我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第一章

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 翌日の午後に入って、ようやくライブの最後を飾る新曲の練習に辿りついた。
 スタンドマイクの前に立って、前奏を聞いていると、一昨日の記憶がふいに目の前をちらついて戸惑う。
(……あれ?)
 手をつないで、抱きしめてもらっていた温度が、いまになって体の奥底から噴きだしてくるみたいだった。
 樫部のことを想って書いた歌詞のはずなのに、何でだろうと戸惑ったのも一瞬で、歌いだしながら口元が笑いそうになる。
 俺が樫部にしたいと思ったことを、アレンさんが俺にしてくれたんだ。
(……少し歌詞を変えていいかな)
 思いついて、歌詞を変えて歌った。
 あれ、と神音たちが顔を向けてきたのへ、片目を閉じてみせた。
 依存みたいな恋心だと思っていたから、歌詞を書く時に罪悪感があって選べなかった言葉が、いまは歌いたいと思えた。
(ありがとう……アレンさん)
 恥ずかしいばかりだった記憶が、どれだけ俺を救ってくれたのかを痛感しながら歌い終わった。
「……あかん、あかんで……ちと休憩や」
 演奏し終わるなり、八代さんがしゃがんでしまった。
「ヤッシー……いい大人が、手放しで泣きすぎですよ……」
 文月さんが呆れながら指摘した通り、八代さんは滂沱の涙を流していた。
「うっさいわ~……響ちゃんの歌聞いて、平気な顔しとる、おまえらの方がおかしいっちゅうねん~」
 涙声で反論する八代さんが指さした先で、涼しい顔を装う文月さんがそっぽを向く。
 その目の端が一瞬だけ光った。
「あ~ぁ、もうしょうがないなぁ~」
 こちらも目元の色を変えたアレンさんが、八代さんに近づいて肩を叩いた。
 ひとり静かな神音が気になって視線を移すと、何と袖を噛んで嗚咽をこらえている。
「っ、か、神音どこか痛いの?」
 いままで陽気な反応ばかりだった神音が、まさか泣きだすとは予想もしてなくて、俺は目を丸くしてしまった。
「うっ、う……だって……響がこんな風に……歌える日がくるなんて……っ」
「……神音」
 声を詰まらせ、明後日の方を睨みつけながら言った神音に近づいて、俺はその肩に額をつけた。
 苦しんでいたのは神音も同じだったと言った、アレンさんの台詞を思い出した時、スタジオのドアが開いた。
 振り返った先にいたのは、予想もしていなかった人物だった。
「……須賀原、さん」
 呆然と呟いたのはアレンさんで、呼ばれた須賀原は少しだけ目を細めた。
 今日はサングラスをしていない顔は色が悪く、かつて見た時よりもやつれている気がする。
 その背後から見知った顔があらわれて、今度は俺が声を上げた。
「真柴?」
「…………」
 ずいぶん久しぶりに見た友人は、なぜか難しい顔で視線を合わせようとしなかった。
「練習中に邪魔をする」
 ふたりの背後から最後に入ってきたのは、富岡さんだ。いつもの無表情が嘘のように、怒りに満ちた顔つきで入ってくるなり、須賀原を後ろから蹴りつけた。
 音を立てて須賀原が倒れこんだ。
「っ、と、富岡さん何を……」
 驚いて助け起こそうとした俺の腕を、神音が掴んで引き止める。
「悪いと思うのなら、本人に謝罪しろ」
「…………」
 倒れたままの須賀原に富岡さんが低く言い放った。顔を上げようとしない須賀原を見下ろしていた富岡さんの顔が、ぴくりと引きつった直後、靴で後頭部を踏みつけた。
「富岡さんッ」
「そっちのおまえもだ。響が遊びや気まぐれで入ってきたわけではないと、いまの歌を聞いてわかっただろう?」
 須賀原を踏みつけながら富岡さんが視線を投げた先で、不貞腐れた様子で立っていた真柴が、唇を噛んでうつむいた。
「こいつが響のメールアドレスを悪意あるファンに流した。素性や住所もな。響が神音の兄だから、『i-CeL』に入れたんだと嫉妬したらしいぞ」
 富岡さんが俺たちに説明した語尾に、真柴の台詞が重なった。
「……だって、おまえはずっと、興味なんてないって顔だったじゃないか! それが何で急に歌いはじめたんだ? しかも『i-CeL』で歌うなんて、縁故だとしか思えないっ」
「真柴……」
 叩きつけられた激情に、しばらくの間言葉を見失った。
「あ~ぁ義兄さんに縁故って言ってあかんわ」
 須賀原を見て動かなくなったアレンさんを宥めながら、あぐらをかいた膝に肘をついた八代さんが呟いた。
「縁故……?」
 聞きとめて尋ねてみると、苦笑しながら教えてくれた。
「おれと姉ちゃん、苗字違うねん。ちっさいころに両親亡くして、親戚がみんな面倒見るの拒否したから、施設で育ったんや。その後別々の家庭に養子に入って、連絡つかんようになってなぁ……『i-CeL』で音楽やってて富岡さんに声をかけられたおかげで、姉ちゃんと再会できたんやけど。お互いに最初はだれかわからんかってん。だからかなぁ、義兄さんはおれらがコネ使ったって言われると別人格になりよる」
「…………」
 戸籍上は義兄弟でもない関係やからな、とほろ苦く笑う八代さんに、何と声をかけたらいいのか思いつけなかった。
(殻……傷つけ、傷つけられ……音楽ができる)
 神音に聞いたばかりのバンド名の由来が胸に去来する。
 泣き上戸で繊細な八代さんが、こんな風に事情を話せるまでに、どれくらいあがいてきたんだろう。
 そのとなりで顔色を失くしているアレンさんに目を移す。じくり、と左手が疼きだした。
(あの時助けてもらったんだ。今度は俺に何かできないだろうか)
 富岡さんが須賀原たちをここに連れて来た理由はまだわからない。
 いまここで何かしないと、須賀原もアレンさんも区切りがつけられない気がした。
「ほら、親切な富岡様が直接謝罪できる機会を与えてやったんだ。無駄にするなよ」
 富岡さんは怒ると人柄が変わるらしい。
 ヤクザ映画でもここまでひどく人を蹴らないだろうと言うくらい、須賀原を痛めつける。
「やめてください、待って!」
 弱々しく呻くばかりの須賀原と、痛ましそうな表情でそれを見るアレンさんが見ていられなくて、思わず俺は富岡さんに駆けよって制止していた。
「……少し話をさせてください」
「構わんが。こんな奴と話しても、口が腐るだけだぞ」
 本当に無口無表情が代名詞だった富岡さんだと信じられない、憎悪に満ちた顔と口調に苦笑が止まらなかった。
(みんながこの人を信頼していた理由がわかるよ。八代さんのお姉さんが惚れたのも、わかる気がする)
 見ていないようで、しっかり見ている人なんだろう。
(俺は……ひとりじゃない)
 はじめてのライブでアレンさんに言われた言葉が、また胸に響く。
 不意に須賀原のことを思った。
 彼はそのすべてを失って、どうしたら立ち直れるのかがわからなかったんじゃないか。
 須賀原の胸中が少し見えた気がしたとたん、何をしたらいいのかわかってきた。
「須賀原、さん」
 まだ話す道順がすべて決まっていないけれど、俺は須賀原を呼んだ。一瞬だけ須賀原の体が揺れる。
 腰を下ろし、すぐ近くで話しかけた。
「どんな事件も、時間が経てばみんな忘れてしまう。でも当事者にとったら人生の一部だから忘れようにも忘れられず、ずっと残って引っかかり続ける。それをひとりで乗り越えられることもあるけれど、無理な場合も多い」
 須賀原はただ黙っていた。聞いているのかもわからないけれど、俺は言いたいことは言おうと思った。
「須賀原さんはアレンさんが唯一の支え、希望だったんじゃないですか?」
「……っ」
 はじめて会った時、失った声を取り戻そうと治療をしてきたのだと言っていた。
 それがどれだけ辛く、耐えがたい先の見えない暗闇だったのかは、俺にはわからない。
 ただ楽なことじゃないとわかる。
「また戻ろうと思っていたんでしょう? アレンさんの近くに、同じ仲間として……『i-CeL』のヴォーカルになろうと努力していたところへ、俺が現れた」
 かつての仲間たちはみな業界を去ったと聞いた。
 唯一残ったアレンさんにしか、すがる先が思いつかず、そこへ邪魔者が現れてどれだけ絶望しただろう。
「……っ、違う!」
 須賀原がはじめてしゃがれた声で叫んだ。
「このスタジオに来たことがありますよね。アレンさんと何か言い争ってた。本当は助けて欲しかったんでしょう? もう少し時間をくれって」
「違うって言っているだろう、小僧っ!」
 堪えきれなくなったらしい、須賀原が顔を上げて吠えた。
 やつれた顔に、けれど力強い意志が戻ってきていた。
「私は煉に苦しみを与えたかっただけだ! 利用された仕返しになっ」
 叫ぶ須賀原は、決してアレンさんを見ようとはしなかった。
 アレンさんはひたすら須賀原を見て凍りついているのに。
「アレンさんは利用なんてしていませんよ」
「ふんっ……当時のことを知りもしないくせに」
 それを言われてしまうと、話が終わってしまう。俺はひっそり苦笑をこぼした。
 もしも須賀原が言う通りのアレンさんなら、俺を救うことはできなかっただろうし、助けようともしなかったはずだ。
 手を出さなくてもファンに叩かれていたんだし、一度は歌うことをやめた。
「……俺も、助けを求めるのは恥ずかしいことなんだと思ってました。でも、違うと教えられたんです。助けて欲しいと手を伸ばしていい。いろんな人に支えてもらって、人は立っていられるのだと」
「人に好かれる奴は、そう言っていられるからいいな」
 話をしているうちに、須賀原がだんだん憐れに感じるようになっていった。
 アレンさんが利用したんだと思いこむことで、憎しみを支えにしてここまで来たのだ。 
 不感症を装っていた俺と同じなんだ。
「わかりました。あくまでも須賀原さんをアレンさんが利用したと言い張るのならば、今度は俺たちを須賀原さんが利用すればいい」
「……な、に?」
「治療を続けているのは、また歌いたいからで、歌える可能性があるからでしょう? だったら俺たちを利用したらいい。俺たちのライブで一緒に歌いませんか。姿を消したはずの『ラダフ』のヴォーカルが、『i-CeL』のライブに突然現れたって……結構話題になると思うんですけど」
 須賀原が呆然と目を丸くしたまま、俺を見つめて固まった。
「衝撃の復活劇、ってやつです。いますぐは無理かもしれません。須賀原さんの準備も、俺たち……特に俺の準備もまだ整っていないから。でも間もなく俺たちは飛び立つ。絶対に。そして須賀原さんが利用しがいのある『i-CeL』になってみせる……だから、須賀原さん」
 かたく握りしめたままだった須賀原の手に、そっと手を乗せると、ようやく須賀原がまばたきをした。
「俺に歌声を聞かせてください。待ってますから」
 恥ずかしながら『ラダフ』の曲を一度も聞いたことないんですよね、と笑うと、とたんに須賀原が憮然となった。
「……馬鹿な奴」
 長い時間をかけて、ぼそっと須賀原が言い捨てた。
 それが俺にはありがとう、と聞こえた。
 そしてごめん、と。
「須賀原さんが復活してから、損害賠償金たっぷり請求させてもらいますよ」
「……ふんっ」
 富岡さんに引っ張られて立ち上がり、須賀原と真柴が連れ出されて行く。
 一瞬振り返った須賀原が笑ったように見えた。
「響くん……本当に、あれでよかったの?」
 ふたりが去ったスタジオ内の空気は、すっかり気が抜けて、練習どころではなかった。
 アレンさんの声が、その空気を揺らす。
 とても弱々しい声で、泣いているんじゃないかと心配になって振り返ると、痛々しい表情で俺を見ていた。
 神音とふたり、言い争うアレンさんを見つけた夜の顔と似ている。
「富岡さんなら、ちゃんと面倒見てくれるだろうし。あの人たちの音楽を聞いたことないから、純粋に聞いてみたいなって思ったんですけど……甘かったかな」
 突き落とされた恐怖は忘れていないし、連日のいやがらせに神経がすり減ったけれど。  
 怪我のせいでいろんな人に迷惑をかけて、その人たちの意見も聞かずに勝手に決めてしてしまったことに思い至って、自信を失いかけた。
「……ありがとう、響くん。須賀原さんに代わって、オレがお礼を言うよ」
 ようやく笑ってくれたアレンさんが、頭を下げて言った。
 その姿に俺の方が礼を言うべきなのに、と苦笑する。
(あなたに支えられたから、気づけたんだよ。大切なこと。そうじゃなければ須賀原にあんなこと言えなかったと思う)
 救われたのは俺の方が先で、アレンさんが気に病む理由はないんだ。
 だけどいまそれを言うと、神音たちにも聞かれて恥ずかしいので、後でこっそりと伝えようと思った。
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