二度目の永遠 ~ある夏にコロラドで見つけた牧場主との運命の恋~

泉野ジュール

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【乃亜の章】

ウィリアムとダグラス②

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 ダグラスは小道から逸れて草の生えた水辺まで進むと、海や川と違って波や流れのない静かな水面をじっと見つめる。
「最初の数年は……俺たちはとてもいい関係だった。俺たちというのは、つまりウィリアムと俺のことだ」
「はい」
「俺はウィリアムのために牧場での仕事をなによりも優先した。俺は喜んでなんでもした。学校での成績はそこそこで、スポーツもそれなりにこなした。ただ……牧場で生きるのは楽じゃない。どんなに努力しても、ここで働く限り、すべて中途半端で……」

 ダグラスの拳がぎゅっと強く握られる。
 ずっと大きい、大きいという印象しかなかった彼の背中が、急に少ししぼんだような気がした。背を屈めたからかもしれない。

「十七歳になって周りが将来の進路を決めだしたとき……俺の人生はこの牧場に縛られているんだと気づいて、遅い反抗期に入った」
「それは……わかります。きっと誰だってそうなります」
 ダグラスは肩越しに乃亜を振り返った。

「君にも反抗期があったのか? 君に?」
「わたしの反抗期も遅かったですよ……ずっとバレエで反抗どころじゃなかったので……。でも十六歳のときに怪我をしてやめて、そこからしばらく」

 ダグラスはまるで彼自身が怪我をしたみたいに、痛そうに顔をしかめた。

「なんの怪我だったんだ?」
「アキレス腱です。二回目だったから……さすがにもう。プロになれるかもとは言われていたけど、かといってプリマドンナになれるほどの才能ではなくて……中途半端だったので」

 乃亜がフラミンゴみたいに片足だけ浮かせて見せると、ダグラスは急に顔色を変えて乃亜のところまできて、乃亜の腰を取った。
 本当に心配げな顔で見つめられて、乃亜の顔が緩む。

「このくらい大丈夫ですよ、もう……。とっくに治っていますから」
「だからって無理をしていいわけじゃない」
 もう、本当に。
 このひとは。
 たったの二日で、こんなふうに誰かを愛しく感じられるなんて、想像さえできなかった。
 半年付き合ったひととのキスさえ躊躇していたのに。
 乃亜はそれこそ、バレエに真剣すぎて男の子に興味を持つ時間がなかったせいで、おかしくなってしまったのかと思っていた。もう誰も愛せないのかもしれないと……。

 でも違う。
 乃亜に必要だったのは、正しい相手との出会いだけだったんだ。

「とにかく……俺が十七歳のとき、ウィリアムはすでに八十歳を超えていた。当然、牧場を続けていくなら俺が必要だった──高校卒業と同時に俺が牧場を継ぐはずだったんだ。名義こそ親父のままだが、俺が責任者になるはずで」
 乃亜の腰に手を回したまま、ダグラスは続けた。

 話が核心に近づいてきたのを察して、乃亜は背筋をぴんと伸ばす。ひと言も聞き漏らしたくなかった。

「ある日、親父と口論になった」
 ダグラスの喉仏が、彼の荒い呼吸と一緒に大きく上下する。

「……親父がずっと独り身で、俺以外に子供がいない理由が『ハルコ』なのは、最初から知っていた。昔はそれを美しい話だとさえ思っていた。でも十七歳の俺には、それが惨めな負け犬の人生に思えてきたんだ。この『春』の名の牧場に──永遠に来ない、すでに他の男と結婚した女のためにあるのであろう牧場に、なんで俺が生涯を捧げなくてはならないのかと」
「…………」
「親父は……ショックだったと思うよ。牧場の名前の意味を問いただしたのもこのときだ。だから親父は言い繕ったんだろう、他にも意味はあると」

 ふと、明かりの灯ったコテージのひとつから、家族連れの笑い声が聞こえてきた。
 ふたり一緒にそちらに視線を移すと、コテージのベランダで若い両親が小さな子供と一緒に遊んでいる。
 どこか都会から来た家族が、つかの間の休暇を楽しんでいるのだろう。
 なんだかいたたまれなくなって、乃亜はうつむいた。

 ウィリアムの心を思って。
 ダグラスの過去を慈しんで。

「それから……?」
 震える声で乃亜は聞いた。

 ダグラスは結局ここにいる。この牧場でウィリアムがダグラスのためにはじめたという夕食を続けて、馬に乗ってコテージを経営して、地元の人々も彼に敬意を持っている。

 でも乃亜は、軍服姿のダグラスの写真を見てしまっている。
 あの写真で彼はまだ若かった。

「それから……この牧場から逃げたくて、軍隊に入った。通常で四年の任期がある。テキサスとコロラドの牧場しか知らない十七歳が、世界を見たくて、家から逃げたくて選んだ道だ」

 乃亜は息を飲んだ。
 現代の日本で生まれ育った乃亜にとっては未知の世界だ。そうなんですか、と相槌を打つのも違う。どうしてですか、と疑問を投げる権利があるとも思えない。
 ただ、ウィリアムに反抗した結果にも関わらず、結局ダグラスは彼とまったく同じ道を辿ったのだ。その運命の皮肉を思うと肌が粟立った。

 そしてウィリアムは従軍先で春子に出会った。
 じゃあ、ダグラスは……?
 彼が「誰も愛さない」理由と、なにか関係があるのだろうか……?
 どこか遠い異国で誰かを深く愛して、でもその愛は実らなくて、生涯独身を誓っている……とか。

「四年間」
 乃亜は小さくささやいた。
「ああ、任務や職務にもよるが、基本的に通常の兵士は四年ずつの任期更新がある。俺は最初の四年間を終えてここに帰ってきた。親父は──」
 ダグラスはここで喉を詰まらせた。
 いつもは痛いくらい真っ直ぐ乃亜を見つめてくる灰色の瞳は、所在なさげにどこか遠くを彷徨っている。

「あの年齢の親父を置いていくべきじゃなかった」
「それは……。でも……」
「大抵のことはホセが代わってやってくれていた。他の従業員だっていた。八十代の男としてウィリアムは信じられないくらい健康だった。国に奉仕できたことは誇りに思っている。それでも、俺はしてはいけないことをした。これだけ恩がある人間に背を向けたんだ。彼が、最も俺を必要としていたときに」

 ダグラスの声は震えている。
 乃亜の肩にはダグラスのシャツが掛かっていて、彼は乃亜のために脱いだせいで半袖の素肌だ。
 筋肉の筋や血管が浮き出ている男性らしい腕に、乃亜はそっと指先で触れた。
 沢山の責任を負っている腕。

「あなたにだって自由はあります。きっとウィリアムさんにも覚悟はありました……。おばあちゃんを愛してくれたひとなら、きっと」
 乃亜に触れられた瞬間、ダグラスはわずかにびくりと身体を固くした。
 でも、その手を振りほどくことはせず、そっと視線を乃亜の指先に落とす。そしてふっと淡く微笑んだ。
「自由なんて概念は過大評価されているんだよ」
「そうかもしれません。でも、まったくないわけじゃないわ」
「……なるほど」

 誰もが夢を抱えて、愛を求めて、もがく。
 叶う願いなんて百にひとつしかないのかもしれない。でも、そのひとつのために。

 しばらくふたりは無言で、静寂が続いた。
 すでに子供が寝てしまったのかもしれない。コテージも静かになっていた。
 今夜はもう、これ以上は語ってくれないのだと理解して、乃亜はダグラスの腕から手を離した。するとダグラスは唐突な感じで言った。

「どうしても乗馬を習いたいなら──わざわざネイトのところに行く必要はないよ。俺が教えるから」
「ほ、本当ですか?」
「ああ」

 叶わなかったウィリアムと春子の愛の果てにあるものはなんだろう。
 そうだ──乃亜とダグラスだ。
 ふたりは今、ウィリアムが春子に約束したこのコロラドの果てに立っている。まだ見ぬ未来に震えながら。

 遠くではすでにフクロウが静かになっていた。
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