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待つことの向こう側
しおりを挟む亭主の意識が回復せずに、丸二日が経過した。未明から霧雨がふっている。寝不足で朝を迎えた螢介は、水道で顔を洗うと、咲夜のようすを見にいった。
「炎估? なにしてるんだ」
座敷に寝かせてある亭主のからだは、あまりにも無防備だった。十翼の炎估は咲夜を裸身にして、裏庭へ腕をすべりこませている。
「なにって、たしかめているだけだ。人間は大事なものを隠すからな」
「たしかめるって……、おい、どこを触ってるんだよ! やめろ!」
亭主の下肢に這う指を見た螢介は、炎估の腕をふりはらった。咲夜の肩を抱き寄せて「先生に変なことするな」と抗議する。
「変な目で見ているのは、おまえのほうだろうが。こいつのからだは、じきに使いものにならなくなる」
「なんとでも云え。とにかく、先生のからだに触るな。……使いもの?」
「日照にからだを譲り渡せば、咲夜は空蟬同然だ。人間としての機能を喪う。二度と、泣くことも笑うこともない」
「……だから、阻止するんだよ。先生の血筋は呪われている。どんなに日照がすごいやつだとしても、だれかを犠牲にして世の中を平和にするなんて改めるべきだ。幽闇家に生まれたやつらだけが不公平じゃないか。一族の宿命とか名誉とかの話じゃない」
「いかにも手前勝手な意見だな」
「ふん、なんとでも云えよ」
螢介は裸身の亭主を抱きあげると、二階へ移動した。住み込み部屋としてあたえられた六畳間に運んで、じぶんの布団に寝かせると、聞書の準備をはじめる。
「あまり猶予がねぇからな。おれに、先生の声をきかせてくれ」
硯に墨を磨ると、畳のうえに巻紙をひろげた。石づきなめこ秘蔵の筆に墨をふくませる。まぶたを閉じて耳をかたむける螢介は、指先に集中した。サァサァとふる雨の音に、亭主の息づかいが交じる。自らの鼓動を感じとり、自然に筆を発す。
……聞こえる。これは、
先生の声だ。でも、まだ小さい。
もっとよく、聞かせてくれ。
安らかな死人のような表情をして眠りにつく亭主は、生まれたとき、日照の供物として身を捧げることが極まっていた。幽闇家がその兆しをとらえたのは、咲也の裏庭にしるしを発見したからである。それがどんなかたちをしているのか、知る方法は直接さぐるしかない(炎估は気づいて、しるしに触れている)。
おれは、いくらでも待てる。
先生がこたえてくれるまで、
ずっとそばにいるからな。
……からなず、あなたを守る。
先生のタマシイは、
だれにも奪わせない。
聞書の姿勢で待機する螢介は、一時間以上、身動きせずに耳をかたむけていた。亭主のようすに変化は見られないが、いま、咲夜が見ているであろう夢を、螢介は頭のなかで共有していた。……これは、先生の子どものころの記憶か。
大きな屋敷の中庭で、老婆と鞠で遊ぶ小さな咲夜は、坊っちゃんと呼ばれていた。
「ばあや、ばあや、見て。ぼく、鞠をたくさんつけるようになったよ」
「どれどれ、ほほう、坊っちゃんはすごいね。りっぱだね。さあ、湯あみの時間になるよ。もどりましょうね」
「……ぼく、行きたくない」
「坊っちゃん?」
「湯あみは、いやだ。あのひとたち、ぼくのからだを洗うとき、おしりのまえをじろじろ見るんだもの」
「それはね、坊っちゃんの健康をたしかめているだけだよ。あのひとたちはね、ここでは使用人の立場なんだ。坊っちゃんの身になにかあれば、ただではすまされないんだよ」
「なにかって、なぁに?」
老婆を見あげる小さな咲夜は、裏庭のしるしについて、まだなにも知らされていない。日照が器の誕生に気づいてあらわれるタイミングはきまっており、そのときまで内密に育てられた。声変わりなど成熟過程が最終段階を遂げる区分に到達すると、外部との接触を避けるため、薄暗い蔵に閉じこめられた。雨の日も風の日も、ただ、食事をして眠りにつき、使用人たちにからだを清潔に保たれる日々がつづく。やがて、精神崩壊が起こる寸前となった咲夜は、十翼の存在を知る。
〘つづく〙
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