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第5話

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 翌日に公爵が〝籠〟を訪れると、聖女はまだ寝所の中にあった。独りで寝るには大きすぎる天蓋つきのベッドの上、色違いの虚ろな瞳を公爵へ向ける。

「…………今日は、お早いのですね」
「もうとうに日は昇っておる」
「っ、」

 無表情だが、聖女は驚いた様子であった。少女の微かな心の動きを把握できたことに愉悦を抱き、公爵はニヤリと笑みを浮かべる。

 寝所の中では、クルルが聖女の起床に憤慨し、彼女を再び惰眠へ誘おうと衣服の袖口に噛みついていた。しとねに引き摺り込もうと力をこめる。

 竜にとっては、人間ごときの定めたことわりなど意味をなさない。

 たとえ聖女であろうともクルルからすればただの少女にすぎないわけで、この小竜が満足するまでは、彼女は自らの体温を分け与えることを要求されるのだ。

「…………朝の、祈りを」
「クククッ、お前には、竜の世話を命じたはずだ」
「………………」

 さも愉快そうに公爵は喉を鳴らす。今回こそ、聖女が戸惑う姿を見られたからだ。

 本来であれば聖女は日の出とともに起床し、何時間もの祈りを捧げる習慣であった。そうしなければ聖なる鞭の一撃でもって、彼女の中に入り込もうとする悪魔を祓わねばならぬのだと、教会の教義で決められていた。

 なので聖女の眠りは元来浅く、ここまで深く眠ったのは久方ぶりのことであった。

「二度寝をするなら席を外すが?」
「……………………起き、ます」
「ククッ、そうか」

 たっぷりと逡巡する聖女の有様に、またも公爵は哂いをこぼす。堕落へと誘うすべらかな抱き心地の小竜を胸に抱え、聖女はぼんやりと彼の手にした物を見やった。

「……ああ、これか? 花だ」
「…………はい」
「ここに置こうと思ってな。この花の世話もまた、今日からお前の務めとなる」
「…………枯らさぬように、《奇跡》を使えばよいのでしょうか?」
「違う」

 聖女の問いに、公爵は不快そうに眉をひそめた。

 ――彼女だけが扱える《癒しの奇跡》は、少女を教会の聖女たらしめていた能力だ。

 自らの命を分け与えることで他者を癒すその力は、多くの敬虔なる信徒たちを救った、まさに神聖なるものであった。

 その《奇跡》を〝敬虔な信徒〟に使うことは神から与えられた義務であり職務であると、聖女は教会の教義によって教えられていたのだが――

「ここは教会ではないし、花は金銭を寄付してはこんぞ? お前が自らの寿命を分け与える必要はない。――お前の命は俺への供物となったのだ。それを勝手に削ることは許さん」
「…………では、どうすれば?」

 聖女の義務を果たすことを禁じられ、少女は虚ろな声で公爵に尋ねる。
 花瓶を机に置き、公爵の男は蔑むように問いに答えた。

「花の世話など、水をやればよいことだ。命をくれてやる道理はない」
「……それでは、いつか枯れてしまいます」
「枯れれば新しいものを持ってこよう。人も花も、いつかは枯れゆき交代していくものだ。――いいか、お前の命を削ることはもう二度と許さん。お前は死ぬまで俺に囚われる運命なのだ。それまでの時間を減らすことを俺は認めん」
「………………」

 聖女は無言で花瓶を見つめた。公爵の言葉に同意したのかはわからない。ただ彼が、少女の命を金銭に換える気はないことだけは、かろうじて理解した様子であった。

「…………わかりました」
「フン。花が枯れゆくさまを見たくないというのなら、直接花畑にでも連れ出してやろうか?」
「っ――」

 公爵の言葉に、聖女はにわかに目を伏せる。

 遂にはっきりとした感情の色を引き出すことに成功したが、しかして公爵は苦々しげに顔をしかめた。

「……まだ、外は怖いか?」
「………………いいえ」
「……そうか」

 聖女からの虚偽の申告を見逃して、公爵は格子のついた窓を見据える。
 顔を伏せる聖女の胸に抱かれ、竜が気遣うようにクルル――と鳴いた。
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