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第一章
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生まれてはじめて経験するんじゃないかってくらい心地いい眠りを堪能していたのに、だれかが体を揺らしている。不規則な揺れに意識が少しずつ浮上していく。
(あぁ……せっかく気持ちよかったのに……もう少しいたいよ)
ぼんやりと思うころには、ずいぶんと遠ざかっていて、現実の方が身近に感じられた。
いつも着ている寝間着と違う、ごわついた感触が体中にまとわりついていて、あちこち締めつけている。居心地が悪くて身動ぎすると、いつもなら柔らかく体を受け止めてくれるはずの感触がなく、代わりに硬い感触に弾かれた。
(あれ……?)
違和感に意識が吊り上げられた魚みたいに、暴れながら浮上してまぶたを開いた。
「起きた? そろそろ出掛けないと間に合わないと思うよ、響くん」
居候生活で馴染んでしまったアレンさん宅のリビングの床が視界を埋めている。まだ活動しきっていない耳に、潜めた声が流れ込んできたけれど、理解が追いつかない。
ふかふかラグの上に、力なく投げ出している左手を包むアームカバーをぼんやりとそれを眺めていたら、いきなり思考が猛スピードで走りだした。
(そうだ、俺ライブで歌ったんだ! 衣装は着替えたけど、これははめたままで……って、いま何時だっ?)
音がしそうなほどの勢いで飛び起きる。
目の前に苦笑しているアレンさんがいた。
眠る前と違う私服姿で、いつも通りに髪をくくって乱れがない。ずいぶん前から起きていた様子だ。
俺たちの周囲には屍よろしく、神音たちがあちこちで倒れるようにして散乱していた。
父親になったばかりの富岡さんまでもが、ソファで眠りこけている。久遠さんに付き添って、そのままライブに突入したせいで疲れが一気に出たらしい。無防備なくらいに寝入っている。
「響くんが寝返りを打った時に、メモがポケットから落ちて、悪いと思ったんだけれど読ませてもらったよ。今朝発の飛行機で響くんが歌を捧げた子、旅立っちゃうんでしょう?」
みんなを起こさないように配慮しながら、アレンさんが言葉を重ねた。
促されるようにして時計を確認する。まだ薄暗い室内で読みとりにくかったけれど、樫部が乗る予定の飛行機が発つまで二時間を切っていた。
「うわぁ~っ!」
配慮なんか頭からすっ飛んで、全力で叫んでいた。
慌てて立ち上がろうとした俺の周囲で、みんなが呻いたり、身動ぎしたけれど、いまはどうだっていい。
「行かないと……待ってるのにっ」
床に足をついたとたん、右足首が痛みを訴えて、力が抜けた。
バランスを失ってよろける俺を、とっさにアレンさんが腕をつかんで支えてくれた。
「ライブの時より悪化していると思う。無理はしないでと言いたいところだけど、行くでしょう?」
片手で車のキーを鳴らし、アレンさんが目を細めた。
「行きます……けど」
「だから送って行ってあげます。しばらく我慢してね」
言うないなや、アレンさんが俺の背中と膝の裏に手を回して抱き上げてしまった。
「わ、わっ……でもお酒呑んでたのに」
意識を失うまでの様子を思い出しながら言い淀めば、アレンさんは悪戯っ子みたいに片目を閉じて笑った。
「ずっとウーロン茶を飲んでいたんだよ。響くんが寝ちゃった後もみんなは呑んでたけどね、オレは先に寝させてもらったし。ご心配なく、安全運転で送り届けてみせます」
言われてみれば、車だからとカニ料理店では呑んでいなかった。ここに来てからは俺が疲れていて、眠くなっていたからかあまり覚えていない。
「で、でも」
「迷ってる時間なんてないでしょう?」
話ながらも部屋を出て俺の靴を拾いあげたアレンさんによって、エレベーターに乗りこみ、地下駐車場まで運ばれてしまった。
「これは俺の私用で、バンドと関係ないことなのに」
「相変わらず水臭い。空港内をその足で歩かないといけないんだから、ここはオレをちゃっちゃと利用して時間短縮を狙うべきだと思うよ?」
「あぅ……すみません」
これ以上言葉を見つけられず、謝罪しかできなかった。
空港へ走る車内で、ひたすら申し訳なさを噛みしめる。
「着くまでにコレ、気休めだけど貼っておきなさい」
信号待ちで停車したタイミングで、アレンさんが湿布薬を手渡してくれた。
何から何まで、とまたも謝罪しかできない俺の頭を、ぽんぽんとアレンさんが無言で叩いた。
「……オレね、響くんに謝らないといけないことがあるの」
夜明け前の静かな道を走りながら、アレンさんが切り出した。
「スタジオの練習後に響くんが塩入りの水を飲んでむせたことがあったでしょう……あれをしたのは神音なんだ。オレはそれを止めなかった……須賀原さんのことが思い出されて、本当は止めるべきだったんだ。でも出来なかった」
「神音が……? なんで」
「あの頃すでにいろんな被害を受けていたでしょう。神音も気づいていたみたいだけど、響くんは打ち明けてくれないから、きっかけがあれば話してくれるかもしれないって」
「……そ、うですか……」
実は真柴がこっそり入れたんじゃないかと疑っていたから、神音が犯人だと聞いて複雑な気分になった。
「あんな方法で話を引き出そうとしたこと、ずっと後悔してきた。響くん、ごめん」
だからこれはお詫びのひとつだと受け取ってくれないかな、とアレンさんが苦笑しつつ、またひとつ謝罪を重ねて口にした。
「……着いたら起こしてあげる。もう少し寝てなさいな。昨日の今日で、まだ疲れてるでしょ?」
「はい……すみません」
苦さを隠したアレンさんの声に頷いて、車窓に視線を移す。脳内に樫部の姿を思い出しながら、ゆっくりとまぶたを下ろすとすぐに意識がおぼろになった。
(樫部……もうすぐ会える。きっと待っていてくれるよな)
空港へとひた走る車内は心地よい静けさに満ちていて、覚醒と睡眠の境を漂う俺を優しく包み込んだ。
踏み出したばかりの頃には、ひどく遠くにあるように感じたゴール地点を通り過ぎ、その先で待っていた人の前に、いまから立とうとしている。
もう取り返しはつかないし、全力は尽くしたと思う。途中かっこ悪くあがいたり、あきらめたりもした。仲間や樫部に助けられて、ようやく辿りつけた場所だけど。
(期待外れだったって……ため息つかれたりするかもしれないな)
恐怖がないわけじゃないけれど、もしそうなったとしても受け入れられる気がした。
何を言われるのか、何を言おうかと考えるよりも、走り出そうと決めた時からの記憶の方が鮮烈に脳内を占めて、結局眠ることもできずに車は空港へ辿りついてしまった。
「行っておいで」
「あ、ありがとうございますっ」
送り出してくれたアレンさんを振り返ってお礼を言うと、運転席の窓を開けて手を振っていたアレンさんが親指を立てた。
「車をどうにかして待ってるから、オレのことは気にせず行きなさいね。ほら、時間がないよ?」
「う、わ……はいっ!」
コートのポケットに入れたままだった携帯の時刻表示を確認して、真っ青になりながら走りだした。
と言っても右足の痛みは半端じゃない。みっともなくひょこひょこ走る俺の移動速度は、周囲を歩く大人の乗客たちが歩くよりも遅かった。
(やばい……樫部の乗る便のゲートは何番だ?)
気ばかり焦る。空港なんて慣れない場所に来て、検討もつかずに行く先を見失う。
搭乗カウンターで係員に尋ねて、ようやく目的地が定まった。
問題は残り時間だけになって、焦りは高まる。痛めた足を庇って歩くコツを少しずつわかってきて、手すりや壁をつたいながら目的地へ歩いていった。
ガラスの壁面が視界いっぱいに広がるホールの端。行き交う様々な人々の向こう、まるでそこだけが照明が当たって、ズームアップするかのように目に飛び込んでくる。
真っ白のコート、黒縁のメガネをかけた横顔。わずかに目を細めて、壁の向こうの滑走路を眺めている立ち姿。
「……樫部っ」
間に合った、と息つく間もなく駆けよれば、声に気づいて振り返った樫部が俺を目にして眉を寄せた。
「走るな、阿呆が。僕は逃げも隠れもせん」
最後まで小言かと苦笑しつつ、樫部の目の前に辿りついた。
俺の足をちらりと見下ろしてから、樫部が顎をしゃくった。
「昨日の今日だ。その顔は飛び起きてきたのだろう? 眠気覚ましのコーヒーでもどうだ」
「え、あ……うん」
頷いてから、財布を持ってきたかと焦った。
慌ててポケットを探りだした俺を、ため息ついてから樫部が止める。
「両替で余った小金を使い切りたいのだ。それにチケットをくれただろう。コーヒー代くらい払わせてくれ」
「……うん、ありがとう」
俺の分も樫部が持ったまま、オープンスペースの客席の端に移動して、向かい合って座った。
洒落た模様の紙コップが並ぶ丸テーブルを見下ろしたところで、緊張感がいきなり急上昇してきた。
(やばい……何話していいんだか、頭の中真っ白でほとんど何も考えられない~っ)
車中では胸を張って会えると思っていたのに、いざふたりきりで向かい合ったら、卒業記念ライブのチケットを渡した時並みの緊張感が襲ってきた。
(ど、どどど、どうしよう。昨日のアレはなんだったのだ、なんて言われたら……いやいや落ち着け俺。できることはやったって思ったじゃないか……でもやっぱり樫部に呆れられたら立ち直れない~っ)
目を回す勢いの俺に気づいたのか、樫部がくすっと小さく笑った。
「まったく……おまえは何なのだ」
「……え?」
口元を手で覆い、ぼそっと呟いた樫部の声がすべては聞き取れなくて、情けない声で聞き返した。
一度目を閉じて、樫部は手を下ろし紙コップを軽く握った。
「嫌になるくらい不器用に優しくて、歯痒くなるほどに自分自身を押し殺している奴。僕は片平をそう思っていたのだがね……」
「う……」
わざと言葉を止めた樫部が、ちらりと俺を見てくるのが少しばかり憎らしい。
途切れた言葉の先を知りたいような、聞きたくないような揺れに惑っていると、また小さく樫部が笑った。
「足の具合はひどいのか?」
声音と表情を変えて、樫部が問いかけてくる。
「いや……ちょっと痛いくらいだよ」
と答えてから、足の怪我をなぜ知っているのかと疑問が脳裏をかすめた。
「僕は片平に謝らなければならない」
「……は?」
いきなり飛躍した話題についていけず、変な声を出した俺を見て、また樫部は笑う。今日はかなりご機嫌よろしいらしい。
「片平が何をして、どんな目に遭っているのか。ほとんどすべて知っている。カノンさまから随時話を聞いていたのだ。それが条件だったし、カノンさまも律義に守ってくれたからな」
滅多になく笑う樫部がメガネを指で押し上げて、コーヒーを一口すする。その余裕がうらやましい。
「……クリスマス前だったか。教室で片平が『i-CeL』をいつ知ったのかと聞いてきた日があっただろう。あの時僕はただのファンだと話をしたが、本当はその一週間ほど前にカノンさまと直接会って話をした」
「それって……俺がはじめてみんなと会った頃だ」
樫部が軽く頷いた。
「一度助けられた身だし、僕は彼らのファンだから写真を撮ってもらったこともある。だがカノンさまにとっては片平の友人にすぎない僕だ。なぜ帰り道に待ち伏せをされて、話かけられたのか謎で仕方がなかったよ」
神音が通う高校は、俺たちの高校とは別方向にあって、電車やバスですれ違うこともないところにある。
つまり偶然に会ったのではなくて、神音が故意に樫部に会いに行ったのだ。
(そんなこと聞いてないぞ)
胸の中で少しばかり片割れに嫉妬していると、樫部が先を続けた。
「今日みたいにコーヒーでも、と駅前の喫茶店に入り向かい合って座った。するといきなり身を乗り出して、カノンさまが言ったのだ……片平が嫌いかとね」
「……神音……」
いきなり何を言いに行ってんだ、俺のいないところで、と頭痛を感じて額を抑えた俺に、樫部が苦笑した。
「嫌いでないなら……いや、嫌いであっても、片平が何を言ってもはぐらかして欲しいと、真剣な顔でお願いをされた」
「……?」
「カノンさまは理想の声を追い求めて、さまざまな音を聞いてきた。結成当時から自分の声がそれではないことはわかっていたものの、正確にだれの声なのかわかったのは一年ほど前らしい。ところが問題はその声の持ち主がよりにもよって片平だったと言うことだ」
「うっ……俺が問題って……」
ファミレスではじめて『i-CeL』メンバーと富岡さんに出会った日を思い出しながら、続く樫部の声を待った。 軽く肩をすくめてから樫部は話を続けた。
「言っただろう? 不器用に優しいくせに頑なに自分自身を押し殺し、他者を優先する片平だ。ただ誘ったくらいで落ちるわけがない」
事実、神音をはじめ、富岡さんやモーチンさんたちにも手を焼かせた自覚があるので反論ができなかった。
そんな俺の目の前で、余裕綽々と樫部がコーヒーを飲んだ。
「片平の抱いている想いを利用したいのだ、とカノンさまが言っていた。僕はそれに気づかず、答えを出さずにはぐらかして欲しいのだとね」
「…………」
俺が樫部に抱いた淡い心を、神音が勝手に伝えてしまったことになる。仕方がなかったとは言え、少し複雑な心境だった。
「僕は断った」
「え?」
思わず伏せていた視線を上げると、いつもの涼しげでいて近寄りがたい表情の樫部が空を見ながら言葉をつなげた。
「僕と片平が話すこと、することを他人に指図されたくはなかった。たとえそれが親切心であろうとも。カノンさまの場合はもっと悪い。打算的で申し出を受けるのは片平を裏切る行為であると思えた……だがカノンさまが言うのだよ。片平しかいない、カノンさまが生み出す音楽を完成させるには、他のだれでもなく片平の声を欠いては生涯未完成で終わる。片平の殻を破り飛び立たせるには、僕の協力がないと出来ないとね」
はぁ、と樫部がため息をついた。
「……僕は片平を裏切った。カノンさまにそこまで言わせる片平の声を聞いてみたい、と純粋なファン心理が友情を上回ってしまったのだ……本当にすまない」
「樫部……」
「片平が僕をどう思っているのかは聞いていないが」
そこで樫部が言葉を切り、メガネを外した。
すっと目を開き、まっすぐに俺を見て言い切った。
「幻滅しただろう。おまえは僕に期待以上の姿を見せてくれたのに。僕はおまえの気持ちを利用した卑怯者だ。だから好きにしろ、片平。殴るなり何なり好きに」
俺は期待以上だったと聞いて、緊張が一気にほぐれてしまって、体中から力が抜けて、正直座っているのも辛いほどだった。
「……好きだったよ、樫部のことが」
「片平……」
テーブルに肘をついて体を支えながら、ふっと息を吐き出すように抱いていた想いを空気に乗せた。
「利用って言ったけど……きっかけは確かにこの気持ちだった。でも途中から俺自身が歌いたいと思うようになってた。それに利用だろうと何だろうと、強引に引っぱり出されなきゃ俺は何もしようとしなかっただろうし、やり遂げることも出来なかったと思う。だから殴るつもりなんてないし、むしろ感謝しているくらいだよ」
ライブで歌った時に感じた。
樫部を好きだと思った感情が、新曲を樫部の前で歌ったことで、行きつくべき場所に辿りつくことができたと。
(そう、俺の想いは一方的な……恋心と言うには未熟すぎる、身勝手な好意でしかない。その先を期待したりとか、身を焦がれるような激しさもない、まるで道標みたいな想いだったんだ)
だから俺は樫部に本当を伝えない。
はじめて樫部につく、嘘に近い言葉。
樫部はしばらく俺を呆然と見ていたが、ふうっと息を吐き出してからメガネをかけ直し、コーヒーを見下ろしながら苦笑した。
「教室で聞いただろう? 卑怯で汚れきった、臆病な僕の何がいいんだか……」
それは俺に聞いているようでいて、遠く姿を消した人に向けて聞いているような樫部の言葉だった。
「アメリカに渡るのを助けてくれた人がいる。かつて僕が逃げ出したあの人の友人で、おそらくあの人の居場所を知っている」
「……うん」
「僕は……会いに行こうと思っている」
静かに目を伏せたまま言い切った樫部に、俺は自然に微笑みかけることができた。
「うん。それがいい」
樫部はすぅっと視線を俺に向けて、まばたきもしないで見つめてきた。
「片平はやり遂げてみせてくれた。卑怯で臆病な僕の心残りを期待へと昇華してくれた。だから今度は僕がやり遂げてみせる」
「……うん」
だれよりも樫部に認められたいと思ってきた。だけど実際に面と向かって言ってもらえるとは思ってなくて、誇らしいよりも恥ずかしさが勝っていて、どうしても樫部を見ていられなくて視線を落としてしまった。
とても樫部が眩しく思えた。
「僕は片平を好ましく思っている……あの人とは違う意味でな。おまえの想いを利用したうえに、こんな言い方はないと我ながら思うのだが」
そして立ち上がった樫部が右手をすっと差し出してきた。
指先の間に二つに折られた紙が挟まれていた。
「片平を恋人とか友人とか、呼び方や立場や肩書でくくれない相手だと思っている。もしおまえがそれを許してくれるのなら……連絡をくれるだろうか」
受け取った紙を開くと、Eメールアドレスが書きとめてあった。
「渡米後しばらくあの人の友人宅に世話になる。パソコンは別なのを使うが、レターだとあいつ、勝手に読むだろうからな」
困ったものだと苦笑しつつ、樫部が背を向けた。
時間だ、と小さな声が聞こえてきた。
「樫部……」
呼びかけたものの、何を言おうとしたのか俺にもわからない。
一度振り返った樫部は、困ったような俺の表情に呆れたような笑顔を見せた。
「これからどうするのだ、片平」
「?」
「いや、『i-CeL』のキョウと呼ぶべきだな」
「……樫部」
白いコートの背中を俺に向けて、歩きだした樫部に俺は立ち上がりながら、もう一度呼びかけた。
立ち止まった背中へ声を張り上げる。
「待ってろ、絶対に海を越えてみせるっ!」
周囲にいた乗客や、店員がちらっと俺を向いた。少しばかり羞恥心に座り込みそうになった俺に、樫部が背中を見せたまま片手を振って見せた。
「おまえ、僕にCDとか雑誌を送りつけてくるなよ」
「な、なんでっ」
くるりと顔だけを振り向かせ、樫部が不敵に笑った。
「向こうで僕自身が手に入れる」
その言葉を置き土産に、樫部の背中はゲートの向こうへ消えた。
展望スペースの柵に両腕を乗せて、樫部を乗せた機体を眺める。
ゆっくりと向きを変えた機体は、いよいよ滑走路を滑りはじめ、少しずつ速度を上げていく。
(行け、樫部)
西の空がほんのりと黎明に染まる中、淡い光を弾いた機体がぐんと速度を増して、ふわりと空へ飛び立った。
無事に空へ滑りだした機体の中で、樫部もいまの俺と同じく熱くなる胸を持て余しているだろうか。
(必ず、届けてみせる。そしたら、また会おう)
少しずつ朝焼けに色を変えていく世界の中で、小さくなっていく機体を見上げながら、樫部との最後の約束をくり返し思い出していると、横に誰かが立った。
「……アレンさん」
しまった、すっかり忘れてた。なんて言えずに言葉を探していると、空を見上げていたアレンさんが俺と同じく柵に腕を乗せて話かけてきた。
「行かせてしまって、よかったの?」
だれを、なんて聞かなくてもわかる。
「……ええ。俺は縛りつけたいわけじゃなかったんで」
そう、ただ姿を見てから行って欲しかったのだ。
真柴いわく、ぽけぽけの俺ではなくて。
樫部の言う、頑なで他者の影に隠れようとする俺ではない姿を。
「それに、こうなるべくして、抱いた想いだったような気がします」
最後に樫部に伝えた本当ではない気持ち。
「いまでも好きですけど、たぶん恋心には幼すぎる好きなんだと思います。これでよかったって、心残りだとか悔しさだとか、ひとかけらもなく晴れ晴れとした気持ちです、いま」
両腕を伸ばして伸びをしながら、吹き抜ける風に髪を遊ばせ、笑いながら言えるのだから。
「……じゃあ、もう?」
「え?」
アレンさんが俺を見下ろして、少し目を細めた切なそうな表情で問いかけてくる。その意味を掴みそこねて聞き返した。
「歌うのは、好きな子に気持ちを伝えたいからだったんでしょう?」
「それはきっかけでした。いまはもう、それだけじゃありません……追い出さないでくださいよ」
樫部に言った通り、俺はもう自分自身が歌いたいと思ってしまっている。
するとアレンさんが満面の笑みになった。
「よかった……」
「アレンさん」
もう歌わないと言われると思っていたのだろうか。
(そう言えば、俺が抜けたらみんなも解散するって言ってたもんな。ずっと不安な気持ちで待っててくれたのかな)
樫部と話をしていた後も、ここに来てからもアレンさんに連絡していなかった。
探し出して、こうして話かけてくれたのは、アレンさんの抱いていた不安の裏返しのような気がして、申し訳なさに俯いた時だった。
「?」
すっ、と視界に迫ってきた影と気配に顔を上げると、目前にアレンさんがいた。
(うわっ……だから、あなた並みはずれた美人なんだって自覚してくださいよっ)
同性でも事前の覚悟なしに、息が触れる距離で見るには刺激が強すぎるのだ。
とたんに早鐘を打つ心臓に気を取られた。
「だったら……今度はオレの番だね」
「……はい?」
近すぎる距離のまま、アレンさんが囁いた言葉が聞き取れなかった。と言うか、理解が追いつかなかった。
凍りついたような俺の髪をさらりと梳いて、アレンさんがすごく愛しそうに微笑みかけてくる。
「響くんがいままでしてきた同じことを、オレが響くんにする時間ができたってことでしょ?」
「…………」
「絶対に振り向かせてみせるよ」
「あ、レン……さん」
ついに直接聞いてしまった。動揺のあまり言葉をつまらせた俺に、さらにアレンさんが顔を寄せてきた。
ほぼ耳に口づけるようにして、さらっと言ってくれた。
「好きだよ」
「……っ!」
意識しないまま、肩がびくりと飛び跳ねた。
(うわ~何て声出すんだよ、この人~……反則だ……顔だけじゃないなんて、卑怯すぎる~っ)
顔が焼けるように熱くて、とてもアレンさんの顔を見る勇気はなかった。
俯いた俺から離れつつ、アレンさんが楽しそうに声を殺して笑っているのがわかって、恥ずかしさの向こうで悔しさに唇を噛んだ。
「さて、そろそろ行こうか。帰って呑んだくれの我が同士たちを叩き起こして、今後の話をしないとね」
「……え、は、い……」
「ほらほら、それともまた抱き上げて欲しいのかな、響くん?」
とても顔を上げられなくて、どうしようと歩き出せずにいた俺を、言葉通り抱き上げようとしたアレンさんに気づいて、すんでのところで俺は逃げだせた。
「い、いいです。自分で歩きますっ」
こんな人目の多いところでお姫様抱っことかされた日には、樫部との約束と一緒に命まで放り出すことになるだろう。
ちぇっ、とどこか悔しそうなアレンさんを睨んでから、足を庇いつつ柵から離れた。
心配そうに隣を歩くアレンさんを、どうしても意識してしまって、少し距離を置いた。
それに気づいたアレンさんが、少しだけ苦笑した時、春の匂いを乗せて風が強く吹き抜けた。
学校指定コートの先が宙を踊り、思わず振り向いた先に、すっかり色を変えた空が広がっていた。
薄く白い雲が朝日に輝き、色とりどりに染まっていた。
搭乗ゲートへ消えていく背中と、最後の言葉を思い出して、俺がその背中に投げかけた約束を果たすべく、見上げていた空から視線を外した。
前を向き直ると、アレンさんが待っていた。
「行こう、響くん」
爽やかに微笑みながら、片手を差し出してくれるアレンさんに、俺はようやく自然に頷くことができた。
その手を借りて、前に歩き出した。
駆け上がった風と共に、まだ見ぬ未来が空の向こうに溶けていった。
<終>
(あぁ……せっかく気持ちよかったのに……もう少しいたいよ)
ぼんやりと思うころには、ずいぶんと遠ざかっていて、現実の方が身近に感じられた。
いつも着ている寝間着と違う、ごわついた感触が体中にまとわりついていて、あちこち締めつけている。居心地が悪くて身動ぎすると、いつもなら柔らかく体を受け止めてくれるはずの感触がなく、代わりに硬い感触に弾かれた。
(あれ……?)
違和感に意識が吊り上げられた魚みたいに、暴れながら浮上してまぶたを開いた。
「起きた? そろそろ出掛けないと間に合わないと思うよ、響くん」
居候生活で馴染んでしまったアレンさん宅のリビングの床が視界を埋めている。まだ活動しきっていない耳に、潜めた声が流れ込んできたけれど、理解が追いつかない。
ふかふかラグの上に、力なく投げ出している左手を包むアームカバーをぼんやりとそれを眺めていたら、いきなり思考が猛スピードで走りだした。
(そうだ、俺ライブで歌ったんだ! 衣装は着替えたけど、これははめたままで……って、いま何時だっ?)
音がしそうなほどの勢いで飛び起きる。
目の前に苦笑しているアレンさんがいた。
眠る前と違う私服姿で、いつも通りに髪をくくって乱れがない。ずいぶん前から起きていた様子だ。
俺たちの周囲には屍よろしく、神音たちがあちこちで倒れるようにして散乱していた。
父親になったばかりの富岡さんまでもが、ソファで眠りこけている。久遠さんに付き添って、そのままライブに突入したせいで疲れが一気に出たらしい。無防備なくらいに寝入っている。
「響くんが寝返りを打った時に、メモがポケットから落ちて、悪いと思ったんだけれど読ませてもらったよ。今朝発の飛行機で響くんが歌を捧げた子、旅立っちゃうんでしょう?」
みんなを起こさないように配慮しながら、アレンさんが言葉を重ねた。
促されるようにして時計を確認する。まだ薄暗い室内で読みとりにくかったけれど、樫部が乗る予定の飛行機が発つまで二時間を切っていた。
「うわぁ~っ!」
配慮なんか頭からすっ飛んで、全力で叫んでいた。
慌てて立ち上がろうとした俺の周囲で、みんなが呻いたり、身動ぎしたけれど、いまはどうだっていい。
「行かないと……待ってるのにっ」
床に足をついたとたん、右足首が痛みを訴えて、力が抜けた。
バランスを失ってよろける俺を、とっさにアレンさんが腕をつかんで支えてくれた。
「ライブの時より悪化していると思う。無理はしないでと言いたいところだけど、行くでしょう?」
片手で車のキーを鳴らし、アレンさんが目を細めた。
「行きます……けど」
「だから送って行ってあげます。しばらく我慢してね」
言うないなや、アレンさんが俺の背中と膝の裏に手を回して抱き上げてしまった。
「わ、わっ……でもお酒呑んでたのに」
意識を失うまでの様子を思い出しながら言い淀めば、アレンさんは悪戯っ子みたいに片目を閉じて笑った。
「ずっとウーロン茶を飲んでいたんだよ。響くんが寝ちゃった後もみんなは呑んでたけどね、オレは先に寝させてもらったし。ご心配なく、安全運転で送り届けてみせます」
言われてみれば、車だからとカニ料理店では呑んでいなかった。ここに来てからは俺が疲れていて、眠くなっていたからかあまり覚えていない。
「で、でも」
「迷ってる時間なんてないでしょう?」
話ながらも部屋を出て俺の靴を拾いあげたアレンさんによって、エレベーターに乗りこみ、地下駐車場まで運ばれてしまった。
「これは俺の私用で、バンドと関係ないことなのに」
「相変わらず水臭い。空港内をその足で歩かないといけないんだから、ここはオレをちゃっちゃと利用して時間短縮を狙うべきだと思うよ?」
「あぅ……すみません」
これ以上言葉を見つけられず、謝罪しかできなかった。
空港へ走る車内で、ひたすら申し訳なさを噛みしめる。
「着くまでにコレ、気休めだけど貼っておきなさい」
信号待ちで停車したタイミングで、アレンさんが湿布薬を手渡してくれた。
何から何まで、とまたも謝罪しかできない俺の頭を、ぽんぽんとアレンさんが無言で叩いた。
「……オレね、響くんに謝らないといけないことがあるの」
夜明け前の静かな道を走りながら、アレンさんが切り出した。
「スタジオの練習後に響くんが塩入りの水を飲んでむせたことがあったでしょう……あれをしたのは神音なんだ。オレはそれを止めなかった……須賀原さんのことが思い出されて、本当は止めるべきだったんだ。でも出来なかった」
「神音が……? なんで」
「あの頃すでにいろんな被害を受けていたでしょう。神音も気づいていたみたいだけど、響くんは打ち明けてくれないから、きっかけがあれば話してくれるかもしれないって」
「……そ、うですか……」
実は真柴がこっそり入れたんじゃないかと疑っていたから、神音が犯人だと聞いて複雑な気分になった。
「あんな方法で話を引き出そうとしたこと、ずっと後悔してきた。響くん、ごめん」
だからこれはお詫びのひとつだと受け取ってくれないかな、とアレンさんが苦笑しつつ、またひとつ謝罪を重ねて口にした。
「……着いたら起こしてあげる。もう少し寝てなさいな。昨日の今日で、まだ疲れてるでしょ?」
「はい……すみません」
苦さを隠したアレンさんの声に頷いて、車窓に視線を移す。脳内に樫部の姿を思い出しながら、ゆっくりとまぶたを下ろすとすぐに意識がおぼろになった。
(樫部……もうすぐ会える。きっと待っていてくれるよな)
空港へとひた走る車内は心地よい静けさに満ちていて、覚醒と睡眠の境を漂う俺を優しく包み込んだ。
踏み出したばかりの頃には、ひどく遠くにあるように感じたゴール地点を通り過ぎ、その先で待っていた人の前に、いまから立とうとしている。
もう取り返しはつかないし、全力は尽くしたと思う。途中かっこ悪くあがいたり、あきらめたりもした。仲間や樫部に助けられて、ようやく辿りつけた場所だけど。
(期待外れだったって……ため息つかれたりするかもしれないな)
恐怖がないわけじゃないけれど、もしそうなったとしても受け入れられる気がした。
何を言われるのか、何を言おうかと考えるよりも、走り出そうと決めた時からの記憶の方が鮮烈に脳内を占めて、結局眠ることもできずに車は空港へ辿りついてしまった。
「行っておいで」
「あ、ありがとうございますっ」
送り出してくれたアレンさんを振り返ってお礼を言うと、運転席の窓を開けて手を振っていたアレンさんが親指を立てた。
「車をどうにかして待ってるから、オレのことは気にせず行きなさいね。ほら、時間がないよ?」
「う、わ……はいっ!」
コートのポケットに入れたままだった携帯の時刻表示を確認して、真っ青になりながら走りだした。
と言っても右足の痛みは半端じゃない。みっともなくひょこひょこ走る俺の移動速度は、周囲を歩く大人の乗客たちが歩くよりも遅かった。
(やばい……樫部の乗る便のゲートは何番だ?)
気ばかり焦る。空港なんて慣れない場所に来て、検討もつかずに行く先を見失う。
搭乗カウンターで係員に尋ねて、ようやく目的地が定まった。
問題は残り時間だけになって、焦りは高まる。痛めた足を庇って歩くコツを少しずつわかってきて、手すりや壁をつたいながら目的地へ歩いていった。
ガラスの壁面が視界いっぱいに広がるホールの端。行き交う様々な人々の向こう、まるでそこだけが照明が当たって、ズームアップするかのように目に飛び込んでくる。
真っ白のコート、黒縁のメガネをかけた横顔。わずかに目を細めて、壁の向こうの滑走路を眺めている立ち姿。
「……樫部っ」
間に合った、と息つく間もなく駆けよれば、声に気づいて振り返った樫部が俺を目にして眉を寄せた。
「走るな、阿呆が。僕は逃げも隠れもせん」
最後まで小言かと苦笑しつつ、樫部の目の前に辿りついた。
俺の足をちらりと見下ろしてから、樫部が顎をしゃくった。
「昨日の今日だ。その顔は飛び起きてきたのだろう? 眠気覚ましのコーヒーでもどうだ」
「え、あ……うん」
頷いてから、財布を持ってきたかと焦った。
慌ててポケットを探りだした俺を、ため息ついてから樫部が止める。
「両替で余った小金を使い切りたいのだ。それにチケットをくれただろう。コーヒー代くらい払わせてくれ」
「……うん、ありがとう」
俺の分も樫部が持ったまま、オープンスペースの客席の端に移動して、向かい合って座った。
洒落た模様の紙コップが並ぶ丸テーブルを見下ろしたところで、緊張感がいきなり急上昇してきた。
(やばい……何話していいんだか、頭の中真っ白でほとんど何も考えられない~っ)
車中では胸を張って会えると思っていたのに、いざふたりきりで向かい合ったら、卒業記念ライブのチケットを渡した時並みの緊張感が襲ってきた。
(ど、どどど、どうしよう。昨日のアレはなんだったのだ、なんて言われたら……いやいや落ち着け俺。できることはやったって思ったじゃないか……でもやっぱり樫部に呆れられたら立ち直れない~っ)
目を回す勢いの俺に気づいたのか、樫部がくすっと小さく笑った。
「まったく……おまえは何なのだ」
「……え?」
口元を手で覆い、ぼそっと呟いた樫部の声がすべては聞き取れなくて、情けない声で聞き返した。
一度目を閉じて、樫部は手を下ろし紙コップを軽く握った。
「嫌になるくらい不器用に優しくて、歯痒くなるほどに自分自身を押し殺している奴。僕は片平をそう思っていたのだがね……」
「う……」
わざと言葉を止めた樫部が、ちらりと俺を見てくるのが少しばかり憎らしい。
途切れた言葉の先を知りたいような、聞きたくないような揺れに惑っていると、また小さく樫部が笑った。
「足の具合はひどいのか?」
声音と表情を変えて、樫部が問いかけてくる。
「いや……ちょっと痛いくらいだよ」
と答えてから、足の怪我をなぜ知っているのかと疑問が脳裏をかすめた。
「僕は片平に謝らなければならない」
「……は?」
いきなり飛躍した話題についていけず、変な声を出した俺を見て、また樫部は笑う。今日はかなりご機嫌よろしいらしい。
「片平が何をして、どんな目に遭っているのか。ほとんどすべて知っている。カノンさまから随時話を聞いていたのだ。それが条件だったし、カノンさまも律義に守ってくれたからな」
滅多になく笑う樫部がメガネを指で押し上げて、コーヒーを一口すする。その余裕がうらやましい。
「……クリスマス前だったか。教室で片平が『i-CeL』をいつ知ったのかと聞いてきた日があっただろう。あの時僕はただのファンだと話をしたが、本当はその一週間ほど前にカノンさまと直接会って話をした」
「それって……俺がはじめてみんなと会った頃だ」
樫部が軽く頷いた。
「一度助けられた身だし、僕は彼らのファンだから写真を撮ってもらったこともある。だがカノンさまにとっては片平の友人にすぎない僕だ。なぜ帰り道に待ち伏せをされて、話かけられたのか謎で仕方がなかったよ」
神音が通う高校は、俺たちの高校とは別方向にあって、電車やバスですれ違うこともないところにある。
つまり偶然に会ったのではなくて、神音が故意に樫部に会いに行ったのだ。
(そんなこと聞いてないぞ)
胸の中で少しばかり片割れに嫉妬していると、樫部が先を続けた。
「今日みたいにコーヒーでも、と駅前の喫茶店に入り向かい合って座った。するといきなり身を乗り出して、カノンさまが言ったのだ……片平が嫌いかとね」
「……神音……」
いきなり何を言いに行ってんだ、俺のいないところで、と頭痛を感じて額を抑えた俺に、樫部が苦笑した。
「嫌いでないなら……いや、嫌いであっても、片平が何を言ってもはぐらかして欲しいと、真剣な顔でお願いをされた」
「……?」
「カノンさまは理想の声を追い求めて、さまざまな音を聞いてきた。結成当時から自分の声がそれではないことはわかっていたものの、正確にだれの声なのかわかったのは一年ほど前らしい。ところが問題はその声の持ち主がよりにもよって片平だったと言うことだ」
「うっ……俺が問題って……」
ファミレスではじめて『i-CeL』メンバーと富岡さんに出会った日を思い出しながら、続く樫部の声を待った。 軽く肩をすくめてから樫部は話を続けた。
「言っただろう? 不器用に優しいくせに頑なに自分自身を押し殺し、他者を優先する片平だ。ただ誘ったくらいで落ちるわけがない」
事実、神音をはじめ、富岡さんやモーチンさんたちにも手を焼かせた自覚があるので反論ができなかった。
そんな俺の目の前で、余裕綽々と樫部がコーヒーを飲んだ。
「片平の抱いている想いを利用したいのだ、とカノンさまが言っていた。僕はそれに気づかず、答えを出さずにはぐらかして欲しいのだとね」
「…………」
俺が樫部に抱いた淡い心を、神音が勝手に伝えてしまったことになる。仕方がなかったとは言え、少し複雑な心境だった。
「僕は断った」
「え?」
思わず伏せていた視線を上げると、いつもの涼しげでいて近寄りがたい表情の樫部が空を見ながら言葉をつなげた。
「僕と片平が話すこと、することを他人に指図されたくはなかった。たとえそれが親切心であろうとも。カノンさまの場合はもっと悪い。打算的で申し出を受けるのは片平を裏切る行為であると思えた……だがカノンさまが言うのだよ。片平しかいない、カノンさまが生み出す音楽を完成させるには、他のだれでもなく片平の声を欠いては生涯未完成で終わる。片平の殻を破り飛び立たせるには、僕の協力がないと出来ないとね」
はぁ、と樫部がため息をついた。
「……僕は片平を裏切った。カノンさまにそこまで言わせる片平の声を聞いてみたい、と純粋なファン心理が友情を上回ってしまったのだ……本当にすまない」
「樫部……」
「片平が僕をどう思っているのかは聞いていないが」
そこで樫部が言葉を切り、メガネを外した。
すっと目を開き、まっすぐに俺を見て言い切った。
「幻滅しただろう。おまえは僕に期待以上の姿を見せてくれたのに。僕はおまえの気持ちを利用した卑怯者だ。だから好きにしろ、片平。殴るなり何なり好きに」
俺は期待以上だったと聞いて、緊張が一気にほぐれてしまって、体中から力が抜けて、正直座っているのも辛いほどだった。
「……好きだったよ、樫部のことが」
「片平……」
テーブルに肘をついて体を支えながら、ふっと息を吐き出すように抱いていた想いを空気に乗せた。
「利用って言ったけど……きっかけは確かにこの気持ちだった。でも途中から俺自身が歌いたいと思うようになってた。それに利用だろうと何だろうと、強引に引っぱり出されなきゃ俺は何もしようとしなかっただろうし、やり遂げることも出来なかったと思う。だから殴るつもりなんてないし、むしろ感謝しているくらいだよ」
ライブで歌った時に感じた。
樫部を好きだと思った感情が、新曲を樫部の前で歌ったことで、行きつくべき場所に辿りつくことができたと。
(そう、俺の想いは一方的な……恋心と言うには未熟すぎる、身勝手な好意でしかない。その先を期待したりとか、身を焦がれるような激しさもない、まるで道標みたいな想いだったんだ)
だから俺は樫部に本当を伝えない。
はじめて樫部につく、嘘に近い言葉。
樫部はしばらく俺を呆然と見ていたが、ふうっと息を吐き出してからメガネをかけ直し、コーヒーを見下ろしながら苦笑した。
「教室で聞いただろう? 卑怯で汚れきった、臆病な僕の何がいいんだか……」
それは俺に聞いているようでいて、遠く姿を消した人に向けて聞いているような樫部の言葉だった。
「アメリカに渡るのを助けてくれた人がいる。かつて僕が逃げ出したあの人の友人で、おそらくあの人の居場所を知っている」
「……うん」
「僕は……会いに行こうと思っている」
静かに目を伏せたまま言い切った樫部に、俺は自然に微笑みかけることができた。
「うん。それがいい」
樫部はすぅっと視線を俺に向けて、まばたきもしないで見つめてきた。
「片平はやり遂げてみせてくれた。卑怯で臆病な僕の心残りを期待へと昇華してくれた。だから今度は僕がやり遂げてみせる」
「……うん」
だれよりも樫部に認められたいと思ってきた。だけど実際に面と向かって言ってもらえるとは思ってなくて、誇らしいよりも恥ずかしさが勝っていて、どうしても樫部を見ていられなくて視線を落としてしまった。
とても樫部が眩しく思えた。
「僕は片平を好ましく思っている……あの人とは違う意味でな。おまえの想いを利用したうえに、こんな言い方はないと我ながら思うのだが」
そして立ち上がった樫部が右手をすっと差し出してきた。
指先の間に二つに折られた紙が挟まれていた。
「片平を恋人とか友人とか、呼び方や立場や肩書でくくれない相手だと思っている。もしおまえがそれを許してくれるのなら……連絡をくれるだろうか」
受け取った紙を開くと、Eメールアドレスが書きとめてあった。
「渡米後しばらくあの人の友人宅に世話になる。パソコンは別なのを使うが、レターだとあいつ、勝手に読むだろうからな」
困ったものだと苦笑しつつ、樫部が背を向けた。
時間だ、と小さな声が聞こえてきた。
「樫部……」
呼びかけたものの、何を言おうとしたのか俺にもわからない。
一度振り返った樫部は、困ったような俺の表情に呆れたような笑顔を見せた。
「これからどうするのだ、片平」
「?」
「いや、『i-CeL』のキョウと呼ぶべきだな」
「……樫部」
白いコートの背中を俺に向けて、歩きだした樫部に俺は立ち上がりながら、もう一度呼びかけた。
立ち止まった背中へ声を張り上げる。
「待ってろ、絶対に海を越えてみせるっ!」
周囲にいた乗客や、店員がちらっと俺を向いた。少しばかり羞恥心に座り込みそうになった俺に、樫部が背中を見せたまま片手を振って見せた。
「おまえ、僕にCDとか雑誌を送りつけてくるなよ」
「な、なんでっ」
くるりと顔だけを振り向かせ、樫部が不敵に笑った。
「向こうで僕自身が手に入れる」
その言葉を置き土産に、樫部の背中はゲートの向こうへ消えた。
展望スペースの柵に両腕を乗せて、樫部を乗せた機体を眺める。
ゆっくりと向きを変えた機体は、いよいよ滑走路を滑りはじめ、少しずつ速度を上げていく。
(行け、樫部)
西の空がほんのりと黎明に染まる中、淡い光を弾いた機体がぐんと速度を増して、ふわりと空へ飛び立った。
無事に空へ滑りだした機体の中で、樫部もいまの俺と同じく熱くなる胸を持て余しているだろうか。
(必ず、届けてみせる。そしたら、また会おう)
少しずつ朝焼けに色を変えていく世界の中で、小さくなっていく機体を見上げながら、樫部との最後の約束をくり返し思い出していると、横に誰かが立った。
「……アレンさん」
しまった、すっかり忘れてた。なんて言えずに言葉を探していると、空を見上げていたアレンさんが俺と同じく柵に腕を乗せて話かけてきた。
「行かせてしまって、よかったの?」
だれを、なんて聞かなくてもわかる。
「……ええ。俺は縛りつけたいわけじゃなかったんで」
そう、ただ姿を見てから行って欲しかったのだ。
真柴いわく、ぽけぽけの俺ではなくて。
樫部の言う、頑なで他者の影に隠れようとする俺ではない姿を。
「それに、こうなるべくして、抱いた想いだったような気がします」
最後に樫部に伝えた本当ではない気持ち。
「いまでも好きですけど、たぶん恋心には幼すぎる好きなんだと思います。これでよかったって、心残りだとか悔しさだとか、ひとかけらもなく晴れ晴れとした気持ちです、いま」
両腕を伸ばして伸びをしながら、吹き抜ける風に髪を遊ばせ、笑いながら言えるのだから。
「……じゃあ、もう?」
「え?」
アレンさんが俺を見下ろして、少し目を細めた切なそうな表情で問いかけてくる。その意味を掴みそこねて聞き返した。
「歌うのは、好きな子に気持ちを伝えたいからだったんでしょう?」
「それはきっかけでした。いまはもう、それだけじゃありません……追い出さないでくださいよ」
樫部に言った通り、俺はもう自分自身が歌いたいと思ってしまっている。
するとアレンさんが満面の笑みになった。
「よかった……」
「アレンさん」
もう歌わないと言われると思っていたのだろうか。
(そう言えば、俺が抜けたらみんなも解散するって言ってたもんな。ずっと不安な気持ちで待っててくれたのかな)
樫部と話をしていた後も、ここに来てからもアレンさんに連絡していなかった。
探し出して、こうして話かけてくれたのは、アレンさんの抱いていた不安の裏返しのような気がして、申し訳なさに俯いた時だった。
「?」
すっ、と視界に迫ってきた影と気配に顔を上げると、目前にアレンさんがいた。
(うわっ……だから、あなた並みはずれた美人なんだって自覚してくださいよっ)
同性でも事前の覚悟なしに、息が触れる距離で見るには刺激が強すぎるのだ。
とたんに早鐘を打つ心臓に気を取られた。
「だったら……今度はオレの番だね」
「……はい?」
近すぎる距離のまま、アレンさんが囁いた言葉が聞き取れなかった。と言うか、理解が追いつかなかった。
凍りついたような俺の髪をさらりと梳いて、アレンさんがすごく愛しそうに微笑みかけてくる。
「響くんがいままでしてきた同じことを、オレが響くんにする時間ができたってことでしょ?」
「…………」
「絶対に振り向かせてみせるよ」
「あ、レン……さん」
ついに直接聞いてしまった。動揺のあまり言葉をつまらせた俺に、さらにアレンさんが顔を寄せてきた。
ほぼ耳に口づけるようにして、さらっと言ってくれた。
「好きだよ」
「……っ!」
意識しないまま、肩がびくりと飛び跳ねた。
(うわ~何て声出すんだよ、この人~……反則だ……顔だけじゃないなんて、卑怯すぎる~っ)
顔が焼けるように熱くて、とてもアレンさんの顔を見る勇気はなかった。
俯いた俺から離れつつ、アレンさんが楽しそうに声を殺して笑っているのがわかって、恥ずかしさの向こうで悔しさに唇を噛んだ。
「さて、そろそろ行こうか。帰って呑んだくれの我が同士たちを叩き起こして、今後の話をしないとね」
「……え、は、い……」
「ほらほら、それともまた抱き上げて欲しいのかな、響くん?」
とても顔を上げられなくて、どうしようと歩き出せずにいた俺を、言葉通り抱き上げようとしたアレンさんに気づいて、すんでのところで俺は逃げだせた。
「い、いいです。自分で歩きますっ」
こんな人目の多いところでお姫様抱っことかされた日には、樫部との約束と一緒に命まで放り出すことになるだろう。
ちぇっ、とどこか悔しそうなアレンさんを睨んでから、足を庇いつつ柵から離れた。
心配そうに隣を歩くアレンさんを、どうしても意識してしまって、少し距離を置いた。
それに気づいたアレンさんが、少しだけ苦笑した時、春の匂いを乗せて風が強く吹き抜けた。
学校指定コートの先が宙を踊り、思わず振り向いた先に、すっかり色を変えた空が広がっていた。
薄く白い雲が朝日に輝き、色とりどりに染まっていた。
搭乗ゲートへ消えていく背中と、最後の言葉を思い出して、俺がその背中に投げかけた約束を果たすべく、見上げていた空から視線を外した。
前を向き直ると、アレンさんが待っていた。
「行こう、響くん」
爽やかに微笑みながら、片手を差し出してくれるアレンさんに、俺はようやく自然に頷くことができた。
その手を借りて、前に歩き出した。
駆け上がった風と共に、まだ見ぬ未来が空の向こうに溶けていった。
<終>
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