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71 たたら場へ
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「大丈夫か? 春乃」
流星のわき腹をしっかりと膝で挟みながら、体を固くしてじっと前を向いている春乃に声を掛ける伊十郎。
声を出すほどの余裕はないのだろう、目に涙をいっぱい浮かべながら振り向いて春乃は頷いた。
「もうすぐじゃけ。頑張ってくれ」
春乃が乗っていなければ、流星はもっと早く駆けることができるのだろう。
しかし自分の背に乗っているまだ少女とも呼べそうなほど小さな人間を気遣っているに違いない。
そう思っただけで流星の気持ちが痛いほど胸に染みた。
「佐次郎、耐えろ! すぐに春乃が行くぞ」
ずっと流れ続ける涙のせいで、佐次郎の右の頬には赤く爛れたような筋ができている。
春乃が日課のように温泉水で拭っていたのだか、たたら場に来てからは何もしていないせいで瘡蓋のようになっていた。
「あれを見たら春乃が怒りそうじゃのぉ」
ふと独り言を呟いた伊十郎の目に、たたら場へと続く最後の林道が映った。
「流星!」
左手でほんの少し手綱を引くと、流星が分かっているとばかりに体重を少し左に傾け、ほとんど速度を落とすことなく細道に飛び込んだ。
「ほれ、春乃。あれが佐次郎のおるたたら小屋じゃ」
急な坂道を駆けおりた流星が、小屋の前で砂煙を上げた。
たたら場衆が駆け寄ってきて、伊十郎から手綱を受け取る。
春乃を抱きおろした伊十郎の前に出てきたのは佐助だった。
「佐助! お前……歩けるようになったんか」
杖にすがりながらも、自分の足で歩いてきた佐助に伊十郎は驚いた。
「へえ。ご心配をお掛けしましたが、けばけば草のお陰で痛みは感じんようになりました」
「痛みは感じんと言っても治ったわけじゃない。無理はするな」
頷いた佐助が真っ青な顔でふらつく体を支えられている春乃に声を掛けた。
「御新造さん、お疲れでしたのぉ。さあ、佐次郎さまが首を長ごうしてお待ちじゃけ」
頷いた春乃はよろよろしながら小屋の中へ足を踏み入れた。
「佐次郎さま!」
小屋の真ん中で大の字になっている佐次郎に駆け寄ろうとした春乃だったが、思うように足が動かない。
伊十郎に支えられながら這うようにして佐次郎の側へと進んだ。
「あんた……あんたは?」
佐次郎の脇腹に縋りつくようにして離れないよねこに向かって春乃が聞いた。
よねこは猫のように丸い目をして、春乃の顔をじっと見ている。
「その子はよねこいう名前でのぉ。まだ六つになったばかりじゃそうな。このたたら場の鬼の娘で、佐次郎の命を繋いでいてくれたんはこの子じゃけ」
伊十郎がよねこの頭を撫でながら春乃に説明した。
「なんとまあ! よねこちゃんの腕はまだ佐次郎さまの腹の中に埋まっとるんかね」
「そういうことじゃ」
「抜けんのん?」
「どうなんかのぉ……とにかくお前を連れてこいとよねこが言うたんじゃ」
春乃がもう一度よねこの顔を見た。
「ありがとうねぇ、私はちっとも知らんかったけぇ、毎日のほのほとおまんまを食うておったけぇ……申し訳が無いねぇ」
よねこが春乃の埃だらけの着物の袖を引いた。
じっと見つめ合う二人。
「ああ、そういうことかね。うんうん、困ったねぇ。でもね、よねこちゃん。私が来たけぇもう大丈夫じゃけ。安心して抜きんさい」
伊十郎が不思議そうな顔で春乃に聞いた。
「お前は分かるんか? よねこの言いたいことが」
「はい、分かりますよ。頭の中でちゃんと聞こえますけぇ」
伊十郎はふと佐次郎の父である貞光の言葉を思い出した。
「たたら場の者は音にせんでも話せるんか? なんとも便利じゃのぉ」
流星に水と飼葉をやっていたたたら場衆の男が小屋の外から話に入る。
「そんなことはありませんわい。できるんはよねことよねこのばば様だけじゃけ」
伊十郎が不思議そうな顔のままよねこと老婆と春乃を順番に見る。
困った顔で老婆が言葉を紡いだ。
「できる者は限られとるんです。それができる者はご神木に触れるのですよぉ。できん者がご神木に触れたら体中にぶつぶつができて死んでしまうのです」
「ご神木? なんじゃそれは」
佐助がすかさず説明の言葉を挟む。
「佐次郎さまを山の宮に移そういうことになったのですが、なんせこのお体でしょう? どうやっても動かせんかったんです。そしたらよねこがご神木の枝を切って、それに乗せろ言うんですが……」
「なるほど。しかしそのご神木とやらに触れられるもんがおらんということか」
老婆が続ける。
「わしが行く言うたんじゃが、この体ではご神木に辿り付けんのですわい」
「そこで春乃か」
よねこが頷いた。
流星のわき腹をしっかりと膝で挟みながら、体を固くしてじっと前を向いている春乃に声を掛ける伊十郎。
声を出すほどの余裕はないのだろう、目に涙をいっぱい浮かべながら振り向いて春乃は頷いた。
「もうすぐじゃけ。頑張ってくれ」
春乃が乗っていなければ、流星はもっと早く駆けることができるのだろう。
しかし自分の背に乗っているまだ少女とも呼べそうなほど小さな人間を気遣っているに違いない。
そう思っただけで流星の気持ちが痛いほど胸に染みた。
「佐次郎、耐えろ! すぐに春乃が行くぞ」
ずっと流れ続ける涙のせいで、佐次郎の右の頬には赤く爛れたような筋ができている。
春乃が日課のように温泉水で拭っていたのだか、たたら場に来てからは何もしていないせいで瘡蓋のようになっていた。
「あれを見たら春乃が怒りそうじゃのぉ」
ふと独り言を呟いた伊十郎の目に、たたら場へと続く最後の林道が映った。
「流星!」
左手でほんの少し手綱を引くと、流星が分かっているとばかりに体重を少し左に傾け、ほとんど速度を落とすことなく細道に飛び込んだ。
「ほれ、春乃。あれが佐次郎のおるたたら小屋じゃ」
急な坂道を駆けおりた流星が、小屋の前で砂煙を上げた。
たたら場衆が駆け寄ってきて、伊十郎から手綱を受け取る。
春乃を抱きおろした伊十郎の前に出てきたのは佐助だった。
「佐助! お前……歩けるようになったんか」
杖にすがりながらも、自分の足で歩いてきた佐助に伊十郎は驚いた。
「へえ。ご心配をお掛けしましたが、けばけば草のお陰で痛みは感じんようになりました」
「痛みは感じんと言っても治ったわけじゃない。無理はするな」
頷いた佐助が真っ青な顔でふらつく体を支えられている春乃に声を掛けた。
「御新造さん、お疲れでしたのぉ。さあ、佐次郎さまが首を長ごうしてお待ちじゃけ」
頷いた春乃はよろよろしながら小屋の中へ足を踏み入れた。
「佐次郎さま!」
小屋の真ん中で大の字になっている佐次郎に駆け寄ろうとした春乃だったが、思うように足が動かない。
伊十郎に支えられながら這うようにして佐次郎の側へと進んだ。
「あんた……あんたは?」
佐次郎の脇腹に縋りつくようにして離れないよねこに向かって春乃が聞いた。
よねこは猫のように丸い目をして、春乃の顔をじっと見ている。
「その子はよねこいう名前でのぉ。まだ六つになったばかりじゃそうな。このたたら場の鬼の娘で、佐次郎の命を繋いでいてくれたんはこの子じゃけ」
伊十郎がよねこの頭を撫でながら春乃に説明した。
「なんとまあ! よねこちゃんの腕はまだ佐次郎さまの腹の中に埋まっとるんかね」
「そういうことじゃ」
「抜けんのん?」
「どうなんかのぉ……とにかくお前を連れてこいとよねこが言うたんじゃ」
春乃がもう一度よねこの顔を見た。
「ありがとうねぇ、私はちっとも知らんかったけぇ、毎日のほのほとおまんまを食うておったけぇ……申し訳が無いねぇ」
よねこが春乃の埃だらけの着物の袖を引いた。
じっと見つめ合う二人。
「ああ、そういうことかね。うんうん、困ったねぇ。でもね、よねこちゃん。私が来たけぇもう大丈夫じゃけ。安心して抜きんさい」
伊十郎が不思議そうな顔で春乃に聞いた。
「お前は分かるんか? よねこの言いたいことが」
「はい、分かりますよ。頭の中でちゃんと聞こえますけぇ」
伊十郎はふと佐次郎の父である貞光の言葉を思い出した。
「たたら場の者は音にせんでも話せるんか? なんとも便利じゃのぉ」
流星に水と飼葉をやっていたたたら場衆の男が小屋の外から話に入る。
「そんなことはありませんわい。できるんはよねことよねこのばば様だけじゃけ」
伊十郎が不思議そうな顔のままよねこと老婆と春乃を順番に見る。
困った顔で老婆が言葉を紡いだ。
「できる者は限られとるんです。それができる者はご神木に触れるのですよぉ。できん者がご神木に触れたら体中にぶつぶつができて死んでしまうのです」
「ご神木? なんじゃそれは」
佐助がすかさず説明の言葉を挟む。
「佐次郎さまを山の宮に移そういうことになったのですが、なんせこのお体でしょう? どうやっても動かせんかったんです。そしたらよねこがご神木の枝を切って、それに乗せろ言うんですが……」
「なるほど。しかしそのご神木とやらに触れられるもんがおらんということか」
老婆が続ける。
「わしが行く言うたんじゃが、この体ではご神木に辿り付けんのですわい」
「そこで春乃か」
よねこが頷いた。
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