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番外編 裕&聡史編
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体中が温かくて、素肌を撫でてくれる手も気持ちいい。
裕は目を閉じたまま微笑んだ。
背中を支えて抱きかかえてくれている腕がだれのものなのか、見なくてもわかる。
これは裕の夢なのだから、裕が望む人の腕であるべきだから。
望むのはただひとりのぬくもりだけだった。
(聡史さん……指長いなぁ……指先の皮膚がちょっと荒れてる)
胸元まで温かい液体に浸かっているみたいで、何度も指がお湯をすくって、裕の首にかける。
指は背中、腰へと労わるように撫でる。
くり返しのリズムと感触に裕の身も心もお湯に溶けてしまいそうだった。
「ヒロ……」
名前を呼ぶ声にうっすらと目を開くと、裕を抱いているのはやっぱり聡史だった。
濡れた聡史の顔はいつもと違う表情で、裕を見下ろしてくる。
まるで込みあげてくる何かを堪えているかのような、切なげな表情と目だった。
指が裕の頬を撫でる。
目尻から顎の先へ、肌の感触を確かめているみたいに指が動く。
「ヒロ」
大好きな聡史の声が何度も名前を呼んでくれる。
(都合のいい夢だな……俺、こんな夢見るくらい好きだったんだ)
自分の部屋でひとり眠る時に、聡史を思った夜もあったけど、想像だけでは限界があってこんなにリアルに感じられたことはなかった。
頬を撫でる指の形や感触、温度……匂いまでわかるなんてなかったのに。
裕がぼんやりと疑問に思う間に、指が唇の形を確かめるように撫でていた。端から端へ動いた指は、するりと唇を割って内側へ侵入する。
唇の内側の肉壁を押すように揉まれて、変な感触に襲われ裕が身をよじった。
ぱしゃん、と水音がする。
(めちゃくちゃリアルなんだけどっ!)
聡史の指はぞくぞくするような感触を生みながら、唇を撫でていく。
「あ、……」
自然に開いてしまった口から、甘ったるい声がこぼれて裕はようやく疑問を抱いた。
(これ……夢、じゃない?)
湯気の中で見る聡史の表情は夢だと思う。
まるで恋人を見るような、愛しさをこらえた表情を現実の聡史がするはずない。
するなら裕ではなく、あのセミロングの女性にだ。
(何で、何でこんなになってるんだ!?)
唇を撫でる指と、それが生み出す感覚。
横抱きにして支えてくれる聡史の腕の力強さ。
ふたりを包むお湯のぬくもり。
「お、叔父さんっ!」
思わず声を上げた裕を見下ろす聡史が、ほぅっと息を吐き出して微笑んだ。
「私がわかるのか、ヒロ……」
唇を触っていた手を離して、裕の頭を引き寄せる。
「……おまえを、失うかと思った」
こつんと額と額を合わせた聡史が、深く息を吐き出しながら、しみじみと言う。
その声音に裕の胸が痛んだ。
「……ご、め……ん」
「なぜ合鍵を使わなかった」
「…………」
夢じゃないとわかったのに、言えるわけがない。
(聡史さんが女の人といるところを見たくなかったから、何て言ったら……バレちゃうよな)
裕が答えあぐねていると、聡史がすっと目を細めた。
「言えない訳があるのか?」
「……べ、別にないって。歩きつかれ、ただけだ」
まるきり嘘じゃない。聡史のマンションが見えた安堵感で、感覚がなくなりそうだった冷え切った足が、そこで重みを増したのは事実だ。
「ならばよけいに入って来るだろう?」
「……動けな、かったんだ」
しばらく聡史は無言で裕を見つめた。
裕も内心怯えながら、聡史を見返した。
(これ以上何も言わせないでくれ。せめて可愛い甥として、あなたのそばにいたいから。こんな気持ちは聞かせたくないんだ)
ぱしゃん、と水滴が落ちた音がして、聡史は目を閉じて息を吐いた。
「……そろそろ出よう」
そう言って裕の体を持ち上げながら立った聡史に、裕は驚く。
万年引きこもりで、学生時代もスポーツをしていなかった聡史のどこに、こんな力があるのだろう。
部屋に入る時も、細身だけど大学生の男を持ちあげられるとは、思ってもみなかった。
(いや、感動してる場合じゃないって。この格好は男として恥ずかしいぞ)
ようやくそこに考えがたどりついた時には、脱衣所に下ろされてバスタオルに包みこまれていた。
「い、いいから……自分でふく……」
「任せなさい。まだ手に力が入らないだろう」
聡史の手からバスタオルを奪おうとした手を見て、聡史が笑う。
裕も苦笑するしかなかった。
バスタオルの端を掴むことすらできず、指が弱々しく震えるだけだった。
「ヒロが小さい時は、一緒に風呂入ったこともある。いまさら恥ずかしがることか?」
「そ……だけど」
あの頃と今とでは裕が聡史を見る目が違うのだ。
顔から順番にお湯を拭っていく聡史の手が、下腹部へ近づくたびに裕の緊張が高まる。
当然ながら生まれたままの姿になっている裕の急所は、聡史の目に晒されている。
電気がついている脱衣所で、そこだけが見えないはずもない。
(頼むから……反応しないでくれ、息子よ)
聡史に見られているんじゃないかと意識してしまい、平気なふりをしようとすればするほど、そこに熱が集まっていく。
柔らかいバスタオルの感触が、弱っている体を裏切って、高まりかけていたそこに触れる。
「っ!」
思わずびくり、と体が震えた。
聡史は何も言わず、淡々とそこを拭き、太ももから足先へバスタオルを移動させた。
すべて拭き終えた聡史は、洗ったばかりのパジャマを裕に着せた。
パンツは絶対に自分ではく、と言い張って聡史の手から奪い、裕は自分ではきおえた。
その間に聡史も服を着た。普段着みたいなので、これからまだ仕事するつもりなのかもしれない。
「立てるか?」
「……だいじょ、うぶ」
聡史に体を半分支えてもらいながらソファに移動すると、眠る前と同じように毛布を巻きつけられた。
「何か食べられそうか? と言っても……何があったか」
そう言って聡史がキッチンに行く。
「いい、よ。なにもいら……ない」
歩いたわりに空腹感はなかった。
それよりも気になっていたことを聞いてみた。
「さっきの人、いいの?」
「何?」
しばらく考えるような沈黙の後で、ああと聡史の声が聞こえた。
「サラのことか? はっ、あいつはちょうど帰るところだったんだ。仕事を終えて、彼氏とディナーに行くそうだ」
「……え?」
それは聡史のことじゃないのかと、裕はキッチンを振り返った。
貯蔵スペースに体半分突っ込んで漁っていた聡史が、何かを見つけたらしい。
「これなら出来る。レトルトのおかゆだ、食べられるだけ食べなさい」
「それはい、いから……さと……叔父さんがサラさんと結婚するんじゃない、の」
「私がサラと? どこからそんな話が出てきた……さては、義兄さんたちが勝手に噂してたな」
当たりだ、と心の中で答えながら、裕は苦笑する。
はじめに聡史の結婚話をしはじめたのは母親で、父親が信じて、叔父に伝った。
食器におかゆを移してレンジで温めながら、聡史は話し続ける。
「さすが芸能界に疎い義兄さんたちだ」
芸能界、サラと聞いてようやく裕も気づいた。
確かに両親も裕も芸能ニュースに興味がない方だ。
それでもバンド活動をしているだけに、裕は噂を聞くこともある。
最近、碧葉更紗と言う女優が主演のドラマが最高視聴率を獲得したとか。
何本もCMに出演している彼女が、近々歌手デビューするんじゃないかとだれかが言っていた。
「サラが歌手デビューすること、私がその曲を作ることに決まった。そしたら曲に何かと要求してきて、ここまで何度も乗りこんでは話しまくって行く。サラがどれくらい幸せか、この気持ちを曲にして聞かせてやりたいんだ、とか聞いてないことまで……たまらない」
「…………」
「サラの相手はやり手の弁護士だそうだ。一般人で顔写真は公開しないらしい」
まさか本人が、こんな場所にいるなんて想像もしてなかった。
(清楚できれいな人だと思ったけど……本人だったなんて)
気づかなかった母親の疎さに舌打ちしたい気分にだったけれど、裕もすぐに気づかなかったわけで似たりよったりだ。
(だったら……いままで悩んできたことは無駄だった?)
ソファに脱力した裕は、でもと気を取り直した。
時期が延びただけで、いつか聡史も相手を見つけて結婚してしまう。
そして裕がその相手になれない現実は、変わらない。
レンジが鳴って、聡史が横に移動してきた。
「食べなさい」
「……いらない」
「ヒロ」
怖い顔をする聡史から裕は顔を背ける。
期待してはいけない。
風呂の中で見た優しさも、切なげな声も、不慣れなのに世話を焼いてくれることも。
ただ裕が聡史の甥で、身内だから心配しているだけなんだ。
「腹空いて、ない」
「駄目だ。冷え切っていたし、声もそんな調子で、何も食べなかったら絶対に体調を崩す。またライブで歌いたいだろう?」
ライブと聞いて、忘れかけていたライブハウスでのやりとりを思い出した。
「……もう……歌わない」
「なに?」
聞こえなかったらしく、聡史が顔を寄せてくる。
「バンド、ぬけてきた……今夜、がさいごだった」
「…………」
一緒にやれなくなった、とは言いたくなかった。
裕の意思で抜けたんだと、自分自身でも思っていたかったから。
結局一度も聞きに来てくれなかった。
結婚するもしないも関係なく、聡史が歌を聞きに来る日がこないなら、裕が歌い続ける意味もない。
(歌っている間は、聡史さんとひとつになれる気がしたけど……もうやめよう)
いつか本当に聡史が結婚してしまう日が来る。
その時に離れるより、いまから距離を置いた方が時間をかけて離れられる。
バンドを脱退したことは、ちょうどいい機会なのかもしれない。
聡史を身近に感じる時間が減れば、気持ちも少しずつ静かになってくれるだろう。
「いままで、ありがと……」
いますぐは出来ないだろうけど、ただの甥に近づく努力をするよ。
裕は誓いもこめてお礼を言った。
部屋の中にまた沈黙が落ちる。
カーテンが閉まった窓の向こうでは、まだ雪が降っているんだろうか。裕が聡史から意識をそらしたくて、そう考えた時だ。
「……私がサラと結婚すると思っていたから、部屋に来なかったのか」
聡史が低く囁いた。
「ち、がう」
「クリスマス・イブに彼女とここで、抱きあってるとでも?」
顔を背けたままの裕の頬に、聡史が手を添えて強引に振り向かせる。
間近に見えた聡史の顔は表情がなくて、目だけが強く光っていた。
裕ははじめてみる聡史の態度に、息も忘れて目を見つめ返した。
「嫉妬したか、ヒロ?」
「お……叔父さん、何を言ってるのかわかってる?」
聡史の手が裕の顔を強引に引き寄せる。
鼻がぶつかりそうなほど間近で、ふたりは見つめ合った。
「私が知らない時に、裕が手の届かない場所に行ってしまうなど、耐えられない。今夜身に沁みてわかった」
「…………」
「義父さんたちに遠慮して、距離を置いてきたが。離れれば離れるほど、私がだれを求めているのかがわかって、会ってしまえば閉じ込めてしまいたかった」
毛布ごと聡史が裕を抱き寄せる。
風呂に入れてもらって、温まったはずなのに裕は震えが止まらなかった。
(……いま、聞いてる声……幻聴じゃ、ないよな?)
本当は高層マンションの入口を眺めていたあの場所にいて、凍えて都合のいい夢を見ているだけなんじゃないかと疑ってしまう。
ぐっ、と抱きしめる腕に力がこもる。
「関わる人すべてを傷つけてしまう想いだろう。だがヒロだけは守りたい。だれに見放されてもヒロだけは、どこにも行かせない」
「……おじ、さ……ん」
裕は目を閉じた。
(都合のいい夢でもいい。いまだけの錯乱でもいいから……聡史さんも俺と同じ想いでいてくれたんだと思いたい)
同じ屋根の下で育った、叔父と甥のふたり。
それ以上にならない関係のはずなのに。
「俺も……聡史さんをだれにも渡したくなかった」
「……ヒロ」
聡史を好きだと、身内を越えた想いを抱いてしまったことを自覚してから、心の中でしか名前を呼ばないように戒めてきた。
他のだれかに聡史を特別に想っていると知られたら、聡史が傷つくから。
でもいまだけ、雪の幻だと思って聞いて欲しい。
「聡史さんのそばにいたい……ずっと、一緒に……それが出来ないなら……だれのものにもならないで」
叔父と甥の付き合いでも我慢するから、そばにだれにも近寄らせないで欲しい。
毛布の間から手を出して、聡史の服に触れた。
「もう歌わないから……歌って困らせたりしないから……」
「ヒロ……私は」
聡史が何かを言いかけた。
顔を上げた裕は、それを遮るように微笑んで首を振った。
「好きだ、聡史さん」
「……ヒロ……」
言いたかった言葉を口に出したとたん、裕の目からほろりと涙がこぼれた。
目を閉じると家で笑っていた叔父や従兄弟たちの顔を思い出した。
裕が抱いてしまった想いは、彼らのように光り輝くものじゃない。
新しい命を育んで、未来へ続く道がない。
聡史を巻き込んではいけないと思うのに、聡史を手放せない。
好きな人を不幸にする想いを、あきらめられない。
「好きで……ごめんなさ、」
謝罪の言葉は聡史の唇で遮られてしまった。
まだ子供だった頃に、家族愛のキスをされたことはある。
だけど恋として、聡史を感じたいと思ってから、キスはどんな感じだろうと想像した。
そのはじめてが、いま起きている。
裕の胸が熱く、どくんと鳴った。
足の指先から痺れるような感覚が昇ってきて、首の後ろを擽る。
「ヒロは気づかなかっただろうが、私は一度だけ歌を聞いたことがある」
「え……?」
ほんの少し顔が離れて、聡史が囁く。
吐息がさっきまで触れていた場所にかかり、腰にぞくりと痺れが走った。
「ステージ脇に特別に入らせてもらってな……あれは強烈だった」
聡史が楽しそうに目を細めて、微笑みながら痺れが走ったその場所を手で撫で上げた。裕の体がびくんっ、と跳ねる。
「はっ、あ……」
思わず声が出て、裕は唇を噛んだ。
「ヒロを掴んでこの部屋に連れ込み、全部をはぎ取って、正体を無くすほど乱してやりたくなった。この体に……」
毛布とパジャマをずらしてさらけだした裕の鎖骨に、聡史は噛みつくようにキスをした。
「あ、ちょ……と」
「私を感じさせて、私のためにだけ歌わせたい。人生ではじめて、視界が真っ赤になるほど血が昇って、興奮した」
「さとっ」
名前を呼ぼうとした裕の口内に聡史は舌を入れ、熱いそこをまんべんなく愛撫する。
聡史の舌の感触に触れて、怯えたように縮んだ裕の舌に絡めて、吸う。
裏の筋の根元をつつくように舐めると、面白いほど裕の体が飛び跳ねた。
痛烈な感覚から逃げようとする裕の後頭部を、聡史の手が掴んで邪魔をする。
「っ……は、やっ……」
息継ぎの合間も満足に与えられない狂おしいほど濃厚なキスに、裕は思考をすべて剥ぎ取られ、聡史の腕の中で身悶えするしかなかった。
体が熱くて、ぞくぞくと悪寒にも似た愉悦に擽られ、腰が揺れる。
聡史はそんな裕の体を強く抱き寄せた。
「……私の気も知らず、歌を聞けなどと……よくも言ってくれた」
「さと、し……さん」
間近で見つめ合うふたりの間に、唾液が糸を引いている。
気づいた裕が真っ赤になって、聡史がその反応に愛おしそうに目を細めた。
「私のために、歌ってくれ……ヒロ」
ここまでされて、何を言われているのかわからない振りはできない。
体はさっきのキスですでに燃え上ってしまっている。
いきなりすぎないか、とためらう気持ちもあったけど。
今夜マンションに辿りつくまでの記憶が、裕の背中を押した。
裕は目を閉じたまま微笑んだ。
背中を支えて抱きかかえてくれている腕がだれのものなのか、見なくてもわかる。
これは裕の夢なのだから、裕が望む人の腕であるべきだから。
望むのはただひとりのぬくもりだけだった。
(聡史さん……指長いなぁ……指先の皮膚がちょっと荒れてる)
胸元まで温かい液体に浸かっているみたいで、何度も指がお湯をすくって、裕の首にかける。
指は背中、腰へと労わるように撫でる。
くり返しのリズムと感触に裕の身も心もお湯に溶けてしまいそうだった。
「ヒロ……」
名前を呼ぶ声にうっすらと目を開くと、裕を抱いているのはやっぱり聡史だった。
濡れた聡史の顔はいつもと違う表情で、裕を見下ろしてくる。
まるで込みあげてくる何かを堪えているかのような、切なげな表情と目だった。
指が裕の頬を撫でる。
目尻から顎の先へ、肌の感触を確かめているみたいに指が動く。
「ヒロ」
大好きな聡史の声が何度も名前を呼んでくれる。
(都合のいい夢だな……俺、こんな夢見るくらい好きだったんだ)
自分の部屋でひとり眠る時に、聡史を思った夜もあったけど、想像だけでは限界があってこんなにリアルに感じられたことはなかった。
頬を撫でる指の形や感触、温度……匂いまでわかるなんてなかったのに。
裕がぼんやりと疑問に思う間に、指が唇の形を確かめるように撫でていた。端から端へ動いた指は、するりと唇を割って内側へ侵入する。
唇の内側の肉壁を押すように揉まれて、変な感触に襲われ裕が身をよじった。
ぱしゃん、と水音がする。
(めちゃくちゃリアルなんだけどっ!)
聡史の指はぞくぞくするような感触を生みながら、唇を撫でていく。
「あ、……」
自然に開いてしまった口から、甘ったるい声がこぼれて裕はようやく疑問を抱いた。
(これ……夢、じゃない?)
湯気の中で見る聡史の表情は夢だと思う。
まるで恋人を見るような、愛しさをこらえた表情を現実の聡史がするはずない。
するなら裕ではなく、あのセミロングの女性にだ。
(何で、何でこんなになってるんだ!?)
唇を撫でる指と、それが生み出す感覚。
横抱きにして支えてくれる聡史の腕の力強さ。
ふたりを包むお湯のぬくもり。
「お、叔父さんっ!」
思わず声を上げた裕を見下ろす聡史が、ほぅっと息を吐き出して微笑んだ。
「私がわかるのか、ヒロ……」
唇を触っていた手を離して、裕の頭を引き寄せる。
「……おまえを、失うかと思った」
こつんと額と額を合わせた聡史が、深く息を吐き出しながら、しみじみと言う。
その声音に裕の胸が痛んだ。
「……ご、め……ん」
「なぜ合鍵を使わなかった」
「…………」
夢じゃないとわかったのに、言えるわけがない。
(聡史さんが女の人といるところを見たくなかったから、何て言ったら……バレちゃうよな)
裕が答えあぐねていると、聡史がすっと目を細めた。
「言えない訳があるのか?」
「……べ、別にないって。歩きつかれ、ただけだ」
まるきり嘘じゃない。聡史のマンションが見えた安堵感で、感覚がなくなりそうだった冷え切った足が、そこで重みを増したのは事実だ。
「ならばよけいに入って来るだろう?」
「……動けな、かったんだ」
しばらく聡史は無言で裕を見つめた。
裕も内心怯えながら、聡史を見返した。
(これ以上何も言わせないでくれ。せめて可愛い甥として、あなたのそばにいたいから。こんな気持ちは聞かせたくないんだ)
ぱしゃん、と水滴が落ちた音がして、聡史は目を閉じて息を吐いた。
「……そろそろ出よう」
そう言って裕の体を持ち上げながら立った聡史に、裕は驚く。
万年引きこもりで、学生時代もスポーツをしていなかった聡史のどこに、こんな力があるのだろう。
部屋に入る時も、細身だけど大学生の男を持ちあげられるとは、思ってもみなかった。
(いや、感動してる場合じゃないって。この格好は男として恥ずかしいぞ)
ようやくそこに考えがたどりついた時には、脱衣所に下ろされてバスタオルに包みこまれていた。
「い、いいから……自分でふく……」
「任せなさい。まだ手に力が入らないだろう」
聡史の手からバスタオルを奪おうとした手を見て、聡史が笑う。
裕も苦笑するしかなかった。
バスタオルの端を掴むことすらできず、指が弱々しく震えるだけだった。
「ヒロが小さい時は、一緒に風呂入ったこともある。いまさら恥ずかしがることか?」
「そ……だけど」
あの頃と今とでは裕が聡史を見る目が違うのだ。
顔から順番にお湯を拭っていく聡史の手が、下腹部へ近づくたびに裕の緊張が高まる。
当然ながら生まれたままの姿になっている裕の急所は、聡史の目に晒されている。
電気がついている脱衣所で、そこだけが見えないはずもない。
(頼むから……反応しないでくれ、息子よ)
聡史に見られているんじゃないかと意識してしまい、平気なふりをしようとすればするほど、そこに熱が集まっていく。
柔らかいバスタオルの感触が、弱っている体を裏切って、高まりかけていたそこに触れる。
「っ!」
思わずびくり、と体が震えた。
聡史は何も言わず、淡々とそこを拭き、太ももから足先へバスタオルを移動させた。
すべて拭き終えた聡史は、洗ったばかりのパジャマを裕に着せた。
パンツは絶対に自分ではく、と言い張って聡史の手から奪い、裕は自分ではきおえた。
その間に聡史も服を着た。普段着みたいなので、これからまだ仕事するつもりなのかもしれない。
「立てるか?」
「……だいじょ、うぶ」
聡史に体を半分支えてもらいながらソファに移動すると、眠る前と同じように毛布を巻きつけられた。
「何か食べられそうか? と言っても……何があったか」
そう言って聡史がキッチンに行く。
「いい、よ。なにもいら……ない」
歩いたわりに空腹感はなかった。
それよりも気になっていたことを聞いてみた。
「さっきの人、いいの?」
「何?」
しばらく考えるような沈黙の後で、ああと聡史の声が聞こえた。
「サラのことか? はっ、あいつはちょうど帰るところだったんだ。仕事を終えて、彼氏とディナーに行くそうだ」
「……え?」
それは聡史のことじゃないのかと、裕はキッチンを振り返った。
貯蔵スペースに体半分突っ込んで漁っていた聡史が、何かを見つけたらしい。
「これなら出来る。レトルトのおかゆだ、食べられるだけ食べなさい」
「それはい、いから……さと……叔父さんがサラさんと結婚するんじゃない、の」
「私がサラと? どこからそんな話が出てきた……さては、義兄さんたちが勝手に噂してたな」
当たりだ、と心の中で答えながら、裕は苦笑する。
はじめに聡史の結婚話をしはじめたのは母親で、父親が信じて、叔父に伝った。
食器におかゆを移してレンジで温めながら、聡史は話し続ける。
「さすが芸能界に疎い義兄さんたちだ」
芸能界、サラと聞いてようやく裕も気づいた。
確かに両親も裕も芸能ニュースに興味がない方だ。
それでもバンド活動をしているだけに、裕は噂を聞くこともある。
最近、碧葉更紗と言う女優が主演のドラマが最高視聴率を獲得したとか。
何本もCMに出演している彼女が、近々歌手デビューするんじゃないかとだれかが言っていた。
「サラが歌手デビューすること、私がその曲を作ることに決まった。そしたら曲に何かと要求してきて、ここまで何度も乗りこんでは話しまくって行く。サラがどれくらい幸せか、この気持ちを曲にして聞かせてやりたいんだ、とか聞いてないことまで……たまらない」
「…………」
「サラの相手はやり手の弁護士だそうだ。一般人で顔写真は公開しないらしい」
まさか本人が、こんな場所にいるなんて想像もしてなかった。
(清楚できれいな人だと思ったけど……本人だったなんて)
気づかなかった母親の疎さに舌打ちしたい気分にだったけれど、裕もすぐに気づかなかったわけで似たりよったりだ。
(だったら……いままで悩んできたことは無駄だった?)
ソファに脱力した裕は、でもと気を取り直した。
時期が延びただけで、いつか聡史も相手を見つけて結婚してしまう。
そして裕がその相手になれない現実は、変わらない。
レンジが鳴って、聡史が横に移動してきた。
「食べなさい」
「……いらない」
「ヒロ」
怖い顔をする聡史から裕は顔を背ける。
期待してはいけない。
風呂の中で見た優しさも、切なげな声も、不慣れなのに世話を焼いてくれることも。
ただ裕が聡史の甥で、身内だから心配しているだけなんだ。
「腹空いて、ない」
「駄目だ。冷え切っていたし、声もそんな調子で、何も食べなかったら絶対に体調を崩す。またライブで歌いたいだろう?」
ライブと聞いて、忘れかけていたライブハウスでのやりとりを思い出した。
「……もう……歌わない」
「なに?」
聞こえなかったらしく、聡史が顔を寄せてくる。
「バンド、ぬけてきた……今夜、がさいごだった」
「…………」
一緒にやれなくなった、とは言いたくなかった。
裕の意思で抜けたんだと、自分自身でも思っていたかったから。
結局一度も聞きに来てくれなかった。
結婚するもしないも関係なく、聡史が歌を聞きに来る日がこないなら、裕が歌い続ける意味もない。
(歌っている間は、聡史さんとひとつになれる気がしたけど……もうやめよう)
いつか本当に聡史が結婚してしまう日が来る。
その時に離れるより、いまから距離を置いた方が時間をかけて離れられる。
バンドを脱退したことは、ちょうどいい機会なのかもしれない。
聡史を身近に感じる時間が減れば、気持ちも少しずつ静かになってくれるだろう。
「いままで、ありがと……」
いますぐは出来ないだろうけど、ただの甥に近づく努力をするよ。
裕は誓いもこめてお礼を言った。
部屋の中にまた沈黙が落ちる。
カーテンが閉まった窓の向こうでは、まだ雪が降っているんだろうか。裕が聡史から意識をそらしたくて、そう考えた時だ。
「……私がサラと結婚すると思っていたから、部屋に来なかったのか」
聡史が低く囁いた。
「ち、がう」
「クリスマス・イブに彼女とここで、抱きあってるとでも?」
顔を背けたままの裕の頬に、聡史が手を添えて強引に振り向かせる。
間近に見えた聡史の顔は表情がなくて、目だけが強く光っていた。
裕ははじめてみる聡史の態度に、息も忘れて目を見つめ返した。
「嫉妬したか、ヒロ?」
「お……叔父さん、何を言ってるのかわかってる?」
聡史の手が裕の顔を強引に引き寄せる。
鼻がぶつかりそうなほど間近で、ふたりは見つめ合った。
「私が知らない時に、裕が手の届かない場所に行ってしまうなど、耐えられない。今夜身に沁みてわかった」
「…………」
「義父さんたちに遠慮して、距離を置いてきたが。離れれば離れるほど、私がだれを求めているのかがわかって、会ってしまえば閉じ込めてしまいたかった」
毛布ごと聡史が裕を抱き寄せる。
風呂に入れてもらって、温まったはずなのに裕は震えが止まらなかった。
(……いま、聞いてる声……幻聴じゃ、ないよな?)
本当は高層マンションの入口を眺めていたあの場所にいて、凍えて都合のいい夢を見ているだけなんじゃないかと疑ってしまう。
ぐっ、と抱きしめる腕に力がこもる。
「関わる人すべてを傷つけてしまう想いだろう。だがヒロだけは守りたい。だれに見放されてもヒロだけは、どこにも行かせない」
「……おじ、さ……ん」
裕は目を閉じた。
(都合のいい夢でもいい。いまだけの錯乱でもいいから……聡史さんも俺と同じ想いでいてくれたんだと思いたい)
同じ屋根の下で育った、叔父と甥のふたり。
それ以上にならない関係のはずなのに。
「俺も……聡史さんをだれにも渡したくなかった」
「……ヒロ」
聡史を好きだと、身内を越えた想いを抱いてしまったことを自覚してから、心の中でしか名前を呼ばないように戒めてきた。
他のだれかに聡史を特別に想っていると知られたら、聡史が傷つくから。
でもいまだけ、雪の幻だと思って聞いて欲しい。
「聡史さんのそばにいたい……ずっと、一緒に……それが出来ないなら……だれのものにもならないで」
叔父と甥の付き合いでも我慢するから、そばにだれにも近寄らせないで欲しい。
毛布の間から手を出して、聡史の服に触れた。
「もう歌わないから……歌って困らせたりしないから……」
「ヒロ……私は」
聡史が何かを言いかけた。
顔を上げた裕は、それを遮るように微笑んで首を振った。
「好きだ、聡史さん」
「……ヒロ……」
言いたかった言葉を口に出したとたん、裕の目からほろりと涙がこぼれた。
目を閉じると家で笑っていた叔父や従兄弟たちの顔を思い出した。
裕が抱いてしまった想いは、彼らのように光り輝くものじゃない。
新しい命を育んで、未来へ続く道がない。
聡史を巻き込んではいけないと思うのに、聡史を手放せない。
好きな人を不幸にする想いを、あきらめられない。
「好きで……ごめんなさ、」
謝罪の言葉は聡史の唇で遮られてしまった。
まだ子供だった頃に、家族愛のキスをされたことはある。
だけど恋として、聡史を感じたいと思ってから、キスはどんな感じだろうと想像した。
そのはじめてが、いま起きている。
裕の胸が熱く、どくんと鳴った。
足の指先から痺れるような感覚が昇ってきて、首の後ろを擽る。
「ヒロは気づかなかっただろうが、私は一度だけ歌を聞いたことがある」
「え……?」
ほんの少し顔が離れて、聡史が囁く。
吐息がさっきまで触れていた場所にかかり、腰にぞくりと痺れが走った。
「ステージ脇に特別に入らせてもらってな……あれは強烈だった」
聡史が楽しそうに目を細めて、微笑みながら痺れが走ったその場所を手で撫で上げた。裕の体がびくんっ、と跳ねる。
「はっ、あ……」
思わず声が出て、裕は唇を噛んだ。
「ヒロを掴んでこの部屋に連れ込み、全部をはぎ取って、正体を無くすほど乱してやりたくなった。この体に……」
毛布とパジャマをずらしてさらけだした裕の鎖骨に、聡史は噛みつくようにキスをした。
「あ、ちょ……と」
「私を感じさせて、私のためにだけ歌わせたい。人生ではじめて、視界が真っ赤になるほど血が昇って、興奮した」
「さとっ」
名前を呼ぼうとした裕の口内に聡史は舌を入れ、熱いそこをまんべんなく愛撫する。
聡史の舌の感触に触れて、怯えたように縮んだ裕の舌に絡めて、吸う。
裏の筋の根元をつつくように舐めると、面白いほど裕の体が飛び跳ねた。
痛烈な感覚から逃げようとする裕の後頭部を、聡史の手が掴んで邪魔をする。
「っ……は、やっ……」
息継ぎの合間も満足に与えられない狂おしいほど濃厚なキスに、裕は思考をすべて剥ぎ取られ、聡史の腕の中で身悶えするしかなかった。
体が熱くて、ぞくぞくと悪寒にも似た愉悦に擽られ、腰が揺れる。
聡史はそんな裕の体を強く抱き寄せた。
「……私の気も知らず、歌を聞けなどと……よくも言ってくれた」
「さと、し……さん」
間近で見つめ合うふたりの間に、唾液が糸を引いている。
気づいた裕が真っ赤になって、聡史がその反応に愛おしそうに目を細めた。
「私のために、歌ってくれ……ヒロ」
ここまでされて、何を言われているのかわからない振りはできない。
体はさっきのキスですでに燃え上ってしまっている。
いきなりすぎないか、とためらう気持ちもあったけど。
今夜マンションに辿りつくまでの記憶が、裕の背中を押した。
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