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(51)咲夜18歳 『婚礼と、ちょっとした出来事』
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「とらんくす……」
「うん。それとボクサーパンツとブリーフもあるけど」
ベッドの上に並べられた男物の下着類を見て、翡翠は少し首をかしげた。
「いつもの下着ではいけないのか?」
「いけなくないよ。でも、翡翠様がいつも身に着けているのは女性用だからさ……」
翡翠はますます首をかしげる。
「女性用だとなぜダメなのだ? こっちの方が色も綺麗だし飾りも華やかだぞ」
レースやリボンがついた美しい下着を両手に持って、翡翠は咲夜の顔の前にずいと掲げてみせる。
「え、えっと」
咲夜が困ったようにぱちぱちと瞬きをした。
「もしかして、あのクソ五代目から女性用を着るようにって命じられていたのかと思っていたんだけど……」
「うむ、それはない。時津彦様は、寝る時は下着を付けず素肌にナイトガウンを羽織るようにとおっしゃっただけだ」
「うわ、そっちの方が変態臭い」
「変態というほどではないだろう」
「翡翠様はあいつに甘いから……。普通そんな命令されたらドン引きだよ」
「あの方を敬う気持ちは無くなることはない。なにしろ、私の創造主なのだから」
「むー」
咲夜は可愛い顔でちょっと口をとがらせてみせると、翡翠が掲げているレースの下着を手に取った。
「じゃぁ、翡翠様はあのクソ五代目に関係なく、自分の好みでこういうのを着てたんだね」
「そうだが、もしも咲夜が気に入らないというなら私は……」
言いかけた口を、咲夜の指がスッと押さえた。
「ううん。すごく似合ってると思う。ただ、俺はクソ五代目と同じ過ちを繰り返したらダメだと思って……」
「時津彦様の過ちとは?」
「趣味と性癖の押し付け」
翡翠はちょっと噴き出しそうになって、咲夜にぎゅっと抱きついた。
「翡翠様?」
「咲夜は可愛いな……」
「え? 今の会話に可愛い要素あった?」
翡翠が寄りかかるように少し体重をかけると、咲夜は当たり前のように支えてくれる。その手の優しさに、翡翠の頬は自然に微笑んだ。
「毎朝、同じように派手な装いをしていたのも、毎夜、素肌にナイトガウンを羽織っていたのも、それほど嫌だったわけではないのだ。あれはあれで、とても美しい衣装だったから……」
「……そ、そうなの……?」
「ああ。ただ、それ以外のものを禁じられるのが少し窮屈だったような気がするが……。といっても、咲夜に出会う前までは自覚もしていなかった小さな感情だ」
「俺は絶対、縛り付けたりしないよ! 翡翠様には翡翠様の好きな服を着て欲しいから、でも……その……あのね」
言いよどんだ咲夜の顔を間近に見上げると、その顔がほんのりと赤く色づいている。
「咲夜らしくないな。そんな遠回しに言ったりせず、はっきり頼めば良いではないか。何か私に着て欲しいものでもあるのだろう?」
「えっと……う、うん」
「何でも言ってみてくれ。嫌なら嫌だとちゃんと断るぞ」
「じゃ、じゃぁ……あの、翡翠様。結婚式では白無垢とか、ウェディングドレスとか、女性の衣装を着てくれる……?」
翡翠がこくりとうなずくと、咲夜はぱっと笑顔になった。
「本当? ほんとのほんとに抵抗ない?」
「もちろん。男性用だろうが女性用だろうが、私は美しいものが好きだから」
「やったぁ! 絶対、絶対、似合うと思う!」
キラキラとした可愛い目で見られて、翡翠はちょっと苦笑する。
「ふふ、そんなに喜んで……。もしも私が嫌だと言ったらどうするつもりだったのだ?」
「それは当然、二人でお揃いの紋付き袴かタキシードを着るつもりだったよ」
「ほう、それはそれで楽しそうだ」
「そうだね。お色直しではそうしちゃおっか?」
「それは良いな」
二人がそんなことを話して笑いあった約一月後、咲夜と翡翠の婚礼の儀式が三日間かけて盛大に行われたのだった。
一日目は艶子の采配で和式の婚礼が行われた。
提灯を連ねた花嫁行列で鬼在の街をぐるりと一周してから、わざわざそのために畳を敷きつめた大広間にて式が挙げられた。翡翠は白無垢に綿帽子を身に着けて、お色直しに艶やかな引き振袖を着た。
二日目は張り切る源吾を押しのけて、その妻美海が采配する洋式の婚礼だった。
大広間の畳は一夜で取り払われ、翡翠は裾を長く引きずる豪奢な白いウェディングドレスを身に着けて、ヴァージンロードをひとりで歩いた。お色直しはアクアマリンの飾りが縫い付けられたフリルたっぷりのドレスを着た。
三日目はあやかし館のあやかし達が祝う中、二人は揃いの白いタキシードで披露宴を行った。ネクタイとベストとチーフにはラピスラズリとアクアマリンの飾りが光っていた。
衣装はすべて八目姫様の手によるものだ。
儀式には神主も巫女も神父も牧師もおらず、すべて人前式で行ったわけだが、参列したのはほぼあやかしなので妖前式といった方が正しいかもしれない。
ただただ喜ばしく、ただただ幸福な三日間だったが、最後に蓮次郎が写真を撮ろうと言い出して、あやかし達が大階段の前にわいわいと勢揃いした時に少し変わった出来事があった。
「階段で記念撮影するなんて、新内閣発足みたいだね」
「あはは、違いねぇ。でも大勢で撮るならここが一番いいロケーションだろ?」
「まぁねー。あ、そこ、ちゃんとまっすぐ。しわにならないようにね」
「分かった! しかし、すげぇな。これのおかげで、弱いあやかし達も写真に写るんだろ?」
「これ描くのけっこう苦労したんだよー」
大勢のあやかし達が集まってざわめく中、咲夜と蓮次郎が協力して最上段と最下段に場作りの札を貼っていく。
咲夜は人間だが、『きさら堂の仮の主人』になったことで、階段の途中で立ち止まってもどこかへ飛ばされることは無くなった。むしろ、妖力のあまり強くない翡翠の方が危ないということで、場を安定させる札を貼っているのだ。
「そこまでして写真など撮らなくても良かったのだが……」
「いや、絶対記念に必要だから! 何十年か経って見直すと感慨ひとしおだから!」
「俺も翡翠様と一緒に映ってる写真欲しいよ!」
「そういうものか……?」
「そういうものなの!」
準備を終えた咲夜が駆け寄ってきて、ぎゅっと翡翠の手を握る。
「翡翠様、俺と一緒に真ん中に行こ」
お揃いのタキシードを着た咲夜に手を引かれ、階段を数段上がったところで立ち止まる。
場作りの札のおかげで、なにも異変は起こらない。
蓮次郎が三脚に大きなカメラをセットして、大きな声で指示を出していった。
「一度に全員入るのは無理だから順番に行くぞー。まずは『きさら堂』の主人たかむらと使用人達、二人の後ろに並んでくれ」
「さぁ、たかむら様。写真を撮るそうですよ」
「うー?」
「そうです。記念写真です」
「きれいに撮ってもらいましょうね」
ひいとふうに支えられて、たかむらが階段を登って来る。その後ろからぞろぞろと使用人達も続いてくる。
カメラを調整しながら覗き込んでいた蓮次郎が、突然「あれ?」と声を上げた。
「なんか、おかしな影が」
「影?」
「あぁ、お前らの後ろに……」
蓮次郎の指につられるように、全員でそちらを振り向く。
そこには確かにぼんやりした人影のようなものが見えた。
「なんだなんだ?」
「遅れてきた客か?」
ざわめくあやかし達が見守る中、影は少しずつはっきりと形を見せ始め、やがて高級スーツに身を包んだ三十代くらいの男がそこに現れた。
「なんか、人がいっぱい……。さっきまで翡翠さんしかいなかったのに、いつの間にこんなに大勢……?」
(え? この男、私の名を呼んだ?)
翡翠は驚いて咲夜にしがみつく。
咲夜は翡翠をかばって前に出ると、警戒するように男を睨んだ。
「誰だ、お前!」
「え? え?」
「人間なのか? どうやってここに入って来た?」
「なんで? あれ?」
男は不安そうにきょろきょろと周りを見る。
「ひ、翡翠さーん……? どこですかー……?」
震える声で男に呼ばれ、思わず翡翠は返事をしていた。
「こ、ここに。翡翠ならここにおるぞ」
「え? 翡翠さん? ええ? でも服も髪もさっきと違って……」
「うー?」
そこで男はたかむらに気付き、ますます混乱した様子を見せる。
「え? は? こっちも翡翠さん? 翡翠さんが二人いる? ど、どういうことですか?」
「どういうもこういうも……そなたは誰だ?」
「誰って、ひどいですよ。ついさっきまで話をしていたでしょう?」
「話?」
「そうですよ! 俺が翡翠さんに一目惚れして、ぜひ一緒に連れて帰りたいって思って口説いて、それで翡翠さんが俺の持っている船に興味を示してくれて、それで、……あ、あれ? 俺のジェラルミンケースが無い! 嘘だろ、あれには大金が……」
「あああああー!」
階段の下から、艶子が大声を出して男を指さした。
「あんた! どっかで見た覚えがあると思ったら!」
「あああ! あなたは! 仲介してくれた鬼在神社の……!」
「そうだわ、はっきり思い出した。あなた、7年前に消えてしまった『きさら堂』のお客じゃないの!」
「消えた? 7年前? いったい何のことですか?」
パニック状態の男を見て「ああ、そういえば、そんなこともあったような……」と、翡翠の脳裏にうっすらと記憶がよみがえる。
「7年前の客? あっ! もしかして、ひとつ目の約束を破って消えちまったっていうあの間抜けな客か!」
蓮次郎がはたと手を打った。
「そうそう、正面玄関から入って五分も経たずに退場した間抜けな客が……ふふっ」
思わず翡翠が噴き出し、周囲に笑いが巻き起こる。
男はなぜ自分が笑われているか分からないようで、身を縮めるように周りを見た。
「あ、あのぅ、いったい何が何やら、これはどうなっているのですか?」
「お客人。まぁまぁそう慌てなさんな。こんなめでてぇ日に会ったのも何かの縁だ、悪いようにはしねぇからよ。まずは一緒に祝ってやってくんな」
源吾が言うと、客の男はきょとんとした顔をした。
「め、めでたい日?」
「あぁ、今日は翡翠さんと咲夜の婚礼の日だ」
「へ……?」
男の視線がさまよって、たかむらと翡翠を行ったり来たりする。
「うあー?」
「この方はたかむら様です。翡翠様ではありません」
「翡翠様はこっちだよ」
咲夜は満面の笑みで、お揃いのタキシードを着た翡翠の腰を見せつけるようにぐいっと抱き寄せた。
「そ……そんな……だって、ついさっき一目惚れしたばかりで……も、もう失恋……?」
7年の月日を一瞬で飛び越えてしまった客人は、翡翠からジェラルミンケースを返されて失意のままに帰っていった。だが、行方不明になっていた間に貿易会社は他人の手に渡ってしまっていたらしい。恋と仕事の両方を失った客に源吾と艶子は同情して、新会社を立ち上げるのに親身になって力を貸したという。そんな二人に後押しされたおかげで男の商売はあれよあれよという間に大きくなり、やがては大財閥を築くことになるのだが、それはまた別のお話。
その日は披露宴に参加したすべてのあやかしと記念撮影をして、そして……。
やっと、やっと、二人は初夜を迎えたのだった。
「うん。それとボクサーパンツとブリーフもあるけど」
ベッドの上に並べられた男物の下着類を見て、翡翠は少し首をかしげた。
「いつもの下着ではいけないのか?」
「いけなくないよ。でも、翡翠様がいつも身に着けているのは女性用だからさ……」
翡翠はますます首をかしげる。
「女性用だとなぜダメなのだ? こっちの方が色も綺麗だし飾りも華やかだぞ」
レースやリボンがついた美しい下着を両手に持って、翡翠は咲夜の顔の前にずいと掲げてみせる。
「え、えっと」
咲夜が困ったようにぱちぱちと瞬きをした。
「もしかして、あのクソ五代目から女性用を着るようにって命じられていたのかと思っていたんだけど……」
「うむ、それはない。時津彦様は、寝る時は下着を付けず素肌にナイトガウンを羽織るようにとおっしゃっただけだ」
「うわ、そっちの方が変態臭い」
「変態というほどではないだろう」
「翡翠様はあいつに甘いから……。普通そんな命令されたらドン引きだよ」
「あの方を敬う気持ちは無くなることはない。なにしろ、私の創造主なのだから」
「むー」
咲夜は可愛い顔でちょっと口をとがらせてみせると、翡翠が掲げているレースの下着を手に取った。
「じゃぁ、翡翠様はあのクソ五代目に関係なく、自分の好みでこういうのを着てたんだね」
「そうだが、もしも咲夜が気に入らないというなら私は……」
言いかけた口を、咲夜の指がスッと押さえた。
「ううん。すごく似合ってると思う。ただ、俺はクソ五代目と同じ過ちを繰り返したらダメだと思って……」
「時津彦様の過ちとは?」
「趣味と性癖の押し付け」
翡翠はちょっと噴き出しそうになって、咲夜にぎゅっと抱きついた。
「翡翠様?」
「咲夜は可愛いな……」
「え? 今の会話に可愛い要素あった?」
翡翠が寄りかかるように少し体重をかけると、咲夜は当たり前のように支えてくれる。その手の優しさに、翡翠の頬は自然に微笑んだ。
「毎朝、同じように派手な装いをしていたのも、毎夜、素肌にナイトガウンを羽織っていたのも、それほど嫌だったわけではないのだ。あれはあれで、とても美しい衣装だったから……」
「……そ、そうなの……?」
「ああ。ただ、それ以外のものを禁じられるのが少し窮屈だったような気がするが……。といっても、咲夜に出会う前までは自覚もしていなかった小さな感情だ」
「俺は絶対、縛り付けたりしないよ! 翡翠様には翡翠様の好きな服を着て欲しいから、でも……その……あのね」
言いよどんだ咲夜の顔を間近に見上げると、その顔がほんのりと赤く色づいている。
「咲夜らしくないな。そんな遠回しに言ったりせず、はっきり頼めば良いではないか。何か私に着て欲しいものでもあるのだろう?」
「えっと……う、うん」
「何でも言ってみてくれ。嫌なら嫌だとちゃんと断るぞ」
「じゃ、じゃぁ……あの、翡翠様。結婚式では白無垢とか、ウェディングドレスとか、女性の衣装を着てくれる……?」
翡翠がこくりとうなずくと、咲夜はぱっと笑顔になった。
「本当? ほんとのほんとに抵抗ない?」
「もちろん。男性用だろうが女性用だろうが、私は美しいものが好きだから」
「やったぁ! 絶対、絶対、似合うと思う!」
キラキラとした可愛い目で見られて、翡翠はちょっと苦笑する。
「ふふ、そんなに喜んで……。もしも私が嫌だと言ったらどうするつもりだったのだ?」
「それは当然、二人でお揃いの紋付き袴かタキシードを着るつもりだったよ」
「ほう、それはそれで楽しそうだ」
「そうだね。お色直しではそうしちゃおっか?」
「それは良いな」
二人がそんなことを話して笑いあった約一月後、咲夜と翡翠の婚礼の儀式が三日間かけて盛大に行われたのだった。
一日目は艶子の采配で和式の婚礼が行われた。
提灯を連ねた花嫁行列で鬼在の街をぐるりと一周してから、わざわざそのために畳を敷きつめた大広間にて式が挙げられた。翡翠は白無垢に綿帽子を身に着けて、お色直しに艶やかな引き振袖を着た。
二日目は張り切る源吾を押しのけて、その妻美海が采配する洋式の婚礼だった。
大広間の畳は一夜で取り払われ、翡翠は裾を長く引きずる豪奢な白いウェディングドレスを身に着けて、ヴァージンロードをひとりで歩いた。お色直しはアクアマリンの飾りが縫い付けられたフリルたっぷりのドレスを着た。
三日目はあやかし館のあやかし達が祝う中、二人は揃いの白いタキシードで披露宴を行った。ネクタイとベストとチーフにはラピスラズリとアクアマリンの飾りが光っていた。
衣装はすべて八目姫様の手によるものだ。
儀式には神主も巫女も神父も牧師もおらず、すべて人前式で行ったわけだが、参列したのはほぼあやかしなので妖前式といった方が正しいかもしれない。
ただただ喜ばしく、ただただ幸福な三日間だったが、最後に蓮次郎が写真を撮ろうと言い出して、あやかし達が大階段の前にわいわいと勢揃いした時に少し変わった出来事があった。
「階段で記念撮影するなんて、新内閣発足みたいだね」
「あはは、違いねぇ。でも大勢で撮るならここが一番いいロケーションだろ?」
「まぁねー。あ、そこ、ちゃんとまっすぐ。しわにならないようにね」
「分かった! しかし、すげぇな。これのおかげで、弱いあやかし達も写真に写るんだろ?」
「これ描くのけっこう苦労したんだよー」
大勢のあやかし達が集まってざわめく中、咲夜と蓮次郎が協力して最上段と最下段に場作りの札を貼っていく。
咲夜は人間だが、『きさら堂の仮の主人』になったことで、階段の途中で立ち止まってもどこかへ飛ばされることは無くなった。むしろ、妖力のあまり強くない翡翠の方が危ないということで、場を安定させる札を貼っているのだ。
「そこまでして写真など撮らなくても良かったのだが……」
「いや、絶対記念に必要だから! 何十年か経って見直すと感慨ひとしおだから!」
「俺も翡翠様と一緒に映ってる写真欲しいよ!」
「そういうものか……?」
「そういうものなの!」
準備を終えた咲夜が駆け寄ってきて、ぎゅっと翡翠の手を握る。
「翡翠様、俺と一緒に真ん中に行こ」
お揃いのタキシードを着た咲夜に手を引かれ、階段を数段上がったところで立ち止まる。
場作りの札のおかげで、なにも異変は起こらない。
蓮次郎が三脚に大きなカメラをセットして、大きな声で指示を出していった。
「一度に全員入るのは無理だから順番に行くぞー。まずは『きさら堂』の主人たかむらと使用人達、二人の後ろに並んでくれ」
「さぁ、たかむら様。写真を撮るそうですよ」
「うー?」
「そうです。記念写真です」
「きれいに撮ってもらいましょうね」
ひいとふうに支えられて、たかむらが階段を登って来る。その後ろからぞろぞろと使用人達も続いてくる。
カメラを調整しながら覗き込んでいた蓮次郎が、突然「あれ?」と声を上げた。
「なんか、おかしな影が」
「影?」
「あぁ、お前らの後ろに……」
蓮次郎の指につられるように、全員でそちらを振り向く。
そこには確かにぼんやりした人影のようなものが見えた。
「なんだなんだ?」
「遅れてきた客か?」
ざわめくあやかし達が見守る中、影は少しずつはっきりと形を見せ始め、やがて高級スーツに身を包んだ三十代くらいの男がそこに現れた。
「なんか、人がいっぱい……。さっきまで翡翠さんしかいなかったのに、いつの間にこんなに大勢……?」
(え? この男、私の名を呼んだ?)
翡翠は驚いて咲夜にしがみつく。
咲夜は翡翠をかばって前に出ると、警戒するように男を睨んだ。
「誰だ、お前!」
「え? え?」
「人間なのか? どうやってここに入って来た?」
「なんで? あれ?」
男は不安そうにきょろきょろと周りを見る。
「ひ、翡翠さーん……? どこですかー……?」
震える声で男に呼ばれ、思わず翡翠は返事をしていた。
「こ、ここに。翡翠ならここにおるぞ」
「え? 翡翠さん? ええ? でも服も髪もさっきと違って……」
「うー?」
そこで男はたかむらに気付き、ますます混乱した様子を見せる。
「え? は? こっちも翡翠さん? 翡翠さんが二人いる? ど、どういうことですか?」
「どういうもこういうも……そなたは誰だ?」
「誰って、ひどいですよ。ついさっきまで話をしていたでしょう?」
「話?」
「そうですよ! 俺が翡翠さんに一目惚れして、ぜひ一緒に連れて帰りたいって思って口説いて、それで翡翠さんが俺の持っている船に興味を示してくれて、それで、……あ、あれ? 俺のジェラルミンケースが無い! 嘘だろ、あれには大金が……」
「あああああー!」
階段の下から、艶子が大声を出して男を指さした。
「あんた! どっかで見た覚えがあると思ったら!」
「あああ! あなたは! 仲介してくれた鬼在神社の……!」
「そうだわ、はっきり思い出した。あなた、7年前に消えてしまった『きさら堂』のお客じゃないの!」
「消えた? 7年前? いったい何のことですか?」
パニック状態の男を見て「ああ、そういえば、そんなこともあったような……」と、翡翠の脳裏にうっすらと記憶がよみがえる。
「7年前の客? あっ! もしかして、ひとつ目の約束を破って消えちまったっていうあの間抜けな客か!」
蓮次郎がはたと手を打った。
「そうそう、正面玄関から入って五分も経たずに退場した間抜けな客が……ふふっ」
思わず翡翠が噴き出し、周囲に笑いが巻き起こる。
男はなぜ自分が笑われているか分からないようで、身を縮めるように周りを見た。
「あ、あのぅ、いったい何が何やら、これはどうなっているのですか?」
「お客人。まぁまぁそう慌てなさんな。こんなめでてぇ日に会ったのも何かの縁だ、悪いようにはしねぇからよ。まずは一緒に祝ってやってくんな」
源吾が言うと、客の男はきょとんとした顔をした。
「め、めでたい日?」
「あぁ、今日は翡翠さんと咲夜の婚礼の日だ」
「へ……?」
男の視線がさまよって、たかむらと翡翠を行ったり来たりする。
「うあー?」
「この方はたかむら様です。翡翠様ではありません」
「翡翠様はこっちだよ」
咲夜は満面の笑みで、お揃いのタキシードを着た翡翠の腰を見せつけるようにぐいっと抱き寄せた。
「そ……そんな……だって、ついさっき一目惚れしたばかりで……も、もう失恋……?」
7年の月日を一瞬で飛び越えてしまった客人は、翡翠からジェラルミンケースを返されて失意のままに帰っていった。だが、行方不明になっていた間に貿易会社は他人の手に渡ってしまっていたらしい。恋と仕事の両方を失った客に源吾と艶子は同情して、新会社を立ち上げるのに親身になって力を貸したという。そんな二人に後押しされたおかげで男の商売はあれよあれよという間に大きくなり、やがては大財閥を築くことになるのだが、それはまた別のお話。
その日は披露宴に参加したすべてのあやかしと記念撮影をして、そして……。
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