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【乃亜の章】
あなたと歩む道①
しおりを挟むもしかしたら自分は誰も愛せないのかもしれないと思った日々は、なんだったんだろう? そんなに昔のことじゃないのに。
広瀬乃亜、スプリング・ヘイブン牧場七日目──。
滞在一週間を数えるに至って、乃亜はひとつの結論に到達した。
(わたしって……実は結構チョロかったんだ……)
一週間前まで存在も名前も知らなかったひとを相手に、すっかりのぼせ上っている。
しかも、その相手はどうしても乃亜の面倒を見なければいけない立場にいるだけで、乃亜のことはただの客だと思っているのに。
たまたま乃亜の技能が彼の役に立ったから、友達のような……仕事仲間のような……不思議な絆を築くことができたけれど、女として見られている気はまったく……しない。
なぜなら一度抱き上げられた以外、ダグラスはまったく乃亜に触れようとしないからだ。
(もしくは、逆にそのせいで惹かれる……のかな?)
彼なら安心できるから。
おそらく愛してはくれないけれど、その分、愛やセックスを求めてきたり、急かしたりはしないとわかっているから……。
「うーん……どう思う、チャンピオン?」
すっかり手に馴染むようになった例の熊手っぽい鍬を握ったまま、厩舎で干し草を食んでいるチャンピオンに日本語で声をかける。
最近確信を持ったのだが、チャンピオンは間違いなく人間の言葉を理解する。ただし英語だけ。
なぜなら日本語で話しかけると反応が薄いからだ。
今も無視されている。
「どうしてわたしは彼を好きになったんだと思う? もう、これならわかってくれる?」
乃亜が英語に切り替えると、チャンピオンはむしゃむしゃと嚙み潰していた干し草をぶほっと吹いた。幸い顔にはかからなかったけれど、女性用カウボーイブーツの足元に馬のつばに濡れた干し草が汚く散らばる。
乃亜は笑った。
笑えるくらいには、すでに免疫ができている。
自分よりずっと大きいこの生き物の力強さに惹かれると同時に、その賢さにリスペクトを感じるし、各々の癖ある個性を愛しいと思った。
「聞くまでもないってことかしら。そうでしょう、チャンピオン?」
──ヒヒヒ……ヒィン!
なんだか肯定されている気がするし、チャンピオンはきちんと首を縦に振っている。
それはそうだろう。
相手は長身美形のカウボーイで、この馬の持ち主だ。まだ見ぬ乃亜の曽祖父が我が子にと望んだ男性で、この美しい土地に人生を捧げている。惚れるなと言う方がおかしい。
ただ、この恋にあまり希望は見えないし、見えないままで……いいのかもしれないと思っている。
自分は誰も愛さない、愛してはいけないと言ったのはダグラス本人だ。
理由はわからない。
でも、ネイトでさえダグラスのその決心を保証(?)したくらいだし、それでなくても立場の悪い乃亜では、そもそも勝負の土俵にさえ入れてもらえないはずだ。
別に勝ち負けではないけれど。
でも、負けというのは確実にあるのだ。
乃亜はすでにその敗北を喫したばかりで、もう一度同じ目に合うのは耐えられそうになかった。
だから憧れのままでいい……。
好きな俳優やお気に入りのキャラクターに熱を上げるのと同じ。言ってみれば推し。そうだ、ダグラスは乃亜の推しなんだ。それでいい。
それがいい。
「……誰が、誰を好きだって?」
「ひゃあ!」
いきなり背後から声が掛かって、乃亜は慌てて振り返った。
想像以上の至近距離に推し……こと、ダグラスが立っていて、思わず鍬を足元に落としそうになる。そこに彼の腕が伸びてきて、鍬の柄と乃亜の足を救った。
「す、すみません。いつのまにこんなに近くにいたんですか?」
「さあ……君が日本語でチャンピオンに話しかけていたとき、かな」
「聞いてたんですか!?」
「俺に日本語はわからないよ」
と、答えてから、ダグラスは少し考えるように黙った。「……親父は流暢だったけどな。俺にも教えようとしてくれたのに、俺はやらなかった。今では後悔してるよ」
「ウィリアムさんが……」
いろんな意味で胸が熱くなった。
ウィリアムが片言の日本語を喋れたというのは曾祖母から聞いている。でも流暢というほどではなかったはずだ。つまり、曾祖母と別れてからも、ウィリアムは日本語の勉強を続けてくれたということだ。
そして……ダグラスは『後悔してる』んだ? 日本語を学ばなかったことを?
わたしの推しが?
「今からでも遅くはないですよ……?」
「そうであることを願うよ」
ダグラスは腕時計に目を落として、時間を確認していた。
「……さっき病院に連絡したところ、とりあえず小康状態が続いているので、近いうちに面会できるようにすると言っていた。会えるのは家族だけだから、君の名前もリストに入れてもらえるようにしておく」
「ありがとうございます」
乃亜の感謝の言葉は、固い棒読みになってしまった。
ああ、自分はなんて親不孝……ならぬ曽祖父不幸なひ孫なんだろう。ウィリアムに面会して、手紙を渡してしまえば、乃亜はもう帰らなければいけない。
それは嫌だった。
それは辛かった。確かにダグラスはいつでも来ていいと言ってくれたけれど、それだってウィリアムに会うためであって、ウィリアムはもうすぐ百歳である。成田からデンバーまでの航空券代だって安くない。
つまり、一度日本に帰ってしまったら、もう会える機会はほとんどない。
「親父は……君に会えるのを喜ぶと思うよ」
「わたしも嬉しいです。ここに来る前はその……面倒な役目を押しつけられたと思っていたんですけど、今は来てよかったと思っています」
ダグラスは乃亜の言葉をひとつひとつ吟味するようにうなずいた。
「それはよかった」
「この辺りで行ってみたい場所もまだいくつかあるし……。ネイトさんが教えてくれたんですけど、素敵なトレッキングコースが沢山あるって」
「確かに登山用の小道は多い」
と、ダグラスはうなずいた。それからしばらく考えるように黙って、ジーンズのポケットに手を入れると乃亜を上から下までじっくり観察していた。
乃亜はすでにお馴染みとなった女版カウボーイルックで全身を固めている。
さすがのダグラスも、乃亜の服装についてはもうダメ出しをする個所がないらしく、なにも口出ししなかった。よし。
「ネイトが教えたんだ?」
「え? ええ……。というか、ネットで調べたら面白そうな場所がいくつかあったので、おすすめのコースを聞いてみたんです」
「それで?」
──それで?
今日のダグラスはなにか、お喋りな気分になる妙なキノコでも食べてしまったのだろうか?
それでもダグラスと会話を共有できるのは嬉しかったので、最初に行ってみたいと思ったコースの名前をいくつか挙げた。
「……それで、最終的に、ピエドラ川のコースにしようってことになったんです。だって無料で入れる天然の温泉があるんでしょう?」
乃亜は意気揚々と鍬の柄を持って答えた。
ダグラスの動きがぴたりと止まった。
「『しようってことになった』?」
「へ?」
「ネイトと行くのか?」
「は、はい……。その、この辺りって言っても、歩いては行けないですから……」
この辺りどころか敷地内だって車で移動しなければならない土地だ。
なにをするにも車両は必要で、ネイトは時々時間のあるときに乃亜を乗せてくれた。なぜこういうことになったかといえば、ネイトはスマホの番号をあっさり教えてくれたからだ。
乃亜はいまだにダグラスの番号を知らない。
そんなわけで、実際に顔を合わせる時間はダグラスとの方が圧倒的に長くても、ネイトとのやり取りも結構あるのだ。
いくらコロラドの荒野にいても、ときは二十一世紀である。
「いつ行くんだ?」
本当に。
なかなか怖いキノコだ……。
「明日の午前中です。レッスンの予定がないからって」
乃亜が答えるとダグラスは彼の足元に視線を落とした。地面はすでに乃亜が掃いて綺麗になっている。
ダグラスの表情が陰っていく気がしたので、乃亜は慌てて付け加えた。
「もちろん朝のケータリングは終わらせてからにしますよ! なにか新しいキノコがあるなら、それもメニューに加えて……」
「キノコ?」
「なんでもないです……。とにかくご迷惑はかけないようにしますから。そうそう、今晩の夕飯もまたわたしに作らせてください」
ダグラスは顔を上げたが、さっきのように乃亜を見つめたりはしなかった。
厩舎の壁がなにかとても面白いものであるかのように、じっと木製のパネルに鋭い視線を向けたままだった。
「わかったよ」
……とだけつぶやいて、スプリング・ヘイブン牧場の牧場主は厩舎の奥に消えていった。
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