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── ラウルの過去とセレスティアへの微かな想い ──
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シュヴァルツ公国の宰相官邸から、重苦しい雰囲気が漏れていた。その日、ラウルは早朝から官吏たちと国境付近の軍備強化に関する会議を行い、昼を過ぎても執務の山に追われている。大国としての威厳を保つためには、絶え間ない軍備増強と複雑な外交交渉が必要だ。だが、その多忙さに加え、ラウルの心をいっそう苛立たせるものがあった。
――ひとたび視界の片隅に浮かぶ、幼き頃の自分と母の姿。
ほんの一瞬、書類に目を通す手が止まり、深く息を吐く。その静かな呼吸の乱れに気づいた側近が心配そうに声をかけたが、ラウルは小さく首を振ってそれを遠ざける。子どものように弱音を吐くわけにはいかないのだ。公国公子として、彼は常に強くあることを周囲から求められている。そんなプレッシャーに呑まれながらも、ラウルの胸にはどうしても拭えない“過去の影”が根付いていた。
1. ラウルのトラウマ回想
ラウルがまだ十歳にも満たなかった頃、シュヴァルツ公国は周辺の小国とささやかな衝突を繰り返していた。王都から遠く離れた辺境では暴徒が出没し、王族であるラウルの母――当時の第一正妃は、民の様子を視察するために軍の小規模な護衛を伴って訪問していたのである。
その訪問先に偶然居合わせたラウル少年は、母が民に寄り添う姿を誇りに思っていた。いつか自分も母のように民を慈しみ、国を支える王族でありたいと、幼心に強く願っていた。しかし――。
ラウルの母は帰還途中、予期せぬ襲撃を受けた。何者かが放った毒矢が護衛の隙を突き、母の体を深く蝕んだのである。当初は軽症だと思われていたが、毒は強く、やがて母は高熱を出して倒れ込んだ。宮廷へと急ぎ戻ったものの、当時の医療技術では治療が追いつかず、あっという間に危篤状態に陥った。
必死の看病も虚しく、母は数日のうちに息を引き取る。目の前で母の手が冷たくなっていくのを、幼いラウルは為す術もなく見つめることしかできなかった。近くに医師や神官がいたはずなのに、“奇跡”は起こらなかった。
そのときの無力感、喪失感が、ラウルに深い傷を刻んだのである。誰よりも優しく、誇り高かった母を救えなかったのは自分の力不足だ――そう強く思い込み、やがて彼の心は大きく閉ざされていく。
母を失った後のラウルは、宮廷内で次々と押し付けられる公務を黙々とこなすようになった。その一方で、“もしあのとき、本当に奇跡の力があったなら、母を救えたかもしれない”という後悔が、彼を苦しめ続ける。
やがてラウルが青年へと成長した頃、シュヴァルツ公国に突如として現れたのがフィオナだった。神殿から“聖女”とされ、神の奇跡を使う力を持つと噂される若き女性。実際に彼女がいくつかの出来事で“不可思議な力”を示し、重病人や負傷兵を救済した場面が報告されると、ラウルの心にはかすかな希望が芽生えた。――もし本物の奇跡があるのなら、母を奪われた過去を少しでも埋められるのではないか。
フィオナに傾倒し始めたラウルは、彼女の言葉に耳を傾け、力を認め、国や民のためにその力を使ってもらおうと懸命に支援する。加えて、フィオナ自身も「ラウル様のお心を救いたい」と言うかのような優しい言葉をかけ、ラウルに寄り添ってきた。
――それが今に至る、“公子と聖女”の特別な関係の始まりだった。ただし、その力が本当に“奇跡”と言えるのかどうかは別問題である。少なくともラウルは、フィオナが何らかの特異な力を持つことを否定できず、同時に彼女が母を救えなかった過去の痛みを少しでも和らげてくれるかもしれないと、心のどこかで信じ続けているのだ。
2. セレスティアとのすれ違いと小さな接近
・ラウルの態度の理由
夜も更けた執務室で、ラウルは山積みの公文書に目を通しながら、母の面影を思い返していた。結婚したとはいえ、セレスティアの存在を素直に受け入れられないのは、その過去の痛みが大きいからかもしれない。“自分が心を許せる女性”など、もうこの世にはいない――そう思い込んでいる節さえあるのだ。
だからこそ、ラウルはセレスティアに「愛を誓わない」と宣言し、形式上の結婚にとどめている。彼女を憎んでいるわけでも疎ましく思っているわけでもない。むしろ、嫌いになりきれない自分自身に戸惑いを覚える。
そんな彼の戸惑いは、日常のちょっとした場面で表面化していた。
何気ない触れ合い
翌日、ラウルは予定が押してしまい昼食を取る時間もないまま、城内の回廊を急ぎ足で通り過ぎていた。そこで偶然鉢合わせたのが、書物を抱えたセレスティアである。彼女は最近、図書室での勉強を日課にしていると聞いていたが、まさかこんな場所で会うとは思わなかった。
「あ、ラウル様……」
セレスティアは慌てて一礼する。ラウルも足を止め、軽く顎を引いて挨拶を返した。どこかぎこちない空気が漂う。
抱えている書物があまりに重かったのだろう、セレスティアの腕が小さく震えたように見えた。ラウルは無意識のうちに手を伸ばし、「……持とう」と低く呟く。
「え? あ、そんな……だめです、ラウル様が持つようなものでは……」
セレスティアが慌てて断るも、ラウルは言葉少なに彼女の腕からその書物を取り上げる。上等な羊皮紙でできた分厚い大部の本で、カバーにはこの国特有の紋章が刻まれている。
「この本は……軍事史か」
何気なく背表紙を確認したラウルは、少しだけ目を見開いた。この本は軍事機密に近い記録も含む、そう簡単には閲覧を許されないはずのものだ。
「どうして君がこれを?」
ラウルが問いかけると、セレスティアは気まずそうに視線を逸らす。
「すみません。余計なことかもしれないのですが、シュヴァルツ公国の軍の構成や歴史を知っておきたくて……。いずれ外交や国防に関わる場面もあるかもしれないと思ったんです」
素直に言葉を続ける彼女の瞳は、ひどくまっすぐで純粋だった。国のために何かを学ぼうとしているのだと、一目で分かる。
ラウルはしばらく本を眺めていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「……おまえが読むには難解だ。下手に誤解を招くような内容もある」
「はい。分からないところはクレアや図書管理官に解説してもらおうかと……。失礼でしたでしょうか」
セレスティアは恐縮するが、ラウルは小さく首を振る。
「いや……構わない。むしろ国を理解しようとする姿勢自体は悪くない。……重いだろう、部屋まで運んでやる」
そう言って歩き始めるラウルの背中を、セレスティアは驚いたように見つめる。冷たい態度は相変わらずだが、彼が自ら本を運ぶなど想像もしなかったからだ。
部屋まで続く短い廊下で、ふたりの会話はほとんどなかった。だが、セレスティアの胸には妙な温かさが込み上げ、ラウルの瞳にもほんの少しだけ柔らかさが宿るのが見えたような気がした。
・すれ違いのもどかしさ
とはいえ、それで急に夫婦らしい関係に近づくわけもない。ラウルは本を部屋へ運び終えると、さっと視線を逸らして「これでいいか」と一言呟き、すぐに仕事へ戻っていく。セレスティアは「ありがとうございます」と伝えることしかできず、その背中を見送った。
(少しだけ、ラウル様が優しく見えたのは気のせいじゃないといいんだけど……)
正体のわからない感情が胸に押し寄せる。悲しみや不安よりも、むしろ“喜び”に近いものだ。一度は「愛を誓わない」と言われた相手でも、ほんの小さな優しさを垣間見ると、どうしても心が揺れてしまう。セレスティアは自分の気持ちを持て余すように、そっと指先で本の背表紙を撫でた。
3. フィオナの焦燥感
・セレスティアへの微かな関心に苛立つフィオナ
一方、そんな“仮面夫婦”の微かな進展を遠目に見ていたフィオナは、胸の奥にふつふつとした焦燥を抱いていた。ラウルがセレスティアに厳しく接していることは知っていたし、ラウル本人も決してセレスティアを愛しているわけではないと公言している。
それでも、ラウルの視線がわずかでもセレスティアを追うことに、フィオナは我慢ならない思いがあるのだ。なぜか――それは、ラウルの心の軸が自分から離れてしまうことへの恐怖であり、さらに言えば、ラウルからの信頼が薄れれば自分の地位も脅かされるからである。
ある夕刻、フィオナは宮殿の一室でひとり、祭壇のように設えられた場所に向かって静かに祈りを捧げていた。部屋の灯りは薄暗く、閉ざされたカーテンの向こうは夕焼けが覗いている。
フィオナの祈りは形だけではない。彼女は本当に不思議な力を行使し、幾度となく病人や負傷兵を治癒してきた。それゆえ、宮廷や国民から“聖女”と称えられ絶大な支持を集めている。しかし、その力にはしばしば負荷がかかるらしく、近頃のフィオナは常に疲労感に苛まれていた。
――それでも、ラウルを失うわけにはいかない。
フィオナは祈りを終えると、自分でも抑えきれない嫌悪の念を吐き出すように小さく呟いた。
「セレスティア……。あなたが変にラウル様の興味を引くような真似をするから、私まで気を揉まなければいけないわ」
つい先日、廊下でラウルとセレスティアが“少しだけ会話をしている”という報告を受けたとき、フィオナは胸の奥が焦げつくような感覚を覚えた。ラウルのそばに寄れるのは自分だけ。彼の過去の痛みを癒やすことができるのも自分だけ――そう思っていたのに、セレスティアの存在がその“唯一の立場”を揺るがすかもしれないのだ。
部屋のドアを控えていた侍女が音もなく中へ入り、そっとフィオナに声をかける。
「聖女様、そろそろ晩餐の時間でございます。公子ラウル様も宮殿にお戻りのようです」
フィオナは小さく息を吐き、再び笑みを取り戻す。表向きは“慈愛の聖女”としての顔を装い、人々の前に姿を現さねばならない。
「ありがとう。すぐに行くわ。……今夜の晩餐には、セレスティアも出るのでしょう?」
侍女が頷く。フィオナは瞳を伏せ、にじむような悔しさを噛みしめながら付け加えた。
「そう。ならば、私もそれなりの準備をしないと。ラウル様の心を離さないために」
・宮廷内の権力争いの火種
晩餐の席では、多くの貴族たちが舌鼓を打ち、美食と美酒を堪能している。宮廷内の派閥や人間関係が渦巻く中、フィオナはあくまでも“聖女様”として品よく振る舞い、ラウルの隣に座を占めた。
一方、セレスティアは公子妃としてテーブルの一角に位置し、貴族たちの会話に控えめに参加している。以前に比べれば多少打ち解けた気配はあるが、それでもやはり完全に馴染める雰囲気ではない。
そんな中、ラウルは料理に手をつけながら、ちらりとセレスティアの様子を窺う。彼女が隣の貴族夫人と微笑んで挨拶を交わしている光景を見て、少し安心したようにも見える。――だが、その一瞬の視線を見逃さない人物がいた。もちろんフィオナだ。
フィオナはラウルの腕にそっと手を添え、ごくさり気なく笑顔を向けながら耳打ちする。
「ラウル様、本日はとてもお疲れでしょう? お食事の後、少しだけお時間をいただけませんか? ……私、神殿で新しい祈りの儀式を考えておりまして。もしよろしければご相談を……」
周囲に聞こえないよう抑えた声。まるで恋人同士の密やかな囁きにも見えるその様子に、テーブルを囲む何人かが羨望と崇敬の入り混じった視線を送る。
ラウルは応じるかどうか迷ったが、フィオナの強い眼差しにわずかに押される形で頷いた。
「……分かった。あとで執務室に顔を出そう」
そのやりとりは、もちろんセレスティアの目にも映っていた。ふたりの近さ、信頼関係――彼女の胸にひゅっと冷たい風が通り抜けるような感覚が走る。しかし、悲しいかな、セレスティアには割り込む隙などない。
晩餐が終わる頃、ラウルとフィオナが連れ立って退席する姿は、宮廷の人々にとってごく自然な光景になっていた。それを横目に見送りながら、セレスティアは苦い思いで唇を噛む。
(ラウル様の心は、フィオナ様に縛られたまま……私が入る余地なんて、どこにもないのかもしれない)
・結び
夜の深まった宮殿の廊下を、ラウルとフィオナが並んで歩いていく。遠巻きに見つめる貴族や侍女たちの間では、“聖女フィオナこそが公子ラウルの支えであり、この国の真の力を握っているのだ”という噂がますます強まっていた。
当のフィオナは、常に優雅な微笑を湛えながら、心の底では焦りを増大させている。ラウルにとって“唯一無二の支え”であり続けるためには、セレスティアという“新たな存在”が邪魔で仕方がないのだ。
――だがラウル自身の胸には、セレスティアへのわずかな興味が生まれつつある。彼女の素直な言動、国を理解しようとする姿勢、そして何より、“自分の母を救えなかった過去”への後悔に囚われながらも、セレスティアの前ではほんの少しだけ、温かな感情を覚えてしまう自分がいる。
フィオナが何か行動を起こすのは時間の問題かもしれない。宮廷の内情は、まだ見ぬ火種がくすぶっており、それがいつ爆発してもおかしくない状況だ。
思わぬ方向へ転がり始めた運命の歯車は、やがてセレスティアとラウルをどこへ導くのだろうか。“母を救えなかった”という悔恨から、ラウルは本当の意味で救われるのか。そして、フィオナの暗躍はさらなる波乱をもたらすのか。
それぞれの思惑と感情が入り乱れる中、セレスティアの存在は、ラウルの閉ざされた心を開く小さな鍵となるのかもしれない――そうとは、まだ誰も気づいていなかった。
――ひとたび視界の片隅に浮かぶ、幼き頃の自分と母の姿。
ほんの一瞬、書類に目を通す手が止まり、深く息を吐く。その静かな呼吸の乱れに気づいた側近が心配そうに声をかけたが、ラウルは小さく首を振ってそれを遠ざける。子どものように弱音を吐くわけにはいかないのだ。公国公子として、彼は常に強くあることを周囲から求められている。そんなプレッシャーに呑まれながらも、ラウルの胸にはどうしても拭えない“過去の影”が根付いていた。
1. ラウルのトラウマ回想
ラウルがまだ十歳にも満たなかった頃、シュヴァルツ公国は周辺の小国とささやかな衝突を繰り返していた。王都から遠く離れた辺境では暴徒が出没し、王族であるラウルの母――当時の第一正妃は、民の様子を視察するために軍の小規模な護衛を伴って訪問していたのである。
その訪問先に偶然居合わせたラウル少年は、母が民に寄り添う姿を誇りに思っていた。いつか自分も母のように民を慈しみ、国を支える王族でありたいと、幼心に強く願っていた。しかし――。
ラウルの母は帰還途中、予期せぬ襲撃を受けた。何者かが放った毒矢が護衛の隙を突き、母の体を深く蝕んだのである。当初は軽症だと思われていたが、毒は強く、やがて母は高熱を出して倒れ込んだ。宮廷へと急ぎ戻ったものの、当時の医療技術では治療が追いつかず、あっという間に危篤状態に陥った。
必死の看病も虚しく、母は数日のうちに息を引き取る。目の前で母の手が冷たくなっていくのを、幼いラウルは為す術もなく見つめることしかできなかった。近くに医師や神官がいたはずなのに、“奇跡”は起こらなかった。
そのときの無力感、喪失感が、ラウルに深い傷を刻んだのである。誰よりも優しく、誇り高かった母を救えなかったのは自分の力不足だ――そう強く思い込み、やがて彼の心は大きく閉ざされていく。
母を失った後のラウルは、宮廷内で次々と押し付けられる公務を黙々とこなすようになった。その一方で、“もしあのとき、本当に奇跡の力があったなら、母を救えたかもしれない”という後悔が、彼を苦しめ続ける。
やがてラウルが青年へと成長した頃、シュヴァルツ公国に突如として現れたのがフィオナだった。神殿から“聖女”とされ、神の奇跡を使う力を持つと噂される若き女性。実際に彼女がいくつかの出来事で“不可思議な力”を示し、重病人や負傷兵を救済した場面が報告されると、ラウルの心にはかすかな希望が芽生えた。――もし本物の奇跡があるのなら、母を奪われた過去を少しでも埋められるのではないか。
フィオナに傾倒し始めたラウルは、彼女の言葉に耳を傾け、力を認め、国や民のためにその力を使ってもらおうと懸命に支援する。加えて、フィオナ自身も「ラウル様のお心を救いたい」と言うかのような優しい言葉をかけ、ラウルに寄り添ってきた。
――それが今に至る、“公子と聖女”の特別な関係の始まりだった。ただし、その力が本当に“奇跡”と言えるのかどうかは別問題である。少なくともラウルは、フィオナが何らかの特異な力を持つことを否定できず、同時に彼女が母を救えなかった過去の痛みを少しでも和らげてくれるかもしれないと、心のどこかで信じ続けているのだ。
2. セレスティアとのすれ違いと小さな接近
・ラウルの態度の理由
夜も更けた執務室で、ラウルは山積みの公文書に目を通しながら、母の面影を思い返していた。結婚したとはいえ、セレスティアの存在を素直に受け入れられないのは、その過去の痛みが大きいからかもしれない。“自分が心を許せる女性”など、もうこの世にはいない――そう思い込んでいる節さえあるのだ。
だからこそ、ラウルはセレスティアに「愛を誓わない」と宣言し、形式上の結婚にとどめている。彼女を憎んでいるわけでも疎ましく思っているわけでもない。むしろ、嫌いになりきれない自分自身に戸惑いを覚える。
そんな彼の戸惑いは、日常のちょっとした場面で表面化していた。
何気ない触れ合い
翌日、ラウルは予定が押してしまい昼食を取る時間もないまま、城内の回廊を急ぎ足で通り過ぎていた。そこで偶然鉢合わせたのが、書物を抱えたセレスティアである。彼女は最近、図書室での勉強を日課にしていると聞いていたが、まさかこんな場所で会うとは思わなかった。
「あ、ラウル様……」
セレスティアは慌てて一礼する。ラウルも足を止め、軽く顎を引いて挨拶を返した。どこかぎこちない空気が漂う。
抱えている書物があまりに重かったのだろう、セレスティアの腕が小さく震えたように見えた。ラウルは無意識のうちに手を伸ばし、「……持とう」と低く呟く。
「え? あ、そんな……だめです、ラウル様が持つようなものでは……」
セレスティアが慌てて断るも、ラウルは言葉少なに彼女の腕からその書物を取り上げる。上等な羊皮紙でできた分厚い大部の本で、カバーにはこの国特有の紋章が刻まれている。
「この本は……軍事史か」
何気なく背表紙を確認したラウルは、少しだけ目を見開いた。この本は軍事機密に近い記録も含む、そう簡単には閲覧を許されないはずのものだ。
「どうして君がこれを?」
ラウルが問いかけると、セレスティアは気まずそうに視線を逸らす。
「すみません。余計なことかもしれないのですが、シュヴァルツ公国の軍の構成や歴史を知っておきたくて……。いずれ外交や国防に関わる場面もあるかもしれないと思ったんです」
素直に言葉を続ける彼女の瞳は、ひどくまっすぐで純粋だった。国のために何かを学ぼうとしているのだと、一目で分かる。
ラウルはしばらく本を眺めていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「……おまえが読むには難解だ。下手に誤解を招くような内容もある」
「はい。分からないところはクレアや図書管理官に解説してもらおうかと……。失礼でしたでしょうか」
セレスティアは恐縮するが、ラウルは小さく首を振る。
「いや……構わない。むしろ国を理解しようとする姿勢自体は悪くない。……重いだろう、部屋まで運んでやる」
そう言って歩き始めるラウルの背中を、セレスティアは驚いたように見つめる。冷たい態度は相変わらずだが、彼が自ら本を運ぶなど想像もしなかったからだ。
部屋まで続く短い廊下で、ふたりの会話はほとんどなかった。だが、セレスティアの胸には妙な温かさが込み上げ、ラウルの瞳にもほんの少しだけ柔らかさが宿るのが見えたような気がした。
・すれ違いのもどかしさ
とはいえ、それで急に夫婦らしい関係に近づくわけもない。ラウルは本を部屋へ運び終えると、さっと視線を逸らして「これでいいか」と一言呟き、すぐに仕事へ戻っていく。セレスティアは「ありがとうございます」と伝えることしかできず、その背中を見送った。
(少しだけ、ラウル様が優しく見えたのは気のせいじゃないといいんだけど……)
正体のわからない感情が胸に押し寄せる。悲しみや不安よりも、むしろ“喜び”に近いものだ。一度は「愛を誓わない」と言われた相手でも、ほんの小さな優しさを垣間見ると、どうしても心が揺れてしまう。セレスティアは自分の気持ちを持て余すように、そっと指先で本の背表紙を撫でた。
3. フィオナの焦燥感
・セレスティアへの微かな関心に苛立つフィオナ
一方、そんな“仮面夫婦”の微かな進展を遠目に見ていたフィオナは、胸の奥にふつふつとした焦燥を抱いていた。ラウルがセレスティアに厳しく接していることは知っていたし、ラウル本人も決してセレスティアを愛しているわけではないと公言している。
それでも、ラウルの視線がわずかでもセレスティアを追うことに、フィオナは我慢ならない思いがあるのだ。なぜか――それは、ラウルの心の軸が自分から離れてしまうことへの恐怖であり、さらに言えば、ラウルからの信頼が薄れれば自分の地位も脅かされるからである。
ある夕刻、フィオナは宮殿の一室でひとり、祭壇のように設えられた場所に向かって静かに祈りを捧げていた。部屋の灯りは薄暗く、閉ざされたカーテンの向こうは夕焼けが覗いている。
フィオナの祈りは形だけではない。彼女は本当に不思議な力を行使し、幾度となく病人や負傷兵を治癒してきた。それゆえ、宮廷や国民から“聖女”と称えられ絶大な支持を集めている。しかし、その力にはしばしば負荷がかかるらしく、近頃のフィオナは常に疲労感に苛まれていた。
――それでも、ラウルを失うわけにはいかない。
フィオナは祈りを終えると、自分でも抑えきれない嫌悪の念を吐き出すように小さく呟いた。
「セレスティア……。あなたが変にラウル様の興味を引くような真似をするから、私まで気を揉まなければいけないわ」
つい先日、廊下でラウルとセレスティアが“少しだけ会話をしている”という報告を受けたとき、フィオナは胸の奥が焦げつくような感覚を覚えた。ラウルのそばに寄れるのは自分だけ。彼の過去の痛みを癒やすことができるのも自分だけ――そう思っていたのに、セレスティアの存在がその“唯一の立場”を揺るがすかもしれないのだ。
部屋のドアを控えていた侍女が音もなく中へ入り、そっとフィオナに声をかける。
「聖女様、そろそろ晩餐の時間でございます。公子ラウル様も宮殿にお戻りのようです」
フィオナは小さく息を吐き、再び笑みを取り戻す。表向きは“慈愛の聖女”としての顔を装い、人々の前に姿を現さねばならない。
「ありがとう。すぐに行くわ。……今夜の晩餐には、セレスティアも出るのでしょう?」
侍女が頷く。フィオナは瞳を伏せ、にじむような悔しさを噛みしめながら付け加えた。
「そう。ならば、私もそれなりの準備をしないと。ラウル様の心を離さないために」
・宮廷内の権力争いの火種
晩餐の席では、多くの貴族たちが舌鼓を打ち、美食と美酒を堪能している。宮廷内の派閥や人間関係が渦巻く中、フィオナはあくまでも“聖女様”として品よく振る舞い、ラウルの隣に座を占めた。
一方、セレスティアは公子妃としてテーブルの一角に位置し、貴族たちの会話に控えめに参加している。以前に比べれば多少打ち解けた気配はあるが、それでもやはり完全に馴染める雰囲気ではない。
そんな中、ラウルは料理に手をつけながら、ちらりとセレスティアの様子を窺う。彼女が隣の貴族夫人と微笑んで挨拶を交わしている光景を見て、少し安心したようにも見える。――だが、その一瞬の視線を見逃さない人物がいた。もちろんフィオナだ。
フィオナはラウルの腕にそっと手を添え、ごくさり気なく笑顔を向けながら耳打ちする。
「ラウル様、本日はとてもお疲れでしょう? お食事の後、少しだけお時間をいただけませんか? ……私、神殿で新しい祈りの儀式を考えておりまして。もしよろしければご相談を……」
周囲に聞こえないよう抑えた声。まるで恋人同士の密やかな囁きにも見えるその様子に、テーブルを囲む何人かが羨望と崇敬の入り混じった視線を送る。
ラウルは応じるかどうか迷ったが、フィオナの強い眼差しにわずかに押される形で頷いた。
「……分かった。あとで執務室に顔を出そう」
そのやりとりは、もちろんセレスティアの目にも映っていた。ふたりの近さ、信頼関係――彼女の胸にひゅっと冷たい風が通り抜けるような感覚が走る。しかし、悲しいかな、セレスティアには割り込む隙などない。
晩餐が終わる頃、ラウルとフィオナが連れ立って退席する姿は、宮廷の人々にとってごく自然な光景になっていた。それを横目に見送りながら、セレスティアは苦い思いで唇を噛む。
(ラウル様の心は、フィオナ様に縛られたまま……私が入る余地なんて、どこにもないのかもしれない)
・結び
夜の深まった宮殿の廊下を、ラウルとフィオナが並んで歩いていく。遠巻きに見つめる貴族や侍女たちの間では、“聖女フィオナこそが公子ラウルの支えであり、この国の真の力を握っているのだ”という噂がますます強まっていた。
当のフィオナは、常に優雅な微笑を湛えながら、心の底では焦りを増大させている。ラウルにとって“唯一無二の支え”であり続けるためには、セレスティアという“新たな存在”が邪魔で仕方がないのだ。
――だがラウル自身の胸には、セレスティアへのわずかな興味が生まれつつある。彼女の素直な言動、国を理解しようとする姿勢、そして何より、“自分の母を救えなかった過去”への後悔に囚われながらも、セレスティアの前ではほんの少しだけ、温かな感情を覚えてしまう自分がいる。
フィオナが何か行動を起こすのは時間の問題かもしれない。宮廷の内情は、まだ見ぬ火種がくすぶっており、それがいつ爆発してもおかしくない状況だ。
思わぬ方向へ転がり始めた運命の歯車は、やがてセレスティアとラウルをどこへ導くのだろうか。“母を救えなかった”という悔恨から、ラウルは本当の意味で救われるのか。そして、フィオナの暗躍はさらなる波乱をもたらすのか。
それぞれの思惑と感情が入り乱れる中、セレスティアの存在は、ラウルの閉ざされた心を開く小さな鍵となるのかもしれない――そうとは、まだ誰も気づいていなかった。
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静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。
やがて彼女に興味を示したのは、
隣国ノルディアの王太子エドワルド。
彼が見ていたのは、美貌ではなく――
対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。
これは、
外見で価値を決められた令嬢が、
「選ばれる人生」をやめ、
自分の意思で未来を選び直す物語。
静かなざまぁと、
対等な関係から始まる大人の恋。
そして――
自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。
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