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第六章 穢れなき友哉と大妖狐あきらと
6-(3) 魔の穢れ
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俺はもう女への関心を失って、友哉に目を下ろした。
首元の血は止まって見えるけれど、顔は青白く、呼吸は弱い。
『んんっ、もどれ、人間にもどれっ』
戻りたいと思っても、獣の姿から人の形へ戻ることが出来ない。
人間に戻らなければ友哉を抱きかかえることも出来ないし、電話をかけることも出来ない。
公園内を見回すと、法衣姿の雑魚どもはほとんどが地面に転がっていて、それらを追い回していた式狼は俺の命令を待つようにこっちを見ていた。友哉の体を抱き上げられないのは、俺も狼も同じだ。雑魚なんかに友哉を触らせたくはないが、背に腹は代えられない。
『おい、その中に動ける奴はいるか。こっちへ……』
言いかけた時、屋敷の方角から黒い車が猛スピードで近づいて来るのが見えた。運転しているのは雪華だ。公園への散歩からなかなか帰らない俺達を、というより友哉を心配して来たんだろう。
「友哉君!!」
思った通り、車から降りての第一声で雪華は友哉を呼んだ。
「友哉君っ、友哉君っ!」
雪華の声は動揺で裏返っていた。
俺の異形の姿についての言及はなく、雪華は友哉しか目に入らないかのように足を引きずりながら駆け寄ってくる。
「ああ、どうしてこんな……」
首元の牙の痕を見るとちらりと俺を責めるように見たが、すぐに友哉へ視線を戻した。呼吸と脈を確かめ、雪華は蒼ざめた顔で友哉を抱き上げた。
『どこに行く』
「三乃峰病院へ」
『あそこはダメだ』
「あの病院は大賀見の息がかかっているから融通が利く」
『ダメだ。大賀見家に関わりの無いところの方が安全だ』
雪華はハッとしたように周囲を見回した。四方に散開している俺の式狼と、そこら中に転がる法衣姿の男女数十人、そして俺達の正面で弓を手に眠っている女。
「これは……」
本当に友哉しか目に入っていなかったらしい。
「大賀見家による襲撃なのか」
『他に誰が襲って来るんだよ』
「分かった。違う病院へ行こう」
びっこを引きながらも早足で友哉を車まで運び、
「ドアを開けられるか」
と俺を見るので、爪をひっかけて後部座席のドアを開けてやった。
「その姿では乗れないぞ」
後部座席に友哉を横たえながら、雪華が俺に言った。
『戻り方が分からない』
「人間に戻るのを待ってはいられない。先に行くぞ」
雪華が焦ったように運転席へ行こうとする。
「待って! 待ちなさい!」
耳を貫くような金切り声に振り向くと、さっき眠らせたはずの女がよろよろと立ち上がるところだった。
『うわ、お前、もう復活したの?』
女は乱れた法衣を引きずりながら、車の後部座席に近づいて来る。
「私に倉橋友哉を寄越しなさい。私にくれるというなら助けてやるぞ」
『友哉は俺のものだ。誰がお前なんかにやるものか』
「愚か者め! 状況が分かっていないようだな、倉橋友哉はこのま……」
「離れてくれ! 拝み屋にかまっている暇はない!」
雪華が乱暴に女を突き飛ばして、また運転席に向かう。
「そのままでは死ぬぞ!」
女が叫んだ。
ぎくりと雪華が足を止める。
「死ぬ?」
「大妖狐に噛まれたのだ。まずその穢れを祓わねば何をしても死ぬ。大賀見雪彦、お前も術者の端くれならそのくらい気付け!」
「なっ……!」
雪華が慌てて後部座席のドアを開いて友哉の様子を見ると、悔しそうな顔で女を振り返った。
「状況を理解したか、大賀見雪彦!」
どや顔で女が問いかける。
『なに? どういうこと? 友哉は?』
「かなり悪い……。あきら、なぜ友哉君を噛んだ」
『道連れにしようと思ったから』
正直に言うと、雪華は俺を睨んでから女に向き直った。
「あなたなら救えるのか」
「救える! この蓮杖ハルになら救える!」
女は断言して近づいて来る。
雪華は気圧されたように道を譲ったが、俺はその前に立ちふさがった。
女が不遜な顔で俺を見上げてくる。
「どきなさい、久豆葉あきら」
『お前に友哉は渡さない』
「倉橋友哉が死んでもか」
『たとえ死ぬとしても渡さない』
「あきら! 友哉君のためだ!」
雪華が横から俺の体にすがりついてくる。
『友哉は俺のものだよ。他の誰かに取られるくらいなら、頭からバリバリ噛み砕いて食べてやる』
「あきら! お願いだ!」
『お願いはこの女にしたら? おかしな交換条件を撤回しろって』
女が俺を見上げ、睨みつけてくる。
「ケダモノめが!」
『ケダモノだよ。だから、人間みたいな考え方はしない。俺は何があっても友哉を手放さない』
女はぎりっと唇を噛んだ。アーモンド形の目が俺と友哉の間を揺れ動き、切れた唇から血が垂れてくる。
「蓮杖さん、お願いだ。友哉君には何の罪もない。友哉君を助けてくれ」
雪華の哀れな声の懇願に、女は目を閉じて眉根を寄せる。
やがて、諦めたように大きく息を吐いた。
「分かった……」
女は姿勢を正し、俺に頭を下げた。
「私に倉橋友哉を寄越せという交換条件は撤回する。こんなにきれいな魂の持ち主をむざむざと死なせたくないのだ。頼む、私に彼を助けさせてくれ。倉橋友哉を救わせてくれ」
女の必死な様子は、俺の心の中にざわりと嫌な感情を呼び起こす。友哉をちゃんと知ると、みんな友哉を好きになる。佐藤も山田も友哉に魅かれていたからつい誘惑してしまったけれど、この女は俺の誘惑を跳ねのける力がある。
友哉に女を近づけたくない、でも。
『……うん、いいよ』
俺は女を睨みつつ、体を横へどかした。
女はホッとしたように息を吐くと急いで車へ駆け寄り、たもとから白い手拭いを出して友哉の首元を押さえた。
そしてすっと目を閉じる。
「布留部由良由良止布留部……布留部由良……」
ぞわぞわと寒気がして、俺は遮るように女の耳元で声を出した。
『なぁ、お前の使う呪文って、なんか色々とチャンポンだよね?』
「話しかけるな、気が散る」
女が呆れたように俺を振り仰いだ。
雪華が後ろから、女を擁護するように声を出した。
「以前にも言ったが、力のある術者が発すれば、マハリクマハリタでもテクマクマヤコンでも効力はあるんだ」
「なにそれ」
「なんでもいい。友哉君が危ない状態だというのに、なんで呪文がいちいち気になるんだ」
なんで?
なんでかな?
俺は友哉を見た。
ぐったりと力を失った体……血の気の失せた顔……今にも死にそうな俺の友哉。
もしも友哉が死んでしまったら、けして誰にも取られないように血の一滴も残さず食べてしまおう。友哉はきっと、その体も魂もとてつもなく美味しいはずだ。
そこまで考えて、俺は首を傾げる。
『友哉は……死なないよね……』
「死んでほしくないのなら邪魔をするな」
『うん……。死んでほしくなんか、ないよ……』
女はふーっと息を吐いた。
「では、無知な魔物に面白いものを見せてあげよう」
女は血を吸った手拭いをはずし、友哉の傷に直に手を置く。そして優しく歌うように唱えだした。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ、遠い御山へ飛んでいけ」
子供向けのおまじないだ。俺も子供の頃、友哉にかけてもらったことがある。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ、峰の向こうへ飛んでいけ」
びくん、と友哉の体が反応した。女の手が触れている首元のまわりの血管がじわりと黒く浮き出てくる。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ、空の彼方へ飛んでいけ」
次第にその顔も腕もすべての血管が黒くなっていき、友哉の体内でざわざわと何かが騒ぎ始める。
『お前、何をしている』
「大丈夫だ、あきら。これは毒抜きだ」
『毒?』
「妖魔による穢れ、つまりお前自身の穢れが目に見える形に変化しているのだ」
『俺の穢れ? この黒いのが?』
「そうだ」
女は集中しているのか、俺達には見向きもしない。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ、遠い御山へ飛んでいけ」
黒いものが徐々に女の手の方へ集まり始め、じわじわと女の手が黒く染まっていく。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ、峰の向こうへ飛んでいけ、痛いの、痛いの、飛んでいけ、空の彼方へ飛んで行け、痛いの、痛いの、飛んでいけ、遠い御山へ……」
女が何度も何度も同じ言葉を繰り返すうちに、友哉の体から黒い色が消えていき、反対に女の手は真っ黒に染まっていった。
友哉の顔に血の気が戻り、呼吸も安定していくのが分かる。
女は顔をしかめてよろめくように友哉から離れ、黒くなった手を勢いよく空へ掲げた。
「痛いの痛いの飛んでいけ、空の彼方へ飛んでいけ!」
ズワーッと虫の大発生みたいに、黒いものが一斉に空へと広がっていく。女の黒髪がバサバサと揺れ、虫は不快な音を立てて騒ぎながらすごい勢いで散っていく。黒い虫の最後の一匹が完全に消え去るまで、女は空を睨んでいた。
「すごい……」
雪華が感嘆の声を出す。
「久豆葉あきら、おのれの穢れをその目で見てどうだ? 人とはけっして相容れぬものだと理解したか」
『だから、なに?』
「お前がどれだけ彼を傷付けたか、どれだけ穢したかを少しも考えないのか」
『友哉は全部許してくれるよ、友哉は俺のことが大好きだから』
「お前、どこまで……!」
女が罵詈雑言を浴びせようと歯をむき出した時、車の中から小さな声が聞こえた。
「あきら」
ぶわんと尻の後ろで何かが揺れ、俺は自分がしっぽを振ったのだと気付いた。嬉しくてたまらなくて、太いしっぽがぶんぶんと動いてしまう。狐というより犬みたいだ。
『友哉!』
友哉は車の中で半身を起こし、自分がどこにいるのか確かめるように周囲に手を伸ばしている。
『友哉、友哉! 俺はここだよ!』
俺が顔を突っ込むと、友哉はパッと笑顔になって両手で優しく撫でて来た。
「あきら、良かった。無事か? 怪我は?」
あきら、良かった。無事か。怪我は。
その瞬間に、俺は溶けた。
頭のてっぺんからシッポの先まで全身が溶けて、消えて、なくなってしまった。
―― あきら、良かった。無事か。怪我は ――
自分が死にかけたくせに。俺に殺されかけたくせに。いつでも友哉が一番に気にするのは、俺のことで。俺に向けてくるのはどこまでも嘘のない愛情で。
「友哉……」
溶けて無くなった体が再構築されて、俺は友哉の前に立っていた。
何が起こったのかとっさに理解できず、呆然としてしまう。
「あ……戻った、のか?」
友哉が驚いたように俺の顔をなぞる。
まるで魔法が解けたみたいに、俺は人間の姿に戻っていた。
「戻った……」
「うん、人の姿だ。服もちゃんと着てる」
「ほんとだぁ……変なの」
「あきら、怪我してないか」
「無い、よ……怪我なんて、無いよ……」
俺の目に映る友哉の姿が滲んで揺れて、
「ともやぁ……」
堰を切ったようにぼたぼたと涙がこぼれて来た。
どうして。
なんで。
分からない。
俺は友哉を殺そうとした。
俺は友哉を食べようとした。
どうして。
俺の望みは友哉と一緒にいることなのに。
俺の望みは友哉を殺して食べることじゃないのに。
怖い。
俺は。
なんで。
俺は。
「な……何、これ、涙、止まらない」
しゃくりあげる俺の背中を、女がバシンと叩いてくる。
「いいから、さっさと車に乗りなさい!」
俺は言われるままに車に乗り込むと、友哉の体をぎゅっと抱きしめた。
「ともや、ともやぁ……」
涙が溢れて止まらない。すがりつく俺に友哉は驚いたようだったけど、あまり力の入らない手で俺の背中を撫でてくれた。
「うううー、友哉ごめんなさい、ごめんなさい……」
悲しくてつらくて苦しくて、わけがわからない。泣いても泣いてもおさまらない。
「泣くな、あきら」
「だって、俺、俺が友哉を……うっ、うっ」
「大丈夫だよ、急に自分の姿が変わって混乱したんだろ」
「ち、ちが……俺は、友哉を……」
「気にするな、あきら。俺はあんまり痛くないから」
「ごめんなさい、友哉、ごめんなさい……」
友哉の首からは血の匂いがした。それがやたらに甘くて、美味しそうで、怖かった。
「あきら……? さっきとはまるで別人だな……」
運転席から雪華が怪訝そうに見てくるが、俺は泣くのをやめられなかった。
自分でも何が起こっているのか分からない。
自分の心が制御できない。
「ほら、ぼうっとしていないで早く出発!」
女が当然のような顔をして助手席に乗ってきて、雪華が目をむいた。
「あなたもついて来る気か」
「いいから、車を出しなさい! 押し問答している時間がもったいない!」
女の迫力に押されるように、雪華が車をスタートさせた。
俺は友哉に抱きついたままずっと泣き続け、友哉は自分がひどい怪我をしているのに、俺をあやすようにずっと背中を撫で続けていた。
首元の血は止まって見えるけれど、顔は青白く、呼吸は弱い。
『んんっ、もどれ、人間にもどれっ』
戻りたいと思っても、獣の姿から人の形へ戻ることが出来ない。
人間に戻らなければ友哉を抱きかかえることも出来ないし、電話をかけることも出来ない。
公園内を見回すと、法衣姿の雑魚どもはほとんどが地面に転がっていて、それらを追い回していた式狼は俺の命令を待つようにこっちを見ていた。友哉の体を抱き上げられないのは、俺も狼も同じだ。雑魚なんかに友哉を触らせたくはないが、背に腹は代えられない。
『おい、その中に動ける奴はいるか。こっちへ……』
言いかけた時、屋敷の方角から黒い車が猛スピードで近づいて来るのが見えた。運転しているのは雪華だ。公園への散歩からなかなか帰らない俺達を、というより友哉を心配して来たんだろう。
「友哉君!!」
思った通り、車から降りての第一声で雪華は友哉を呼んだ。
「友哉君っ、友哉君っ!」
雪華の声は動揺で裏返っていた。
俺の異形の姿についての言及はなく、雪華は友哉しか目に入らないかのように足を引きずりながら駆け寄ってくる。
「ああ、どうしてこんな……」
首元の牙の痕を見るとちらりと俺を責めるように見たが、すぐに友哉へ視線を戻した。呼吸と脈を確かめ、雪華は蒼ざめた顔で友哉を抱き上げた。
『どこに行く』
「三乃峰病院へ」
『あそこはダメだ』
「あの病院は大賀見の息がかかっているから融通が利く」
『ダメだ。大賀見家に関わりの無いところの方が安全だ』
雪華はハッとしたように周囲を見回した。四方に散開している俺の式狼と、そこら中に転がる法衣姿の男女数十人、そして俺達の正面で弓を手に眠っている女。
「これは……」
本当に友哉しか目に入っていなかったらしい。
「大賀見家による襲撃なのか」
『他に誰が襲って来るんだよ』
「分かった。違う病院へ行こう」
びっこを引きながらも早足で友哉を車まで運び、
「ドアを開けられるか」
と俺を見るので、爪をひっかけて後部座席のドアを開けてやった。
「その姿では乗れないぞ」
後部座席に友哉を横たえながら、雪華が俺に言った。
『戻り方が分からない』
「人間に戻るのを待ってはいられない。先に行くぞ」
雪華が焦ったように運転席へ行こうとする。
「待って! 待ちなさい!」
耳を貫くような金切り声に振り向くと、さっき眠らせたはずの女がよろよろと立ち上がるところだった。
『うわ、お前、もう復活したの?』
女は乱れた法衣を引きずりながら、車の後部座席に近づいて来る。
「私に倉橋友哉を寄越しなさい。私にくれるというなら助けてやるぞ」
『友哉は俺のものだ。誰がお前なんかにやるものか』
「愚か者め! 状況が分かっていないようだな、倉橋友哉はこのま……」
「離れてくれ! 拝み屋にかまっている暇はない!」
雪華が乱暴に女を突き飛ばして、また運転席に向かう。
「そのままでは死ぬぞ!」
女が叫んだ。
ぎくりと雪華が足を止める。
「死ぬ?」
「大妖狐に噛まれたのだ。まずその穢れを祓わねば何をしても死ぬ。大賀見雪彦、お前も術者の端くれならそのくらい気付け!」
「なっ……!」
雪華が慌てて後部座席のドアを開いて友哉の様子を見ると、悔しそうな顔で女を振り返った。
「状況を理解したか、大賀見雪彦!」
どや顔で女が問いかける。
『なに? どういうこと? 友哉は?』
「かなり悪い……。あきら、なぜ友哉君を噛んだ」
『道連れにしようと思ったから』
正直に言うと、雪華は俺を睨んでから女に向き直った。
「あなたなら救えるのか」
「救える! この蓮杖ハルになら救える!」
女は断言して近づいて来る。
雪華は気圧されたように道を譲ったが、俺はその前に立ちふさがった。
女が不遜な顔で俺を見上げてくる。
「どきなさい、久豆葉あきら」
『お前に友哉は渡さない』
「倉橋友哉が死んでもか」
『たとえ死ぬとしても渡さない』
「あきら! 友哉君のためだ!」
雪華が横から俺の体にすがりついてくる。
『友哉は俺のものだよ。他の誰かに取られるくらいなら、頭からバリバリ噛み砕いて食べてやる』
「あきら! お願いだ!」
『お願いはこの女にしたら? おかしな交換条件を撤回しろって』
女が俺を見上げ、睨みつけてくる。
「ケダモノめが!」
『ケダモノだよ。だから、人間みたいな考え方はしない。俺は何があっても友哉を手放さない』
女はぎりっと唇を噛んだ。アーモンド形の目が俺と友哉の間を揺れ動き、切れた唇から血が垂れてくる。
「蓮杖さん、お願いだ。友哉君には何の罪もない。友哉君を助けてくれ」
雪華の哀れな声の懇願に、女は目を閉じて眉根を寄せる。
やがて、諦めたように大きく息を吐いた。
「分かった……」
女は姿勢を正し、俺に頭を下げた。
「私に倉橋友哉を寄越せという交換条件は撤回する。こんなにきれいな魂の持ち主をむざむざと死なせたくないのだ。頼む、私に彼を助けさせてくれ。倉橋友哉を救わせてくれ」
女の必死な様子は、俺の心の中にざわりと嫌な感情を呼び起こす。友哉をちゃんと知ると、みんな友哉を好きになる。佐藤も山田も友哉に魅かれていたからつい誘惑してしまったけれど、この女は俺の誘惑を跳ねのける力がある。
友哉に女を近づけたくない、でも。
『……うん、いいよ』
俺は女を睨みつつ、体を横へどかした。
女はホッとしたように息を吐くと急いで車へ駆け寄り、たもとから白い手拭いを出して友哉の首元を押さえた。
そしてすっと目を閉じる。
「布留部由良由良止布留部……布留部由良……」
ぞわぞわと寒気がして、俺は遮るように女の耳元で声を出した。
『なぁ、お前の使う呪文って、なんか色々とチャンポンだよね?』
「話しかけるな、気が散る」
女が呆れたように俺を振り仰いだ。
雪華が後ろから、女を擁護するように声を出した。
「以前にも言ったが、力のある術者が発すれば、マハリクマハリタでもテクマクマヤコンでも効力はあるんだ」
「なにそれ」
「なんでもいい。友哉君が危ない状態だというのに、なんで呪文がいちいち気になるんだ」
なんで?
なんでかな?
俺は友哉を見た。
ぐったりと力を失った体……血の気の失せた顔……今にも死にそうな俺の友哉。
もしも友哉が死んでしまったら、けして誰にも取られないように血の一滴も残さず食べてしまおう。友哉はきっと、その体も魂もとてつもなく美味しいはずだ。
そこまで考えて、俺は首を傾げる。
『友哉は……死なないよね……』
「死んでほしくないのなら邪魔をするな」
『うん……。死んでほしくなんか、ないよ……』
女はふーっと息を吐いた。
「では、無知な魔物に面白いものを見せてあげよう」
女は血を吸った手拭いをはずし、友哉の傷に直に手を置く。そして優しく歌うように唱えだした。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ、遠い御山へ飛んでいけ」
子供向けのおまじないだ。俺も子供の頃、友哉にかけてもらったことがある。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ、峰の向こうへ飛んでいけ」
びくん、と友哉の体が反応した。女の手が触れている首元のまわりの血管がじわりと黒く浮き出てくる。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ、空の彼方へ飛んでいけ」
次第にその顔も腕もすべての血管が黒くなっていき、友哉の体内でざわざわと何かが騒ぎ始める。
『お前、何をしている』
「大丈夫だ、あきら。これは毒抜きだ」
『毒?』
「妖魔による穢れ、つまりお前自身の穢れが目に見える形に変化しているのだ」
『俺の穢れ? この黒いのが?』
「そうだ」
女は集中しているのか、俺達には見向きもしない。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ、遠い御山へ飛んでいけ」
黒いものが徐々に女の手の方へ集まり始め、じわじわと女の手が黒く染まっていく。
「痛いの、痛いの、飛んでいけ、峰の向こうへ飛んでいけ、痛いの、痛いの、飛んでいけ、空の彼方へ飛んで行け、痛いの、痛いの、飛んでいけ、遠い御山へ……」
女が何度も何度も同じ言葉を繰り返すうちに、友哉の体から黒い色が消えていき、反対に女の手は真っ黒に染まっていった。
友哉の顔に血の気が戻り、呼吸も安定していくのが分かる。
女は顔をしかめてよろめくように友哉から離れ、黒くなった手を勢いよく空へ掲げた。
「痛いの痛いの飛んでいけ、空の彼方へ飛んでいけ!」
ズワーッと虫の大発生みたいに、黒いものが一斉に空へと広がっていく。女の黒髪がバサバサと揺れ、虫は不快な音を立てて騒ぎながらすごい勢いで散っていく。黒い虫の最後の一匹が完全に消え去るまで、女は空を睨んでいた。
「すごい……」
雪華が感嘆の声を出す。
「久豆葉あきら、おのれの穢れをその目で見てどうだ? 人とはけっして相容れぬものだと理解したか」
『だから、なに?』
「お前がどれだけ彼を傷付けたか、どれだけ穢したかを少しも考えないのか」
『友哉は全部許してくれるよ、友哉は俺のことが大好きだから』
「お前、どこまで……!」
女が罵詈雑言を浴びせようと歯をむき出した時、車の中から小さな声が聞こえた。
「あきら」
ぶわんと尻の後ろで何かが揺れ、俺は自分がしっぽを振ったのだと気付いた。嬉しくてたまらなくて、太いしっぽがぶんぶんと動いてしまう。狐というより犬みたいだ。
『友哉!』
友哉は車の中で半身を起こし、自分がどこにいるのか確かめるように周囲に手を伸ばしている。
『友哉、友哉! 俺はここだよ!』
俺が顔を突っ込むと、友哉はパッと笑顔になって両手で優しく撫でて来た。
「あきら、良かった。無事か? 怪我は?」
あきら、良かった。無事か。怪我は。
その瞬間に、俺は溶けた。
頭のてっぺんからシッポの先まで全身が溶けて、消えて、なくなってしまった。
―― あきら、良かった。無事か。怪我は ――
自分が死にかけたくせに。俺に殺されかけたくせに。いつでも友哉が一番に気にするのは、俺のことで。俺に向けてくるのはどこまでも嘘のない愛情で。
「友哉……」
溶けて無くなった体が再構築されて、俺は友哉の前に立っていた。
何が起こったのかとっさに理解できず、呆然としてしまう。
「あ……戻った、のか?」
友哉が驚いたように俺の顔をなぞる。
まるで魔法が解けたみたいに、俺は人間の姿に戻っていた。
「戻った……」
「うん、人の姿だ。服もちゃんと着てる」
「ほんとだぁ……変なの」
「あきら、怪我してないか」
「無い、よ……怪我なんて、無いよ……」
俺の目に映る友哉の姿が滲んで揺れて、
「ともやぁ……」
堰を切ったようにぼたぼたと涙がこぼれて来た。
どうして。
なんで。
分からない。
俺は友哉を殺そうとした。
俺は友哉を食べようとした。
どうして。
俺の望みは友哉と一緒にいることなのに。
俺の望みは友哉を殺して食べることじゃないのに。
怖い。
俺は。
なんで。
俺は。
「な……何、これ、涙、止まらない」
しゃくりあげる俺の背中を、女がバシンと叩いてくる。
「いいから、さっさと車に乗りなさい!」
俺は言われるままに車に乗り込むと、友哉の体をぎゅっと抱きしめた。
「ともや、ともやぁ……」
涙が溢れて止まらない。すがりつく俺に友哉は驚いたようだったけど、あまり力の入らない手で俺の背中を撫でてくれた。
「うううー、友哉ごめんなさい、ごめんなさい……」
悲しくてつらくて苦しくて、わけがわからない。泣いても泣いてもおさまらない。
「泣くな、あきら」
「だって、俺、俺が友哉を……うっ、うっ」
「大丈夫だよ、急に自分の姿が変わって混乱したんだろ」
「ち、ちが……俺は、友哉を……」
「気にするな、あきら。俺はあんまり痛くないから」
「ごめんなさい、友哉、ごめんなさい……」
友哉の首からは血の匂いがした。それがやたらに甘くて、美味しそうで、怖かった。
「あきら……? さっきとはまるで別人だな……」
運転席から雪華が怪訝そうに見てくるが、俺は泣くのをやめられなかった。
自分でも何が起こっているのか分からない。
自分の心が制御できない。
「ほら、ぼうっとしていないで早く出発!」
女が当然のような顔をして助手席に乗ってきて、雪華が目をむいた。
「あなたもついて来る気か」
「いいから、車を出しなさい! 押し問答している時間がもったいない!」
女の迫力に押されるように、雪華が車をスタートさせた。
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⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
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