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3 隠居〜私の宝物〜
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* * * *
妊娠がわかった翌日、仕事に行く宗吾を見送った後に荷物をまとめて彼の部屋を出た。
メールだとすぐに気付かれてしまう気がしたから、机の上に『やっぱり私には無理みたい。一カ月楽しかったよ。ありがとう』というメモだけ残して去った。
働いていた会社には退職の意向を伝えた。急だったので仲間や上司には迷惑をかけてしまったが、それでも決意は固かった。
実家に帰って全ての事情を話した六花を、家族は渋々ながら受け入れてくれた。しかし実家に居座るつもりはなく、以前からずっと気になっていた祖母の家のそばへの引っ越しを実行することにしたのだ。
というのも、祖母の家がある海辺の街では移住者への支援を行っており、家賃も安ければ補助も受けられる。退職金や貯蓄を切り崩してしばらく生活していけるだろう。
それに祖母が近くに住んでいれば寂しくないし、逆に様子を見に行くこともできる。
宗吾が自分のことを探すとは思えないが、六花自身が彼のことを考えずに過ごしたかった。
妊婦健診を受けるための病院が近い空き家を探し、安定期に入ったタイミングで引越しをした。一人きりでの妊婦生活。寂しいかと思いきや、ゆったりとした時間を謳歌出来た。
ずっと誰かと一緒に暮らしていたからだろうか。静かで自由な時間が心地良くさえ感じる。
そして里帰り出産をした後に、またこの地に戻ってきたのだ。
生まれたのは三千グラムほどの可愛い女の子だった。目元や口の形がどことなく宗吾を思い出させる。初めて胸に抱いた時に、六花の瞳からは涙がポロポロと溢れた。
名前は愛生と付けた。それは六花に愛と生きる希望を与えてくれたから。そしてこれからは六花がたくさんの愛を注いでいきたいという願いを込めたのだった。
子どもが小さいうちは在宅で出来る仕事をと考えていた。昔から得意だったハンドメイドのアクセサリーを販売して、少しでも家計の足しにすることを考えたが、現実はそれほど甘くはない。
そのため浜辺で拾ってきたシーグラスを集めて販売したりところ、驚くほど売り上げが上がり、そちらの方が主な収入源となっていた。
そしてその時に六花は思いがけない出会いをすることになる。
まだ妊娠中だった六花は、一人で浜辺にいた。シーグラスを探しながら、浜辺で遊ぶ親子連れを見つけて胸が苦しくなった。
本当はこういう姿が理想なんだろうなぁ……でも私はその未来を選択しなかった。一人でもこの子を目一杯愛してあげると決めたじゃない。
徐々に親子との距離が近付く。思わず顔を背けたときだった。
「阿坂さん?」
突然名前を呼ばれた六花は驚いたように顔を上げる。一歳ほどの男の子を抱いていた男性が、六花に向かってそう尋ねたのだ。
優し気な笑顔と切長の瞳。どこか中性的な魅力を放ったその人を六花ははっきりと覚えていた。
「も、もしかして由利先輩⁈」
「あぁ、やっぱり阿坂さんだ。似てる人がいるなぁって遠目にちょっと思ってたんだよね」
すると彼の隣にいた女性が彼の腕をつつく。そして男の子を受け取ると、六花に一礼をして来た道を戻っていった。
「あの……もしかして奥様ですか?」
「うん、そう。天気が良かったからちょっと遊びに来てたんだ」
由利翔は六花の大学時代の先輩だった。どこかの社長の御曹司で、見た目も性格も良いと女性に人気があった。彼は誰でも分け隔てなく優しいのだが、不思議と特定の女性を作ることはなかった。
翔と六花はフランス産ワインを研究するというサークルの先輩後輩だった。六花は彼のワインに対する知識量に感銘を受け、ワインに関するいろいろな話を聞くのが楽しかった。
「遊びにということは、こちらにお住まいなんですか?」
「実は高台にある農園レストランと結婚式場をうちが経営してるんだ。だからしっかり地元だね」
「えっ、あのレストランって先輩のお店だったんですか⁉︎ 知らなかった……」
「もしかして来店してくれた?」
「何回も! とても美味しかったです」
「本当? 嬉しいなぁ」
そこまで話してから、翔の視線がお腹に注がれていることに気付く。どこか気まずさを感じ、六花は明らかに大きくなったお腹を手で隠した。
「ま、まさか先輩が結婚されているとは思いませんでした! だって大学の時、誰とも付き合ってなかったですよね?」
六花が話題を変えたことに気付いたようだが、彼はそのことには触れずに微笑んだ。
「実はね、初恋を実らせたんだ」
「初恋……ですか?」
意外過ぎる言葉に六花は驚いた。あの先輩の口から"初恋"というワードが出てくるなんて思わなかった。
「あっ、意外とか思った?」
「……少し。先輩、とても人気者でしたから。でも……好きな人がいたのだと思えば納得です」
彼は離れた場所にいた妻と子どもに手を振ると、幸せそうに表情を緩める。夫であり、父親であるその柔らかな雰囲気に、六花は羨ましさを感じていた。
もし妊娠のことを宗吾に話したとして、彼が受け入れてくれる可能性は、たとえ僅かでもあったのだろうかーーいや、だって彼は疑似恋愛って言ったじゃない。体を重ねたのだってただの相性を知るための手段というだけ。愛情なんて存在しなかった。
ありもしないことを考えるのはもうやめよう……そう思った時だった。
「そういえばさ、最近仕事でなんだけど貴島と会ったんだよ。彼のことって覚えてる?」
六花は体が凍りつく。まさか宗吾の名前が出てくるとは思わなかったからだ。
「フランスワインのイベントに出席した時に彼も来ていてさ。元々サークルも一緒だったけど、あの頃はそんなに話したことはなかったんだよね。でも似たような仕事をしてるし、ワインの好みも近くて話が盛り上がっちゃったんだ」
「そうでしたか……確かにあの頃の彼はワインよりも仲間って感じでしたからね」
「そうそう。それに君とは犬猿の仲だったし」
苦笑いをして顔を背けた六花の様子に何かを感じ取ったのか、翔は彼女が握りしめる袋の中身について話題を変えた。
「何を拾ってたの? 貝殻?」
「いえ、シーグラスです」
「あのガラスの欠片の?」
「そうなんです。私、昔からアクセサリーを作るのが好きだったんですけど、なかなか売れなくて。そうしたらシーグラスが上手いこと売れたので、今はこれを生活の足しにしてるんです」
「仕事は?」
「こっちで生活するのを決めてから辞めちゃったんです。今は貯金を切り崩しながらの生活で」
その言葉を聞いた翔は突然口元を緩め、興味津々というふうに六花の顔をじっと見つめる。
「その話、じっくり聞きたいなぁ」
六花は意味がわからず首を傾げる。しかしこの再会こそが、六花の生活を一変させたのだった。
妊娠がわかった翌日、仕事に行く宗吾を見送った後に荷物をまとめて彼の部屋を出た。
メールだとすぐに気付かれてしまう気がしたから、机の上に『やっぱり私には無理みたい。一カ月楽しかったよ。ありがとう』というメモだけ残して去った。
働いていた会社には退職の意向を伝えた。急だったので仲間や上司には迷惑をかけてしまったが、それでも決意は固かった。
実家に帰って全ての事情を話した六花を、家族は渋々ながら受け入れてくれた。しかし実家に居座るつもりはなく、以前からずっと気になっていた祖母の家のそばへの引っ越しを実行することにしたのだ。
というのも、祖母の家がある海辺の街では移住者への支援を行っており、家賃も安ければ補助も受けられる。退職金や貯蓄を切り崩してしばらく生活していけるだろう。
それに祖母が近くに住んでいれば寂しくないし、逆に様子を見に行くこともできる。
宗吾が自分のことを探すとは思えないが、六花自身が彼のことを考えずに過ごしたかった。
妊婦健診を受けるための病院が近い空き家を探し、安定期に入ったタイミングで引越しをした。一人きりでの妊婦生活。寂しいかと思いきや、ゆったりとした時間を謳歌出来た。
ずっと誰かと一緒に暮らしていたからだろうか。静かで自由な時間が心地良くさえ感じる。
そして里帰り出産をした後に、またこの地に戻ってきたのだ。
生まれたのは三千グラムほどの可愛い女の子だった。目元や口の形がどことなく宗吾を思い出させる。初めて胸に抱いた時に、六花の瞳からは涙がポロポロと溢れた。
名前は愛生と付けた。それは六花に愛と生きる希望を与えてくれたから。そしてこれからは六花がたくさんの愛を注いでいきたいという願いを込めたのだった。
子どもが小さいうちは在宅で出来る仕事をと考えていた。昔から得意だったハンドメイドのアクセサリーを販売して、少しでも家計の足しにすることを考えたが、現実はそれほど甘くはない。
そのため浜辺で拾ってきたシーグラスを集めて販売したりところ、驚くほど売り上げが上がり、そちらの方が主な収入源となっていた。
そしてその時に六花は思いがけない出会いをすることになる。
まだ妊娠中だった六花は、一人で浜辺にいた。シーグラスを探しながら、浜辺で遊ぶ親子連れを見つけて胸が苦しくなった。
本当はこういう姿が理想なんだろうなぁ……でも私はその未来を選択しなかった。一人でもこの子を目一杯愛してあげると決めたじゃない。
徐々に親子との距離が近付く。思わず顔を背けたときだった。
「阿坂さん?」
突然名前を呼ばれた六花は驚いたように顔を上げる。一歳ほどの男の子を抱いていた男性が、六花に向かってそう尋ねたのだ。
優し気な笑顔と切長の瞳。どこか中性的な魅力を放ったその人を六花ははっきりと覚えていた。
「も、もしかして由利先輩⁈」
「あぁ、やっぱり阿坂さんだ。似てる人がいるなぁって遠目にちょっと思ってたんだよね」
すると彼の隣にいた女性が彼の腕をつつく。そして男の子を受け取ると、六花に一礼をして来た道を戻っていった。
「あの……もしかして奥様ですか?」
「うん、そう。天気が良かったからちょっと遊びに来てたんだ」
由利翔は六花の大学時代の先輩だった。どこかの社長の御曹司で、見た目も性格も良いと女性に人気があった。彼は誰でも分け隔てなく優しいのだが、不思議と特定の女性を作ることはなかった。
翔と六花はフランス産ワインを研究するというサークルの先輩後輩だった。六花は彼のワインに対する知識量に感銘を受け、ワインに関するいろいろな話を聞くのが楽しかった。
「遊びにということは、こちらにお住まいなんですか?」
「実は高台にある農園レストランと結婚式場をうちが経営してるんだ。だからしっかり地元だね」
「えっ、あのレストランって先輩のお店だったんですか⁉︎ 知らなかった……」
「もしかして来店してくれた?」
「何回も! とても美味しかったです」
「本当? 嬉しいなぁ」
そこまで話してから、翔の視線がお腹に注がれていることに気付く。どこか気まずさを感じ、六花は明らかに大きくなったお腹を手で隠した。
「ま、まさか先輩が結婚されているとは思いませんでした! だって大学の時、誰とも付き合ってなかったですよね?」
六花が話題を変えたことに気付いたようだが、彼はそのことには触れずに微笑んだ。
「実はね、初恋を実らせたんだ」
「初恋……ですか?」
意外過ぎる言葉に六花は驚いた。あの先輩の口から"初恋"というワードが出てくるなんて思わなかった。
「あっ、意外とか思った?」
「……少し。先輩、とても人気者でしたから。でも……好きな人がいたのだと思えば納得です」
彼は離れた場所にいた妻と子どもに手を振ると、幸せそうに表情を緩める。夫であり、父親であるその柔らかな雰囲気に、六花は羨ましさを感じていた。
もし妊娠のことを宗吾に話したとして、彼が受け入れてくれる可能性は、たとえ僅かでもあったのだろうかーーいや、だって彼は疑似恋愛って言ったじゃない。体を重ねたのだってただの相性を知るための手段というだけ。愛情なんて存在しなかった。
ありもしないことを考えるのはもうやめよう……そう思った時だった。
「そういえばさ、最近仕事でなんだけど貴島と会ったんだよ。彼のことって覚えてる?」
六花は体が凍りつく。まさか宗吾の名前が出てくるとは思わなかったからだ。
「フランスワインのイベントに出席した時に彼も来ていてさ。元々サークルも一緒だったけど、あの頃はそんなに話したことはなかったんだよね。でも似たような仕事をしてるし、ワインの好みも近くて話が盛り上がっちゃったんだ」
「そうでしたか……確かにあの頃の彼はワインよりも仲間って感じでしたからね」
「そうそう。それに君とは犬猿の仲だったし」
苦笑いをして顔を背けた六花の様子に何かを感じ取ったのか、翔は彼女が握りしめる袋の中身について話題を変えた。
「何を拾ってたの? 貝殻?」
「いえ、シーグラスです」
「あのガラスの欠片の?」
「そうなんです。私、昔からアクセサリーを作るのが好きだったんですけど、なかなか売れなくて。そうしたらシーグラスが上手いこと売れたので、今はこれを生活の足しにしてるんです」
「仕事は?」
「こっちで生活するのを決めてから辞めちゃったんです。今は貯金を切り崩しながらの生活で」
その言葉を聞いた翔は突然口元を緩め、興味津々というふうに六花の顔をじっと見つめる。
「その話、じっくり聞きたいなぁ」
六花は意味がわからず首を傾げる。しかしこの再会こそが、六花の生活を一変させたのだった。
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