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帰宅、それから
しおりを挟むいまさら後悔しても遅い、なんてことばは多方面で見かけるが、おれは、後悔してからでは遅い、というひびきのほうが気に入っている。
……なあ、雪里、もう少しだけ、待っててくれよ。からだが動くようになったら、おまえに、両親のことばをきかせてやる。絶望にうちひしがれる年月は、終わりだ。せっかく生まれてきたんだ、もっとたくさん笑って、新しい記憶を愉しもうぜ。……悲しむのは、ときどきでいいんだ。
「……躰じゅう、痛ぇ」
目を覚ました螢介は、見慣れた天井の木目をながめ、さくや亭にもどってきた現実に安堵した。長らくネコとふたりで過ごしたが、亭主への関心ばかり深くなった。ごそっと、布団から上体を起こすと、なぜか学ラン姿だった。……だれだよ、こんなの着せたやつは。ネコか? ……ったく、ご丁寧に下着まで変えてあるぜ。
ウロコの確認はしない。裏庭の感覚で、二枚ともついていることがわかる。しだいに、じぶんの存在が人間離れしていく錯覚にとらわれた。
「……泣けるぜ」
布団をたたんで廊下にでると、台所では亭主が夕食を用意していた。
「先生」
「やあ、よく眠れたかい? おなかが空いているだろう。ちょうど焼きあがったところだよ、お食べ」
オーブントースターのグラタン皿から、焦げたチーズの香ばしいにおいがたつ。螢介は椅子に坐って、木製のフォークとマグカップをうけとった。後者の中身は、たまねぎのコンソメスープである。洋食はひさしぶりだった。「いただきます」「はい、どうぞ」腹の虫がうるさいので、食事に集中する。亭主は、調理器具を洗ってから、向かい側の椅子をひいて腰かけた。螢介は柱時計で時刻を確認した。夜半である。すっかり寝過ごしていた。
「あれから、どれくらい経ってるンだ?」
少年の時代にさかのぼり、両親と決着をつけるあいだ、さくやのそばには炎估がいた。十翼とふたりきりの状況は、気になるところだ。螢介の正面に腰かける亭主は、きれいな顔で微笑した。
「一日だよ」
「たったのか? おれとネコは、ふた月くらい夫婦生活してたのに……」
「もしや、いっしょに寝たの? 子どもができたら、わたしがひきとるよ」
「そういう冗談はやめろ。ネコとは、なにもしてねぇよ。おれは犬派だ。先生こそ、どうなんだ。炎估のやつに、変なことされなかったか?」
「わたしと炎估は、きみが思うような関係ではないよ。……ネコは、役にたっただろう?」
「まあな。全裸で動きまわるのは勘弁してほしいけど」
螢介は、わざとらしく溜め息を吐いた。グラタン皿とマグカップを空にすると、少年についてたずねた。
「あす、雑貨商へ行っておいで。きみの働きぶりは、地估から聞いたよ。ご苦労だったね」
「ちこって、だれだっけ?」
「此度の件に介入した十翼のひとりだ。天蔵くんは、地估に負ぶわれて帰ってきたんだよ。彼から、聞書もうけとっている」
「聞書……! そうだ、おれ、母親の声を書き記して、なんとか亡人を救いたかったンだ。でも、失敗か? だから、十翼が出てきたンだろう?」
「そうではないよ。地估は人間が好きだし、天蔵くんは失敗なんかしていない。きみが救うべき相手は、雪里少年だからね。だれにも聞こえなかった母の声を、とどけることができたんだ」
生者のタマシイをつかめる亭主でも、亡者のタマシイは在処をさぐれない。罪の意識に問いかけ、自らのことばで赦しを乞わないかぎり、タマシイをつかめないのだ。聞書によって、少年の母親は正気をとりもどした。それから、わが子をたのみますと云って旅だつ。
「……あのよ、先生」
働きぶりを評価する第三者(地估)の存在は、好都合である。螢介は相応の報酬を亭主に所望した。
「約束どおり、褒美をくれないか」
「お希みはなにかな?」
「先生を調べたくなった」
「わたしを? 裸身になれってことかい?」
「それもいいけど、詳しく知りたいのは先生の素性だ。いろいろ話してほしい」
「いろいろ、ですか……。そうですね……」
亭主は、困惑の表情を浮かべた。
〘つづく〙
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