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対決
しおりを挟む帳場に坐る老人は、潤朱色の傘を手に、ぼんやりとしていた。もとはといえばまじめで、愛想のよい商人である。螢介の意識を奪ったのは、老人が手をかけたわけではない。潤朱の傘をひらいた瞬間、呪力は効果を発揮するように仕込まれていた。屋根裏から抜けだしたネコは、近所の洗濯物を拝借して人型になると、さっそく舗のなかへ踏みこんだ。
「いらっしゃいませ……」
『どぉも、すみません~、わすれものを、とりにきましたのだぁ』
「はて、忘れものとな?」
『これくらいのぉ、かみぶくろなんですけど~』
独特な語尾とくねくねした指の動きと、豊満な肉づきに気をとられる老人は、あたふたと傘をたたんで奥の間へ姿を消した。がさごそと物音がして、ドスドスと大股でもどってくる。
「こ、こちらで、よろしいですかな?」
『はぁい、たぶんそうですぅ。すこしまえ、うちのひとが、かいものにきましたでしょう? なんでもぉ、きれいないろのかさにみとれて、うっかりわすれてしまったそうなの~。まったく、こまっちゃうわよね~』
「きれいな傘? ああ、あちらのですかい? お若いのに、ご夫人のお目も高いですな。あいにく、お客さまから修理依頼の品でして、売りものではございません」
老人は潤朱の傘を手にとり、ことさらに鼻のしたをのばして「ぐひひっ」と笑い声になる。あきらかにようすがおかしいのは、傘に魅了されて、持ち主にあやつられているからだ。
『あらぁ、まあ、それはざんねんですの~。ところでぇ、おくのほうから、うちのひとのにおいがするんですけど、もしかして、おじゃましてませんかぁ?』
傘の呪力にひけをとらないほど色香をふりまくネコは、浴衣の衿をひらいて、いまにもこぼれそうな胸もとをちらつかせた。
「に、においですかい? はて、そのような憶えはございませぬが……、ぐひひっ」
老人は傘を手放すと、無遠慮に腕をのばしてくる。乳房をわしづかみにされそうになったネコは『いやだ、ごしゅじんったら、はれんち~』といって、思いきり鳩尾を蹴りつけた。老人は「ぐほぉっ!!」と叫び、下手をすれば骨が折れそうな勢いで転倒したが、ネコは舗の奥へ駆けだした。
『けいすけ、いま、いくのだぁ! まだ、いきているな!? にゃにゃっ、いそぐのだ!』
姿こそ確認できないが、雪里の母親も同じ空間を彷徨っている。どちらがさきに螢介のもとまでたどりつけるか、運にもよる状況だった。座敷牢は、現在から切り離された場所にある。いちど見つけても、ふたたび同じ道からはたどりつけない。屋根裏から空間のひずみへもぐりこんだネコは、次なる手段は正面突破しかない。紙袋のなかには、螢介の浴衣と呪具の文鎮がしまってある。座敷牢さえ見つかれば、亡人と闘うことができる。
『けいすけ、どこだ! どこにいるのだ! においはするのに、みつからないのだぁっ!!』
梅花の香料がネコの鼻をつく。少年の母は、ろくでもない夫にタマシイが喰われたショックで、人間のふりをつづける亡人と化したが、雪里は見捨てなかった。
夜になる──「きみ、日付を越えたね」
ぼくがいって ぼくが願った
質問をうける 頭を横にふる
なにもかも 消してしまおうか
あれは飢えているといわれた
(中略)──「きみの母親だよ」
ぼくは いま
おそろしいことにとりつかれている
頭を横にふらなくては
ならないのに
──「許されては、いけない」
でも、あれは待ってくれない
ぼくの人生は決定されている
「なぜ、そう思うの?」
おなかを空かせた魔物が
大きな口をあけて待っているから
「父は、暴力をふるったのだね」
ぼくの禍ごころ 深くなる
ぼくは 父にさからえない
ぼくは 母を助けなかった
ぼくこそ 醜い鬼だ
「そうではない。きみは、生者にもどるんだ」
螢介とネコが奮闘する最中、さくや亭では、炎估が亭主の室で眉をひそめていた。いちばん最初に少年の声をきいた亭主は、螢介よりさきに聞書をしている。螢介を雪里の母親と対決させる理由は、経験を重ねるためだろう。
「小者を養ったところで、じゃまになれば、おれに灼かれるだけだぜ」
炎估にとって中途半端な螢介は鬱陶しい存在だが、役にたつうちは見過ごすことにした。
〘つづく〙
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