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第一章

僻事

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 内働きの奉公人たちを束ねる番頭の慈浪じろうは、縁側えんがわに腰をかけ、活版印刷の小新聞こしんぶんに目をとおしていた。ひと山向こうで起きた事件が、掲載されている。

 奉公人の若い男が、主人の女房と密通して、ひどい体罰を食らった末、はらわたが腐って死亡したという。女房の処遇しょぐうについては、なにひとつ明示されていない。縁側の先に見える坪庭つぼにわに、採種油と塩の小皿が、ふたつそろえて置いてある。鹿島屋では、近隣で人死ひとじになどの不幸が起こるたび、弔いの意味を込めて当主がそなえる風習があった。隠居いんきょした大旦那の代に、同じ光景を幾度となく見かけた慈浪は、それとなく理由をたずねたことがある。大旦那は口許くちもとに笑みを浮かべたが、少しばかり語気を強めて云った。

 
 ……これは、たんなる魔除けさ。化人けひと魂魄たましいに寄りつかれては、おたなの存続が危ぶまれる。とくに、千幸かずゆきは繊維な気質のようだから、いっそう気をつけなければならん。

 
 大旦那が当主だったころ、慈浪は鹿島屋にはいり、千幸の子守に使われた。まだ赤ん坊の若旦那に、穀粉を煮溶かして飲ませたり、湯の準備をしてからだを洗ったり、おしめを替えたりと、乳母うばのような役割を務めていた。大工の棟梁とうりょうだった慈浪に父親の経験などないが、幼子おさなごのあつかいは、自身でもふしぎなくらいうまかった。思えば、生まれたときから千幸のそばにいる存在につき、無条件で信頼されていたのかもしれない。実際、若旦那は手のかかる子どもではなかった。むしろ、成長したのちに、ようやく彼の弱点が判明する。

新右衛門しんえもん

 ふいに、気安く名前を呼ぶ声が聞こえた。慈浪をこのましく思う大旦那の女房は、別宅から、わざわざ逢いにやってくる。鹿島屋では大奥さまとしてしたわれる立場だが、慈浪にとっては余計な情念が、うっとうしく感じられた。だが、千幸の実母である以上、無下むげにはできない。

「大奥さま」

「まあ、つれないわね。ふたりきりのときは、抄子しょうこと呼んでくださる」

 長い髪をゆるく結び、るような足音で近づいてきた大奥さまの抄子は、慈浪のうなじを指先で軽く撫でた。通路の奥から、軽い足音が聞こえてくる。小走りで動きまわる結之丞は、大人おとなの事情など知らずに立ちどまり、礼儀正しく挨拶をした。

「番頭さん、大奥さま、こんにちは」

「あなたは確か……、あら、ごめんなさいね。お名前を忘れてしまったわ」

「自分は、睦月むつき結之丞と申します」

「そうそう、結坊ゆいぼうだわ。おしの、、、から、あなたの働きぶりは聞いています。よく、千幸さんと出かけるようで、もしや、医学の道に興味がおありなの」

「とんでもないです。自分なんか、荷物持ちくらいしかつとまりません……」
 
 鹿島屋に居坐いすわる抄子の姿は、結之丞の目にも留まっていた。当初のころは世間話が目的だと思われたが、実際は番頭と過ごす時間を楽しむためだった。年長の女中にかまどで使うまき割りの用を云いつかってきた結之丞は、番頭が手にしている小新聞の見出しに興味を引かれたが、会釈をして先を急いだ。


〘つづく〙
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