我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第一章

27:卒業式

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 翌日。
 俺は久しぶりに高校へ来ていた。
(もうこの制服を着るのも、最後になるんだな)
 見慣れた光景も、そんなに親しくなかった同級生たちにも愛着を感じるようだ。
 それが愛しく想う相手ならなおさらだろう。
「樫部……おはよう」
 教室に入り、先に来ていた背中に声をかけた。挨拶できるのも、これが最後なのかと思うと、もう泣いてしまいそうだ。
 振り返った樫部は晴れやかな表情をしていた。
「おはよ、片平。ちゃんと眠れたか」
「……お言葉ですけど、超熟睡させていただきましたとも」
 ははっ、と軽く樫部が笑った。
 そして震える手を動かして、ポケットに入れていた封筒を取り出す。
 神音からもらった卒業記念ライブのチケットだ。
「これ……もらってくれないか」
 初ライブで歌いはじめた瞬間よりも、いまの方が緊張している自覚がある。
(こ、告白してるわけでもないのに、何でこんなに緊張しまくってんだ、俺は~)
 ひとりパニックに陥って、心の中で悲鳴を上げる俺をよそに、樫部は封筒を手に取り、中を見てふっと笑った。
「…………」
 その笑顔は、迷っていた俺を見つけた時に見せた表情と同じだった。
 パニックも吹き飛ぶ笑顔に見とれてしまい、樫部が封筒を元に戻して、俺の額をそれで叩いたことに気づくのが遅れた。
「……っ、いて」
「遅い、馬鹿が」
 反応が遅いと責めているわけではなくて。
「僕が自分で購入しているとは思わなかったのかね? しかも今日は卒業式、ライブ当日の朝だと理解できているのかね、この頭はっ」
「……スミマセン」
 パシパシ封筒で叩かれ、言い訳もできずに謝罪する。
 樫部の口は悪く言っているものの、眼鏡の向こうで優しく笑う目が俺を映しているから、怒っているわけじゃないんだ。
「まったく……卒業間際までこんな調子の片平が、この先やっていけるのか心配でたまらんよ」
「……樫部」
 だったらそばにいてくれないか、と言えなくて俺は俯いた。
 こうやって話が出来なくなるのは辛い。
 ふとした瞬間に見せてくれる優しい笑顔が、もう見られなくなるのも。
 だからと言って、海を渡ろうとする樫部を繋ぎとめることはしたくない。
(……それだけの価値が、俺にあるか?)
 この先、樫部に待っている可能性をすべて奪って、そばに置いたとしても樫部は幸せになれないのだから。
(それに……樫部は、まだ……)
 無気力にここで座っていた時間を思い出す。
 樫部がここで語った言葉と、語らなかった想いも。
(俺に出来ることは今日、歌うことだけだ)
 決意をあらたにしたところで、視界の端に映った姿に意識が逸れた。
「ごめん、樫部……また後で」
「あ、あぁ」
 俺は慌てて立ち上がり、教室の奥へ駆けだした。
「真柴っ」
「……片平。何か用かよ」
 冷たく見えるほど整った顔立ちの真柴が、俺を確認してすぐ顔を背けて言った。
 そのとなりに立ち、俺はもうひとつ封筒を取り出す。神音がもう一枚渡してくれたのは、きっと俺がこうすると見通していたからだ。
(俺って行動が読まれやすいのかな)
 苦笑したくなるのをこらえつつ、封筒を真柴に押し付けた。
「いつだったか……真柴たちの音楽を聞きに来ないかって誘ってくれただろう。結局聞きそびれたけど……先に俺が真柴に聞かせるよ。だから次に真柴たちの音を聞かせてくれ」
「……片平……」
「どこまで真柴が関わっていたか知らない。でも途中から俺を守ろうとしてくれていたのは事実だろう。俺はすごく感謝していた。あの時も、今も」
 忠告した後は距離を置いていた真柴が、そばに来てついて回ってくれたのが演技だったと思いたくなかった。
 確信がなかったけれど言ってみたら、真柴が目を丸くして俺を見返してきた。
「……おまえ、さ……樫部が言う通りだな」
「は?」
 呟くような真柴の声をうまく聞き取れなくて、顔を近づけた。
 歪んだ、苦しそうな笑顔で真柴が言った。
「馬鹿だって言ったんだ。須賀原さんの件も見てたが、おれを少しは恨めよな……」
 そう言われた俺が反応に困っている間に、真柴は顔を伏せて手で隠した。
「……たまらねぇ……罵られた方が楽だったろうって、富岡が言った意味がよくわかった」
「真柴」
「少し困らせてやろう。軽い気持ちでネットに片平のアドレスを書きこんだ。富岡は住所もだろうと言ったけどな、それはしてない。同じ学校に通うだれかが突き止めたんだろ……まさか、こんなにも大きくなるとは思わなかったんだ」
 いやがらせの加熱さに慌てて、真柴は守る側に態度を変えたのだ。
「……本当におれが行ってもいいのかよ」
 チケットを握りしめて、ぽつりと真柴が言った。
「来いよ。馬鹿なことしたなって、もっと後悔させてやるからさ」
 須賀原に言った時もそうだけど、何だか俺は気がおかしくなっているのかもしれない。
(また大口叩いて……自分自身でハードルを上げてる気がする)
 ようやく顔を上げた真柴の肩を叩いたところで、卒業式の開始時間になった。
 俺たちは先導されて、教室を後にした。
 去り際にもう一度だけ振り向く。
 ここで起きたこと、聞いたこと、笑いあったこと。
 すべてを覚えてはいられないだろうけれど、十八の誕生日からのことは、きっと忘れないだろう。
 心の中で教室に別れを告げて、体育館へ向かう。
 卒業生と在校生が集められたそこで、淡々と式が行われた。
 となりに座った樫部は、始終穏やかで、どこか満ち足りた表情をしていた。
 拳ひとつ分だけ空いた、樫部との距離。
 式が終わるまで許された、ひとときの報酬。
 目を閉じて、樫部を心に刻みつける。
(ありがとう……)
 俺を見つけ出してくれて、ありがとう。
 あの日がなければ、いまがなかった。
「卒業生、起立っ」
 号令に慌てて目を開けて立ち、体育館を出た。各自卒業証書を受け取っているから、そのまま解散だ。
「樫部、真柴っ……写真撮らせて」
 思い思いに散って、写真を撮りはじめた生徒たちの群れの中からふたりを連れ出して、携帯で写真を撮ろうとした。
「お、先生。ちょうどいい、生徒の最後のお願い聞いてくれるでしょう?」
 と強引に携帯を渡して、三人を写真に映してもらった。
 急いでちゃんと撮れていることを確認すると、俺はくるりとふたりを振り向いた。
「ありがとっ……じゃ、また後でなっ」
「あ、あ……」
 真柴が戸惑いながら頷いて、樫部は目を細めて笑い、片手を上げて見送ってくれた。
 そんなふたりに背後で担任が尋ねる声が聞こえた。
「片平は何を急いでいるんだ?」
「ライブで歌う準備があるんですよ」
「なに、あいつ歌なんて歌うのか? 俺も聞きたいぞ~何で黙ってたんだ~」
 教え子に最後に裏切られたぁ、とか叫んでいる担任の声を背に校門に向かった。
 あちこちで生徒と保護者が、最後の時間を思い思いに味わっている中を進んでいると、急に腕を掴まれた。
 立ち止まって振り返った先で、男女のふたり組が俺を見ていた。
「これ、バラまかれたくなかったら、大人しくついてこい」
「ライブが終わるまでの間、じっとしててくれれば何もしないわ」
 男子生徒が差し出してきた写真は、初ライブの直後、教室で見かけたものと似た内容だった。
 女子生徒に視線を移すと、ぼんやりと記憶が浮かんできた。
「……きみ、あの時卵を投げてきた子?」
 他校の生徒じゃなかったのか、と驚いていると、女子生徒はふんと鼻で笑った。
「妹の制服借りたの。さすがに今日はそうもいかないでしょう。それより、返事は?」
「返事なんかどうだっていいだろ。さっさと行こうぜ」
 腕を掴んでいた男子生徒の方が、我慢できないらしく歩き出した。引きずられるように歩きだしながら、周囲を見回した。
 楽しげに笑い、話している生徒たち。俺たちのことも、友だち同士だと思っているのか、だれも変な顔はしていない。
 遠くに樫部たちがいるのが見えたけれど、担任と話しているらしい。
 目の前を歩く女子生徒の後ろ姿は、あの時よりも小さくて細い気がする。
(……何だろ、変な感じだ)
 俺と同じ年齢の子が、こんなにも必死になって行動している。神音が好きだからこそ。
 彼女たちが俺を脅そうとしていることが、急に馬鹿らしくて、小さなことに思えてきた。
 いやがらせを受けはじめた頃だったら、そんな風には思えなかっただろう。
(見せればいいさ、そんな写真くらい。俺の事実じゃないんだから)
 俺は立ち止まって、驚いた男子生徒の腕を振り払った。
 怒りの表情に変わるふたりに、俺は笑いかける。
「高校最後の日に、わざわざそんな写真作って持ってくるなんて、本当に物好きだな。写真をバラまく? いいよ、勝手にやってくれ。今日を境に離れていく同級生たちに、あんたたちは最後の最後に、そんなくだらない写真をバラまいた奴だった、と記憶されるだけだ。俺は止めないよ」
「な、何よっ。余裕ぶっても無駄なんだからねっ」
 女子生徒が予想を裏切る展開に、うろたえながらも気丈に言い返してきた。
 彼女の目を見て、にこりと笑い返すと、口を閉ざして少し顔を赤く染めた。
 憧れの神音と似た顔が功を奏したらしい。
「こんなことしなくても、君は充分に可愛いよ。神音が好きになるタイプだ」
「ちょ……なに、言って……」
「笑ってみてよ。君は笑ってる方が可愛い」
 耳まで真っ赤に変色した顔を両手で押さえて、口を動かすだけで声が出ない女子生徒の前に男子生徒が割り込んだ。
「おまえ……っ、調子に乗ってベラベラしゃべってんじゃねぇぞ」
 またも腕を掴まれたので、振り払いながら息を大きく吸った。
「仰げば、尊し~」
「なっ!」
 鍛えてきた声で突然、『仰げば尊し』を歌いだした俺に、ふたりがうろたえた。
 周囲にいた生徒たちも、何事かと注目する。
 その中で堂々と歌いながら、ふたりと距離を置く。
 腕を広げて、ゆっくりと回転してみせたりしながら歌い続ける。視界の端で樫部と真柴もこちらに気づいたのが見えた。
 樫部はにやにや笑っていて、真柴は渋い顔をしている。口元が笑いたいけどこらえてる、と言った感じで変な形になっていた。
 最後は中世ヨーロッパで貴族たちがしていたような、芝居がかったお辞儀をしてみせて、歌い終わる。
「……この後、卒業記念のライブで歌います。いまから気分が昂ぶってしまいまして、この場で歌わせてもらいました。よろしければ聞きにきてください。では、またいつの日か」
 これまた芝居みたいに言い捨てて、今度こそ校門に向かった。
 注目を集めてしまったことに恥ずかしさを感じないわけではなかったけれど、それよりも興奮が上回っていた。
(やっちゃったな~本当に写真ばらまかれたら嫌だけど、やらないよな……たぶん)
 不安にためらいながら、完治しきっていない足を庇い、ゆっくり歩いて校門を抜けた。
 実家を出てきた時のように、門の前で立ち止まって振り返る。
 特別の思い出を作らないで生きていたこれまでの年月。そこに訪れた予想もしていなかったきっかけと冒険の日々は鮮烈で、俺をまるごと作り変えてしまった。
 この場所に来ることはもうないけれど、俺の中で特に最後の三ヶ月間に経験したことは、ずっと息づくだろう。
「ありがとう」
 毎年数多くの生徒と出会い、別れをくり返す校舎が、慣れた様子で俺を見返しているようだった。
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