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39 山賊
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佐次郎が目を開けないまま冬が過ぎて春が来た。
雪解けの水は田畑を潤し、枝先が色づき始める。
子を連れたシカや猪が小屋の回りに姿を現わし、確実に季節が移ろっていることを教えてくれた。
「佐次郎様、今日はちっと村まで下りてきますけぇね、いい子で留守番してくださいねぇ。え? 何をしに行くのかって? 冬の間に作った草鞋を売りに行くのですよぉ。帰りには魚を買って来ますけぇね」
流動食しか食べられない佐次郎の体は一回りも二回りも小さくなっていた。村人から分けてもらっていた芋も底をつき、春乃も昨日から何も食べていない。
それでも乾燥させていた肉を煮込んで佐次郎にだけは食べさせている春乃も、佐次郎同様に瘦せている。
「海の魚のアラでとった汁は旨いけぇねぇ。楽しみにしとって下さいねぇ」
佐次郎の口の周りを清めた春乃が、背負子を肩に立ち上がった。
「ん? 何の音?」
佐次郎小屋よりもずっと下った辺りにある集落の方から、人の叫び声が聞こえる。
土間で藁を食んでいた流星が首をあげて耳をヒクつかせた。
「祭でもしよってんかねぇ」
春乃が干していた手拭いを姉さん被りに巻きつけていた時、流星が前足を跳ね上げた。
「どうしたん? 鼠でもおった?」
珍しく暴れる流星を宥めようと手綱を解いた時、ドカッと音がして板戸が蹴破られた。
「おう! 山小屋にしては大きな道があると思うたら、やはり人がおったか。ほうほう、やせっぽちじゃがおなごもおるではないか。これはめっけもんじゃわい」
褌の上に腰までしかない着物を巻きつけ、獣の皮で作った半纏のようなものを着た男がニヤニヤと笑いながら入ってきた。
「あんた誰ね! ここは佐次郎様とうちの家じゃ! 出て行かんと流星をけしかけるよ!」
「流星?」
下卑た男が毛艶の良い鹿毛馬に視線を向ける。
「ほう? これはまた立派な馬じゃの。お頭に渡せば褒美をくれるかもしれんのぉ。いやいや、馬屋に売れば大そうな金になりそうじゃ」
男が春乃が握る流星の手綱に手を伸ばした。
「ブルルルッ!」
流星が首を勢いよく引き、男に握らせまいと暴れる。
引っ張られた春乃がたたらを踏み、佐次郎の寝ている囲炉裏の方へと転がった。
「流星! 逃げろ! 早う逃げんさい!」
春乃が叫ぶのと、流星が佐次郎の前に移動したのはほぼ同時だった。
「馬より女じゃの。顔や体などどうでもええわい。穴さえありゃええ」
春乃の体にぞわっと悪寒が走った。
いつもなら顔を出す杣人衆が一人も来ないところを見ると、集落も襲われているのかもしれない。
そう思った春乃は佐次郎の枕元に隠していた小刀に手を伸ばした。
「来るなら来んさい! ただじゃあやられやせんけぇね!」
春乃の覚悟など意にも介さず、男がじりじりと近寄ってきた。
まるで小動物に狙いを定めた狡猾な狐のように目が光っている。
それを阻止しようと暴れる流星の手綱の端が佐次郎の顔を打った。
「ええけぇ、早うこっちに来いや。どうせやられるんじゃ。お前も楽しまんと損じゃろうが」
男が春乃の腕を掴んだ。
流星が前足をあげて男を威嚇する。
男が春乃の体を引いて、盾にするように流星に向けた。
「蹴るなら蹴ってみぃや。この女が死ぬでぇ」
にやにやと笑う男からは饐えたような悪臭がした。
流星が前足を降ろした瞬間、男が春乃を抱えて後ろに飛び退った。
「へへへっ! 追えるもんなら追うてみぃや」
憎まれ口を叩いて男が背を向けた。
「ドカッ!」
男の背中に何かが当たり、春乃ごともんどりを打つ。
土だらけになって転がった男の体が何かの影に暗く沈んだ。
春乃は歯を食いしばって男の手から逃れようと藻搔いている。
「お前は……ばけもんか? 鬼か? 鬼じゃ……鬼じゃぁぁぁぁ」
春乃の体を突き飛ばし、男が来た道を転がるように逃げた。
「ひひぃぃぃん」
流星の嘶きが木霊を呼び、山の空気が揺れた。
佐次郎の視覚が転がる春乃を捉える。
目を開けて最初に見えたのが春乃だったということが、佐次郎に再び生き抜くという勇気を与えた。
「春乃。大丈夫か?」
涙でボロボロになった春乃が上を見上げる。
「佐次郎さま……佐次郎さまじゃ……佐次郎さまがお目覚めじゃ」
「おう。すまんかったのぅ。俺はずっと動けなんだんじゃ。お前の話しとることはよう聞こえとったんじゃが、目も開けれんでのぅ。苦労を掛けたな」
「佐次郎さまがお目覚めじゃぁぁ……うわぁぁぁぁん」
子供のように手の甲を目に当てて春乃が泣きじゃくる。
その頭にポンポンと掌を当てた佐次郎が優しい声を出した。
「どうやら集落も襲われとるようじゃ。ちと行ってくるけぇ、ここで隠れとれよ」
大泣きの春乃をひょいと抱え、納戸に隠した佐次郎が流星の方へ顔を向けた。
「頼むぞ流星」
「ひひぃぃぃぃぃん」
佐次郎の二の腕ほどもありそうな太枝を手に、佐次郎が流星に跨った。
雪解けの水は田畑を潤し、枝先が色づき始める。
子を連れたシカや猪が小屋の回りに姿を現わし、確実に季節が移ろっていることを教えてくれた。
「佐次郎様、今日はちっと村まで下りてきますけぇね、いい子で留守番してくださいねぇ。え? 何をしに行くのかって? 冬の間に作った草鞋を売りに行くのですよぉ。帰りには魚を買って来ますけぇね」
流動食しか食べられない佐次郎の体は一回りも二回りも小さくなっていた。村人から分けてもらっていた芋も底をつき、春乃も昨日から何も食べていない。
それでも乾燥させていた肉を煮込んで佐次郎にだけは食べさせている春乃も、佐次郎同様に瘦せている。
「海の魚のアラでとった汁は旨いけぇねぇ。楽しみにしとって下さいねぇ」
佐次郎の口の周りを清めた春乃が、背負子を肩に立ち上がった。
「ん? 何の音?」
佐次郎小屋よりもずっと下った辺りにある集落の方から、人の叫び声が聞こえる。
土間で藁を食んでいた流星が首をあげて耳をヒクつかせた。
「祭でもしよってんかねぇ」
春乃が干していた手拭いを姉さん被りに巻きつけていた時、流星が前足を跳ね上げた。
「どうしたん? 鼠でもおった?」
珍しく暴れる流星を宥めようと手綱を解いた時、ドカッと音がして板戸が蹴破られた。
「おう! 山小屋にしては大きな道があると思うたら、やはり人がおったか。ほうほう、やせっぽちじゃがおなごもおるではないか。これはめっけもんじゃわい」
褌の上に腰までしかない着物を巻きつけ、獣の皮で作った半纏のようなものを着た男がニヤニヤと笑いながら入ってきた。
「あんた誰ね! ここは佐次郎様とうちの家じゃ! 出て行かんと流星をけしかけるよ!」
「流星?」
下卑た男が毛艶の良い鹿毛馬に視線を向ける。
「ほう? これはまた立派な馬じゃの。お頭に渡せば褒美をくれるかもしれんのぉ。いやいや、馬屋に売れば大そうな金になりそうじゃ」
男が春乃が握る流星の手綱に手を伸ばした。
「ブルルルッ!」
流星が首を勢いよく引き、男に握らせまいと暴れる。
引っ張られた春乃がたたらを踏み、佐次郎の寝ている囲炉裏の方へと転がった。
「流星! 逃げろ! 早う逃げんさい!」
春乃が叫ぶのと、流星が佐次郎の前に移動したのはほぼ同時だった。
「馬より女じゃの。顔や体などどうでもええわい。穴さえありゃええ」
春乃の体にぞわっと悪寒が走った。
いつもなら顔を出す杣人衆が一人も来ないところを見ると、集落も襲われているのかもしれない。
そう思った春乃は佐次郎の枕元に隠していた小刀に手を伸ばした。
「来るなら来んさい! ただじゃあやられやせんけぇね!」
春乃の覚悟など意にも介さず、男がじりじりと近寄ってきた。
まるで小動物に狙いを定めた狡猾な狐のように目が光っている。
それを阻止しようと暴れる流星の手綱の端が佐次郎の顔を打った。
「ええけぇ、早うこっちに来いや。どうせやられるんじゃ。お前も楽しまんと損じゃろうが」
男が春乃の腕を掴んだ。
流星が前足をあげて男を威嚇する。
男が春乃の体を引いて、盾にするように流星に向けた。
「蹴るなら蹴ってみぃや。この女が死ぬでぇ」
にやにやと笑う男からは饐えたような悪臭がした。
流星が前足を降ろした瞬間、男が春乃を抱えて後ろに飛び退った。
「へへへっ! 追えるもんなら追うてみぃや」
憎まれ口を叩いて男が背を向けた。
「ドカッ!」
男の背中に何かが当たり、春乃ごともんどりを打つ。
土だらけになって転がった男の体が何かの影に暗く沈んだ。
春乃は歯を食いしばって男の手から逃れようと藻搔いている。
「お前は……ばけもんか? 鬼か? 鬼じゃ……鬼じゃぁぁぁぁ」
春乃の体を突き飛ばし、男が来た道を転がるように逃げた。
「ひひぃぃぃん」
流星の嘶きが木霊を呼び、山の空気が揺れた。
佐次郎の視覚が転がる春乃を捉える。
目を開けて最初に見えたのが春乃だったということが、佐次郎に再び生き抜くという勇気を与えた。
「春乃。大丈夫か?」
涙でボロボロになった春乃が上を見上げる。
「佐次郎さま……佐次郎さまじゃ……佐次郎さまがお目覚めじゃ」
「おう。すまんかったのぅ。俺はずっと動けなんだんじゃ。お前の話しとることはよう聞こえとったんじゃが、目も開けれんでのぅ。苦労を掛けたな」
「佐次郎さまがお目覚めじゃぁぁ……うわぁぁぁぁん」
子供のように手の甲を目に当てて春乃が泣きじゃくる。
その頭にポンポンと掌を当てた佐次郎が優しい声を出した。
「どうやら集落も襲われとるようじゃ。ちと行ってくるけぇ、ここで隠れとれよ」
大泣きの春乃をひょいと抱え、納戸に隠した佐次郎が流星の方へ顔を向けた。
「頼むぞ流星」
「ひひぃぃぃぃぃん」
佐次郎の二の腕ほどもありそうな太枝を手に、佐次郎が流星に跨った。
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