アリアドネ・コード─少女兵たちよ人類を奪還せよ─

チャハーン

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アリアドネの繭・前編

第9話 消える光

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「──ス」

 遠くから声が聞こえる。
 鋭いような気がする、そして柔らかい。
 リリスは布団を巻取りながら体をくねらせた。

「起きろリリス!点呼に遅れるぞ」

 大声と共に背中を揺さぶられた。リリスは上体を勢いよく起こすと、起こした相手の顔を見る。目の前にいたのは、眉間に皺を寄せていたベティだった。リリスはほっとため息を吐く。
 悪夢を見たのか、心拍数が高まっている。汗もかいていた。

「どうした……悪夢でも見たの?」
「は、はぁっ、いや……ん、どうだろう」
「なーんだそれ。早く着替えな、もうそろそろで点呼始まるよ」
「点呼?」

 リリスは首を傾げた。なぜ点呼をしなければならないのか、この前のように高官が来るわけでもない。では一体なぜなのか。

「……お、来たね。これだから月曜は憂鬱なんだよ」
「ねぇベティ」
「何?」
「今日って……土曜日じゃなかったっけ」

 ベティは呆れたように肩をすくめ、頭を掻きながらリリスの前に立った。

「寝ぼけるのも大概にしなよ。今日は三月二日月曜日、土曜は一昨日だよ」
「さ、三月?そんなまさか……だって今日は九月の……」

 リリスは壁にかけられていたカレンダーを見て目を丸くする。
 日付は三年半前を指していた。
 やはりおかしい。そしてよく見てみると、ベティの髪型が違う。普段はかなり短いカットだったが、今日はロングのウェーブだった。そんなはずはない。リリスは目の前の景色に納得がいかず、何度も目を擦る。

「ほら、早く着替えな。リグの点検もあるんだし、新兵のあんたが遅れたら分隊長のタイキック食らうよ?」

 リリスは言われるがままにベッドから這い出た。寝間着を脱ぎ、急いでシャツを羽織る。軍服のボタンを留め、帽子を被った。鏡の前の自分はとても初々しい姿だった。

(今までのは……全部夢だったの?エレンとの生活も、戦いも、全部……夢?)

 夢にしてはリアリティがあった。あらゆるシーンは全て本物のはずだった。火薬の匂いも、セラムの感触も、全てが妄想でしかなかったのだろうか。リリスは悩みながら部屋を出た。ドアの前に立ち、敬礼をした。

 左右を見ると、他の隊員たちがリリスと同じように敬礼をしていた。
 ユキネ、ソフィア、メイ、カレン、間違いない、かつての同僚たちだ。全員戦死したはずなのに、なぜかこうして同じ屋根の下にいる。きっとこれは夢だ。仲間たちは皆死んで、過去の記憶を見ているだけなんだ、リリスはそう思い込むことにした。

「全員整列!点呼を取る。ナオミ・ソーンダイク」
「はい。おはようございます」
「クロエ・ルメール」
「はい!おはようございます!少尉、軍曹」

 次々と名前が呼ばれていく。リリスは隣に並ぶ同僚たちの顔を食い入るように見つめた。どれもが懐かしい顔だった。
 ユキネ・クリストファー、ソフィア・アーシェ、メイ・ファン、カレン・スミス。続々と名前が呼ばれていく、全員が輝かしく生きているのを見て、リリスは目眩がした。随分と懐かしく、辛い記憶を思い出したなと、自分の脳を恨んだ。

 ふと、隣からベティの体温を感じた気がした。
 夢ならせめて幸せな方がいい。リリスはベティの肩に体重をかけた。彼女は幸せそうな表情を浮かべる一方、ベティは怪訝な顔をした。

(はっ……そうだ、三年前といえば、まだ私が入隊したばかりの頃。新人が急にこんなことしたら……)

 ベティがリリスを小突いた。
 リリスは小さな声でごめんなさい、と呟く。

「あんた……そんな趣味あったんだな。メイとお似合いだよ」
「あっ、いや……別にそんなのじゃなくて」

「ベティ・バレット」
「はい、おはようございます少尉」
「そして最後は……新兵のリリス・ノワールか」
「は……っ、えと、はい!おはようございますミラ少尉!」

 自分の声が不自然なほど廊下に響いた。ミラの隣にいた副官のエレーナはいい挨拶だと頷き、眼鏡の奥で視線を鋭くした。

「顔色が悪いな……夜更かしか?」
「いえ、多分……悪い夢でも見たんだと思います」
「そうか、ならいい。解散!十五分後にいつもの場所で集合だ。基礎練が終わるまで飯にありつけると思うな!」

 ミラは点呼を締めくくると、次の任務を与えた。
 同僚たちは点呼が終わると同時に軽く談笑しながら歩き始めた。
 三月二日、本来であればリリスはベティと談笑しながら演習場へ向かっていたはずだ。その後、アスレチックの訓練を無事にクリアし、朝食を貪った。

(確か……あの日の朝はコーンブレッドにオートミールパイだったっけな)

 リリスは過去に浸りながら、メイ・ファンを探した。
 一ヶ月後、リリスの初陣にて、彼女は奇襲をしかけたネクストルムからリリスを庇い戦死している。二度とあの悲劇を繰り返させない。そう胸に誓うと、駆け足で背中を探す。

(今からメイさんと訓練すれば、あれを回避出来るかもしれない……)

 整備ドックに向かうメイの背中を、リリスが呼び止める。

「メイさん!」
「おや……あなたはリリスですね。私に何か用ですか?」

 メイの体温、穏やかなオーラ、茶髪から漂うシャンプーの匂い。リリスは必死に言葉を紡ごうとした。これは夢だ、自分の過去の記憶を頼りに再生している映像でしかない。
 あの初陣でどんな結末を迎えるのか、どこからネクストルムが現れるのか、全てを教えようと言葉を巡らす。しかし、口に出そうとした途端、一つの考えが過ぎった。

(これは夢、じゃあ……こうやって教えても何も意味が無いんじゃ)

 こちらの世界ではメイは死に、ベティはショートカット、そしてエレンという少女がいる。こっちの世界ではメイが生きていて、ベティはロング、しかしエレンは存在しない。
 どちらが現実で、夢なのか。
 三年半後のことは夢で、この瞬間こそが、リリス・ノワールの本物の人生ではないのか。

「……リリスさん?顔色が悪いですよ。医務室に行きましょうか?」

 メイが心配そうに手を伸ばした。その指先がリリスの肩に触れた、その時だった。
 至る所で同時多発的に起きた爆音、耳を劈くような金属音が響き、視界が反転しそうなほど歪んだ。

「なっ……敵襲?!」

 メイが叫ぶ。刹那、コンクリートの壁が吹き飛び爆ぜた。
 もうもうと立ち上る土煙の向こうにいたのは、四足歩行のスピッターだ。トカゲとカエルを混ぜたような姿で、見た目以上の俊敏さを併せ持つネクストルムだ。そして、メイを葬ったのもこのスピッターだった。
 妙だと感じたのはリリスだけではない。ここはセクター三、九から四までの防壁が突破されない限り、ここまでネクストルムが辿り着くのは不可能だ。
 そして直後、これが運命の修正力だと実感した。

「メイ、下がって!」

 リリスは丸腰のままメイの前に割り込んだ。しかしメイの反応はそれより速かった。彼女はリリスを突き飛ばし、背後へ追いやる。

「ダメ!逃げて!また……スピッターに殺される!」

 メイは振り向いた。「また」とはどういうことなのか、聞くよりも先にスピッターが動いた。
 怪物は口を大きく開き、筋肉質な舌を弾丸のような速度で射出した。湿った音が響くと、メイの胴体に巻き付く。彼女の細い体を軽々と宙へ釣り上げた。

「うっ……があぁっっ!」

 メイは歯を食いしばると、腰からナイフを引き抜き、渾身の力で舌を切りつけた。しかし刃はゴムのように柔らかい舌の上を滑るだけで、傷を付けられない。それでも何度も突き立てる。

「リリス……あなたは逃げて援軍……を!」

 メイが最後に捻り出した言葉は舌の圧力で掠れた。
 彼女の体が口の中に押し込まれる。それでも諦めずにナイフを振り回し、鈍い打撃音がスピッターの頬を打ち付ける。リリスはその必死な抵抗を、膝をついて 恐怖の中から見守ることしか出来なかった。

 スピッターが口をゆっくりと閉じる。
 体重が二トンもあると、柔らかい肉質だったとしても人を容易に殺す武器となる。ただ口を閉じるだけで人はプレス機に押し潰されたようになる。
 逃げ場のない口内で、内側から破壊されていく音が生々しく響く。凄まじい圧力が彼女の肉体を均等に破壊していった。

 口の隙間からは足だけが外に投げ出されていた。逃げ場のない激痛が、足の痙攣によって表現される。バタバタと無意味に地面のタイルを掻きむしり、叫びを体現しているようだった。しかし顎が完全に閉じ切ると、そのまま糸が切れた操り人形のようにだらんと垂れ下がり脱力する。
 スピッターは満足気に喉を鳴らすと、突き出た彼女の足も残さずに吸い込み一気に嚥下した。

「あ……ああ、あああぁぁぁぁッ!!」

 結局同じ運命を辿った。
 視界が真っ白に弾けると、上体を勢いよく起こした。悲鳴をあげすぎたせいか、肺が空気を求め、喉の奥は焼けるように痛い。

「お、おい……ほんとに大丈夫?」

 呆れたような、聞き馴染みのある声。
 リリスは震える手で自分の顔を覆う。指の隙間から目の前にいる人物を確認した。そこにいたのは短い髪を乱暴にかきあげ、エプロンをしていたベティの姿だった。

「最近……なんか叫んでばっかりじゃない?昨日も訓練でギャーって」
「ベティ……髪切ったの?」
「ん?いや、最近は切ってないけど、なんで?」

 リリスは周囲を見渡した。壁のカレンダーには九月二十三日と書かれている。窓からは温かい光が差し込み、廊下の向こうの食堂ではエレンが鼻歌を唄いながら朝食の準備をしているようだ。

(やっぱりあれは……夢だったの?)

 陽だまりのような過去も、かつての仲間たちも、そしてメイを救おうとして失敗することも、全てが脳が見せた残酷な夢。
 例え夢であっても、リリスはメイが最後に言った「あなたは逃げて」という言葉が剣のように胸に突き刺さっていた。夢の中でも自分は人を助けることが出来ない。あの景色が脳裏にこびり付いて離れなかった。

「ベティ、今日訓練に付き合ってくれない?」
「なんでよ。今日は土曜日だぞ」
「……お願い。私、もう大切な人を失いたくない。あんな風に、また目の前で……食べられるのを見たくない」

 リリスは涙を浮かべながら言う。
 異常なまでに切迫感を感じる表情を見て、ベティは口から出かけた文句を飲み込む。リリスの頭を乱暴に撫でた。

「……分かったよ。朝食べたらすぐ行こう。今日はサラがずっとここにいるから、時間かけてもよさそうだしね」

 リリスは小さく頷いた。
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