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ときはなつもの
しおりを挟むしくしくと、だれかが泣いている。そしてそれは、激しい雨音にまぎれ、聞こえなくなった。
「ケイちゃん、ごめんね。……ごめんなさいねぇ、ケイちゃん」
ほかに方法はない。夫人の葛藤を察することができた螢介は、ことばを呑みこんだ。なにも云ってはいけない。これ以上、夫人と話してはいけない。犯した罪の重さで、あんなに腕が伸びてしまった苦しみは、だれにも代弁できないだろう。ただひとり、タマシイを、あるべきところへ還せる亭主を除いては。
なあ、いるんだろ?
そろそろ、出てきてほしいンだけど……
螢介には確信があった。夫人は、だれかを待っている。うちのひとと、約束したのだ。だれかがきたら、待たせておくようにと。それから、界面を五十年くだり、螢介がやってきた。ようやく、三島家に必要なものがそろったのだ。
……おれのウロコがあれば、写真の婆さんと話ができるとか? あの夫人の病気を治せるとか? 悪いけど、おれのウロコは、あと二枚しかないんだ。そう簡単には渡せないからな。
夫人は、仏壇の部屋に佇む螢介には目もくれず、廊下を徘徊している。ずるずると床を這いまわる長い腕は、蛇のようにも見えた。
「なにかあれば、みどり色の公衆電話を探すんだ。お金をいれなくても、ここへは通じるから、わたしに連絡してください」という亭主のことばを思いだした螢介は、民家からの脱出を考えた。公衆電話がある場所といえば、駅舎や公園、百貨店や学校の近くだろうか。
「行くしかない。あのひとに、おれのタマシイをもどしてもらわねぇと……」
もうひとりの存在は、おそらく老婆であると察しがつく。成仏できずにとどまる理由は、夫人を気の毒に思うからだろうか。すべては、三島家で起きた過去の事件につき、謎を解いた螢介が、どうにかできるものではない。ただし、近親相姦によって血すじは滅びた。惨劇の舞台となった座敷に、夫人のタマシイはとらわれている。螢介が近づくことは、不可能だった。……なんでこんなときに、彼女の姿が目に浮かぶんだ。……くそ。
ウロコを手にいれたネコは、もう子どもではない。さくや亭の飼い猫とはいえ、おとなの女性と多感な男子高校生が同居するのは、それこそ、悩ましい状況が発生するだろう。
「全部わかったよ。三島家の出来事を教訓にしろって云いたいンだろ? おれは、ネコに手をだしたりしない。ぜったいに、するもんか。あんなアバズレ、こっちがお断りだぜ!」
夫人が遠ざかった瞬間、仏間を飛びだした螢介は、玄関ではなくいちばん近い窓の鍵をあけ、雨のなかをくつ下がびしょぬれになるのもかまわず走り、十字路の角までくると、薬局の軒下に公衆電話を見つけ、すぐに受話器を手にとった。
「謎は解けた。タクシーを呼んでくれ」
螢介のことばに亭主はうなずき、その場で待つよう指示をだした。数分とかからず到着したタクシーに乗りこみ、汚れたくつ下は丸めて脱いだ。雨が烟る舗道に、赤い傘をさして歩く人影があった。車窓ごしに目をこらすと、夫人とよく似た女性が、黒い傘をどこかへとどけようとしている。
「……あの傘は」
ネイビーの房飾りがついている。どぶ川に落ちたとき、螢介が見た黒傘と同じものかどうか、はっきりとは確認できない。雨のせいで視界がぼやけ、目をこらすうちにタクシーは左折して、赤い傘の女性と離れてゆく。
「タクシーを停めてください」
いまなら、タマシイを救えるかもしれない。そう思った螢介は、からだが動いた。「さくやさんも、いっしょにきてください」運転手は「しかたないな」と応じて、ドアをあけた。
「見えますか? あそこにいる女性は、三島家に嫁いだ夫人で、傘を、とどけようとしています」
「そうだね」
「あの黒傘って、さくやさんのものですよね? だったらはやく、女性のタマシイを救ってあげたほうがいい。雨がふるたび、何十年も、あなたの傘を、旦那のもとへとどけようとしている。ちがいますか?」
〘つづく〙
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