泣き鬼の花嫁

志波 連

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「ええ音色じゃ。さすがは政久様じゃのぉ」

 雲の上のような場所で寝転がり、佐次郎は笛の音を肴に酒を飲んでいた。
 あの人は違い、周りに人はいない。
 佐次郎はだだっ広い空間にただ一人だ。

「ええのぉ、ここは。酒は飲んでも無くならんし、スルメは食うても減らんのじゃけ」

 何かを忘れているような気もするが、生まれて初めて経験するほどの平穏に、佐次郎は心を奪われていた。

「もうなんもかんもどうでもええような気がするわい」

 そう呟いた時、ずっと流れていた笛の音がピタッと止んだ。

「本当か? 本当に全てがどうでもいいのか?」

 高い場所から降ってきたのは、間違いなく尼子政久の声だった。

「若様? 若様じゃろ?」
 
 佐次郎の言葉に返事をする者はいない。

「高い櫓に昇っておられますのか? そんなところにおったら、敵の弓に射抜かれますけぇ。あの時に弓を射たんは曾我衆です。そいつは流星が蹴殺しましたが……」

 佐次郎がガバッと体を起こす。

「そうじゃ……あの男は流星が踏み殺した……え? なんで俺はそれを知っとる? どういうことじゃ」

 政久の声がそれに応えた。

「忘れたか? よう思い出せ。本当にここにいて良いのか? 良いならそのままおれば良いが、大事な者にはもう二度と会えんぞ」

「大事な者? 大事な……あっ! 春乃!」

 そう叫んだ瞬間、あれほど軽かった体が岩のように重たくなった。
 政久の声が続く。

「お前には為さねばならんことがあるはずじゃ。私はもう良い。あとは父上と弟がなんとでもするじゃろう」

 どんどん重たくなっていく体を無理やり動かして佐次郎が叫ぶ。

「ダメじゃ! 若様がおらんとダメじゃ。そうじゃろ? ご当主様も国久様も酷く悲しまれとりますけぇ、一緒に戻りましょうわい」

「いや、私はもう終わった。それでよい。ああそうじゃ、佐次郎。これも何かの縁じゃと思うて頼まれてくれんか?」

「え?」

「恐らく父上は私の息子に跡を継がせようとなさるじゃろう。あの子は気が小さいところがあるけぇなぁ。それが私は心配じゃ。消えゆく者の願いと思うて、あの子が……三郎四郎が間違いを犯しそうになったら命がけで止めてくれんか。頼む」

「若様!」

 体が地面にめり込むほど重たくなってきて、佐次郎はもうピクリとも動くことができない。
 政久の越えはどんどん遠くなり、白かった世界に色が戻ってきた。

「佐次郎さま!」

 愛しい女の声が耳の中に滑り込んできた。

「春乃?」

「そうじゃ! 春乃じゃ! 佐次郎さま! 目を開けてくださいませよぉ」

「佐次郎!」

「その声は……小松様か?」

「ああ、小松じゃ。小松伊十郎じゃ。国久様もおられるぞ!」

「国久様? 国久様じゃと? たった今まで俺は政久様と一緒におったのです!」

 国久の眉間に皺が寄った。
 その間もじりじりと動いている高橋正晴のことは誰も気に留めていない。

「佐次郎……よう無事に戻ったな。お前はいつも寝とるから心配したぞ」

「国久様、若殿様が言いなさいましたよ。あとは任せると。もう自分は……終わったと」

 国久の顔が苦痛に歪む。

「兄上は立派な方じゃった。俺のように荒事しかできんような男ではなかったのじゃ。兄上こそがこの先の尼子家をもっと大きくできる方じゃったのに……」

 佐次郎は涙を流しながら言葉を続けた。

「ご当主様は政久様のお子に跡を譲られるだろうと言いなさいました。もしもお子が道を違えそうになったら命がけで止めてくれと仰ったんですわい」

「そうか、うん。兄上ならそういうじゃろうなぁ。相分かった。俺も命を懸けて三郎四郎の後ろ盾となるけぇ、お前も頑張ってくれ」

 後ろで戸が外れる音がした。
 伊十郎が振りむこと、高橋正晴が這いずって曾我の二郎のところへ行こうとしている。

「よねこの父親はわしじゃ! 宮には梅も待って居るんじゃ! 梅はわしがおらんと生きてはいけん……ん? ほれ、梅が迎えに来たわい」

 そう言って高橋正晴が立ち上がった。

「どういうことじゃ?」

 国久が怪訝な顔をした。
 佐助が答える。

「おそらくけばけば草の影響でしょう。しかし、宮にはよねこの母親がおると言うてますな。まさかあの老婆の事でしょうか」

「え? 高橋のぼんぼんはあのばあさんを抱いとったんか?」

 二人は示し合わせたように地面に転がる老婆の死体を見た。

「まさかなぁ……しかしこ奴らはなんとかして佐次郎を宮に運ぼうとしとったが、宮には何があるのじゃろうか」

 佐助が吐き捨てるように言う。

「気色に悪いことですわい」

「けばけば草とはホンマにおそろしいものじゃな」

 その時、二郎の側でドシュッという鈍い音がした。
 警戒態勢を取りながら様子を伺うと、喉から血を拭き上げながら痙攣している高橋の姿が見えた。

「あれまぁ、狙いはこっちじゃったんか」

 佐助が静かな声で言う。
 国久が刀を片手に持ちながら頷いた。

「高橋としては厄介者じゃったのだろうな。消すならいつでもできただろうに、どうしても尼子のせいにしたかったんかのぉ」

「なるほど、じゃけ新宮党を引っ張り出したかったというわけですか。そういうことなら俺は一役買ってしもうたということですのぉ」

 そう言ったのは小松伊十郎だ。

「いやいや、どちらにしても引っ張り出されたじゃろう。勝負が早うなっただけ助かったようなものよ。しかしどこから射てきたんじゃろか、これでは出るに出られんわい」

 ゴロゴロと転がされたままになっている尼子兵の屍の回りには、どこから這い出たのか黄色味を帯びた小さな虫がたかっていた。
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