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(43)咲夜15歳 『役者がそろう』

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 人を殺したとか、命を弄んだとか、平和な『きさら堂』から一歩も出たことのない翡翠には、まったく想像もつかないことだった。

「あ、あの、罪のことなど私にはよく分かりませんが、時津彦様はこのままで大丈夫なのですか? このようなものに顔を覆われていては息も出来ないのではないですか?」
「翡翠様、あんなひどいことをされても、まだこいつが心配なの?」
「お前を『きさら堂』から追い出して殺そうとしたのだろう?」

 咲夜と蓮次郎は怒ったように眉を吊り上げたのだが、二人の神の反応は少し違っていた。互いに目線を交わすと、コクリとうなずいてベッドサイドから一軸の巻物を手に取る。

「翡翠殿、これを見てくれるか」
「は、はい」

 しゅるりと紐をほどいて広げられたそれには快晴の空が描かれていて、足元の部分にちょっとだけ地面と青い花が描かれている。バランスの悪いぼんやりとした背景の絵には、あきらかに主人公が存在しなかった。

「ぬけ現象を起こしている絵ですね」
「うむ」
「見たことのない絵です。これはどこで?」
「時津彦殿が懐に持っていたものだ」

 翡翠の心臓がドクンと鼓動を打つ。
 まさかという思いが、頭を巡る。

「あの、その絵に、触れてみてもよろしいですか……?」

 翡翠が手を伸ばすと、少名毘古那神すくなびこなのかみ様がすっとそれを渡してきた。翡翠は丁寧に両手で受け取り、そっとその表面に指を置いてみた。

「翡翠様? それ、翡翠様の絵なの?」

 咲夜の問いかけに翡翠は首を振る。

「いいや、違うよ、咲夜。でも、これは……これは……あぁでもそんなことがあるのでしょうか?」

 翡翠が助けを求めるように二人の神に問いかけた。

「これは、時津彦様の絵なのですね?」
「やはり眷属である翡翠殿には分かりますか」
「はい……」
「これで少しは安心したであろう? 呼吸ができないくらいでは死ぬことは無い。あやかしはな」
「はい……その通りです……」
「あぁ、それをこちらに。手が震えておるようだ」
「待って! 俺にも見せて!」

 少名毘古那神様が翡翠から巻物を受け取ろうとするのを、咲夜が興奮したように割り込んできた。
 目を凝らすようにしてじっと巻物を見つめ、そしてベッドに横たわる男を睨む。

「嘘だろ……。そんなことが可能なのかよ。これはもう天才っつうか、鬼才っつうか、こいつの才能、デタラメすぎるだろ」
「おい、さっきからなんの話をしているんだ? 分かるように説明してくれ」

 焦れたような声を出す蓮次郎に、咲夜が巻物を掲げて見せる。

「だから、この絵は時津彦なんだよ。時津彦は自分で自分の絵を描いて、そこに自分の魂を宿らせて、自ら絵のあやかしになったってわけ」
「絵のあやかし……? 翡翠と同じか?」

 翡翠はコクンとうなずいた。

「じゃぁ、生身の体は? 時津彦の人間の体はどうなった?」
「さぁね。魂が抜けて死んだのか、死んでから魂が抜けたのか分からないけど、魂が絵に宿っているのなら体の方はもう……」

 咲夜がひょいと肩をすくめてみせる。
 人の体はもうとっくにどこかで朽ちているのだろう。

「はぁ……なんてこった。つまり、この絵を破いちまうと時津彦も消えるってわけか?」
「だ、だめだ! 破かないでくれ!」

 翡翠が悲鳴のように声をあげると、蓮次郎は苦笑して巻物に伸ばした手を引っ込める。

「分かってるって。俺だって時津彦とは古い友人だ。そこまでする理由はねぇ」

 翡翠がハッと咲夜の方を振り返ると、「翡翠様との約束だからね。殺さないよ」と言って、咲夜は巻物をくるくると巻いて少名毘古那神様に渡した。


 ほっと息をついた瞬間、

「翡翠! 翡翠翡翠翡翠!」

 白く美しい女の腕が六本、いきなりにゅっと伸びてきて、翡翠の体を後ろからムギュッと抱きしめてきた。

「ひゃあ!」

 悲鳴を上げる翡翠の体の上を、六つの手が高速でペタペタを動いていく。

「わわっ、ちょ、くっ、くすぐったい、はははっ」
「やっと! やっと会えました! 翡翠、衣装を突き返されてから、どんなに心配したことか」
「え? え? 八目姫様?」
「嗚呼、かわいそうに。こんなに痩せてしまって」
「え、あの、私はあやかしですので痩せることなど……」
「いいえ、痩せました。肩の肉も、胸も腰も、尻も太ももも、とにかく全部サイズが落ちています。正確無比な私の手を信じられないのですか」
「でも……私は……」
「やっぱり! 気のせいじゃなかったんだ……」

 咲夜が突然、横から姫様の手をぐいっとつかんだ。

「何をするのですか、少年」
「何って、姫様の手をぜんぶ、翡翠様からはがしてんの」

 当然のように答えて、咲夜が六本の腕をひとつひとつ、ぐいっぐいっとはずしていく。

「な、なな……なにをするか……!」

 姫様の方がずっと力が強いはずなのだが、あまりにも無礼な咲夜に対して呆気に取られてしまったようだ。

 目を八つとも見開いて驚いている八目姫様から翡翠を奪い取り、咲夜はぎゅーっと抱きしめてきた。

「さ、咲夜?」
「翡翠様……」
「ちょっと少年、翡翠を独り占めしないで」
「逆だよ、姫様。翡翠様に俺を独り占めさせてるの。翡翠様は俺を摂取しないと飢えちゃうんだから」

 咲夜はひょいと翡翠を抱き上げて、鏡台の前にあったスツールにすとんと腰を下ろした。

「さぁ、思う存分俺を摂取していいよ」
「さ、咲夜」
「ん?」
「いや、あの、嬉しいけれどちょっとこれは」
「うん、嬉しいでしょう?」

 見上げてくる咲夜の瞳が綺麗なラピスラズリになっていて、翡翠の胸がトクンと騒ぐ。

「嬉しい……」

 思わず本音が漏れてしまった翡翠を、咲夜が満面の笑顔で見上げてくる。

「翡翠様」
「咲夜……」

 翡翠は引き寄せられるように咲夜の首に両手をまわしてしがみついた。咲夜の手が優しく背中を撫でてくれる。

「大丈夫だよ、翡翠様。俺がいるからね。翡翠様には咲夜がついてるよ」
「うん……」

 子供をあやすようにぽんぽんと背を叩かれ、翡翠は妙に安心してふっと体の力を抜いた。咲夜の匂い、咲夜の体温が、じんわりと体に沁み込んでくる。

「お、おい、翡翠! お前ら人前で」
「良い良い、好きにさせてやりなさい」

 たしなめるような蓮次郎の声と、アスクレピオス様のやんわりとした声が聞こえてきたけれど、翡翠はまだ咲夜にしがみついていた。

「だがな、みっともなくべたべたと……」
「そう言うでない。あやかしの体が痩せてしまったということは、それだけ心労が重なっているということじゃ」
「そうです。あやかしの体は心の影響をもろに受けるものですから、愛しいものに触れるというのは悪くない治療法なんですよ」

 咲夜がアクアマリンの髪にちゅっと口付けして微笑む。

「ほんとはゆっくり添い寝してあげたいんだけど、もうちょっとだけ我慢してね。もうすぐ届くと思うから」
「とどく……?」
「うん。あ、ほら、足音が聞こえてきた」

 咲夜がドアを指さすと、そこからみっつの荷物を抱えたスーツ姿の男達がぞろぞろと入って来るところだった。

「紹介するね。俺が描いた俺の部下、前から順番にアルファ、ベータ、ガンマ、デルタ、イプシロン、で、最後に入って来たのがゼータだよ」
「咲夜が描いた、咲夜の部下……」

 十二神将のお守りを渡された時から分かっていたが、自らが描いて作り出した絵のあやかしを使役する様は、時津彦様と重なって見える。

 咲夜は翡翠の手を撫でて、安心させるように笑って言った。

「こいつらにはね、俺よりも翡翠様を優先するようにちゃんと教えてあるから。大丈夫、安心して」

 スーツ姿の男達は翡翠に深く頭を下げると、大きな荷物を床に置いていく。ひとつは棺のような形をしていて、あとのふたつは布をかけられた絵のようだった。

「咲夜、これは?」
「そっちの棺桶の中には井筒いづつたかむらの首から下の骨が入っているの」
「ほ、骨が?」
「ちなみに見つけてきたのは俺だ」

 蓮次郎が手のひらでバンバンと棺を叩く。

「苦労話、聞かせてやろうか?」
「そんなの後でいいから。それと、こっちはメイドのとうの絵で……もう一枚は」

 咲夜が何かを言いかけた時、廊下からガヤガヤと賑やかな声が聞こえてきた。

「あんな恐ろしい浄玻璃鏡なんて封印するべきじゃないんですか、親分さん」
「だがなぁ、ありゃぁ見る者の心の内を映すだけで、別に実害はないものだからなぁ」
「実害、ありますよ! 大いにあります! 心臓が口から飛び出すかと思ったんですよ!」
「おいおい狐の、いってぇ何を見たっていうんだい?」
「教えるわけがないでしょう!」
「だが、狐の艶子殿の言う通り、ここには扱いを間違えると危ないものは多いの」
「そうですよ! 浄玻璃鏡だけじゃなくて、ふる唐櫃からびつだのかみなりくじだの、よくもまぁ、あんな危ないものをいくつも持ち出しましたね」
「翡翠殿が殴られたことで、あやかし館のあやかしは、わしを含めてみんな怒り心頭だったからのぉ」
「気持ちは分かりますけど……。まぁ、蔵にしまっておけば、そうそう危ないことも無いでしょうけど……」

 きさら狐の長である艶子、狸の大親分である源吾、そして大己貴神おおなむちのかみ様がやってきて、翡翠を見つけてわぁっと近づいてきた。

「翡翠様、よくぞご無事で!」
「心配したぞ、翡翠さん!」
「さっそく恋人に甘えているようだのぉ、翡翠殿」
「あ、こ、これは」

 翡翠は慌てて咲夜の膝から降りようとしたが、咲夜がぎゅっと抱きしめて離そうとしない。

「咲夜、そろそろ」
「翡翠様、もうちょっとくっついてちゃダメ?」
「う……」

 上目遣いで可愛い顔を見せられたら、翡翠はただうなずくしかない。

「も、もうちょっとだけだぞ」
「うん、もうちょっとだけね」

 咲夜が笑うと、その笑顔が眩しくて翡翠は瞬きをした。


「オオナ、無事に片付け終わったか?」
「おお、スクナ。浄玻璃鏡も蔵に入れて来たぞ。こちらの様子は?」
「相変わらずだ。八目姫様、蛇よけ草は見つかりそうですか」
「はい、もうすぐ来ます」

 八目姫様が後ろを振り向く。

 すると、カサカサ、ザワザワ、と何かが遠くから近づいてくるのが感じられた。数百、数千のかすかな足音が重なって地響きのように大きくなったそれが、どんどん近づいてくるのだ。

「八目姫様の千の眷属……」

 咲夜の顔が少し蒼ざめ、「うぅ、蜘蛛ちょっと苦手」と呟く。

「あ……この香り」

 翡翠はすぅっと息を吸った。
 それは少々刺激的で、それでいてどこか懐かしいような香りだ。
 中庭からすべて引っこ抜かれてしまった蛇よけ草の香りが、足音が近づくにつれてあたりに漂ってきた。 

「役者がそろったようだな」

 誰が言ったものか、その呟きに答えるように無邪気な青年の顔がドアからひょっこりと覗く。

「うー!」

 まるで返事をするように、たかむらが元気な声を出した。



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