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(16)涙
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鎧騎士が廊下を歩く時間は時計のように正確だ。
いつもならその音を時報代わりにして翡翠は起きるのだが、今日はその音が聞こえてくる前に布団の上で目を覚ました。
丸い蛍光灯が下がっている天井が見える。
ここは蓮次郎が寝泊まりしている本館2階の和室だった。
「うぅ……」
起き上がろうとした途端に、体中に痛みが走る。ぎしぎしと音がしそうなほど疲れ切った体を翡翠は無理矢理に起こした。
右側に目をやると蓮次郎が大の字で眠っていて、翡翠はふうと息を吐く。
蓮次郎は今までにも「優しく抱いてやっているのに」と言うことがあったが、それは言葉通りの事実だった。これまでずっと蓮次郎なりに手加減してくれていたのだと、昨夜、翡翠は身をもって知ったのだった。
「蓮次郎……」
様を付けて呼ぶべきか迷ったが、翡翠はいつも通りに呼び捨てにしてみた。
「蓮次郎、感謝する」
膝をついて頭を下げると、蓮次郎の寝息が止まった。だが、目を閉じたままで何も言おうとしない。
翡翠は敬語で言い直してみた。
「蓮次郎様、昨晩はお慈悲をくださいまして大変感謝いたしております」
「……あぁ」
蓮次郎は目を開かずに返事をした。
「また、次の新月も抱いてやる」
「はい……ありがとうございます。時津彦様がお戻りでない場合には、どうぞよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げてから、翡翠は破かれたローブを拾って羽織った。これからはもう蓮次郎と軽口を言い合うことも無いのだと、どことなく寂しさを感じながら。
静かに和室を出ると、廊下の窓の外はまだ薄暗かった。
咲夜が起きてくる前に自室に戻り、シャワーを浴びてナイトガウンに着替えておきたい。いつもと変わらぬ顔で、いつも通りの朝の挨拶ができるように。
痛みをこらえて階段を登り、3階の廊下に出る。夜明け前の薄闇の中、廊下の先に何かがいるのを見てドクンと翡翠の心臓が跳ねた。
「咲夜……?」
血の気が引く。
翡翠の部屋の前に幼い子供が横たわっている。
「咲夜!」
慌てて駆け寄り、小さな体を抱き起こした。
「咲夜、咲夜!」
(怪我をしているのか? 熱があるのか? どうして廊下に倒れているのだ?)
「咲夜、どうした、何があった?」
呼吸を確認する手がぶるぶると震えてしまう。
「咲夜……!」
「んー? ひすいさまぁ?」
寝ぼけたような声を出して、咲夜がうっすらと目を開いた。小さな口がふあーと可愛く欠伸をする。
安堵にどっと力が抜けた。
「さ、咲夜。どうしてここに、いや、いつからここに?」
咲夜は昨日と同じ服を着ている。パジャマに着替えてすらいないということだ。
「まさか……あれからずっとここにいたのか……?」
「あ、ひすいさまだ!」
咲夜は完全に目を覚まして、嬉しそうにぱぁっと笑顔を見せた。
翡翠の心臓がさっきとは逆の意味でドクンと跳ねた。
(可愛い……! どうしてこんなに、咲夜は毎日可愛いんだろう)
つらさも寂しさも悔しさも、その笑顔の前に溶けてなくなってしまいそうだ。
「咲夜……おはよう」
「ひすいさまぁ! おはようございます!」
咲夜はいつもの朝と同じように、ぎゅっと翡翠に抱きついてきた。
「うっ」
思わず痛みに声が出てしまい、咲夜がびっくりしたように手を離す。
「ひすいさま、どうしたの?」
「な、何でもない」
「でも、ふく、やぶけてる」
「これは、ええと、ちょっと力加減を間違えたみたいで……」
「おてて、けがしてる」
「こ、これも、ちょっと力加減を間違えたらしくて……」
手首に残る指の跡を隠そうと、翡翠は両手を後ろに持っていく。
「ひすいさま、ぐあいわるそう」
「……ほんのちょっと、疲れただけだ」
「ほんとう……?」
今にも泣き出しそうな顔で、咲夜が不安そうに見上げてきた。
「ほんとうに、何でもないんだ。ただ……」
(ただ、いつもよりしつこく責められただけ)
新月のたびに熱く疼く体のことや、それを蓮次郎に慰めてもらっているという状況を、幼い子供にどう説明すればいいのか分からなかった。
新月の夜の浅ましい姿を、純真な咲夜には知られたくない。
「咲夜……」
「なにー?」
「もう一回、ぎゅっとしてくれるか?」
「うん! さくや、ぎゅってする!」
咲夜が両手で抱きついてくる。
ほんの少し痛みがあったが、それを打ち消すほどの喜びが一瞬で胸を満たしていく。
翡翠は咲夜の体をそっと抱き返した。
「昨日の晩は挨拶のハグが出来なくて、すまなかった」
抱きしめたまま謝ると、咲夜も抱きしめてくれたままコクンとうなずいた。
「うん……」
「許してくれるか?」
「うん、さくや、ゆるすよ」
「ありがとう」
咲夜の腕の力がちょっと強くなる。
「さくや、ひすいさまがすき……」
「私も咲夜が好きだ」
「だいだいだいだいだいすき」
「ふふ……私も大好きだ」
咲夜の体温、咲夜の匂い、咲夜の鼓動を全身で感じる。
濁りのないまっさらな愛情が、体中にしみわたってゆく。
「あ……」
前触れもなく、急にぽろっと涙がこぼれてきた。
「ひすいさま、ないてるの……?」
「…………あぁ、そうみたいだ」
「かなしいの?」
翡翠はゆっくり首を振った。
「これは、嬉しい涙だ」
「うれしいの?」
「咲夜がいてくれて嬉しい。咲夜が好きだと言ってくれて、とても嬉しい……」
またぽろぽろと涙がこぼれる。
「ほんとに嬉しい……」
咲夜の小さな手が翡翠の涙をぬぐった。
「……しょっぱい」
「舐めたのか、咲夜」
「うん、なめた」
「どうして」
「きれいだから」
「……私は、綺麗か……?」
「うん、ひすいさま、きれい」
「そうか……」
「うん、すごくきれい!」
「私はまだ綺麗なのだな……そうか、それなら良かった……」
破れたローブの袖で涙をぬぐう。
咲夜がそれを見て、はっと何かに気付いたように言った。
「れんじろ、ひすいさまをいじめた?」
翡翠は首を振った。
「いいや。蓮次郎は私が頼んだことをしてくれただけだ……。蓮次郎は何も悪くない」
「でも、ひすいさま、すごくいたそう」
「大丈夫だ。こうして咲夜とくっついていると、痛いのが消えていく気がするから」
「じゃぁずっとくっついてるー!」
「ずっと?」
「うん、ずーっと、ずーっと、くっついてる!」
「ふふ……」
翡翠は泣きながら、ふっと微笑んだ。
「ありがとう、咲夜。でも、そろそろ体を流して着替えないと。咲夜も部屋に戻って、ちゃんとベッドで寝直した方がいいだろう?」
「やだ」
「咲夜」
「やだ、まだくっついてる!」
「うーん、でも汗を流したいし……」
「じゃぁ、さくや、いっしょにおふろはいる」
「それはだめだ」
「どうして?」
「どうしてって……」
体中に残る情事の跡を見られたくないから。
そんなことを言えるはずもなく、うまい言い訳を考えていると、鎧の立てる金属音が階段の方から聞こえてきた。
ズズズズ……ガシャン……ズズズズ……ガシャン……
「あ! よろいきしだ!」
鈍く光る銀色の西洋甲冑が、腰に剣を佩いて片足を引きずりながら歩いてくる。
「もうそんな時間か」
「まいにち、あるいてるね」
「鎧騎士は毎夜『きさら堂』の中を警邏してくれているんだ」
「けいら?」
「そうだ。建物のすみずみまで見回ってくれて悪い奴がいたらやっつけてくれるんだ。ここの守り神のようなものかな」
「わぁ、かっこいい」
「あぁ、かっこいいな」
十年以上前のことだったが、朝起きると玄関ホールに客の死体が転がっていたことがある。心臓を一突きにされた客の周囲には、呪いのダイヤモンドやら不幸のイヤリングやら、いわくつきの宝飾品が数十点も散らばっていた。
死体はきさら狐達が速やかに館から運び出し、汚れた玄関は速やかにハウスメイド達が清掃した。
翡翠以外は誰もその出来事に驚くことなく、あっという間に、まるで最初から何も無かったかのように片付けられたのだった。
「私が絵から生まれるずっと前から鎧騎士が『きさら堂』を守っていてくれている。だから『きさら堂』の中はいつでも安全なのだ」
「わぁ、すごい」
自分のことを言われているのに、鎧騎士は無言のままで足を引きずり歩いていく。
この古い鎧の中には忠犬騎士の魂が入っているのだと、時津彦様が教えてくれたことがある。
『まぁ、忠犬と言っても、主を守り切れずに死なせちまって後追い自殺したような負け犬だがな。本当に守りたい者はもういないのに、いまだに何かを守りたくて毎夜警邏を続けている。……哀れなものだ』
時津彦様は皮肉気に笑うと、翡翠の髪を一束つかんで唇に押し付けた。
『だが、代わりを求めずにいられない気持ちは俺にも分かる……』
そして後にも先にもたった一度だけ、時津彦様はその言葉を口にした。
『ごめんな、翡翠』
どうして謝ったのか、何に対して謝ったのか、いまだに翡翠には分からない。人間ではない翡翠には、もしかしたら永遠に分からないことなのかもしれなかった。
「ひすいさま、よろいきし、いっちゃった」
「あぁ、そうだな。鎧騎士が晩餐室に戻る頃には夜が明ける。もう朝だ……」
「うん」
「咲夜、今日は何をしようか」
「ん-とねー……ふぁぁ」
「眠いのか」
「ううん……」
咲夜は首を振ったが、今にもまぶたが閉じそうだ。
「じゃぁ部屋に戻ってもう少し寝てきなさい」
「ううん、もどらない」
「眠いのだろう?」
「さくや、ひすいさまといっしょがいい」
「分かった。じゃぁ、私と一緒に寝ようか」
ぱっと咲夜の目が開く。
「いいの?」
「あぁ、今日は特別だ。私はシャワーを浴びてナイトガウンに着替えるから、咲夜もちゃんとパジャマに着替えておいで。私のベッドで一緒に朝寝坊しよう」
「うん! やったー!」
さっきまで眠気でふらふらだったとは思えない勢いで咲夜は立ち上がり、急いで部屋に戻っていった。
翡翠はその後姿を微笑みながら見送って立ち上がる。
「ん……!」
その拍子に後ろからどろっと液体が漏れて足を伝ってきた。何度も中に出された精液があふれ出てしまったようだった。
翡翠は浴室に駆け込み、破れたローブを脱ぎ捨てた。
蓮次郎の指と唇の跡が残る裸体があらわになる。
汗と、唾液と、精液にまみれた欲深い体だった。
「う……」
目をそむけるようにして、シャワーの栓を最大限にひねる。
肌を叩くように落ちてくる湯の下で、翡翠は声を立てずにひっそりと涙を流した。
いつもならその音を時報代わりにして翡翠は起きるのだが、今日はその音が聞こえてくる前に布団の上で目を覚ました。
丸い蛍光灯が下がっている天井が見える。
ここは蓮次郎が寝泊まりしている本館2階の和室だった。
「うぅ……」
起き上がろうとした途端に、体中に痛みが走る。ぎしぎしと音がしそうなほど疲れ切った体を翡翠は無理矢理に起こした。
右側に目をやると蓮次郎が大の字で眠っていて、翡翠はふうと息を吐く。
蓮次郎は今までにも「優しく抱いてやっているのに」と言うことがあったが、それは言葉通りの事実だった。これまでずっと蓮次郎なりに手加減してくれていたのだと、昨夜、翡翠は身をもって知ったのだった。
「蓮次郎……」
様を付けて呼ぶべきか迷ったが、翡翠はいつも通りに呼び捨てにしてみた。
「蓮次郎、感謝する」
膝をついて頭を下げると、蓮次郎の寝息が止まった。だが、目を閉じたままで何も言おうとしない。
翡翠は敬語で言い直してみた。
「蓮次郎様、昨晩はお慈悲をくださいまして大変感謝いたしております」
「……あぁ」
蓮次郎は目を開かずに返事をした。
「また、次の新月も抱いてやる」
「はい……ありがとうございます。時津彦様がお戻りでない場合には、どうぞよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げてから、翡翠は破かれたローブを拾って羽織った。これからはもう蓮次郎と軽口を言い合うことも無いのだと、どことなく寂しさを感じながら。
静かに和室を出ると、廊下の窓の外はまだ薄暗かった。
咲夜が起きてくる前に自室に戻り、シャワーを浴びてナイトガウンに着替えておきたい。いつもと変わらぬ顔で、いつも通りの朝の挨拶ができるように。
痛みをこらえて階段を登り、3階の廊下に出る。夜明け前の薄闇の中、廊下の先に何かがいるのを見てドクンと翡翠の心臓が跳ねた。
「咲夜……?」
血の気が引く。
翡翠の部屋の前に幼い子供が横たわっている。
「咲夜!」
慌てて駆け寄り、小さな体を抱き起こした。
「咲夜、咲夜!」
(怪我をしているのか? 熱があるのか? どうして廊下に倒れているのだ?)
「咲夜、どうした、何があった?」
呼吸を確認する手がぶるぶると震えてしまう。
「咲夜……!」
「んー? ひすいさまぁ?」
寝ぼけたような声を出して、咲夜がうっすらと目を開いた。小さな口がふあーと可愛く欠伸をする。
安堵にどっと力が抜けた。
「さ、咲夜。どうしてここに、いや、いつからここに?」
咲夜は昨日と同じ服を着ている。パジャマに着替えてすらいないということだ。
「まさか……あれからずっとここにいたのか……?」
「あ、ひすいさまだ!」
咲夜は完全に目を覚まして、嬉しそうにぱぁっと笑顔を見せた。
翡翠の心臓がさっきとは逆の意味でドクンと跳ねた。
(可愛い……! どうしてこんなに、咲夜は毎日可愛いんだろう)
つらさも寂しさも悔しさも、その笑顔の前に溶けてなくなってしまいそうだ。
「咲夜……おはよう」
「ひすいさまぁ! おはようございます!」
咲夜はいつもの朝と同じように、ぎゅっと翡翠に抱きついてきた。
「うっ」
思わず痛みに声が出てしまい、咲夜がびっくりしたように手を離す。
「ひすいさま、どうしたの?」
「な、何でもない」
「でも、ふく、やぶけてる」
「これは、ええと、ちょっと力加減を間違えたみたいで……」
「おてて、けがしてる」
「こ、これも、ちょっと力加減を間違えたらしくて……」
手首に残る指の跡を隠そうと、翡翠は両手を後ろに持っていく。
「ひすいさま、ぐあいわるそう」
「……ほんのちょっと、疲れただけだ」
「ほんとう……?」
今にも泣き出しそうな顔で、咲夜が不安そうに見上げてきた。
「ほんとうに、何でもないんだ。ただ……」
(ただ、いつもよりしつこく責められただけ)
新月のたびに熱く疼く体のことや、それを蓮次郎に慰めてもらっているという状況を、幼い子供にどう説明すればいいのか分からなかった。
新月の夜の浅ましい姿を、純真な咲夜には知られたくない。
「咲夜……」
「なにー?」
「もう一回、ぎゅっとしてくれるか?」
「うん! さくや、ぎゅってする!」
咲夜が両手で抱きついてくる。
ほんの少し痛みがあったが、それを打ち消すほどの喜びが一瞬で胸を満たしていく。
翡翠は咲夜の体をそっと抱き返した。
「昨日の晩は挨拶のハグが出来なくて、すまなかった」
抱きしめたまま謝ると、咲夜も抱きしめてくれたままコクンとうなずいた。
「うん……」
「許してくれるか?」
「うん、さくや、ゆるすよ」
「ありがとう」
咲夜の腕の力がちょっと強くなる。
「さくや、ひすいさまがすき……」
「私も咲夜が好きだ」
「だいだいだいだいだいすき」
「ふふ……私も大好きだ」
咲夜の体温、咲夜の匂い、咲夜の鼓動を全身で感じる。
濁りのないまっさらな愛情が、体中にしみわたってゆく。
「あ……」
前触れもなく、急にぽろっと涙がこぼれてきた。
「ひすいさま、ないてるの……?」
「…………あぁ、そうみたいだ」
「かなしいの?」
翡翠はゆっくり首を振った。
「これは、嬉しい涙だ」
「うれしいの?」
「咲夜がいてくれて嬉しい。咲夜が好きだと言ってくれて、とても嬉しい……」
またぽろぽろと涙がこぼれる。
「ほんとに嬉しい……」
咲夜の小さな手が翡翠の涙をぬぐった。
「……しょっぱい」
「舐めたのか、咲夜」
「うん、なめた」
「どうして」
「きれいだから」
「……私は、綺麗か……?」
「うん、ひすいさま、きれい」
「そうか……」
「うん、すごくきれい!」
「私はまだ綺麗なのだな……そうか、それなら良かった……」
破れたローブの袖で涙をぬぐう。
咲夜がそれを見て、はっと何かに気付いたように言った。
「れんじろ、ひすいさまをいじめた?」
翡翠は首を振った。
「いいや。蓮次郎は私が頼んだことをしてくれただけだ……。蓮次郎は何も悪くない」
「でも、ひすいさま、すごくいたそう」
「大丈夫だ。こうして咲夜とくっついていると、痛いのが消えていく気がするから」
「じゃぁずっとくっついてるー!」
「ずっと?」
「うん、ずーっと、ずーっと、くっついてる!」
「ふふ……」
翡翠は泣きながら、ふっと微笑んだ。
「ありがとう、咲夜。でも、そろそろ体を流して着替えないと。咲夜も部屋に戻って、ちゃんとベッドで寝直した方がいいだろう?」
「やだ」
「咲夜」
「やだ、まだくっついてる!」
「うーん、でも汗を流したいし……」
「じゃぁ、さくや、いっしょにおふろはいる」
「それはだめだ」
「どうして?」
「どうしてって……」
体中に残る情事の跡を見られたくないから。
そんなことを言えるはずもなく、うまい言い訳を考えていると、鎧の立てる金属音が階段の方から聞こえてきた。
ズズズズ……ガシャン……ズズズズ……ガシャン……
「あ! よろいきしだ!」
鈍く光る銀色の西洋甲冑が、腰に剣を佩いて片足を引きずりながら歩いてくる。
「もうそんな時間か」
「まいにち、あるいてるね」
「鎧騎士は毎夜『きさら堂』の中を警邏してくれているんだ」
「けいら?」
「そうだ。建物のすみずみまで見回ってくれて悪い奴がいたらやっつけてくれるんだ。ここの守り神のようなものかな」
「わぁ、かっこいい」
「あぁ、かっこいいな」
十年以上前のことだったが、朝起きると玄関ホールに客の死体が転がっていたことがある。心臓を一突きにされた客の周囲には、呪いのダイヤモンドやら不幸のイヤリングやら、いわくつきの宝飾品が数十点も散らばっていた。
死体はきさら狐達が速やかに館から運び出し、汚れた玄関は速やかにハウスメイド達が清掃した。
翡翠以外は誰もその出来事に驚くことなく、あっという間に、まるで最初から何も無かったかのように片付けられたのだった。
「私が絵から生まれるずっと前から鎧騎士が『きさら堂』を守っていてくれている。だから『きさら堂』の中はいつでも安全なのだ」
「わぁ、すごい」
自分のことを言われているのに、鎧騎士は無言のままで足を引きずり歩いていく。
この古い鎧の中には忠犬騎士の魂が入っているのだと、時津彦様が教えてくれたことがある。
『まぁ、忠犬と言っても、主を守り切れずに死なせちまって後追い自殺したような負け犬だがな。本当に守りたい者はもういないのに、いまだに何かを守りたくて毎夜警邏を続けている。……哀れなものだ』
時津彦様は皮肉気に笑うと、翡翠の髪を一束つかんで唇に押し付けた。
『だが、代わりを求めずにいられない気持ちは俺にも分かる……』
そして後にも先にもたった一度だけ、時津彦様はその言葉を口にした。
『ごめんな、翡翠』
どうして謝ったのか、何に対して謝ったのか、いまだに翡翠には分からない。人間ではない翡翠には、もしかしたら永遠に分からないことなのかもしれなかった。
「ひすいさま、よろいきし、いっちゃった」
「あぁ、そうだな。鎧騎士が晩餐室に戻る頃には夜が明ける。もう朝だ……」
「うん」
「咲夜、今日は何をしようか」
「ん-とねー……ふぁぁ」
「眠いのか」
「ううん……」
咲夜は首を振ったが、今にもまぶたが閉じそうだ。
「じゃぁ部屋に戻ってもう少し寝てきなさい」
「ううん、もどらない」
「眠いのだろう?」
「さくや、ひすいさまといっしょがいい」
「分かった。じゃぁ、私と一緒に寝ようか」
ぱっと咲夜の目が開く。
「いいの?」
「あぁ、今日は特別だ。私はシャワーを浴びてナイトガウンに着替えるから、咲夜もちゃんとパジャマに着替えておいで。私のベッドで一緒に朝寝坊しよう」
「うん! やったー!」
さっきまで眠気でふらふらだったとは思えない勢いで咲夜は立ち上がり、急いで部屋に戻っていった。
翡翠はその後姿を微笑みながら見送って立ち上がる。
「ん……!」
その拍子に後ろからどろっと液体が漏れて足を伝ってきた。何度も中に出された精液があふれ出てしまったようだった。
翡翠は浴室に駆け込み、破れたローブを脱ぎ捨てた。
蓮次郎の指と唇の跡が残る裸体があらわになる。
汗と、唾液と、精液にまみれた欲深い体だった。
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