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8章 彼と彼女の約束
一件落着のその後
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ずっと夢をみていた。
暖かな水の中に浮かんで、青い空を見上げていた。
元の世界と代わらない太陽の輝き。流れる白い雲。風に揺れる緑。
満たされた気分で天を仰ぐ伊織の手には、黒い霧を閉じ込めたような水晶玉があった。
そこに、自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
――誰?
不意に強い風が吹いた。
風と共に、手に持っていた黒い水晶も舞い上がり、小さな無数の白い人影と共に空へ昇っていく。
人影の中に母の姿があった。白いぼんやりとした光に包まれた母は、微笑みながら青い空の中へ溶けていった。
ぼんやりとその様子を見送る伊織の手を、誰かが握ってくる。
最初は暖かくなじんだ手。いつまでも握っていてほしいような、不思議な感じがして心が安らぐ。だけど離れてしまった。
急に寂しくなったところで、誰か別な人が手を握り直す。
この手は誰の……?
もう一度目を開けようとすると、なんだか瞼が重かった。
瞬きを繰り返して、ようやく白い天井が見えた。
さっきの綺麗な空は、夢だったのだ。そして染みのある天井に、天国でもなく人の世界にいることを実感した。
生きてるんだ、とほっと小さく息をついたら、声をかけられた。
「姉貴?」
涙声に、伊織はそちらを振り向く。
真赤に充血した自分と同じ色の目が、食い入るように見つめてくる。短い髪もバサバサで、そして祈るように胸元で伊織の手を握り締めている。
肩も広くなってこんなに大人びたのに、その仕草がアンバランスで、思わず頬がゆるんだ。
「ごめんね、悠樹」
この世界では立派な大人になったっていうのに、泣かせてしまったのは自分だ。母を召喚早々に亡くしているのに、姉まで召喚したとたんに死んでしまったら、悠樹の心は深い傷を負っただろう。
でも助けたかった。
母が救ったフレイを死なせたくなかった。アルヴィンを守りたかった。もう母のときのように、誰かに死なれて後悔したくなかったと言うと、
「この、バカ姉貴」
悠樹は搾り出すように一言告げて、枕元に顔を伏せてしまった。白いシーツの上に、日に焼けた頬が押し付けられている。
伊織はなんとか寝返りをうつと、右手を伸ばして悠樹の頭に触れた。少し堅めの髪を撫でると、悠樹が文句を言ってきた。
「俺のこと待てって言ったのに……」
「ごめんね」
でも悠樹は、伊織を責めはしなかった。
悠樹も、伊織と同じ状況にいたら同じ事をしたと思ったのかもしれない。勇者なんていう自己犠牲が必要な職業を選択した弟なのだから。
「ところでここは?」
王宮ではないのはわかる。
「ミュルダールの城近くにある宿だよ。とりあえず目を覚まして、体力が戻らないと王宮まで転移させられないから。かといって魔がはびこってた城には置いておけないから、ここになった」
「アルヴィンとフレイさんは?」
自分が無事でここに悠樹がいて、あの二人が助からなかったはずがない。
ややあって起き上がった悠樹は、おもむろに立ち上がる。伊織が寝ている寝台脇の机に近寄ると、そこにあった金盥の水でばしゃばしゃと顔を洗い、それから答えた。
「アルヴィンはさっきまでここにいて、姉貴の面倒見てた。今は、追ってきたシーグにミュルダールの城の始末について、引き継ぎしに行ってる」
領主のミュルダール伯が死亡した上、多くの臣下が謀反人の片棒をかついでいたのだ。
まとめて一斉に処罰をするにしろ、魔に浸食された後始末をするにしろ、処理をするために王家の人間がいなければならない。かといってアルヴィンもフレイも休養が必要だ。
「シーグって弟だけは猫かわいがりするからな」
との悠樹の評通り、シーグは彼らを伊織ともども王宮に帰すため、自らが辺境に乗り出してきたのだという。
「みんなから話聞いたけどさ、ミュルダールは結局、自分の評判や懐具合ばかり気にして、魔が再度現れたと言い出せなかったみたいだね」
既に一度、ミュルダールの領地は魔に浸食されていた。
それは仕方のないことだった。魔が現れる時期は、誰しもが突然訪れる同じ不幸にさらされるのが常だ。
魔法の先見ですら、出現位置はわからないという。
しかし二度同じ領地で発生するのは希だ。だからミュルダールは王家に連絡するのを恐れた。
自分に何か不手際があったのだと思われたくなかった。何か怪しい術でも実行しているのかと疑われたあげく、領地を監査されて、余計なことまで掘り出されたくないと考えたようだ。
それだけ彼は、いろいろと後ろ暗いことを抱えていたようだ。
モルドグレスのみならず、他の国とも何らかの密約を結んでいた可能性があるらしい。
「ミュルダールの領地に魔が現れたのは、つい三日前らしいよ。ミュルダールはなんとか自領の魔術師に封じさせようとしたけど……まぁ、無理だったわけだよね」
あの妙な魔方陣は、ミュルダールの悪あがきの結果だったのだろう。
そんな彼が焦った末にとった行動が、勇者の姉を利用する事だった。幸い、モルドグレスが伊織略取をもくろんで動いていたし、それに協力するため、ミュルダールも自分の手の者を王宮に潜ませていた。
勇者の姉を誘拐し、引き替えに、魔が現れた件を王家に口止めする。
そのためだけに、伊織は攫われた。
「ミュルダールがおかしくなったのは、たぶん魔が入り込んだからだ」
魔は人の身体に入り込んで発狂させる。そのため魔に浸食された土地では、人々がわけもわからず殺し合うこともあるという。
「でも、どうしてミュルダールに?」
「それがわかんないんだけどさ。でも、フレイからその時の状況は聞いたよ」
だから俺の推測でしかないんだけど、と悠樹は前置きする。
「たぶん、異世界の血をいやがったんじゃないかと」
悠樹の仮定はこうだ。
なぜ悠樹が勇者と予見されたか。それは異世界の血が流れているせいだろうと、彼自身は思っていたようだ。
同じように、伊織もまた異世界の血を持っている。なので、滅ぼされはしなくても、伊織の血に対して魔がなんらかのダメージを受けたのだ。
そう考えると、魔が傷に触れたとたんに悲鳴が聞こえた事や、逃げるようにミュルダールの中へ消えたのも納得できる。
「まだ仮定だ。でもこれが本当だったとしても……誰にも言うなよ」
悠樹が真剣な表情で釘を刺す。
「シーグが言ってた。このままだと、姉貴も俺も手近な異世界人として別な価値が出る可能性があるんだ」
「……それは、新しい勇者を作ろうとか、そういうこと?」
そんな事を考える者が現れたら、自分がいったいどうなるのか想像しかけて、
「うへぇ」
伊織は嫌さたっぷりに呻く。
「そんなわけだから、なるべく姉貴を早く帰すことになった。今回のことで、シーグがあちこちの国に圧力かけてくれるだろうから、元の世界にいた方が安全だからな。ごめんな。もう少しゆっくり話もできるかと思ったんだけど……」
伊織は笑ってみせる。
「ううん。わたし、ここに来られただけで良かった。母さんが死んだ理由もわかったし。たぶんもう、手紙で母さんのことぐじぐじ書いたりしないと思う」
母さんが最後に守ったフレイを、自分も守ることが出来た。悠樹の友達アルヴィンも無事でいてくれた。
なにより、少しだけ弟の手伝いができたのかもしれないと、そう思うから。
「うん、もう書いて来るなよな」
悠樹はうなずいて、再会してから初めて笑ってくれた。
暖かな水の中に浮かんで、青い空を見上げていた。
元の世界と代わらない太陽の輝き。流れる白い雲。風に揺れる緑。
満たされた気分で天を仰ぐ伊織の手には、黒い霧を閉じ込めたような水晶玉があった。
そこに、自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
――誰?
不意に強い風が吹いた。
風と共に、手に持っていた黒い水晶も舞い上がり、小さな無数の白い人影と共に空へ昇っていく。
人影の中に母の姿があった。白いぼんやりとした光に包まれた母は、微笑みながら青い空の中へ溶けていった。
ぼんやりとその様子を見送る伊織の手を、誰かが握ってくる。
最初は暖かくなじんだ手。いつまでも握っていてほしいような、不思議な感じがして心が安らぐ。だけど離れてしまった。
急に寂しくなったところで、誰か別な人が手を握り直す。
この手は誰の……?
もう一度目を開けようとすると、なんだか瞼が重かった。
瞬きを繰り返して、ようやく白い天井が見えた。
さっきの綺麗な空は、夢だったのだ。そして染みのある天井に、天国でもなく人の世界にいることを実感した。
生きてるんだ、とほっと小さく息をついたら、声をかけられた。
「姉貴?」
涙声に、伊織はそちらを振り向く。
真赤に充血した自分と同じ色の目が、食い入るように見つめてくる。短い髪もバサバサで、そして祈るように胸元で伊織の手を握り締めている。
肩も広くなってこんなに大人びたのに、その仕草がアンバランスで、思わず頬がゆるんだ。
「ごめんね、悠樹」
この世界では立派な大人になったっていうのに、泣かせてしまったのは自分だ。母を召喚早々に亡くしているのに、姉まで召喚したとたんに死んでしまったら、悠樹の心は深い傷を負っただろう。
でも助けたかった。
母が救ったフレイを死なせたくなかった。アルヴィンを守りたかった。もう母のときのように、誰かに死なれて後悔したくなかったと言うと、
「この、バカ姉貴」
悠樹は搾り出すように一言告げて、枕元に顔を伏せてしまった。白いシーツの上に、日に焼けた頬が押し付けられている。
伊織はなんとか寝返りをうつと、右手を伸ばして悠樹の頭に触れた。少し堅めの髪を撫でると、悠樹が文句を言ってきた。
「俺のこと待てって言ったのに……」
「ごめんね」
でも悠樹は、伊織を責めはしなかった。
悠樹も、伊織と同じ状況にいたら同じ事をしたと思ったのかもしれない。勇者なんていう自己犠牲が必要な職業を選択した弟なのだから。
「ところでここは?」
王宮ではないのはわかる。
「ミュルダールの城近くにある宿だよ。とりあえず目を覚まして、体力が戻らないと王宮まで転移させられないから。かといって魔がはびこってた城には置いておけないから、ここになった」
「アルヴィンとフレイさんは?」
自分が無事でここに悠樹がいて、あの二人が助からなかったはずがない。
ややあって起き上がった悠樹は、おもむろに立ち上がる。伊織が寝ている寝台脇の机に近寄ると、そこにあった金盥の水でばしゃばしゃと顔を洗い、それから答えた。
「アルヴィンはさっきまでここにいて、姉貴の面倒見てた。今は、追ってきたシーグにミュルダールの城の始末について、引き継ぎしに行ってる」
領主のミュルダール伯が死亡した上、多くの臣下が謀反人の片棒をかついでいたのだ。
まとめて一斉に処罰をするにしろ、魔に浸食された後始末をするにしろ、処理をするために王家の人間がいなければならない。かといってアルヴィンもフレイも休養が必要だ。
「シーグって弟だけは猫かわいがりするからな」
との悠樹の評通り、シーグは彼らを伊織ともども王宮に帰すため、自らが辺境に乗り出してきたのだという。
「みんなから話聞いたけどさ、ミュルダールは結局、自分の評判や懐具合ばかり気にして、魔が再度現れたと言い出せなかったみたいだね」
既に一度、ミュルダールの領地は魔に浸食されていた。
それは仕方のないことだった。魔が現れる時期は、誰しもが突然訪れる同じ不幸にさらされるのが常だ。
魔法の先見ですら、出現位置はわからないという。
しかし二度同じ領地で発生するのは希だ。だからミュルダールは王家に連絡するのを恐れた。
自分に何か不手際があったのだと思われたくなかった。何か怪しい術でも実行しているのかと疑われたあげく、領地を監査されて、余計なことまで掘り出されたくないと考えたようだ。
それだけ彼は、いろいろと後ろ暗いことを抱えていたようだ。
モルドグレスのみならず、他の国とも何らかの密約を結んでいた可能性があるらしい。
「ミュルダールの領地に魔が現れたのは、つい三日前らしいよ。ミュルダールはなんとか自領の魔術師に封じさせようとしたけど……まぁ、無理だったわけだよね」
あの妙な魔方陣は、ミュルダールの悪あがきの結果だったのだろう。
そんな彼が焦った末にとった行動が、勇者の姉を利用する事だった。幸い、モルドグレスが伊織略取をもくろんで動いていたし、それに協力するため、ミュルダールも自分の手の者を王宮に潜ませていた。
勇者の姉を誘拐し、引き替えに、魔が現れた件を王家に口止めする。
そのためだけに、伊織は攫われた。
「ミュルダールがおかしくなったのは、たぶん魔が入り込んだからだ」
魔は人の身体に入り込んで発狂させる。そのため魔に浸食された土地では、人々がわけもわからず殺し合うこともあるという。
「でも、どうしてミュルダールに?」
「それがわかんないんだけどさ。でも、フレイからその時の状況は聞いたよ」
だから俺の推測でしかないんだけど、と悠樹は前置きする。
「たぶん、異世界の血をいやがったんじゃないかと」
悠樹の仮定はこうだ。
なぜ悠樹が勇者と予見されたか。それは異世界の血が流れているせいだろうと、彼自身は思っていたようだ。
同じように、伊織もまた異世界の血を持っている。なので、滅ぼされはしなくても、伊織の血に対して魔がなんらかのダメージを受けたのだ。
そう考えると、魔が傷に触れたとたんに悲鳴が聞こえた事や、逃げるようにミュルダールの中へ消えたのも納得できる。
「まだ仮定だ。でもこれが本当だったとしても……誰にも言うなよ」
悠樹が真剣な表情で釘を刺す。
「シーグが言ってた。このままだと、姉貴も俺も手近な異世界人として別な価値が出る可能性があるんだ」
「……それは、新しい勇者を作ろうとか、そういうこと?」
そんな事を考える者が現れたら、自分がいったいどうなるのか想像しかけて、
「うへぇ」
伊織は嫌さたっぷりに呻く。
「そんなわけだから、なるべく姉貴を早く帰すことになった。今回のことで、シーグがあちこちの国に圧力かけてくれるだろうから、元の世界にいた方が安全だからな。ごめんな。もう少しゆっくり話もできるかと思ったんだけど……」
伊織は笑ってみせる。
「ううん。わたし、ここに来られただけで良かった。母さんが死んだ理由もわかったし。たぶんもう、手紙で母さんのことぐじぐじ書いたりしないと思う」
母さんが最後に守ったフレイを、自分も守ることが出来た。悠樹の友達アルヴィンも無事でいてくれた。
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