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9 別館の秘密
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「ではお母様、行ってまいります」
「ええ、マリアーナ。エクス家の嫁として恥ずかしくない品位を保ちなさい。そして夫に尽くすのですよ」
「はいお母様」
優雅なお辞儀をして豪華な馬車に乗り込むマリアーナ。
エスコートするのはマリアーナ専属護衛騎士であるロレンソだ。
「ロレンソ、今日までご苦労様でした。ご実家に戻られても健康に留意してね。どうかあなたのこの先が幸福に満ち溢れていますように」
「お嬢様……心からの感謝を捧げます。本当にありがとうございました」
傍から見れば王女の結婚を機に、仕事をやめて実家に戻る騎士と、彼の将来を思いやる王女にしか見えないだろう。
宮の主である側妃が泣いているのも、王女専属メイドの一人が号泣しているのも自然だ。
新妻を迎えに来たエクス元公爵の執事が口を開いた。
「マリアーナ姫は使用人たちに慕われておいでだったのですね」
「ええ、とても良く仕えてくれました。別れは辛いですが、私は元公爵に嫁ぐ身。我儘は申せませんわ」
執事は大きく頷いて、馬車のドアを閉めた。
マリアーナに同行するメイドはただ一人。
サマンサが実家から呼び寄せた若い女性で、彼女は潜入と暗殺を得意としていた。
走り出した馬車に駆け寄ろうとするメイドを、ロレンソが抱きしめて止めている。
「さあ! 新しい人生が始まるわ」
マリアーナになり替わったティナリアに、メイドのララが頷いて見せた。
「必ずお守り申し上げます」
ティナリアは無言のまま頷き返し、初めて見る王都の景色を楽しむ振りをした。
三日三晩馬車に揺られて到着したエクス侯爵領は、思っていたより遥かに田舎で長閑な景色が広がっていた。
「お前がマリアーナ王女か?」
執事に連れられて挨拶に向かったのは、この屋敷の当主でありマリアーナの夫となったランドル・エクス元侯爵の寝室だった。
「初めまして。マリアーナ・オース・アントレットと申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」
「ああ、君を手に入れるために大枚を払ったんだ。満足させてくれよ?」
片方の口角だけを上げて下卑た笑顔を向けるその男に、マリアーナは絶句した。
平然と笑い返そうと努力したが、顔がどうしても引き攣ってしまう。
「恐れ入りますわ。申し訳ございませんが旅塵を落として参りたいと存じますが、よろしいでしょうか」
「ああ、そうだな。長旅で疲れただろう。お前の専属メイドは三人だ。一人はそこの娘だが、後の二人はこちらで用意してある。執事に案内させる。夕食の席でまた会おう」
ララ以外にも専属メイドがいるのは予想外だったが、用意されていたのなら仕方がない。
マリアーナになり切って挨拶を済ませたティナリアは、執事の後について行った。
「あら、意外と広い部屋ね」
ララと共に入った部屋は、南向きの大きな窓が田園風景を切り取り、一幅の絵画に見えるように窓枠に意匠を凝らした素晴らしい内装だった。
予想外に好待遇かと思ったが、部屋の中にすでに控えていた侍女が進み出て声を出す。
「ようこそいらっしゃいました。私は奥様の専属メイドを命じられましたエリと申します」
「私はカラでございます」
二人は同時に頭を下げた。
無礼では無いが心を感じないというのがティナリアの第一印象だった。
「よろしくお願いしますね。これは私が連れてきたララです。仲良くしてやってね」
ララがティナリアの横で頭を下げた。
「奥様、お湯あみの準備が整っております」
「わかったわ。湯殿は部屋にあるのね? 助かるわ」
その日は何事もなく、夕食をとってすぐに眠った。
それから数日、拍子抜けするくらいに何も起こらない。
元侯爵が用意した侍女の二人も、第一印象とは違い真面目にティナリアに仕えている。
百合の花が見ごろだということで、今日はテラスでお茶を楽しんでいるティナリア。
旦那様は朝食時と夕食時以外で顔を見ることは少なく、屋敷の中で出会っても尊大な態度で若妻を無視していた。
「ねえ、なんだか身構えていたのに肩透かしを食らった気分だわ」
ティナリアがララに言う。
「本当ですね。面白くないのでちょっと探ってみましょうか」
ララがウィンクをしながら返事をした。
カラとエリはお茶のお代わりを取りに厨房へ行っている。
「ねえ、カラとエリなんだけど、あなたはどう見る?」
「単なる監視役だと思いますよ。ほら、先日道を間違えた振りをして裏庭に行ったじゃないですか。あの時のあの二人の慌てぶりときたら笑えましたもん」
「ああ、あれね。必死だったわよね。裏庭に何かあるのかしら」
ララがニヤッと笑った。
「近日中に御報告致します」
メイド達が戻ってきたので会話を止めて、百合の花に見入っているふりをする。
新しいお茶を入れながら、カラが口を開いた。
「百合の花はお好きですか?」
「そうね、とてもきれいだわ。香りがきついといって嫌う人もいるけれど、私は好きね」
「それはようございました。前の奥様はとても嫌がっておられましたので、庭師がかなしんでおりました」
「まあ、そうなの? 前の奥様っていつ頃までここに? 離婚なさったのかしら」
「二年ほど前でしょうか。病を得られ儚くなってしまわれたのです。なんと言うかいらっしゃった頃から線が細いというか、か弱い感じの方でした」
「私とは正反対ね。旦那様のご趣味はそういう女性なのね?」
エリとカラが顔を見合わせた。
「申し訳ございませんが、存じ上げません。私たちがここに雇われたのは前の奥様が亡くなる少し前でしたので」
「そう、どなたか前の前の奥様を知っている人がいる?」
「どうでしょう? 執事様ならご存じでしょうが……あっ、あと料理長はずっとこのお屋敷におられると聞いております」
「そうなの、ありがとう。機会があれば聞いてみましょう。なるべく旦那様には気に入っていただくようにしたいものね」
ティナリアは早々に話を切り上げて部屋に戻った。
夕食を終えて湯あみを済ませたティナリアが、なんとなく眠れずに本を開くと、小さなノックの音がして、ララが顔を出した。
「どうしたの?」
「もうわかっちゃいました」
「え? もう?」
「だって分かり易すぎるんですもの」
ララがお道化て言う。
「教えてよ」
「裏庭に別館があるのですが、そこで楽しい会がおこなわれていましたよ。それが元侯爵の秘密であり、妻が必要な理由でした」
「何よ、それ」
ティナリアが怪訝な顔でララの目を覗き込んだ。
「ええ、マリアーナ。エクス家の嫁として恥ずかしくない品位を保ちなさい。そして夫に尽くすのですよ」
「はいお母様」
優雅なお辞儀をして豪華な馬車に乗り込むマリアーナ。
エスコートするのはマリアーナ専属護衛騎士であるロレンソだ。
「ロレンソ、今日までご苦労様でした。ご実家に戻られても健康に留意してね。どうかあなたのこの先が幸福に満ち溢れていますように」
「お嬢様……心からの感謝を捧げます。本当にありがとうございました」
傍から見れば王女の結婚を機に、仕事をやめて実家に戻る騎士と、彼の将来を思いやる王女にしか見えないだろう。
宮の主である側妃が泣いているのも、王女専属メイドの一人が号泣しているのも自然だ。
新妻を迎えに来たエクス元公爵の執事が口を開いた。
「マリアーナ姫は使用人たちに慕われておいでだったのですね」
「ええ、とても良く仕えてくれました。別れは辛いですが、私は元公爵に嫁ぐ身。我儘は申せませんわ」
執事は大きく頷いて、馬車のドアを閉めた。
マリアーナに同行するメイドはただ一人。
サマンサが実家から呼び寄せた若い女性で、彼女は潜入と暗殺を得意としていた。
走り出した馬車に駆け寄ろうとするメイドを、ロレンソが抱きしめて止めている。
「さあ! 新しい人生が始まるわ」
マリアーナになり替わったティナリアに、メイドのララが頷いて見せた。
「必ずお守り申し上げます」
ティナリアは無言のまま頷き返し、初めて見る王都の景色を楽しむ振りをした。
三日三晩馬車に揺られて到着したエクス侯爵領は、思っていたより遥かに田舎で長閑な景色が広がっていた。
「お前がマリアーナ王女か?」
執事に連れられて挨拶に向かったのは、この屋敷の当主でありマリアーナの夫となったランドル・エクス元侯爵の寝室だった。
「初めまして。マリアーナ・オース・アントレットと申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」
「ああ、君を手に入れるために大枚を払ったんだ。満足させてくれよ?」
片方の口角だけを上げて下卑た笑顔を向けるその男に、マリアーナは絶句した。
平然と笑い返そうと努力したが、顔がどうしても引き攣ってしまう。
「恐れ入りますわ。申し訳ございませんが旅塵を落として参りたいと存じますが、よろしいでしょうか」
「ああ、そうだな。長旅で疲れただろう。お前の専属メイドは三人だ。一人はそこの娘だが、後の二人はこちらで用意してある。執事に案内させる。夕食の席でまた会おう」
ララ以外にも専属メイドがいるのは予想外だったが、用意されていたのなら仕方がない。
マリアーナになり切って挨拶を済ませたティナリアは、執事の後について行った。
「あら、意外と広い部屋ね」
ララと共に入った部屋は、南向きの大きな窓が田園風景を切り取り、一幅の絵画に見えるように窓枠に意匠を凝らした素晴らしい内装だった。
予想外に好待遇かと思ったが、部屋の中にすでに控えていた侍女が進み出て声を出す。
「ようこそいらっしゃいました。私は奥様の専属メイドを命じられましたエリと申します」
「私はカラでございます」
二人は同時に頭を下げた。
無礼では無いが心を感じないというのがティナリアの第一印象だった。
「よろしくお願いしますね。これは私が連れてきたララです。仲良くしてやってね」
ララがティナリアの横で頭を下げた。
「奥様、お湯あみの準備が整っております」
「わかったわ。湯殿は部屋にあるのね? 助かるわ」
その日は何事もなく、夕食をとってすぐに眠った。
それから数日、拍子抜けするくらいに何も起こらない。
元侯爵が用意した侍女の二人も、第一印象とは違い真面目にティナリアに仕えている。
百合の花が見ごろだということで、今日はテラスでお茶を楽しんでいるティナリア。
旦那様は朝食時と夕食時以外で顔を見ることは少なく、屋敷の中で出会っても尊大な態度で若妻を無視していた。
「ねえ、なんだか身構えていたのに肩透かしを食らった気分だわ」
ティナリアがララに言う。
「本当ですね。面白くないのでちょっと探ってみましょうか」
ララがウィンクをしながら返事をした。
カラとエリはお茶のお代わりを取りに厨房へ行っている。
「ねえ、カラとエリなんだけど、あなたはどう見る?」
「単なる監視役だと思いますよ。ほら、先日道を間違えた振りをして裏庭に行ったじゃないですか。あの時のあの二人の慌てぶりときたら笑えましたもん」
「ああ、あれね。必死だったわよね。裏庭に何かあるのかしら」
ララがニヤッと笑った。
「近日中に御報告致します」
メイド達が戻ってきたので会話を止めて、百合の花に見入っているふりをする。
新しいお茶を入れながら、カラが口を開いた。
「百合の花はお好きですか?」
「そうね、とてもきれいだわ。香りがきついといって嫌う人もいるけれど、私は好きね」
「それはようございました。前の奥様はとても嫌がっておられましたので、庭師がかなしんでおりました」
「まあ、そうなの? 前の奥様っていつ頃までここに? 離婚なさったのかしら」
「二年ほど前でしょうか。病を得られ儚くなってしまわれたのです。なんと言うかいらっしゃった頃から線が細いというか、か弱い感じの方でした」
「私とは正反対ね。旦那様のご趣味はそういう女性なのね?」
エリとカラが顔を見合わせた。
「申し訳ございませんが、存じ上げません。私たちがここに雇われたのは前の奥様が亡くなる少し前でしたので」
「そう、どなたか前の前の奥様を知っている人がいる?」
「どうでしょう? 執事様ならご存じでしょうが……あっ、あと料理長はずっとこのお屋敷におられると聞いております」
「そうなの、ありがとう。機会があれば聞いてみましょう。なるべく旦那様には気に入っていただくようにしたいものね」
ティナリアは早々に話を切り上げて部屋に戻った。
夕食を終えて湯あみを済ませたティナリアが、なんとなく眠れずに本を開くと、小さなノックの音がして、ララが顔を出した。
「どうしたの?」
「もうわかっちゃいました」
「え? もう?」
「だって分かり易すぎるんですもの」
ララがお道化て言う。
「教えてよ」
「裏庭に別館があるのですが、そこで楽しい会がおこなわれていましたよ。それが元侯爵の秘密であり、妻が必要な理由でした」
「何よ、それ」
ティナリアが怪訝な顔でララの目を覗き込んだ。
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