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アリアドネの繭・前編
第10話 泥のスープ
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「なるほど……そんな悪夢を見たんだ」
ベティは納得した様子でタブレットを操作する。昨日訓練した場所と同じ、薄暗いシミュレーター室だ。リリスの切迫感に応えるため、ベティは全力でサポートすることにした。
夢の中で起きた運命的な出来事を聞いたベティはただただ頷いていた。
「じゃあとりあえず、基本設定は終わらせた。市街地での複数体を想定したシチュエーションだよ。出現するのはスピッターとストライカー」
「ありがとうベティ」
「私も入ろうか?」
「……いいえ、一人でやらせて」
リリスはポッドの中に横たわると、プラグを押し当て、バイザーを装着した。モニターにバイタルが映し出され、正常だと機械音声が言う。シンクロ率予想は六十パーセントを超えている。
「メイを救えなかったのは、私が弱かったから。ベティ……お願い、難易度は最大まで上げて。夢で見たあの、絶望感に勝たなきゃ」
ベティはタブレットを触る手を止めた。モニターと画面を交互に見た。死んでしまう可能性もある。しかしリリスの執念を目の当たりにしてついに折れ、分かったよと小さく答えた。
「死ぬほどキツイよ。ま、私がいるから死ぬ前に接続は解除するけどね」
次の瞬間、リリスは廃墟と化した市街地の中に立っていた。
深呼吸をし、脈を整える。左端に映し出されたシンクロ率は七十パーセントを記している。銃も軽く、リグは何の問題も無く動く。ライフルの残弾数を確認し、照準器を付けた。
建物の影から物音がした。粘つく足音。
一体、二体ではない。瓦礫の山からスピッターが現れ、それに伴うようにストライカーも辺りを徘徊し始める。お互いが警戒し、誰が獲物を横取りするかで揉めていた。あるストライカーはハイエナのように辺りを見回している。
(来る……!)
横にいたスピッターが口を開き、舌を射出した。今はリグがあるのでそれほど速くは見えなかった。不意打ちでなければ避けるのは造作もない。紙一重で回避し、弾丸を撃ち込む。背中にもう一匹のスピッターが現れた。同じように弾幕を浴びせ、攻撃を回避する。
「おらっ!」
貫通弾を喰らい、巨体が揺らいだ。ストライカーが飛びかかる。先の訓練がフラッシュバックし、臍が痛んだ。しかしリリスは油断せず、動揺もしなかった。バイタルは正常、シンクロ率は好調だった。
弾幕を浴びせるとストライカーたちは距離を取る。
だが、シミュレーターが最高難易度であることを、リリスは思い知らされることになる。弾幕を嫌がりストライカーが散開した直後、二本の影が両側から迫った。瓦礫に隠れていスピッターがタイミングを合わせたかのように舌を射出した。
「あ……がああっ!」
前から迫る舌はリリスの右足を絡め取り、強引に地面に倒した。引き剥がす暇もなく、もう一本の舌がリリスを首から肩にかけて蛇のように締め上げた。二体のスピッターは獲物を奪い合うように逆方向へ舌を引き絞った。
リグの装甲が歪み、体が悲鳴をあげる。リリスの体は綱引きの標的となり、左右から伝わる圧倒的な張力が、リリスの腰を、脊髄を、限界まで引き伸ばしていく。仮想空間のセンサーが脊髄を焼き、体が引き裂かれるという情報が押し寄せていく。
「……あ、うあああああッ!!」
視界が赤く点滅し、リグが警告音を鳴らす。
腰の関節が、耐えきれずに弾け飛ぶ感覚がした。
「リリス!」
「がはっ、あっ……があっ!」
リリスの体が勢いよく跳ね上がる。体につけていたパッドが剥がれ、ランプが点滅している。
体はどこも裂けていない。だが彼女は狂ったように腹部をさすり、体が繋がっていることを何度も確かめた。全身から吹き出した汗が薄いスーツの間に溜まっている。
「息を、息をしろ!」
ベティはリリスを抱き寄せると、必死に現実へ引き戻そうとした。リリスはベティの肩に顔を埋め、ガタガタと震えながら深呼吸をする。
ようやくリリスの呼吸が落ち着いてくると、訓練を中断しようとタブレットを操作した。しかしその腕をリリスが止める。
「これ以上やったら……あんたの心が壊れる。大体、ネクストルムと戦うだけなら安全装置を付ければいいだろ。なんでわざわざ解除して痛みを限界まで受けるんだ!」
「……エレンを、あんな目に合わせないための『何か』が足りないの……」
言葉はほとんど呪いのような執念に変わっていた。ベティは固唾を飲んで見守る。汗で張り付いた前髪をかきあげ、彼女の瞳孔を見た。
「もう一回……お願い。次は必ず仕留めるから」
「正気か!次また殺されたらほんとに廃人になるぞ!」
「正気だったら……こんなの頼んでないよ」
ベティは唇を噛み、目に涙を溜めた。もはや彼女に出来ることは、ダイブのボタンを押すことだけだった。かつて夫を奪われた時と同じ、復讐心に燃えていた自分と同じ目をリリスはしている。
「……わかった。リリス、いつまでやる?」
リリスは最後に深呼吸をし、バイザーを再び下ろした。
そして自信を持って言う。
「無論、死ぬまで」
ベティは震える手でロードのボタンを押した。
カウントが始まり、視界がホワイトアウトしていく。
視界が開けると、再びあの廃墟に立っていた。
瓦礫の中からスピッターが姿を表した。死の直前、リリスは気づいたことがある。それを確かめるために、あえて舌を避けなかった。
「あ……ぐああっ!」
すごい力だ。リグのブースターを逆噴射させるが、あまり効果はない。
スピッターはさらに強く引っ張る。リリスはこの時ブースターを解除し、勢いに任せて強引に喉奥まで入った。
ネクストルムの体は、人を効率よく生け捕り出来るように作られている。そのため口の中は他の生物と同様に柔らかく作られていた。柔らかいということは、弱点であるとも言える。
「やった……!」
顎が閉じ切ってしまうと、例えリグのパワーを持ってしても圧力と呼吸困難でたちまち意識を失うだろう。口の中に押し込められ、閉じるまでの僅かな間、ありったけの弾丸を撃ち込む。この至近距離であれば、ダメージは大きい。
ゼロ距離のフルオート射撃が命を刈り取った。
口から抜け出し、腰からナイフを引き抜いた。
背後から二匹目の舌が迫る。
刹那、リリスは夢で見たメイの死に様を思い出す。
【シンクロ率が上昇しています】
鋼鉄のように強靭だった舌は、高周波で強化された刃によって呆気なく両断された。断面から体液が飛び出し、スピッターは聞いたこともない悲鳴をあげた。リリスの動きに迷いはなく、一直線にスピッターに向かう。
「これで……!終わり!」
シンクロ率が極限まで跳ね上がり、リグの機動はリリスの思考と完全に同調していた。ブースターを吹かして懐に飛び込む。
大きく開かれた口腔に──人類を、仲間を、メイを絶望の淵へと追いやった穴へ──ライフルを突き刺した。
引き金を引く。
至近距離での連射によって体内から爆散していく。肉片と火花が弾け飛び、データの海に消える。
静寂。
リグの冷却ファンが勢いよく回り、虚しく響いていた。
動かなくなった二匹のスピッターを見て、リリスはナイフを鞘に収める。
『シミュレーション終了。目標沈黙』
ハッチが開き、外の空気が流れ込んできた。
リリスは全身の力を失い、ポッドの中でぐったりと倒れる。
「リリス、あんた今!」
「……殺した。この手で、殺せたんだ」
リリスは虚ろな目でベティを見ると、力なく笑った。
「ああ、見事だったよ……でもなリリス、今のあんたの顔見てみなよ。とてもエレンの前には立てないよ」
「……顔、怖い?」
「般若と見間違える」
ベティはため息混じりにリリスの顔についた汗と鼻血を拭いた。リリスは笑顔を見せた。幼さを残しながらも、どこか覚悟が決まったような表情だった。マッサージされるように顔を拭かれ、もういいよと手を上げる。
「先に支度して帰ってて。それとリリス、これだけは覚えて欲しい」
「なぁに?」
「あんたが強くなるのはいい。でも、それだけを見て、エレンが愛してる『リリス』を見失っちゃいけないよ」
リリスは無言で頷いた。震える足でポッドから降りる。
密着したスーツの中には、滝のような汗が溜まっていた。リリスは手で軽く扇ぎながら、シャワー室に向かう。
「……ありがとう、ベティ」
「何を今更」
ベティは納得した様子でタブレットを操作する。昨日訓練した場所と同じ、薄暗いシミュレーター室だ。リリスの切迫感に応えるため、ベティは全力でサポートすることにした。
夢の中で起きた運命的な出来事を聞いたベティはただただ頷いていた。
「じゃあとりあえず、基本設定は終わらせた。市街地での複数体を想定したシチュエーションだよ。出現するのはスピッターとストライカー」
「ありがとうベティ」
「私も入ろうか?」
「……いいえ、一人でやらせて」
リリスはポッドの中に横たわると、プラグを押し当て、バイザーを装着した。モニターにバイタルが映し出され、正常だと機械音声が言う。シンクロ率予想は六十パーセントを超えている。
「メイを救えなかったのは、私が弱かったから。ベティ……お願い、難易度は最大まで上げて。夢で見たあの、絶望感に勝たなきゃ」
ベティはタブレットを触る手を止めた。モニターと画面を交互に見た。死んでしまう可能性もある。しかしリリスの執念を目の当たりにしてついに折れ、分かったよと小さく答えた。
「死ぬほどキツイよ。ま、私がいるから死ぬ前に接続は解除するけどね」
次の瞬間、リリスは廃墟と化した市街地の中に立っていた。
深呼吸をし、脈を整える。左端に映し出されたシンクロ率は七十パーセントを記している。銃も軽く、リグは何の問題も無く動く。ライフルの残弾数を確認し、照準器を付けた。
建物の影から物音がした。粘つく足音。
一体、二体ではない。瓦礫の山からスピッターが現れ、それに伴うようにストライカーも辺りを徘徊し始める。お互いが警戒し、誰が獲物を横取りするかで揉めていた。あるストライカーはハイエナのように辺りを見回している。
(来る……!)
横にいたスピッターが口を開き、舌を射出した。今はリグがあるのでそれほど速くは見えなかった。不意打ちでなければ避けるのは造作もない。紙一重で回避し、弾丸を撃ち込む。背中にもう一匹のスピッターが現れた。同じように弾幕を浴びせ、攻撃を回避する。
「おらっ!」
貫通弾を喰らい、巨体が揺らいだ。ストライカーが飛びかかる。先の訓練がフラッシュバックし、臍が痛んだ。しかしリリスは油断せず、動揺もしなかった。バイタルは正常、シンクロ率は好調だった。
弾幕を浴びせるとストライカーたちは距離を取る。
だが、シミュレーターが最高難易度であることを、リリスは思い知らされることになる。弾幕を嫌がりストライカーが散開した直後、二本の影が両側から迫った。瓦礫に隠れていスピッターがタイミングを合わせたかのように舌を射出した。
「あ……がああっ!」
前から迫る舌はリリスの右足を絡め取り、強引に地面に倒した。引き剥がす暇もなく、もう一本の舌がリリスを首から肩にかけて蛇のように締め上げた。二体のスピッターは獲物を奪い合うように逆方向へ舌を引き絞った。
リグの装甲が歪み、体が悲鳴をあげる。リリスの体は綱引きの標的となり、左右から伝わる圧倒的な張力が、リリスの腰を、脊髄を、限界まで引き伸ばしていく。仮想空間のセンサーが脊髄を焼き、体が引き裂かれるという情報が押し寄せていく。
「……あ、うあああああッ!!」
視界が赤く点滅し、リグが警告音を鳴らす。
腰の関節が、耐えきれずに弾け飛ぶ感覚がした。
「リリス!」
「がはっ、あっ……があっ!」
リリスの体が勢いよく跳ね上がる。体につけていたパッドが剥がれ、ランプが点滅している。
体はどこも裂けていない。だが彼女は狂ったように腹部をさすり、体が繋がっていることを何度も確かめた。全身から吹き出した汗が薄いスーツの間に溜まっている。
「息を、息をしろ!」
ベティはリリスを抱き寄せると、必死に現実へ引き戻そうとした。リリスはベティの肩に顔を埋め、ガタガタと震えながら深呼吸をする。
ようやくリリスの呼吸が落ち着いてくると、訓練を中断しようとタブレットを操作した。しかしその腕をリリスが止める。
「これ以上やったら……あんたの心が壊れる。大体、ネクストルムと戦うだけなら安全装置を付ければいいだろ。なんでわざわざ解除して痛みを限界まで受けるんだ!」
「……エレンを、あんな目に合わせないための『何か』が足りないの……」
言葉はほとんど呪いのような執念に変わっていた。ベティは固唾を飲んで見守る。汗で張り付いた前髪をかきあげ、彼女の瞳孔を見た。
「もう一回……お願い。次は必ず仕留めるから」
「正気か!次また殺されたらほんとに廃人になるぞ!」
「正気だったら……こんなの頼んでないよ」
ベティは唇を噛み、目に涙を溜めた。もはや彼女に出来ることは、ダイブのボタンを押すことだけだった。かつて夫を奪われた時と同じ、復讐心に燃えていた自分と同じ目をリリスはしている。
「……わかった。リリス、いつまでやる?」
リリスは最後に深呼吸をし、バイザーを再び下ろした。
そして自信を持って言う。
「無論、死ぬまで」
ベティは震える手でロードのボタンを押した。
カウントが始まり、視界がホワイトアウトしていく。
視界が開けると、再びあの廃墟に立っていた。
瓦礫の中からスピッターが姿を表した。死の直前、リリスは気づいたことがある。それを確かめるために、あえて舌を避けなかった。
「あ……ぐああっ!」
すごい力だ。リグのブースターを逆噴射させるが、あまり効果はない。
スピッターはさらに強く引っ張る。リリスはこの時ブースターを解除し、勢いに任せて強引に喉奥まで入った。
ネクストルムの体は、人を効率よく生け捕り出来るように作られている。そのため口の中は他の生物と同様に柔らかく作られていた。柔らかいということは、弱点であるとも言える。
「やった……!」
顎が閉じ切ってしまうと、例えリグのパワーを持ってしても圧力と呼吸困難でたちまち意識を失うだろう。口の中に押し込められ、閉じるまでの僅かな間、ありったけの弾丸を撃ち込む。この至近距離であれば、ダメージは大きい。
ゼロ距離のフルオート射撃が命を刈り取った。
口から抜け出し、腰からナイフを引き抜いた。
背後から二匹目の舌が迫る。
刹那、リリスは夢で見たメイの死に様を思い出す。
【シンクロ率が上昇しています】
鋼鉄のように強靭だった舌は、高周波で強化された刃によって呆気なく両断された。断面から体液が飛び出し、スピッターは聞いたこともない悲鳴をあげた。リリスの動きに迷いはなく、一直線にスピッターに向かう。
「これで……!終わり!」
シンクロ率が極限まで跳ね上がり、リグの機動はリリスの思考と完全に同調していた。ブースターを吹かして懐に飛び込む。
大きく開かれた口腔に──人類を、仲間を、メイを絶望の淵へと追いやった穴へ──ライフルを突き刺した。
引き金を引く。
至近距離での連射によって体内から爆散していく。肉片と火花が弾け飛び、データの海に消える。
静寂。
リグの冷却ファンが勢いよく回り、虚しく響いていた。
動かなくなった二匹のスピッターを見て、リリスはナイフを鞘に収める。
『シミュレーション終了。目標沈黙』
ハッチが開き、外の空気が流れ込んできた。
リリスは全身の力を失い、ポッドの中でぐったりと倒れる。
「リリス、あんた今!」
「……殺した。この手で、殺せたんだ」
リリスは虚ろな目でベティを見ると、力なく笑った。
「ああ、見事だったよ……でもなリリス、今のあんたの顔見てみなよ。とてもエレンの前には立てないよ」
「……顔、怖い?」
「般若と見間違える」
ベティはため息混じりにリリスの顔についた汗と鼻血を拭いた。リリスは笑顔を見せた。幼さを残しながらも、どこか覚悟が決まったような表情だった。マッサージされるように顔を拭かれ、もういいよと手を上げる。
「先に支度して帰ってて。それとリリス、これだけは覚えて欲しい」
「なぁに?」
「あんたが強くなるのはいい。でも、それだけを見て、エレンが愛してる『リリス』を見失っちゃいけないよ」
リリスは無言で頷いた。震える足でポッドから降りる。
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