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螢介、聞書に挑ム
しおりを挟むじぶんが死にかけたとき、第三者の存在は大きく見えた。いま、なにが起きているのか、螢介は緊迫した空気のなかで、思考をめぐらせた。
「おい、しっかりしろ!」
雨のふりしきる早朝、舗道に人影はなく、螢介ひとりが事故の目撃者となった。力なく倒れこむ人影は、螢介と同じ学ラン姿である。肩を抱きおこして気道を確保すると、外傷の有無に目をこらした。出血は見あたらないが、同年代と思われる少年は、意識を失っていた。いつまでも冷たい雨に打たれているのは、よろしくない。……見た感じ、怪我のていどは低そうだけど、動かしてだいじょうぶか? もし、骨でも折れていたら、悪化するよな。
「……くそっ、迷ってる場合じゃねぇよ。痛かったら、すまん。動かすぞ」
いつ、車が走ってくるかわからない。車道で考えるより、安全な場所へ移動することにした。少年を抱きあげて舗道へ運ぶと、ガードレールに寄りかからせ、顔面にあびる雨水を避けるため黒傘を斜めにさした。
「しっかりしろよ。いま、救急車を呼んでくるからな」
公衆電話を探すより、石づきなめこ商會へもどったほうが距離が近い。びしょぬれになって走り、風估に助けを求めた螢介は、唖然となる。番傘をさして(のんびり)歩く風估は、螢介の背中を見つめ、「そやつが、怪我人とな?」と、首をかしげた。
「そうだよ。さっき、トラックと接触して倒れたンだ。はやく、手当てしないと!」
「おぬしは、事故の瞬間を見たのじゃな?」
「その瞬間は見てねぇけど、クラクションが鳴って、ふり向いたら、そこに……」
あれ? 車道を指さしながら、螢介は違和感に気づいた。横断歩道のない大通りにつき、少年が車道へ飛びだしたことになる。雨のなか、視界は悪い。見たところ、傘もさしていなかった。学生かばんもない。ただ、学ラン姿で、大通りを横切ったのだ。
「なんでだ? こいつ、まさか、自殺未遂とかじゃないよな?」
「わしに訊いてどうする。本人が目のまえにおるのじゃ。回復を待って、たずねるがよい。……そんなにずぶぬれては、おぬしとて、学校どころではなかろう」
風估は、ため息を吐く。螢介はなりふりかまわず少年を助けようとしたが、結果として、やっかいなものを拾ってしまった。登校をあきらめて少年を背中に負ぶると、風估にポカッと額を叩かれた。
「なんだよ」
「なんだよ、ではない。そんな背負いかたをするやつがあるか。尻子玉を抜かれても知らんぞ」
「……おれの、ウロコのことか?」
「尻子玉は肛門の内側にある臓器で、河童が好んでひき抜くのじゃ。抜かれたものは、心神喪失状態となって、タマシイごと喰われるぞ」
「こんなときに冗談はやめてくれ。……だったら、なめこさんが負ぶってくださいよ」
「わしは、か弱いのじゃ。人間など、抱きあげられんわい」
うたがわしい情報を耳にした気もするが、心配になった螢介は、いちど少年をおろすと、膝のしたに腕をまわしいれ、お姫さま抱っこで運ぶことにした。両手がふさがり傘を持てないため、脇から風估が黒傘をさしだして歩く。ぬれた前髪が額に張りつき、からだが冷えていく。石づきなめこの座敷へあがりこみ、少年を裸身にして水滴を拭きとると、風估が用意したパジャマを着せた。……緊急事態だからな。勘弁してくれよ。
少年の躰つきは華奢で、大事なものも細い腰に均しい形状をしている。つい、じっくり見てしまった螢介は、うしろめたさにとらわれつつ、タオルを借りて、風呂場へ向かった。学ランを脱ぎ、硝子戸をくぐると、檜のにおいが満ちた湯気が、湯船から立ちのぼっていた。床板に、筆が転がっている。螢介は腰にタオルを巻いて片手で拾い、茶色の穂を見つめた。
「これって獣毛だよな。……馬かな?」
書道筆の条件は、四徳のすべてを備えているものがよい。とくに、尖の要素が重要である。穂先が尖っていて、まとまりがあるかどうか、墨を含んださい、穂先がばらばらで短い毛が飛びだしてしまう筆では、なめらかな線や、力強い文字を汚してしまう。
「だれの筆だよ」
まず、風呂場に落とすようなものではないのだが。
〘つづく〙
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