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ささやく池とカエル
しおりを挟むなぜ、風が吹いてもいないのに、池の水面に波紋ができるのか。静かに泳ぐ魚たちが、ひそひそと会話をしているから。水底にいるものが、呼吸をするようにささやいているから。その声をきいてしまったカエルは、ぴょんっと池にはいって、二度とあがってはこなかった。
「なんですか、その話。おとぎ話?」
さくや亭でアルバイトをする螢介は、人でないものをめぐる事件に遭遇する機会が多くなった。相手の状態によって対処は異なるが、螢介にできることは少ない。ただ、亭主がいるかぎり、螢介のタマシイが消えてなくなることはない。暗闇の生業は、タマシイをつかんで仕事をさせることである。とはいえ、器がなければタマシイは消滅する。螢介は、運よく、もとのからだにタマシイを囚われている。炎估が(螢介の肉体を)とどめていなければ、行きずりの死体へタマシイをいれることもできた。
雨に打たれて立ちつくす螢介は、ジャージの上着を脱いで頭からかぶると、赤い傘の女性を追いかけた。亭主はついてこない。タクシーのなかへもどり、座席に深くもたれた。
「……天蔵くん、きみの勇気と探偵ぶりは評価に値するが、ふつうは、地上にとどまることはできないんだ。池に飛びこんだカエルのように、真実のささやきとひきかえに、水底にとらわれてしまう」
救いたくても、救えないタマシイもある。三島家の夫人は、子どもがほしかった。もとより、縁談のさい、嫡子を生むことが絶対条件だった。しかし、身ごもったのは恵御子だった。夫人は、日ごとに産気づく恵御子が妬ましくなり、男など生まれてこなければいいと、呪文を寺の住職からおそわり、魔よけのことばとして、座敷のまえで唱えつづけた。その結果、病弱な女児が誕生する。男児以外に家督を継ぐ権利をあたえない大叔母は、恵御子の死後、女児を親戚にあずけた。それからまもなく、三島家は朽ち果てた。
「すみません」
赤い傘の女性に追いついた螢介には、たしかめたいことがあった。仏壇の遺影について疑問が残る。老婆の正体がわからない。恵御子だと思ったが、彼女は短命だった。すべてをうしなったあとも年月を重ねた女性は、夫人である。……あの老婆は、三島の嫁さんなのか?
ザァッと、激しい雨がふっている。ゆっくりふり向いた女は、一瞬、おどろいた顔をして、螢介を見つめた。
「まあ、あなた、こんなところにいらっしゃったの。さあ、傘をどうぞ」
黒傘をさしだした女性は、三島夫人ではなく、義姉の恵御子だった。雨のふる夜だけ、彼女は冷めた肌をあたためることができる。
「すみませんが、その傘は、うけとれない。おれは、ケイちゃんでもなければ、あなたの弟さんでもない。……あなたのタマシイは、未練と後悔にとらわれている。ご自身を救いたければ、それを叶える人へ、逢わせることはできます。いっしょに来ますか?」
いつまでも界面に彷徨うタマシイは、やがて空蟬や亡人となって人間を襲うかもしれない。そうなるまえに消滅させることが望ましい。螢介は予感がした。恵御子を成仏させることで、三島家は、ほんとうの意味で救われる。廃墟を彷徨うタマシイは、恵御子だけではなかった。
おれは願わない。
だけど、願うのは自由だ。
だれだって、神頼みくらい
したっていいんだからな。
螢介のポケットから老婆の写真を抜きとり遺影にもどした人物は、座敷の奥にいる。呪われた三島家から、出てゆける日を待っていたにちがいない。
「おれは、ただの高校生で、天蔵螢介と云います。……恵御子さん、この雨のなかを歩くのは、もう終わりにしませんか? あなたが行くべき場所は、娘さんがいるところだと思います。雨に、心を惑わせてはいけない」
景ちゃんの正体は、恵御子が生んだひとり娘だが、両親よりさきに亡くなっている。……まさかな。螢介は、死因を考えないようにした。
〘つづく〙
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