あやし聞書さくや亭《十翼と久遠のタマシイ》

み馬下諒

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ささやく池とカエル

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 池の水は透明なのに、底までは見えない。飛びこまなければ、ささやきの正体を知ることはできない。真実にのみこまれたカエルは、泡となって消えるのか、もがき苦しむのか、それとも──。


「そうですねぇ。人間の存在は自由そのものですが、視線を投げかけられたとたん、他者を認識する。社会的状況に拘束されてしまうと、身勝手な想像と選択をくり返すようになる。われわれの責任は、各人が想像しうるよりも、はるかに大きいということを、忘れはててしまうんだ」

「さくやさんは、なにも想像しないンですか」

「しないよ。厳密に云うと、精神活動は時間性のなかにあらわれるものだからね。わたしは、認識論上の外側にいる」

「ふうん? 超越者ちょうえつしゃってこと?」

「時熟の仕方を了解しているだけさ」

「よくわかんねぇ。……あの女性ひとのタマシイが消滅するとき、ちょっと神秘的だなと思ったけど」


 タクシーを運転する亭主は、後部座席にもたれる螢介に「想像力に富んだ人間は、性的な現象ほど信じたがる傾向がある。自己に照準をあわせ、解放的にもなる」といって、微かに笑った。三島家の謎解きを達成した螢介は、「あの傘って……」と、なにかを云いかけてやめた。すべての物事に意味を立てて考えると、思考が正常に機能しなくなる。……とにかく、救えたんだ。はやく帰って、ゆっくり寝たい。

 界面の空気は、螢介にとって負担が増す。思うように力がはいらなかった。……いま、池のなかに飛びこんだら、気持ちよさそうだな。

 
 恵御子の立場を気の毒に思った螢介は、三島家の夫人はカエルになったのだろうかと思った。人間の欲が、水面に波紋をひろげる。生きている人間も死者も、現実にとらわれすぎている。まぶたを閉じると、からだが楽になった螢介は、そのまま浅い眠りについた。


 ポチャンッと、水の音がきこえる。つくりだされた意味を知るまえに、操作された集団を破壊せよ。個々人を否定するまえに、世のなかの常識をうかたがえ。諸必要を満足させてくれる世界を創立しようとする努力は、虚構なのであって、生みだされた現象に主観はのみこまれてしまうだろう。


『けっきょく、みんなじぶんかってなだけじゃないかしら。ごうまんなのよ』


 さくや亭に帰宅した螢介は、亭主の背中に負ぶわれていた。豊満な肉づきハイプロポーションであらわれたネコは、長い髪を風估ふうこに結んでもらい、手足が透ける淡い紅藤べにふじ色のワンピースを身につけていた。螢介が目のやり場に困る必要はなくなったが、距離感が悩ましい姿である。

「天蔵くんは、よくやってくれたよ。タマシイも成長しただろう」

『そのざまでか?』

 ネコは、わざとらしく鼻息を吐くと、台所へ向かった。冷蔵庫をあけ、おさかなソーセージをくわえてどこかへ姿を消した。亭主は螢介を部屋まで運び、布団を敷いて寝かせた。しばらく寝顔を見まもる亭主の背後で、炎估えんこが口をはさんだ。


「ずいぶん、まわりくどいことをさせるんだな」

「天蔵くんが大事だからだよ」

「そんなに大事なら、なぜ行かせた」

「むかしから、かわいい子には旅をさせろって云うだろう」

 螢介を一瞥して、どこがだよと悪態づく炎估は、雨あがりの庭が見える窓へ視線をうつした。大きな水たまりが池のように見えた。一匹のミドリガエルが、ポチャンッと、たったいま、静かに飛びこんだ。

 井の中のかわず大海を知らず。井戸の中にいる蛙とは海について語りあえない。物事も景色も、立ち位置によって、まったくちがうものに見えてくる。炎估の目にうつる螢介は、子どもと変わらない未開思考の持ち主で、自体価値が不明な少年だった。


〘つづく〙
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