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(29)咲夜13歳 『カーテンに映る影』

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 生まれ変わったら花になるわ
 色とりどりの花びらになって、あなたのまわりをひらひら舞うの

 生まれ変わったら風になるわ
 涼しく優しい風になって、あなたのまわりでそよそよ吹くの

 生まれ変わったら星になるわ
 明るく輝く星になって、暗い夜にはあなたを照らすの

 生まれ変わったら雪になるわ
 小さな雪の結晶になって、あなたの肩で溶けて消えるの

 愛しい人 愛しい人
 私にはあなただけ 私にはあなただけ



「……愛しい人、愛しい人、私にはあなただけ……。まぁ、この歌を日本語に訳すとそんな感じだな」
「蓮次郎」

 呆れたように艶子が首を振る。

「おう。なかなかロマンティックな詩だよな。つまり、この歌の男女は互いに想いあっていながら結ばれることはなかったっていう悲恋の恋人たちで……」
「そうじゃなくて。この状況でよくもまぁのんきに歌詞の翻訳なんてできるわね」
「この状況だからだろ」

 蓮次郎が肩をすくめる。

「こうなったらもう通訳の仕事もお役御免のようだし、せめて歌ぐらいは訳してやるかって」
「ひすい様、ふるえてるの?」
「え……?」

 蓮次郎と艶子が驚いたように振り返る。
 咲夜が優しく翡翠の背中を撫でてきて、翡翠は自分が震えていることに気付いた。

「あ、だ、大丈夫……。ちょっとびっくりしただけだ。咲夜、厨房に狸の女衆が何人かいるはずだから、お八つをもらっておいで」
「俺、怖くないよ」
「だが……」
「あっち側では源吾おじさんのふういんの手伝いもしてるし、もっと怖いものいっぱい見たことあるから」
「そ、そうなのか……?」
「うん。このおじいちゃん、おんりょうになってないし、ぜんぜん怖くないよ」

 あやかし館2階の中ほどにある客室では、カーテンの前に異国の老人が倒れていた。少し長めの髪は真っ白で、顔に深いしわが刻まれた老人は、片手を前に伸ばした不自然な格好で動かなくなっている。

「カーテンの裾を握っておるな」

 カーテンの前にかがみこんで、少名毘古那神すくなびこなのかみ様が老人の遺体を観察するように眺める。

「発作でも起こしたかな」

 老人がつかんでいるのは対になっているカーテンの左側の方だった。右側のカーテンに浮かぶ女の影は、さっきからずっと歌い続けている。

「そうですね。血は出ていないようだし、刃物や薬の容器なんかも落ちていないから……ただの病死かしら」



 今日、翡翠はいつも通りに客人を迎え、いつも通りにみっつの約束の口上を述べた。いつもと違っていたのは、後ろに控えていたのがメイドではなく艶子と蓮次郎だったことだ。

 蓮次郎は翡翠の口上を仏蘭西語に訳して伝え、客であるこの老人も素直に了承した。『影が映るカーテン』の部屋に案内した後、じっくり鑑賞したいという老人の希望を聞いて翡翠達は部屋を出たのだった。

 それが、たった数時間前のことだ。

「いつもなら一日に一、二回しか歌わないここの影が、繰り返し繰り返しずっと歌い続けているのが気になってな。見に来たら、このありさまだったのだ」

 少名毘古那神すくなびこなのかみ様が説明しながら翡翠に近づいてくる。

「翡翠殿、顔色が悪いな。アスクレピオス様のところで少し休むか?」
「い、いいえ、大丈夫です。私は『きさら堂』の仮の主人ですから、想定外のことが起きている今、ちゃんとここにいないと……」
「ふむ……。我らあやかしと違って、人間は遅かれ早かれ必ず死ぬものだ。驚くことでもないし、怖いものでもないのだぞ」
「は、はい……」

 鎧騎士に泥棒が殺された時も、翡翠以外は誰も動揺していなかった。けれど、たった数時間前まで生きて動いていたものが、こうして息もしなくなるのを見ると翡翠は妙に落ち着かない気分になってしまう。

「ひすい様、ハグしてあげる」

 咲夜がまるで温めるように翡翠の背や肩を撫でてくれる。その手の感触が気持ちよくて、翡翠はほっと小さく息を吐いた。

 蓮次郎がもの言いたげにこちらを見ているのに気付いたが、翡翠は目をそらして咲夜の体に寄りかかった。

「とにかく遺体は『きさら堂』から運び出しますね。海外からのお客だから遺体を本国へ返すのにいろいろ手続きもありますけれど、通訳の男が鬼在のホテルに泊まっているはずなんで連絡してみます」
「なにか、面倒なことにならないだろうか」
「大丈夫ですよ。鎧騎士に殺されたわけでもないし、ただの病死なら何の問題ありませんから」
「そうか。艶子、よろしく頼む」
「お任せください。じゃぁほら、蓮次郎」
「あ?」
「あ?じゃないわよ。この中であんたが一番力持ちなんだから」

 艶子が老人の遺体を指さすと、蓮次郎は面倒くさそうにその前にかがんだ。

「なんだ、随分きつく握ってんな。死後硬直か?」

 ぶつぶつ言いながら蓮次郎が老人の手をぐいっとカーテンからはずす。
 その時、ふぅっと黒いものが動いた。

「ん、なんだ?」
「あっ」
「影が……!」

 老人の手が離されたのが合図だったかのように、左側のカーテンに男の影が浮かび上がる。
 右側の女の影と同様に、すぐそこに誰か立っているかのようだ。

「これ、だれの影?」
「……若い男の影だな」
「おじいちゃんじゃないよね」
「いや、この老人の霊魂のようだぞ」
「そうなんですか? よくお分かりで」

 少名毘古那神様が左側のカーテンにそっと触れた。男の影がほんの少し身じろぎする。

「うむ、やはり、気配が同じだ……。おい、そなた、なにゆえこのカーテンに取り憑くのだ? 何か言いたいことでもあるのか?」

 少名毘古那神様が優しい声で問いかけたが、男の影は呆然としたように、ただただ立ち尽くしていた。

「後悔……悲しみ……嘆き……いや、やはり一番は後悔の念が強いようだ。こちらの女性の影と何か関係があるのやも知れぬな」

 右側のカーテンに映る女の影は、まだ細い声で歌い続けている。

「へぇ、この老人が昔殺した女とか?」

 蓮次郎がおどけた口調で聞いたが、艶子が真っ向から否定した。

「それは無いわ。『きさら堂』に入る客はちゃんと私が調査するもの。この老人には犯罪歴は無いし、そういう疑いを持たれたことも一度も無い。周囲の評判も悪くない人格者だというから、『きさら堂』へ入ることを許可したのよ」
「さてさて、翡翠殿、これをどうする?」

 少名毘古那神様の問いかけで、その場の全員が翡翠の方を向いた。
 ここは『きさら堂』であり、翡翠は『きさら堂』の仮の主人だ。時津彦様が不在の今、決めるのは翡翠しかいない。

「少名毘古那神様、これがほかのあやかしに悪さをすることはありませんか?」
「悪意や敵意は感じぬな。その心配はないだろう」
「では、この男性の影の方も『きさら堂』で受け入れましょう」
「うむ、それが良かろうの」

 一対のカーテンの右側に女の影が、左側に男の影が浮かんでいる。まるで最初からそうだったかのようだ。

「女の人、ずっと歌ってるね」
「あぁ……」

 女の影は一曲歌い終わると、また初めから同じ曲を歌い始める。聞いていると、切なくなってくるメロディーだ。

「せっかくふたりいるのに、お話したりしないんだね」

 咲夜の指摘の通り、ふたつの影は左右それぞれのカーテンにいて、互いを見ようともしない。いや、もしかしたら互いが見えていないのかもしれなかった。

 同じ空間にいるのに、手を取り合うことも出来ない……。それは翡翠に、二年前に見た浄玻璃鏡を思い出させた。翡翠と咲夜が別世界にいるような、あの怖い光景。

「…………!」

 翡翠はとっさに左右のカーテンを持ってぴったりと端を合わせたが、それでもふたりは何の反応も示さなかった。

「だめか……」
「ふたりなのに、さびしそう」
「そうだな、寂しそうだ……」
「寂しそうだからってなんだよ。俺たちにしてやれることなんてもうねぇだろ。撤収しようぜ」

 吐き捨てるように言って、蓮次郎はひょいと老人の遺体を肩に担いだ。

「翡翠様。今はハウスメイドが機能していないから、美海さん達にここの掃除を頼んでおきますね」

 艶子は翡翠に軽く礼をして、遺体を担いだ蓮次郎と一緒に出ていこうとする。

「ま、待って。待ってください、蓮次郎様」

 翡翠はその後ろから呼びかけた。
 蓮次郎が不機嫌そうに振り向く。

「なんだよ?」
「あ、あの……少し、お話しできませんか? 後でお時間が欲しいんですけど」

 蓮次郎はくいっと顎で咲夜を示す。

「久しぶりに会えたんだろ? 咲夜とくっついてなくていいのか?」
「蓮次郎様と話したいんです。二人だけで、話したいんです。その、私と蓮次郎様のことを……」
「俺とお前のこと?」
「はい」
「寝室へ行こうか?」
「いいえ。今夜、第二応接室に来てくださいませんか」
「ふん、応接室かよ」
「はい、応接室です」
「ま、時間があったら行くかもな」
「はい、お待ちしております」

 深く礼をする翡翠を置いて、蓮次郎は遺体を肩に乗せて部屋の外へ歩き出した。




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