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(7)四つ目の約束

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「今からどんなお墓にするかを考えるのはあまりにも早くないか?」 

 蓮次郎もきょとんとした顔を翡翠に向けると、次に「あー」と変な声を出して、こめかみを押さえた。 

「あー、うん、そうか。翡翠にとって助けるというのは一生世話をするという意味なんだな」 
「違う意味の『助ける』があるのか」
「俺はこいつが起き上がれるようになったら、親を探すか保護施設に任せるかしようと思っていた」  

 さっと血の気が引いて、翡翠は蓮次郎の着流しをつかんだ。 

「親はだめだ! また殴られる!」
「分かっている。虐待するような親にそのまま返す気はない。でも身元を確かめてきちんと連絡しないといけないだろ。こっちが誘拐犯にされてしまう」
「誘拐? 私はさらってなどいないぞ。この子が自分から空間を裂いて『きさら堂』に入って来たのだ。『きさら堂』で保護したものは『きさら堂』で育てる。それでいいだろうが」
「それが通じるのは、俺らみたいな半妖ぐらいだ」
「そうですね。この子が狐や狸の子供ならそれでいいのですけど」
「人間の世界には人間の世界の複雑なルールがある。この子には戸籍が必要だし、義務教育もある。勝手に人間の子供は育てられないんだ」
「では、どうすればよいのだ?」
「だからまずは親を探して……」
「探すと言っても、この子がこちら側の子供か、あちら側の子供かも分からないではないか」
「確かに。探すには時間がかかると思う。でもなぁ、時津彦が不在の今、人間との間に面倒を起こすのもな」
「何をごちゃごちゃ考えているのだ? どうせ人間どもは『きさら堂』に入って来られないのだから、この子供も死ぬまで『きさら堂』の中におれば良いではないか」
「はぁ? まさかこいつを一生ここに閉じ込めておくつもりか?」
「それはちょっと、酷なことではありませんか」 
「え? どうしてだ? 私と一緒だろ?」 

 翡翠が聞き返すと、蓮次郎と医者は気まずそうに目をそらして口ごもる。 

「それは……」 
「ここにいれば、誰にも殴られないし、たっぷりご飯が食べられるし、毎日風呂にも入れる。私はこの子の親と違ってとびきり甘やかしてやるぞ。一生良い暮らしをさせてやるのに、何がいけないのだ?」
「はぁ……それじゃぁペットとして飼うようなもんだろうが」
「そうですね、なんというか、籠の鳥というか……」 

 二人に難しい顔をされて、翡翠はますます困惑した。 

「何を言うか。この子だって自分から『きさら堂』に来たのだから、きっとここにずっといることを望んで……」 
「では聞くが、翡翠は一度も『きさら堂』を出たいと思ったことは無いのか?」
「ちょっと蓮次郎様!」
「え……」 

 翡翠の脳裏に、出港する豪華客船の美しい姿がちらりと浮かんだ。真っ白い船体に紺色のライン、長く響く汽笛の音とともに悠々と船は大海原へと漕ぎ出してゆく。  

「あ、当たり前だ!」 

 遠ざかる船影を頭から追い出すように、翡翠はぶんぶんと首を振る。 

「私は時津彦様を愛し、時津彦様を癒し、時津彦様にお仕えするために生まれてきたのだ。時津彦様が私に『きさら堂』をお任せくださったのだから、お役目をまっとうすることは何にも代えがたい喜びであり、時津彦様をここで待ち続ける日々も至上の幸福であり、私は時津彦様のためなら……あっ」 

 なぜか焦ってしまい早口でまくし立てている途中で、黒い瞳とバチッと目が合った。翡翠が大きい声を出したせいなのか、子供が目を覚ましてしまっている。 

「お、おぉ、子供。すまない、起こしたか」 

 翡翠が笑いかけると、子供もつられるようにニコッと笑い返してきた。 
 翡翠の胸が、トクンと反応する。 

「う、可愛い……」 
「またそれかよ。言うほど可愛いか? 顔の造作は普通だろ」 

 蓮次郎が文句を言う。なぜだかその声が少し遠くに聞こえた。 

「気分はどう? どこか痛いとか気持ち悪いとかあるかな? あれ? ねぇ君、聞こえてる?」 

 医者が子供に問いかける。なぜだかその声も少し遠くに聞こえた。 

 トクトクと翡翠の胸が鳴っている。 
 子供はそこに翡翠しかいないかのように、じぃっと翡翠だけを見つめている。 
 翡翠も吸い寄せられるように、子供の目を見つめ返す。 
 黒くてまん丸い瞳がとても可愛らしくてたまらない。 

「そなた、なぜそうも私を見つめるのだ?」 
「……きれい、だから……」 

 小さな口から、ひどくかすれた声が答えた。 

「ふむ、それは当然だ。この姿は、かの天才絵師・井筒時津彦様がご自分の理想を筆に込めて……」 

 ふと、既視感を覚え、翡翠は首をかしげた。 

「そなた、以前にどこかで会ったか」 
「そんなわけないだろ。翡翠は『きさら堂』から一歩も出られないくせに」
「それもそうだ。気のせいか」 

 子供はまだじっと翡翠を見つめ続けている。 
 翡翠はそっと子供の頬に触れてみた。思ったよりも温かくて柔らかい。 

「私は『きさら堂』が仮の主人、翡翠だ」 
「ひすい……」 

 小さな唇が翡翠の名前を呼んだ。 
 またトクンと鼓動が跳ねる。 

「か、仮とはいえ、ここの主であるから翡翠様と呼ぶように」 
「……ひすいさま」 
「う、うむ」 

 胸の奥の方がほわほわと温かく、なんだかくすぐったい。 
 なんだか顔が緩んでしまいそうで、翡翠はコホンと咳払いした。 

「今日はもう夜も遅い。医者に診てもらって、ゆっくり休むと良い」 

 後を医者に任せようとして翡翠が離れると、焦ったように子供がこちらに手を伸ばしてきた。 

「ひすいさま、いかないで」 
「大丈夫よ。翡翠様ももうお休みになるの。明日になったらまた会えるから」 

 医者がその腕を押さえようとするが、子供は必死に体を起こそうとする。 

「いやだ、ひすいさま、いかないで、ひすいさま」 
「どこにも行かない。自分の寝室に戻るだけだ」 
「いや、おいてかないで、おねがい、ひすいさま」 

 まるで今生の別れかのように、子供が両手で翡翠を求める。 

「ひすいさま……ひすいさまぁ……」 
「し、仕方ないのぉ。そこまで言うなら一緒に寝てやっても」 
「だめだ」 

 蓮次郎が、いきなりぐいっと翡翠の肩をつかんできた。 

「一緒に寝るなんて、何を考えてる」 
「なにが?」 
「こいつをしばらく『きさら堂』に置いておくつもりなら、夜は絶対に一緒にいるな。毎日、必ず別々に寝るものだと、きちんとしつけておかないと困るのはお前だぞ」
「……なぜだ?」
「なぜって」 

 蓮次郎がいら立つように頭を掻く。 

「新月の夜を忘れたのか」 
「あ……」 

 血の気が引く思いがした。あのような破廉恥な痴態を子供には見せられない。 

「ひすいさま……」 
「す、すまぬな。一緒に寝てはやれないのだ」 

 子供の目は今にも泣き出しそうなほど潤んでいて、体は細かく震えていた。 

「ひすいさま、すてないで……」 
「!!! す、捨てるものか! そなたはずっとここ『きさら堂』にいて良いのだぞ」 

 翡翠はそっと子供の頭を撫でた。 
 蓮次郎が洗ってくれたおかげで嫌な臭いは消えている。 

「そなた、名前は?」 

 翡翠の問いかけに子供が困ったようにうつむく。 
 やはり既視感を覚えたが、どうしてなのか分からなかった。 

「良い良い。そなたの身の上は、そなたが元気になってからゆっくり聞こう。まずは、この翡翠と約束をしないか」 
「やくそく?」 
「あぁ、ここ『きさら堂』では訪れた客との間にみっつの約束を交わすのだが、そなたと私の間にだけ、もうひとつの約束を加えようではないか」 

 蓮次郎と医者がこちらをうかがっているのが分かったが、翡翠は子供の目をまっすぐ見て微笑んだ。 

「よっつめ……」
「そうだ、四つ目の約束だ。朝と晩、必ず私とハグをして挨拶する。どうだ?」 

 子供は不思議そうに首をかしげた。 

「はぐ?」 
「ハグとは西洋の挨拶だ。親愛の気持ちを込めて抱き合うこと」 

 翡翠はそっと両手で小さな体を抱きしめた。 

「分かるか? これがハグだ」 

 子供の手がぎゅっと翡翠にしがみついてくる。 

「……はぐ、すき」

 耳元で、万感こもった声が聞こえた。

「それは良かった。明日の朝も私とハグをしよう。明日の晩もハグをしよう。その次の日も、その次の日も、毎日毎日ハグをしよう。私とそなたの約束だ」 
「……やくそく」 
「うむ、約束をしたのだから次は明日の朝にハグをするぞ。朝までなら待てるだろう?」 

 子供の頭を撫でて翡翠は体を離そうとした。 
 しかし、子供は強くしがみついたままで体を震わせている。やがて、小さな泣き声が聞こえてきて、翡翠は子供の背中をゆっくりさすり始めた。 

 挨拶のハグにしては長すぎる抱擁だったが、翡翠は子供が泣き疲れて眠るまでずっと背中を撫で続けていた。 







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