかわからなくなって、つい楽な方を選んでしまった。
つまり……ぼうっと呆けながら見惚れる、という方を。
「ははっ、くそ…………こんな」
ダグラスは時々そんなふうにブツブツとつぶやきながら、たっぷり数分は笑い続けた。
身体の大きな彼が発する低音の笑い声は、空気を心地よく震わせる。
その上、彼は例のチャップスを履いていたので、地面に足を折って座っている間も、男性の大事なところが妙になまめかしく目立った。
「……もう。そんなに笑わなくても」
「そうだな、悪かった」
やっと笑うのをやめたダグラスは、いつもの厳しい表情に戻ろうとした……のだと思う。でもあまり成功していなくて、まだ目元は優しく微笑んだままだ。
──もし自分が、春子のひ孫じゃなくて。
ただの男女として出会っていたら、彼はどんなふうに乃亜を扱っただろう? もしかしたらずっとこんなふうに優しくしてくれたのだろうか?
そもそも、このひとはどんなふうに女性と付き合うの?
乃亜の贔屓目かもしれないけれど、ちょっと動悸がするくらい(外見は)素敵なひとだし、年齢だっておそらくまだ三十代だ。あの邸宅はウィリアムとふたり暮らしだったらしいけれど、一緒に暮らしていない恋人がいる可能性はある……むしろ、いない方がおかしい……わけで。
「君の勇ましさには恐れ入ったよ」
そう言うとダグラスは立ち上がった。あちこちについた干し草を手で払って、地面に落ちたカウボーイハットを手にする。帽子を頭に乗せると、まだ地面に座ったままの乃亜に手を差し伸べた。
乃亜はその手を取って、素直に立ち上がる。
ふたりは静かに見つめ合った。
ダグラスの表情は真剣に戻っていた。取り付く島もないような厳しい顔。きっと乃亜を養父の敵だと思っている男の視線。
「……さあ、作業に戻ってくれ。そんなに難しい仕事じゃないはずだ」
ずくんと胸が痛んだのは、どうしてだろう。
自分がこのひとに好かれるはずはないし、好かれなければいけない理由もない。乃亜はウィリアムに手紙を渡したら日本にすぐ帰るつもりでいるから、おそらく数日後にはもう会わなくなるひとだ。
結局、血の繋がりもないのだし……。
ダグラスはくるりと乃亜に背を向けて、乃亜の干し草攻撃に襲われる以前にするつもりだったらしい仕事に戻っていく。
もう彼のむき出しのお尻も気にならなくなっていた。……と言ったら嘘かもしれないけれど、とりあえず彼の後ろ姿を冷静に見送ることができた。
(とにかく……考えてもしょうがないでしょう、乃亜!)
気を取り直して、地面に落とした鍬を拾いなおすと、乃亜は自らがばら撒いたものも含めたすべての干し草を掃除する作業に没頭した。
ざっ、ざざざっ、ざっ。
どのくらい時間が経っただろうか……。
作業をこなしていく中で、乃亜はだんだんダグラスの服装の意味を理解していった。
レギンズでは布が薄すぎて干し草が脚にチクチク刺さる。運動靴は確かに歩きやすいかもしれないけれど、鍬の刃や干し草や馬糞から足を守ってくれない。半袖もあまり賢い選択とはいえなかった──どちらにしても汗だくになるし、屋根があるとはいえ窓から差し込んでくる日光や、まとわりついてくるハエや蚊の格好の餌食になる。
そんなわけで、ほぼ満身創痍のクタクタになりながらも、乃亜は厩舎の通路を干し草フリーの清潔な空間にすることに成功した。
最後にひたいの汗を手の甲で拭いながら、自らの仕事を満足げに眺める。
「よしっ、これでぐうの音も出ないでしょう!」
ずっと夢中になっていて確認していなかったが、スマホを開くとすでに二時間近くが経過していた。
乃亜はもとあった場所に鍬を戻すと、おもむろに顔を上げる。
ダグラスは……どこに行ったんだろう。
彼が黒い悪魔と呼んでいた馬のいた場所はからっぽだった。荒れ狂った雄牛に乗るために使うというズボンを着込んだくらいだから、当然、ダグラスはその馬に乗って出ていったはずだ。
乗馬って、どのくらいの時間するものなんだろう……?
二時間も帰ってこないのは普通なの?
ただ単に存在を忘れられた可能性もあるが、仕事を頼んだ素人を二時間も厩舎に放っておくものだろうか?
(もし……事故とかだったら? 落馬して怪我をしたとか……なにか凶暴な野獣に遭遇したとか?)
その可能性を慮ると、乃亜は居ても立ってもいられなくなった。
つい二時間前、当のダグラス本人に火器を持っていない限り危険に近寄るなと注意されたのも忘れて、乃亜はダグラスが出ていった厩舎の裏口から外へ出た。
熱い日光が地面を焦がすように降り注いでいる。
コロラドは、たとえばテキサスのような最南部に比べれば、だいぶ涼しいと聞いた。なんといっても冬はスキーリゾートもあるのだ。
東京と比べても湿度が低いぶん、過ごしやすいかもしれない。
でも、あらためてひとり大地に立つと、目の前に広がる広大な牧場の風景に息を飲んだ。
天と地をふたつに割ったような、はっきりとした地形。足がすくむほど広大な土地。
遠くに浮かぶように見える山々は日本のものとはまったく違う。
もっと横に広くて、シンプルで、自然の豊かさや恵みよりも、神への畏怖を抱かせるような迫力を放つもの。
もし運命が違っていたら、曾祖母がウィリアムと暮らすべきだった場所……。
しばらく立ち尽くしていると、ひと粒の涙が乃亜の頬をゆっくりと伝った。
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