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第一章
3:出会い
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あれから俺は何を食べて、話したのかまるで覚えていない。
ようやく自分を取り戻せた時、ベッドに寝そべって、天井を見上げていた。
「……響、もう眠った?」
「いや、全然眠れそうにないよ」
くすり、と神音が笑って、そっちに行ってもいい? と聞いてきた。
家の中で一番広い南向きの洋室が俺たちの部屋だ。
窓の横に置いた二段ベッドの下段を神音が、上段を俺が使っている。
いいよと返事すると、下から神音の顔がにょっきりと生えてきた。
同級生たちの中には、兄弟で同じ部屋を使っている奴もいるが、喧嘩が絶えないとよく聞く。
けれど俺たちはほとんど喧嘩したことがない。双子ゆえの感覚なんだろうか、そばにいても嫌だと思わない。
小学生の頃は一緒に寝ることも多かった。
ベッドに入ってくる片割れにスペースを譲る。
「お母さん、ぼくたちに嫉妬したことあったよね」
神音も同じようなことを考えていたのか、笑って言う。
「あんたたちはお互いの方が大切なのって」
「うん……あったね、そんなことも」
あれはいつだっただろう。
高熱で動けなくなった俺に、神音が一晩寄り添って眠った。
両親がどれだけ言っても神音は俺から離れなくて、結局両親の方が折れた。
翌朝けろりと治った俺に、呆れながら母親が言ったんだと思う。
「だから誘ったわけじゃないんだ。勘ちがいしないで欲しい」
神音はそれが言いたかったようだ。
ふたりとも何も言わずに寝そべって、天井を見上げた。
両親のどちらかが風呂に入っているらしく、物音が遠くかすかに聞こえてくる。
「中学卒業するまでぼくは毎日ピアノ、ピアノな生活してたでしょう? 先生の自宅まで通い練習して帰り、夕食を食べてまた練習。ピアノを置くスペースはないから、代わりにキーボードを買ってもらってまで。弾くことは嫌いじゃないからね、ある時まで不満なんて感じなかったんだけど……」
横に寝転がった神音が、静かに語りはじめる。
俺は当時の記憶を引っ張りだした。
平凡に学校へ通い、帰ってから宿題をするくらいの俺と違って、神音は分刻みのスケジュールをこなしていた。
友達と遊ぶ時間なんてまったくない。平日はもちろん、休日までも練習漬けの毎日をくり返していた。
練習しすぎで指が切れるなんて、ドラマの演出だろうと見くびっていたけど、現実なんだと思い知ったものだ。
神音はあの生活を苦にした様子はなく、むしろ楽しそうに過ごしていた。
ところが中学二年になった頃から冴えない表情をするようになって、ついに中学三年の冬、ピアニストにならないと宣言した。
「ぼくと同じピアノ教師について習っていた奴がさ、コンクールに出場して二位になった。ぼくは最優秀賞。そしたらピアノ教師が天狗になっちゃってさ」
「……確かその頃、神音は他のコンクールでも優勝してたよな? 教師が天狗になるのもわかるかも」
となりで神音が苦笑する。
「ぼくが目指すものがわからなくなった。だれを喜ばせたくて弾いているんだろう。はるか昔に死んだ作曲家の曲ばかり弾いて、ぼくは満足に生きていけるだろうか? 考えだしたら止まらなくなって。あの頃は毎日が辛かったなぁ……響にも当り散らしてたかも。ごめんね」
「いや、そんなことないと思うけど?」
「響はぼくが何しても、ほわんと笑って許しちゃう人だもんね。さすが不感症」
全然誉めてないよな、その言葉。
無意識に口を尖らした俺を見て、神音がははっと軽快に笑った。
「クラシックの方が格式が高いのは事実だと思うよ。でもあの頃のぼくを救ってくれた音楽は町中で演奏されていた。コンサートホールじゃない、身近な場所でね。その時にわかったんだ、ぼくが一生付き合っていきたい音楽はこれだ。いまを生きている人間が作った曲だって。だからバンドを組んだ」
何かきっかけがあったんだろうとは思っていたけれど、そんなことがあったなんて。
当時、音楽の特進クラスがある高校に入学が決まっていた神音は、ピアノをやめることについて、母親と毎日言い争いをしていた。
結果ピアニストは目指さないものの、特進クラスにはそのまま進学して、バンド活動と両立させてきた。
母親にとって、才能を発揮している神音がピアノをやめるのは才能を放棄することに思えたのかもしれない。
神音を叱ることのない母親が、ずいぶんと声を高めていた。
もし俺まで一緒にやると言いだしたら、母親は何と言うだろう。俺はピアノを習ってすぐにやめているから、何も期待されてはいないとわかっているけれど、良い気はしないだろう。
「ぼくが表現したい音の世界。そこに響の声があれば行けるんだ。いろんな人の声を聞いて、みんなと演奏を合わせたけど、だれもが違った。でもどこかで聞いた覚えがある声が最後のパーツだって、妙な確信があってね。昔を思い出して……響の声に辿り着いたわけ。本当に変じゃなかったのにな。また聞きたいよ」
「……昔の話だろ」
「そうだね。でも、ぼくが一度聞いた音を忘れないことは知っているでしょ?」
俺は答えられないで、ただ天井を見つめていた。やがてとなりから寝息が聞こえてくる。
いつまでも俺に眠気は訪れなかった。
答えが見つからないまま、月曜日になった。
今学期も残り数日になったけれど、入試や就職活動で忙しい三年生が放つ空気は殺伐としていて、年の瀬の忙しさも手伝って教室内はどことなく落ち着かない。
そんな中、背筋をまっすぐに伸ばした美しい姿勢の学生が、教室内の空気なんて素知らぬ顔で入ってきた。
黒色の細いフレーム眼鏡をかけて、いつも冷めた表情をしている彼こそが俺の初恋の相手だ。
「おはよう、片平」
「樫部……おはよ」
片手をひらひら躍らせて、目の前の席に樫部が座る。
同じ制服を着た、俺よりちょっとだけ背が高い男子学生。
(何だって樫部が好きなんだろうな……)
女性と間違えそうな外見じゃないから、性別を間違えて恋心を抱いたわけじゃない。
自ら進んで集団に近づこうとしたがらない樫部は、学内一位の頭脳を持つ優等生でもある。
とりたてて問題を起こしたりしないけれど、同級生からすると付き合いにくい。
友人いわく、何を考えてるのかわからない奴、なのだそうで。
高校二年に進級した時に出会った俺も、樫部について知っていることは少ない。友人の意見もごもっともだと思う。
出席番号順で前後するせいで、何となく話すようになって自然に俺の方から樫部について回るようになった。
俺は樫部を友達だと思っていたけれど、樫部が俺を友達だと思ってくれているのか、実はあまり自信がない。
(これじゃ、恋人になるなんてまだまだ先の話で、オトモダチにもほど遠い関係かもな)
苦笑がこみ上げてきて、俺はこっそりため息をついた。
恋心の中には、憧れもあると思う。
特別な才能も、したいこともない俺と違って、樫部は科学者になると決めている。
実際に英語を習得し、海外の専門誌を読んでいると聞いた。
高校卒業後にアメリカの大学へ進む理由も、尊敬する教授がいるからだとか。
前を向いて歩いていく背中が眩しくて、自分の卑小さを痛感してしまう。だから告白できないのかもしれない。
「……はぁ~……人生ってむずかしいぃ」
ため息と一緒につい本音がこぼれた。
すると樫部が振り返る。神経質そうな細い眉をひそめて俺を見下ろした。
「その台詞は進路を決める時にこそふさわしい。たいして悩みもせずに決めた片平が、何をいまさら、どの口でその台詞を吐いているのかね」
夢に向かって着実に進んでいく樫部と正反対に、俺は流されるがまま、付属大学ではないものの、受験すれば誰もが入れる自宅近くの大学へ進学する。
俺は机にあごをくっつけて、じっとりと座った目つきで樫部を見上げた。
にやりと樫部が笑う。
「平穏無事に過ごせるいまこの時に、朝から深刻そうなため息は似合わない。僕の気も滅入ってくる。従って止めてもらいたいのだが、その為には理由を訊いた方がいいかな?」
当の本人が涼しい顔して理由を聞いてくるなよ。
俺は八つ当たり混じりに『i-CeL』のことを訊いてみることにした。
「……樫部は『i-CeL』のファンなんだってな。神音から教えてもらったよ、知らなかった」
「カノンさま? 何で片平が……って、ああ~……そうだったね。あんまりにも違うから片平とカノンさまが双子だってことを、気を抜くとすぐに忘れてしまう」
この手の台詞は十八年間で飽きるほど耳にして生きてきた。
だからって、不快感がなくなるわけじゃない。好きな人に言われればなおさらだ。
俺は唇を尖らせる。
「悪かったな」
何だよ、この落差は。
同じクラスで学生生活を共にした俺は苗字で呼ばれて、他校の神音はさま付け。
さらに目つきが据わるのを自覚した。
(わかってるさ、神音の方が優秀だってことは)
胸の奥を苛む悔しさとの付き合い方も、もういい加減にわかってきた。
それでも慣れるわけじゃない。
「悪気はないんだ。カノンさまは僕にとって、それだけ尊い方なだけだ。気を悪くしたなら謝る。片平は片平のままでいいさ、僕にとっては双子だろうとなんだろうと関係はない」
「…………」
慰めになっているんだか、なっていないんだかわからない。
俺は苦笑した。
「樫部はいつ『i-CeL』を知ったんだ?」
話題を元に戻すと、樫部も少し苦笑してから話題に乗ってきた。樫部なりに言い方が悪かったと思っていたようだ。
「中学三年だ。いまの僕を見ているだけじゃあ想像もできないだろうが、僕は当時かなりの問題児だった」
「……樫部が? 嘘だろ」
樫部が横顔にわずかな影を落として笑った。
「学校に行かない日の方が多かったよ……夜の街をひとりで歩くことも多くてね。ガキがひとりでふらふら歩いていれば、問題の方が近づいてきてくださるものだ」
朝の日差しに照らされる教室で語るには、似合わない話だった。
自分で言うのも悲しいけれど、樫部はこんな高校に来るには頭が良すぎる。
何があったんだろうと思っていたが。
「通行人の男にからまれて、暴行を受けそうになった。そこへ割って入ってくれたのが『i-CeL』だった。まぁよくある展開だね、ただ最年少のカノンさまが率先して突入してきてくれたのが意外だったが」
「……神音が」
指を怪我してはいけないからと体育の授業さえ休んでいた神音が、暴行を振るおうとする相手に立ちはだかるなんて、我が片割れながら勇気がある。
樫部が中学三年なら、俺と神音も同じで、その頃は神音がバンド活動をはじめたばかりのはずだ。にも関わらず一人の人間に影響を与え、人生を変えてしまうなんて。それだけ神音たちの音楽が素晴らしいってことなのかな。
「彼らが言ってくれたのだよ、ここに来たらいいと。行き先もなく夜の街をさまようくらいなら、彼らの音楽をここで聴いていろとね。何とも自信家な言い方だろう?」
冗談に笑うように、明るく声を上げる樫部からは当時を伺い知ることもできない。
「悔しいから聴いてやった」
「……それで?」
「それで……? ああ、もう……降参だったね。彼らの自信は正当だ。僕はあの時の男たちに殴られるよりも強烈な衝撃を受けて、翌日熱を出して寝込んだ」
それはいいことなのか、悪いことなのか。
顔をしかめた俺の眉間を樫部が指先でつつく。
「僕の中で何かが大きく変わった。言葉には表せないがね……さまざまな意味で彼らと彼らの音楽は僕の救世主なのだ。わかったかね?」
「…………」
俺は答えを見つけられず、ただ樫部の指を振り払った。
「他の音楽にはさほど興味がない。彼らほど鮮烈な音楽は、いまだ耳にしていない。だから少し惜しくもある。アメリカに渡ってしまうと、彼らの活動を知る機会がなくなってしまうからな」
日本の片隅で演奏しているだけならば、海を越えて伝わらない。
「……それでも行くんだろ?」
つい訊いてしまうのは、未練がさせたこと。
言葉にしないで笑うだけで、樫部の手が俺の髪をぐしゃぐしゃにかきまぜる。
「噂ではカノンさまが高校を卒業したら、メジャーデビューへ動きだすようだ。ぜひ実現させてもらいたい。海を越えるほど大きく、ね」
そしたら僕にも聴こえると、言葉にしなかった想いが空気を伝って届く。
俺が口を開いた時、教室の扉が開いて教師が入ってきた。
樫部が前に向き直ってしまい、俺の口から生まれるはずの言葉が消滅した。
(……俺は何を言いたかったんだ?)
起立の声に従いながら、机を見下ろす。
使い古した机に俺の両手が並んでいる。
形ばかりの礼をして椅子に戻り、目の前の背中に視線を移す。
三年間、樫部を包んで守ってきたブレザーが、いまなら手を伸ばせば届く位置にある。
「……海を越える、か」
樫部の背中を照らす陽射しに卒業までの残り時間を感じて、俺は手を握りしめた。
迷ってる時間なんか、ないのかもしれない。
『何にも執着しなかった響が、はじめて何かが欲しいと思ったんでしょう?』
神音の台詞が頭の奥でよみがえる。
ついさっき聞いたばかりの樫部の声と、後ろ姿が重なる。
(俺は……どうしたい?)
教師の声を聞き流しながら、考えることはそれだった。
例えば両親と遊園地に出掛けたとして、親の手を引いて歩くのは神音の方だ。
あれに乗りたい、これが欲しいと主張する。
反して俺は神音と一緒にやりなさい、と背中を押される方だった。
(今回も同じだな……いや、もっと悪い。まだ歩きだせないでいるんだから)
神音たちがしようとしていることは遊びじゃない。本気で俺を誘っている。
だから返事をするなら覚悟を決めないとと思っていたけれど、よく考えてみれば神音の根拠は昔に聞いた歌声だけだ。
(声変わりしているし、高校は音楽を選択しなかったから長い間歌ってない。神音が知っている声じゃないかもしれないじゃないか)
ようやくひとつの考えにたどりついた。
そうだ、一度歌って聞かせてみれば、はっきりとするじゃないか。
その先はまた改めて考えよう。
少しずつ暖かさを増してきた日差しに、樫部の背中が溶けて消えてしまいそうな気がして、俺は目を細めた。
ようやく自分を取り戻せた時、ベッドに寝そべって、天井を見上げていた。
「……響、もう眠った?」
「いや、全然眠れそうにないよ」
くすり、と神音が笑って、そっちに行ってもいい? と聞いてきた。
家の中で一番広い南向きの洋室が俺たちの部屋だ。
窓の横に置いた二段ベッドの下段を神音が、上段を俺が使っている。
いいよと返事すると、下から神音の顔がにょっきりと生えてきた。
同級生たちの中には、兄弟で同じ部屋を使っている奴もいるが、喧嘩が絶えないとよく聞く。
けれど俺たちはほとんど喧嘩したことがない。双子ゆえの感覚なんだろうか、そばにいても嫌だと思わない。
小学生の頃は一緒に寝ることも多かった。
ベッドに入ってくる片割れにスペースを譲る。
「お母さん、ぼくたちに嫉妬したことあったよね」
神音も同じようなことを考えていたのか、笑って言う。
「あんたたちはお互いの方が大切なのって」
「うん……あったね、そんなことも」
あれはいつだっただろう。
高熱で動けなくなった俺に、神音が一晩寄り添って眠った。
両親がどれだけ言っても神音は俺から離れなくて、結局両親の方が折れた。
翌朝けろりと治った俺に、呆れながら母親が言ったんだと思う。
「だから誘ったわけじゃないんだ。勘ちがいしないで欲しい」
神音はそれが言いたかったようだ。
ふたりとも何も言わずに寝そべって、天井を見上げた。
両親のどちらかが風呂に入っているらしく、物音が遠くかすかに聞こえてくる。
「中学卒業するまでぼくは毎日ピアノ、ピアノな生活してたでしょう? 先生の自宅まで通い練習して帰り、夕食を食べてまた練習。ピアノを置くスペースはないから、代わりにキーボードを買ってもらってまで。弾くことは嫌いじゃないからね、ある時まで不満なんて感じなかったんだけど……」
横に寝転がった神音が、静かに語りはじめる。
俺は当時の記憶を引っ張りだした。
平凡に学校へ通い、帰ってから宿題をするくらいの俺と違って、神音は分刻みのスケジュールをこなしていた。
友達と遊ぶ時間なんてまったくない。平日はもちろん、休日までも練習漬けの毎日をくり返していた。
練習しすぎで指が切れるなんて、ドラマの演出だろうと見くびっていたけど、現実なんだと思い知ったものだ。
神音はあの生活を苦にした様子はなく、むしろ楽しそうに過ごしていた。
ところが中学二年になった頃から冴えない表情をするようになって、ついに中学三年の冬、ピアニストにならないと宣言した。
「ぼくと同じピアノ教師について習っていた奴がさ、コンクールに出場して二位になった。ぼくは最優秀賞。そしたらピアノ教師が天狗になっちゃってさ」
「……確かその頃、神音は他のコンクールでも優勝してたよな? 教師が天狗になるのもわかるかも」
となりで神音が苦笑する。
「ぼくが目指すものがわからなくなった。だれを喜ばせたくて弾いているんだろう。はるか昔に死んだ作曲家の曲ばかり弾いて、ぼくは満足に生きていけるだろうか? 考えだしたら止まらなくなって。あの頃は毎日が辛かったなぁ……響にも当り散らしてたかも。ごめんね」
「いや、そんなことないと思うけど?」
「響はぼくが何しても、ほわんと笑って許しちゃう人だもんね。さすが不感症」
全然誉めてないよな、その言葉。
無意識に口を尖らした俺を見て、神音がははっと軽快に笑った。
「クラシックの方が格式が高いのは事実だと思うよ。でもあの頃のぼくを救ってくれた音楽は町中で演奏されていた。コンサートホールじゃない、身近な場所でね。その時にわかったんだ、ぼくが一生付き合っていきたい音楽はこれだ。いまを生きている人間が作った曲だって。だからバンドを組んだ」
何かきっかけがあったんだろうとは思っていたけれど、そんなことがあったなんて。
当時、音楽の特進クラスがある高校に入学が決まっていた神音は、ピアノをやめることについて、母親と毎日言い争いをしていた。
結果ピアニストは目指さないものの、特進クラスにはそのまま進学して、バンド活動と両立させてきた。
母親にとって、才能を発揮している神音がピアノをやめるのは才能を放棄することに思えたのかもしれない。
神音を叱ることのない母親が、ずいぶんと声を高めていた。
もし俺まで一緒にやると言いだしたら、母親は何と言うだろう。俺はピアノを習ってすぐにやめているから、何も期待されてはいないとわかっているけれど、良い気はしないだろう。
「ぼくが表現したい音の世界。そこに響の声があれば行けるんだ。いろんな人の声を聞いて、みんなと演奏を合わせたけど、だれもが違った。でもどこかで聞いた覚えがある声が最後のパーツだって、妙な確信があってね。昔を思い出して……響の声に辿り着いたわけ。本当に変じゃなかったのにな。また聞きたいよ」
「……昔の話だろ」
「そうだね。でも、ぼくが一度聞いた音を忘れないことは知っているでしょ?」
俺は答えられないで、ただ天井を見つめていた。やがてとなりから寝息が聞こえてくる。
いつまでも俺に眠気は訪れなかった。
答えが見つからないまま、月曜日になった。
今学期も残り数日になったけれど、入試や就職活動で忙しい三年生が放つ空気は殺伐としていて、年の瀬の忙しさも手伝って教室内はどことなく落ち着かない。
そんな中、背筋をまっすぐに伸ばした美しい姿勢の学生が、教室内の空気なんて素知らぬ顔で入ってきた。
黒色の細いフレーム眼鏡をかけて、いつも冷めた表情をしている彼こそが俺の初恋の相手だ。
「おはよう、片平」
「樫部……おはよ」
片手をひらひら躍らせて、目の前の席に樫部が座る。
同じ制服を着た、俺よりちょっとだけ背が高い男子学生。
(何だって樫部が好きなんだろうな……)
女性と間違えそうな外見じゃないから、性別を間違えて恋心を抱いたわけじゃない。
自ら進んで集団に近づこうとしたがらない樫部は、学内一位の頭脳を持つ優等生でもある。
とりたてて問題を起こしたりしないけれど、同級生からすると付き合いにくい。
友人いわく、何を考えてるのかわからない奴、なのだそうで。
高校二年に進級した時に出会った俺も、樫部について知っていることは少ない。友人の意見もごもっともだと思う。
出席番号順で前後するせいで、何となく話すようになって自然に俺の方から樫部について回るようになった。
俺は樫部を友達だと思っていたけれど、樫部が俺を友達だと思ってくれているのか、実はあまり自信がない。
(これじゃ、恋人になるなんてまだまだ先の話で、オトモダチにもほど遠い関係かもな)
苦笑がこみ上げてきて、俺はこっそりため息をついた。
恋心の中には、憧れもあると思う。
特別な才能も、したいこともない俺と違って、樫部は科学者になると決めている。
実際に英語を習得し、海外の専門誌を読んでいると聞いた。
高校卒業後にアメリカの大学へ進む理由も、尊敬する教授がいるからだとか。
前を向いて歩いていく背中が眩しくて、自分の卑小さを痛感してしまう。だから告白できないのかもしれない。
「……はぁ~……人生ってむずかしいぃ」
ため息と一緒につい本音がこぼれた。
すると樫部が振り返る。神経質そうな細い眉をひそめて俺を見下ろした。
「その台詞は進路を決める時にこそふさわしい。たいして悩みもせずに決めた片平が、何をいまさら、どの口でその台詞を吐いているのかね」
夢に向かって着実に進んでいく樫部と正反対に、俺は流されるがまま、付属大学ではないものの、受験すれば誰もが入れる自宅近くの大学へ進学する。
俺は机にあごをくっつけて、じっとりと座った目つきで樫部を見上げた。
にやりと樫部が笑う。
「平穏無事に過ごせるいまこの時に、朝から深刻そうなため息は似合わない。僕の気も滅入ってくる。従って止めてもらいたいのだが、その為には理由を訊いた方がいいかな?」
当の本人が涼しい顔して理由を聞いてくるなよ。
俺は八つ当たり混じりに『i-CeL』のことを訊いてみることにした。
「……樫部は『i-CeL』のファンなんだってな。神音から教えてもらったよ、知らなかった」
「カノンさま? 何で片平が……って、ああ~……そうだったね。あんまりにも違うから片平とカノンさまが双子だってことを、気を抜くとすぐに忘れてしまう」
この手の台詞は十八年間で飽きるほど耳にして生きてきた。
だからって、不快感がなくなるわけじゃない。好きな人に言われればなおさらだ。
俺は唇を尖らせる。
「悪かったな」
何だよ、この落差は。
同じクラスで学生生活を共にした俺は苗字で呼ばれて、他校の神音はさま付け。
さらに目つきが据わるのを自覚した。
(わかってるさ、神音の方が優秀だってことは)
胸の奥を苛む悔しさとの付き合い方も、もういい加減にわかってきた。
それでも慣れるわけじゃない。
「悪気はないんだ。カノンさまは僕にとって、それだけ尊い方なだけだ。気を悪くしたなら謝る。片平は片平のままでいいさ、僕にとっては双子だろうとなんだろうと関係はない」
「…………」
慰めになっているんだか、なっていないんだかわからない。
俺は苦笑した。
「樫部はいつ『i-CeL』を知ったんだ?」
話題を元に戻すと、樫部も少し苦笑してから話題に乗ってきた。樫部なりに言い方が悪かったと思っていたようだ。
「中学三年だ。いまの僕を見ているだけじゃあ想像もできないだろうが、僕は当時かなりの問題児だった」
「……樫部が? 嘘だろ」
樫部が横顔にわずかな影を落として笑った。
「学校に行かない日の方が多かったよ……夜の街をひとりで歩くことも多くてね。ガキがひとりでふらふら歩いていれば、問題の方が近づいてきてくださるものだ」
朝の日差しに照らされる教室で語るには、似合わない話だった。
自分で言うのも悲しいけれど、樫部はこんな高校に来るには頭が良すぎる。
何があったんだろうと思っていたが。
「通行人の男にからまれて、暴行を受けそうになった。そこへ割って入ってくれたのが『i-CeL』だった。まぁよくある展開だね、ただ最年少のカノンさまが率先して突入してきてくれたのが意外だったが」
「……神音が」
指を怪我してはいけないからと体育の授業さえ休んでいた神音が、暴行を振るおうとする相手に立ちはだかるなんて、我が片割れながら勇気がある。
樫部が中学三年なら、俺と神音も同じで、その頃は神音がバンド活動をはじめたばかりのはずだ。にも関わらず一人の人間に影響を与え、人生を変えてしまうなんて。それだけ神音たちの音楽が素晴らしいってことなのかな。
「彼らが言ってくれたのだよ、ここに来たらいいと。行き先もなく夜の街をさまようくらいなら、彼らの音楽をここで聴いていろとね。何とも自信家な言い方だろう?」
冗談に笑うように、明るく声を上げる樫部からは当時を伺い知ることもできない。
「悔しいから聴いてやった」
「……それで?」
「それで……? ああ、もう……降参だったね。彼らの自信は正当だ。僕はあの時の男たちに殴られるよりも強烈な衝撃を受けて、翌日熱を出して寝込んだ」
それはいいことなのか、悪いことなのか。
顔をしかめた俺の眉間を樫部が指先でつつく。
「僕の中で何かが大きく変わった。言葉には表せないがね……さまざまな意味で彼らと彼らの音楽は僕の救世主なのだ。わかったかね?」
「…………」
俺は答えを見つけられず、ただ樫部の指を振り払った。
「他の音楽にはさほど興味がない。彼らほど鮮烈な音楽は、いまだ耳にしていない。だから少し惜しくもある。アメリカに渡ってしまうと、彼らの活動を知る機会がなくなってしまうからな」
日本の片隅で演奏しているだけならば、海を越えて伝わらない。
「……それでも行くんだろ?」
つい訊いてしまうのは、未練がさせたこと。
言葉にしないで笑うだけで、樫部の手が俺の髪をぐしゃぐしゃにかきまぜる。
「噂ではカノンさまが高校を卒業したら、メジャーデビューへ動きだすようだ。ぜひ実現させてもらいたい。海を越えるほど大きく、ね」
そしたら僕にも聴こえると、言葉にしなかった想いが空気を伝って届く。
俺が口を開いた時、教室の扉が開いて教師が入ってきた。
樫部が前に向き直ってしまい、俺の口から生まれるはずの言葉が消滅した。
(……俺は何を言いたかったんだ?)
起立の声に従いながら、机を見下ろす。
使い古した机に俺の両手が並んでいる。
形ばかりの礼をして椅子に戻り、目の前の背中に視線を移す。
三年間、樫部を包んで守ってきたブレザーが、いまなら手を伸ばせば届く位置にある。
「……海を越える、か」
樫部の背中を照らす陽射しに卒業までの残り時間を感じて、俺は手を握りしめた。
迷ってる時間なんか、ないのかもしれない。
『何にも執着しなかった響が、はじめて何かが欲しいと思ったんでしょう?』
神音の台詞が頭の奥でよみがえる。
ついさっき聞いたばかりの樫部の声と、後ろ姿が重なる。
(俺は……どうしたい?)
教師の声を聞き流しながら、考えることはそれだった。
例えば両親と遊園地に出掛けたとして、親の手を引いて歩くのは神音の方だ。
あれに乗りたい、これが欲しいと主張する。
反して俺は神音と一緒にやりなさい、と背中を押される方だった。
(今回も同じだな……いや、もっと悪い。まだ歩きだせないでいるんだから)
神音たちがしようとしていることは遊びじゃない。本気で俺を誘っている。
だから返事をするなら覚悟を決めないとと思っていたけれど、よく考えてみれば神音の根拠は昔に聞いた歌声だけだ。
(声変わりしているし、高校は音楽を選択しなかったから長い間歌ってない。神音が知っている声じゃないかもしれないじゃないか)
ようやくひとつの考えにたどりついた。
そうだ、一度歌って聞かせてみれば、はっきりとするじゃないか。
その先はまた改めて考えよう。
少しずつ暖かさを増してきた日差しに、樫部の背中が溶けて消えてしまいそうな気がして、俺は目を細めた。
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