泣き鬼の花嫁

志波 連

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70 助ける理由

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 尼子国久からの知らせを受けた経久は、配下の領主たちに出兵準備を命じた。
 しかしあまりにも急な招集に、本来であれば千の兵を集められる領主でさえ、せいぜい三百が良いところだ。
 宿敵である毛利との決戦ともなれば何をおいても駆け付けるという気概はあれど、数あるたたら場のひとつの攻防戦だという気持ちが油断を呼んでいるのかもしれない。
 経久は床の間に置いている政久形見の横笛に視線を投げた。

「お前を看取ったあの鬼のような大男が窮地じゃそうな」

 鹿の角で作った刀掛けを模して作らせた横笛台に置かれたそれは、まだ血糊とスルメのカスが付いたままだ。

「国久が行ってくれるそうなけぇ、お前は安心してみておれ」

 経久の中ではまだ政久は生きているのだろう。
 まるで何気ない日常の祭ごとを相談するような口調で経久が続ける。

「わしの跡はお前の息子に譲ろうと思うのじゃがどうか? 国久なら揺るぎない後ろ盾になるじゃろうし、お前の血が濃ければ尼子をより大きくもできるじゃろうて」

 ふと湿った空気が経久の鼻先を掠めた。
 それに政久の匂いを嗅ぎ取った経久が静かに言う。

「まああの子がボンクラならそれまでだ。ダメと断じたらわし自らが引導を渡すさ。お前はそこでゆっくり笛でも吹いておればええ」

 屋敷の表ではバタバタと忙しない足音がしているが、奥まったこの座敷にまでは届いてこない。
 縁側まで出てどかりと胡坐を組んだ経久が空を見上げた。

「どうやら降りそうじゃのぉ……毛利はどれほどの数を揃えておるのじゃろうか」

 こちらが進軍していることさえ知られなければ援軍は来ないと踏んでいるのだが、腹の探り合いや諜報合戦など世の常だ。
 戦況によっては追加の兵を投入する必要があるかもしれない。

「まあ、たたら場には鬼がおるそうなけぇ大丈夫じゃろうて」

 経久はからだを捩って床の間の笛に振り返ってそう呟いた。
 表座敷から来た側近が、兵が出立したと知らせに来る。
 声に出さず頷いた経久は、そのままゴロンと横になった。
 天井の木目を無意識のうちに数えながら経久がボソッと言う。

「お前が……お前さえ生きておってくれたらのぉ」

 死んだこの年を数えるように、もし政久が生きていれば毛利勢をどう叩くかなどの妄想をしながら経久はゆっくりと目を閉じた。
 国久率いる新宮党がたたら場を目指して約半日、一度休憩をという進言に頷いた国久は、山道のわきに流れる清流に愛馬を導いた。
 配下の者たちもそれぞれの愛馬を休憩させながら、腰や背中を伸ばしている。
 側近の中でも特に目をかけている宍道氏の息子である昭光がすっと側に寄ってきた。

「国久様、わしはちと不思議なんじゃが、あの杣人たちを信じたんはなんでじゃ?」

 国久が愛馬のたてがみを撫でながら顔を向ける。

「なんでか? ほうじゃのぉ、なんでかのぉ。じゃが噓はないと感じたんじゃ。そもそもあれほど凝った噓など吐く必要はあるまい?」

「まあそれはそうじゃが、例えば本城から人を減らすのが目的とは考えられんかのぉ」

「なるほど。しかし本城には父上がおられる。少々減っても問題はあるまい」

 宍道昭光が手を顎先に当てて首をひねる。

「たたら場というのがどうも気に入らん。あそこは代々受け継がれた技術だけで成り立っとる場所じゃろう? そこを戦場にしたらその技術を持った者たちがおらんようになってしまう。それでは本末転倒じゃろう? 毛利がそんなバカをするかのぉ」

「なるほどのぉ。じゃがのぉ、助けてくれとあの小松伊十郎が手紙をよこしたのじゃ。助けぬ理由は無い。あれは兄者が尤も信を置いていた者じゃけぇのぉ」

「小松伊十郎かぁ。あいつは確かにええ男じゃが、道庭佐次郎というのは?」

 国光が一瞬目を見開いた後、大きな声を出して笑った。

「佐次郎か。あいつは牛のように大きな体で、馬のように足が早い男よ。猿のように素早い動きで敵兵を撃つのじゃ。ああ、嫌々違うのぉ。猿のように素早いのはあやつの嫁の父親じゃったわい」

 意味の分からない昭光がさらに首を傾けた。
 国久が続ける。

「わしはその男に命を助けられた。その借りを返さねば男とはいえまい? じゃから助けろと言うなら助ける。それだけじゃ」

「ほう? そしたらその命の恩人言うのもたたら場におるのかの?」

「いや、あいつは死んだ。おるのはその娘婿じゃ。それが佐次郎じゃよ」

 昭光がにやりと笑った。

「いやはや、我が主は存外情に厚いということじゃな」

「ははは! 情には厚いし戦には強い。どうじゃ? 主としては申し分なかろう?」

「そうじゃな、我ら新宮党の党首としては一番じゃ。しかし政ごととなるとからっきしじゃけぇのぉ。そこさえなんとかなれば鬼に金棒じゃがのぉ」

 国久が寂しそうに笑う。

「そんな男がおったら連れてこいや。いつでも党首をかわってやるぞ。俺が知る限りそれほどの男はただの一人、兄上だけじゃ」

 昭光が悲しそうな顔で俯いた。

「その兄者の最後をみとったんが佐次郎じゃ。これ以上の理由はあるまい?」

「なるほど得心したわい。そういうことならワシも心置きなくやらせてもらう」

 ニヤッと笑って離れていく昭光の背中を見ながら、国久はふと今は亡き政久を思った。

「兄者、そっちでスルメでも食うとって下され。佐次郎は俺が守るけぇね」

 林の中を吹き抜ける風が足元の隈笹を揺らした。
 青臭い匂いが鼻腔を掠める。

「さあ、そろそろ行くぞ!」

 国久が愛馬の手綱を握り締めた。
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