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第二章
我恋歌、君へ。第二部 1:宣言と夜空
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※我恋歌、君へ。の続編ですが、初期の登場人物がほとんど登場しません。
彼らの登場しない話は読みたくない、という方は申し訳ありませんが、第三部をお待ちください。
無口無表情の権化、富岡さんが腕組みをしたまま、厳かに宣言した。
「『i-CeL』は本日をもって解散とする」
初恋の色もまだ鮮やかな、四月下旬のことだった。
富岡さんが所属するプロダクション会社のオフィスの一室で、ロックバンド『i-CeL』のメンバーたちは声を見失う。
全員がプロデューサーを見つめて、いま聞いた言葉は何かの間違いだろうと言う思いを捨てきれないでいた。
楕円形テーブルの周囲に座り、凍りついているメンバーたちを見下ろす富岡さんは、まばたきもしなかった。
「どうした。聞こえなかったのか?」
お面みたいに表情のない富岡さんが、腕組みをゆっくりと解きながら全員を見渡した。
「もう一度だけ言おう。おまえたち『i-CeL』は本日限りで解散させる」
はっきりと、聞き損ねることのないように言い聞かせた富岡さんに、真っ先に食ってかかったのは神音だった。
ガタン、と椅子から立ち上がり、テーブルに両手をついて身を乗り出した。
「どうしてさっ、ぼくたちはこれからがスタートだって卒業記念ライブで言ったばかりなのにっ。富岡さんだって一年間待っていた甲斐があったと思ったでしょう、あのライブを見てっ!」
富岡さんは表情のない目を神音に向けた。
う、と少しだけ神音が体を引く。
言葉にできない圧力みたいなものが、富岡さんから伝わってくる。
「私の采配に必ず従うと約束したことを忘れたのか、神音」
「……それは」
「いまおまえたちをプロデュースしていくつもりは、私にはない。不服ならば他の人間を探せ。そうでないならば最後まで私の采配に従ってもらう」
立ったままの神音が唇を噛んで黙り込んだ。
隣に座っていた八代さんが、その袖をひっぱって座るように促す。
しばらく富岡さんを睨みつけていた神音だったけれど、根負けしたみたいに椅子に音を立てて座った。
「……理由は、教えてもらえないんですね」
口元に指を当てて、何か考えていた様子のアレンさんが富岡さんにそっと確認をする。
「必要ない」
そっけなく言い捨てた富岡さんの目が、すっと動いて俺を捕えた。
「響。ついて来い」
「……えっ、俺ですか?」
「そうだ」
言い終えるなり、俺が動くかどうかも確認しないで富岡さんが部屋を出て行く。
呆然としたまま動けなかったのは俺だけじゃなかった。
メンバー全員が音を立てて閉じたドアを数秒見つめて、自分自身の感情と現実とを掴もうと葛藤していた。
「……行きなよ、響」
「あ、うん」
ひどく疲れた声で神音が俺を促し、ようやく俺も立ち上がることができた。
俺は連日寝不足が続いていて、意識があまりはっきりしていない。
神音に説明されたもののプロダクション会社が何なのか、よくわかっていないままここに集められて、久々に富岡さんを見たなと思ったとたんに、解散宣告を受けたのだ。
(何が何だか、さっぱりわからないよ。どうなっているんだ?)
ただでさえ素人同然の知識と経験しかないのだ。さらに寝不足で鈍った思考回路では、現実を把握することができない。
とにかく言われた通り部屋を出ると、廊下で富岡さんが待っていた。
「ここだ」
またもや短く言い捨てて、隣の部屋のドアを開いて入って行く。
慌ててその背中を追いかけ、中に入るとそこにはソファセットとデスクチェアが二セット、窓際に給湯器具が一式揃ったテーブルが置いてあった。
部屋の奥にある大きい方のデスクに近づいて、富岡さんは積んであった書類のうち一つを手に取り上げた。
「パスポートは持ってきたか」
「……え? あ、はい」
卒業記念ライブを終えて、未編集の収録したてのDVDを送ってくれたきり、連絡がなかった富岡さんから唯一届いたメールで、パスポートを申請しておくようにと指示されていたのだ。
慌てて頷いた俺に、富岡さんが書類をざっと目で追って確認した後、封筒に入れてそれを俺に手渡した。
「チケットを用意してある。いまから空港に向かえ。モーチンがそこで待っている」
「……はい?」
手渡された封筒と、持って来ていたパスポート。
後は底のない疑問と不安だけを道連れに、俺はそのまま富岡さんが用意したタクシーに押し込まれ、空港へ運ばれてしまった。
いつかと同じように、俺を待っていたモーチンさんに強引に連れて行かれて、何が何だかわからないうちに、出国手続きが終わっていた。
「お、俺……何でここに……? モーチンさんじゃないですか……どうして? あれ?」
にこにこ赤い頬を丸めて微笑んだまま、モーチンさんは何度も頷きながら俺の頭を撫でてきた。
「ヒッキー深呼吸してごらん。少し落ち着けると思うヨ。それにしても、また会えてうれしいヨ~」
「……俺もうれしいですけど、いまはそれよりも何でここに俺がいて、モーチンさんがいるのかが気になるんですけど」
ばっちり旅の支度を整えているモーチンさんに対して、俺は手荷物ひとつもない。
唯一手元にあるのは、中身も知らない封筒だけだ。
「うん? ちゃんと説明聞いてないノ?」
「はい。これっぽっちも」
またかとモーチンさんが苦笑した後で説明してくれた。
「ボクはイギリスで公演する予定なんだけどネ、クニちゃんがヒッキーを連れて行ってくれって連絡してきたんだヨ。半年くらいイギリスで面倒見てやってくれってネ」
「い、イギリスですかっ?」
思わず大声を出してしまい、慌てて手で口を塞いだ。
周囲を伺うと、行き交う旅行客や警備員の人らしき男性たちの視線を集めてしまっていて、冷や汗をかいた。
「あらら、本当に何も聞いてなかったんだネ」
「……はい。ただパスポートの更新をしておけとしか」
神音が海外コンクールに出場すると決まった時に、家族全員で海外に行ったことがある。
それきり俺は行かなくなったものの、パスポートは手元に残っていた。
(何だってパスポートが関係あるんだろうと思ったけど、こんなことになるなんて想像もしてなかったよ)
肩を落とす俺に、モーチンさんが慰めるように背中を撫でながら、搭乗時間まで空港内を見て回ろうかと声をかけて気を遣ってくれた。
「……イギリスって、英語圏ですよね」
まだどんよりと暗い空気を背負ったまま、書店のラックから本を抜き取りながら、隣のモーチンさんに話しかけた。
英語の日常会話を網羅した本を流し読んでみるけれど、さっぱり理解できない。
「そうだネ、ヒッキーは英語苦手?」
「高校時代の成績、全教科平均点よりやや下でした」
『Hello』とか『My name is……』くらいならわかる。
「そっか……あ、でもクニちゃんが教材は封筒に入れておいたって電話で言ってたヨ? その中に入ってるんじゃないカナ?」
と言って俺が抱えたままだった封筒を取り上げて、モーチンさんが中を覗きこんだ。
A4サイズの書類が折らずに入る大きさの封筒から、モーチンさんの手がCDケースを取り出してみせた。
「これじゃナイ? クニちゃんの字で付箋がついているヨ……えっと、ボク日本語読むの苦手なんだヨネ……読んで、ヒッキー」
こちらに封筒ごとCDを差し出したモーチンさんから受け取り、メモを読んでみた。
『とにかく聞きまくれ。後は慣れだ』
親切なんだか突き放しているんだか、微妙なメモにため息しか出てこなかった。
またずん、と落ち込んで座りこみそうになっている俺を、モーチンさんが慌てて抱えて歩きだした。
「他のお店も見てみようヨ、ネ?」
俺はとても買い物をする気分じゃなかったし、所持金もなかったので、楽しそうにはしゃぐモーチンさんを見ていた。
(イギリスに行けって言ったって、お金もないし、向こうで何をしろって言うんだろう。『i-CeL』が解散するのなら、富岡さんはもう俺に構う必要なんてなくなるんじゃないのか? だったら何でイギリスに行けって命令するんだろう……あぁ~、もう訳がわからないっ)
頭をかきむしりたくなる衝動にかられていると、モーチンさんがこれをお土産に買って行こうと話かけてきた。
その手の中の物を見て、さらに気分が下降していく。
お笑い芸人がかぶるような、ハゲのカツラだった。
「そんなの買って行くんですか……?」
「え、面白くない? きっとみんな笑ってくれるヨ~」
いそいそと会計しに行く巨体の背中を、俺は遠い目をして見送った。
(拝啓、樫部そちらにはもう慣れたか? 新しい生活はどう? 俺は樫部を見送った時、想像もしていなかった場所に来てしまったよ。こんな意味で俺も海を越えることになるなんてなぁ……はぁ~)
ベッドに寝転び、天井を見上げて心の中で別れた友に架空の手紙をつづっていると、隣の部屋から物音が聞こえてきて、思考を中断させられた。
(またか)
ころりと寝返りを打って横向きになり、枕元の時計を確認する。
二十二時を少し過ぎている。
モーチンさんは公演の為に滞在する間、このアパートで俺と同居することになった。
富岡さんが所属する会社は海外にも支社があり、モーチンさんはそこと契約していると言っていた。
俺はその世話係として、少ないけれど賃金をもらいながら、語学の勉強と家事をする毎日を送っている。
あの突然の解散宣言から、一ヶ月が過ぎた。
夜は遅くにしか帰ってこないモーチンさんは知らないだろうけれど、ほとんど毎夜、隣の部屋からこの時間になると声が聞こえてくるのだった。
(はぁ~……日本のアパートでも隣近所の物音で眠れないとよく聞いたけど、イギリスでも同じなんだな)
枕を頭にかぶせて、物音を遮断しようとしても無駄に終わる。
何かが壁にぶつかる音がして、やがて甘い女性の声へ変わっていく。
経験のない俺にだって、その声が何を意味しているのかわかる。
(……うぅ、お願いだから早く終わってくれ~)
イヤホンをつけて、富岡さんにもらった英語教材CDの音量を上げて再生した。
高校に通っていた頃、クラスメイトたちが騒いでいたほどには、その手の映像や雑誌に興味を抱けなかった。
だからと言って、まったく何も感じないわけでもない。
毎夜毎夜、あられもなく聞こえてくる声にもやもやと刺激されて、身の置き場がなくなるような気分にさせられる。
(俺って被害者だよな……いきなり言葉も通じない場所に連れて来られて、こんな声聞かされて……ほんと、何してんだろ……)
考えれば考えるほど泣きたくなってくる。
アパートは日本と比べると汚い部分もあるけれど、快適に生活できるように管理が行き届いているし、一階に住んでいる管理人夫婦の人柄が温かくて、言葉は不自由しているけれど居心地はいい。
入居した日に案内してくれた夫婦はモーチンさんが説明したはずなのに、俺を学生だと思っている様子だ。
『勉強する時間はあるの? 何か困ってない?』
『いじめられてないか? 東洋人だからって小さくなる必要はないぞ』
ことあるごとに部屋まで来て、気を使ってくれるからありがたいんだけど、ちょっと複雑な気分にもなってしまう。
(俺、もう高校卒業してるんですけど……って言っても信じてもらえないしな。俺の英語が間違っているのか?)
近所にある店もようやく覚えて、ひとりで物が買えるようにもなり、来たばかりの頃に比べたら部屋から出る時間が増えてきた。
はじめは慣れることに意識が向いていて、夢中だったから気付かなかった、例えようもなく虚しくて、寂しくて足場がないような気持ちに、このところ毎夜声を聞くたびに思い出しては飲みこまれてしまう。
これがホームシックなのかな、と思う余裕もなく唇を噛んで、顔をベッドに押しつける。
(みんないまごろ何をしているだろう……神音はどうしているかな、ちゃんと食べているかな……俺がいなかったら自分で用意するしかないんだぞ、ちゃんとやっている?)
卒業記念ライブが終わって数日後に、神音は実家を出てマンションに引っ越した。
3LDKのその部屋に、俺も同居することに決めて、日本を出る一週間前からふたりで暮らしはじめたんだけど、食事の用意は基本的に俺が担ってきた。
俺がいなくなって、神音はちゃんと生活できているのか不安が募ってくる。
(八代さんや文月さんは何をしているのかな。働いて、大学へ行っているんだろうか……それにアレンさん)
閉じたまぶたの裏に、ぼんやりと浮かんでくる明るい光みたいな笑顔に涙腺が刺激される気がした。
(解散してしまったから、もうみんなと一緒にやれないのかな……どうして解散させられたんだろ。やっぱり俺が加入したから? それとも加入時期が遅すぎた?)
CDの音声に集中しようとするけれど、思考は底なし沼に落ちていくみたいに、暗い未来ばかりを映しだす。
そこに隣から聞こえてくる嬌声が加勢して、俺をさらに追いつめた。
(何なんだよ、まったく!)
このアパートに来た日、隣の部屋に住む男性と顔を合わせている。
その日も女性がいて、ふたりは廊下で熱烈に抱き合いキスを交わしていた。
大きな荷物を持った巨体のモーチンさんが通れなくて、何度も声をかけたのだった。
『これは失礼した。僕はこの部屋に住んでる、アレクシス=シルトン。よろしく』
さらりとアレクシスは挨拶して、女性を抱いたまま部屋へ消えて行った。
あの時からなぜか俺は彼に対していい印象は持てなかったんだけど、毎夜声に悩まされているいま、悪印象しか残っていない。
(あいつ、大嫌いだっ)
ぼかっ、とベッドを拳で叩きながら、心の中で彼に悪態をついた。
柔らかさそうなブラウンヘアに、ブルーアイの整った容姿のアレクシスが、女性にモテるだろうなと言うのは予想できたし、実際に付き合っていたところで俺には関係ないはずなのに。
(あぁ、もう……すごく苛々するっ!)
初日に顔を合わせた時にキスをしていた女性と、その後何度か部屋に入っていく女性が別の人だったことも俺には関係ない。
毎日隣で何をしていようとも、どうだっていいことなのに、声が聞こえてくるたびに俺は苛立ちが止まらずに、叫び出したくなるのだった。
(何だってこんなに苛々するんだろ)
神音がいたら、溜まってんじゃないの? とか軽く冗談を言うんだろうけれど。
言語や生活習慣が違っても、共通する行為はある。
例えば寝ること、食べること、そして体を繋げることだ。
それを咎めるつもりはないんだけど。
(声が聞こえるのが悪いんだよ。隣が何をしてようとわからなければ苛々することもないのにっ)
最大音量にCDのボリュームを上げた。
居候していたアレンさんの実家を出て、神音とふたりで暮らしはじめてから、俺は眠れない夜を重ねていた。
環境が変わることに慣れていないせいで、アレンさんのところで居候をはじめた当初も寝不足気味だった。
海外に渡ったいま、さらに眠りは浅くなっている。そこに来て隣から遠慮もない声が聞こえてくるのだ。
苛立ちと慢性的な睡眠不足が、頭痛を生んでいる。
どれだけ聞いても馴染まない言語、遮れない隣からの声、そして奥深くで疼く頭痛。
(やっぱり今夜もすんなり眠れそうにないな)
しばらく体を丸めて目を閉じていたけれど、どれだけ時間を重ねても眠気を感じない。
ごろりと仰向けに体勢を変えて、時計を確認した。
あと少しで今日が終わる。
この時間に帰ってこないなら、モーチンさんは夜明け近くに帰宅することが多い。
(……いつもの場所に行こう)
このアパートの屋上には小さいけれど花壇があって、ウッドチェアやテーブルも置いてある。そこは住民が自由に使っていいことになっていた。
眠れない夜はそこに昇って、曇った夜空を眺めて眠気を待つのが俺の小さな楽しみだった。
紅茶をミルクで煮出し、簡単にミルクティーを作ってマグカップに注ぐ。
戸棚からクッキーの残りを取り出して、トレイに載せて屋上へ持って上がった。
「うわ……うん、やっぱり気持ちいい」
屋上のテーブルにトレイを置いて、夜風を吸い込みながら伸びをした。
深呼吸をくり返していると、少しずつ気持ちが足場を取り戻していくのがわかった。
(半年ってモーチンさんが言っていたんだから。ずっとこのままってわけじゃないんだ)
ミルクティーを吹き冷ましながら、会いたい人たちの姿を思い出さないように、懸命に夜空を見上げ続けた。
彼らの登場しない話は読みたくない、という方は申し訳ありませんが、第三部をお待ちください。
無口無表情の権化、富岡さんが腕組みをしたまま、厳かに宣言した。
「『i-CeL』は本日をもって解散とする」
初恋の色もまだ鮮やかな、四月下旬のことだった。
富岡さんが所属するプロダクション会社のオフィスの一室で、ロックバンド『i-CeL』のメンバーたちは声を見失う。
全員がプロデューサーを見つめて、いま聞いた言葉は何かの間違いだろうと言う思いを捨てきれないでいた。
楕円形テーブルの周囲に座り、凍りついているメンバーたちを見下ろす富岡さんは、まばたきもしなかった。
「どうした。聞こえなかったのか?」
お面みたいに表情のない富岡さんが、腕組みをゆっくりと解きながら全員を見渡した。
「もう一度だけ言おう。おまえたち『i-CeL』は本日限りで解散させる」
はっきりと、聞き損ねることのないように言い聞かせた富岡さんに、真っ先に食ってかかったのは神音だった。
ガタン、と椅子から立ち上がり、テーブルに両手をついて身を乗り出した。
「どうしてさっ、ぼくたちはこれからがスタートだって卒業記念ライブで言ったばかりなのにっ。富岡さんだって一年間待っていた甲斐があったと思ったでしょう、あのライブを見てっ!」
富岡さんは表情のない目を神音に向けた。
う、と少しだけ神音が体を引く。
言葉にできない圧力みたいなものが、富岡さんから伝わってくる。
「私の采配に必ず従うと約束したことを忘れたのか、神音」
「……それは」
「いまおまえたちをプロデュースしていくつもりは、私にはない。不服ならば他の人間を探せ。そうでないならば最後まで私の采配に従ってもらう」
立ったままの神音が唇を噛んで黙り込んだ。
隣に座っていた八代さんが、その袖をひっぱって座るように促す。
しばらく富岡さんを睨みつけていた神音だったけれど、根負けしたみたいに椅子に音を立てて座った。
「……理由は、教えてもらえないんですね」
口元に指を当てて、何か考えていた様子のアレンさんが富岡さんにそっと確認をする。
「必要ない」
そっけなく言い捨てた富岡さんの目が、すっと動いて俺を捕えた。
「響。ついて来い」
「……えっ、俺ですか?」
「そうだ」
言い終えるなり、俺が動くかどうかも確認しないで富岡さんが部屋を出て行く。
呆然としたまま動けなかったのは俺だけじゃなかった。
メンバー全員が音を立てて閉じたドアを数秒見つめて、自分自身の感情と現実とを掴もうと葛藤していた。
「……行きなよ、響」
「あ、うん」
ひどく疲れた声で神音が俺を促し、ようやく俺も立ち上がることができた。
俺は連日寝不足が続いていて、意識があまりはっきりしていない。
神音に説明されたもののプロダクション会社が何なのか、よくわかっていないままここに集められて、久々に富岡さんを見たなと思ったとたんに、解散宣告を受けたのだ。
(何が何だか、さっぱりわからないよ。どうなっているんだ?)
ただでさえ素人同然の知識と経験しかないのだ。さらに寝不足で鈍った思考回路では、現実を把握することができない。
とにかく言われた通り部屋を出ると、廊下で富岡さんが待っていた。
「ここだ」
またもや短く言い捨てて、隣の部屋のドアを開いて入って行く。
慌ててその背中を追いかけ、中に入るとそこにはソファセットとデスクチェアが二セット、窓際に給湯器具が一式揃ったテーブルが置いてあった。
部屋の奥にある大きい方のデスクに近づいて、富岡さんは積んであった書類のうち一つを手に取り上げた。
「パスポートは持ってきたか」
「……え? あ、はい」
卒業記念ライブを終えて、未編集の収録したてのDVDを送ってくれたきり、連絡がなかった富岡さんから唯一届いたメールで、パスポートを申請しておくようにと指示されていたのだ。
慌てて頷いた俺に、富岡さんが書類をざっと目で追って確認した後、封筒に入れてそれを俺に手渡した。
「チケットを用意してある。いまから空港に向かえ。モーチンがそこで待っている」
「……はい?」
手渡された封筒と、持って来ていたパスポート。
後は底のない疑問と不安だけを道連れに、俺はそのまま富岡さんが用意したタクシーに押し込まれ、空港へ運ばれてしまった。
いつかと同じように、俺を待っていたモーチンさんに強引に連れて行かれて、何が何だかわからないうちに、出国手続きが終わっていた。
「お、俺……何でここに……? モーチンさんじゃないですか……どうして? あれ?」
にこにこ赤い頬を丸めて微笑んだまま、モーチンさんは何度も頷きながら俺の頭を撫でてきた。
「ヒッキー深呼吸してごらん。少し落ち着けると思うヨ。それにしても、また会えてうれしいヨ~」
「……俺もうれしいですけど、いまはそれよりも何でここに俺がいて、モーチンさんがいるのかが気になるんですけど」
ばっちり旅の支度を整えているモーチンさんに対して、俺は手荷物ひとつもない。
唯一手元にあるのは、中身も知らない封筒だけだ。
「うん? ちゃんと説明聞いてないノ?」
「はい。これっぽっちも」
またかとモーチンさんが苦笑した後で説明してくれた。
「ボクはイギリスで公演する予定なんだけどネ、クニちゃんがヒッキーを連れて行ってくれって連絡してきたんだヨ。半年くらいイギリスで面倒見てやってくれってネ」
「い、イギリスですかっ?」
思わず大声を出してしまい、慌てて手で口を塞いだ。
周囲を伺うと、行き交う旅行客や警備員の人らしき男性たちの視線を集めてしまっていて、冷や汗をかいた。
「あらら、本当に何も聞いてなかったんだネ」
「……はい。ただパスポートの更新をしておけとしか」
神音が海外コンクールに出場すると決まった時に、家族全員で海外に行ったことがある。
それきり俺は行かなくなったものの、パスポートは手元に残っていた。
(何だってパスポートが関係あるんだろうと思ったけど、こんなことになるなんて想像もしてなかったよ)
肩を落とす俺に、モーチンさんが慰めるように背中を撫でながら、搭乗時間まで空港内を見て回ろうかと声をかけて気を遣ってくれた。
「……イギリスって、英語圏ですよね」
まだどんよりと暗い空気を背負ったまま、書店のラックから本を抜き取りながら、隣のモーチンさんに話しかけた。
英語の日常会話を網羅した本を流し読んでみるけれど、さっぱり理解できない。
「そうだネ、ヒッキーは英語苦手?」
「高校時代の成績、全教科平均点よりやや下でした」
『Hello』とか『My name is……』くらいならわかる。
「そっか……あ、でもクニちゃんが教材は封筒に入れておいたって電話で言ってたヨ? その中に入ってるんじゃないカナ?」
と言って俺が抱えたままだった封筒を取り上げて、モーチンさんが中を覗きこんだ。
A4サイズの書類が折らずに入る大きさの封筒から、モーチンさんの手がCDケースを取り出してみせた。
「これじゃナイ? クニちゃんの字で付箋がついているヨ……えっと、ボク日本語読むの苦手なんだヨネ……読んで、ヒッキー」
こちらに封筒ごとCDを差し出したモーチンさんから受け取り、メモを読んでみた。
『とにかく聞きまくれ。後は慣れだ』
親切なんだか突き放しているんだか、微妙なメモにため息しか出てこなかった。
またずん、と落ち込んで座りこみそうになっている俺を、モーチンさんが慌てて抱えて歩きだした。
「他のお店も見てみようヨ、ネ?」
俺はとても買い物をする気分じゃなかったし、所持金もなかったので、楽しそうにはしゃぐモーチンさんを見ていた。
(イギリスに行けって言ったって、お金もないし、向こうで何をしろって言うんだろう。『i-CeL』が解散するのなら、富岡さんはもう俺に構う必要なんてなくなるんじゃないのか? だったら何でイギリスに行けって命令するんだろう……あぁ~、もう訳がわからないっ)
頭をかきむしりたくなる衝動にかられていると、モーチンさんがこれをお土産に買って行こうと話かけてきた。
その手の中の物を見て、さらに気分が下降していく。
お笑い芸人がかぶるような、ハゲのカツラだった。
「そんなの買って行くんですか……?」
「え、面白くない? きっとみんな笑ってくれるヨ~」
いそいそと会計しに行く巨体の背中を、俺は遠い目をして見送った。
(拝啓、樫部そちらにはもう慣れたか? 新しい生活はどう? 俺は樫部を見送った時、想像もしていなかった場所に来てしまったよ。こんな意味で俺も海を越えることになるなんてなぁ……はぁ~)
ベッドに寝転び、天井を見上げて心の中で別れた友に架空の手紙をつづっていると、隣の部屋から物音が聞こえてきて、思考を中断させられた。
(またか)
ころりと寝返りを打って横向きになり、枕元の時計を確認する。
二十二時を少し過ぎている。
モーチンさんは公演の為に滞在する間、このアパートで俺と同居することになった。
富岡さんが所属する会社は海外にも支社があり、モーチンさんはそこと契約していると言っていた。
俺はその世話係として、少ないけれど賃金をもらいながら、語学の勉強と家事をする毎日を送っている。
あの突然の解散宣言から、一ヶ月が過ぎた。
夜は遅くにしか帰ってこないモーチンさんは知らないだろうけれど、ほとんど毎夜、隣の部屋からこの時間になると声が聞こえてくるのだった。
(はぁ~……日本のアパートでも隣近所の物音で眠れないとよく聞いたけど、イギリスでも同じなんだな)
枕を頭にかぶせて、物音を遮断しようとしても無駄に終わる。
何かが壁にぶつかる音がして、やがて甘い女性の声へ変わっていく。
経験のない俺にだって、その声が何を意味しているのかわかる。
(……うぅ、お願いだから早く終わってくれ~)
イヤホンをつけて、富岡さんにもらった英語教材CDの音量を上げて再生した。
高校に通っていた頃、クラスメイトたちが騒いでいたほどには、その手の映像や雑誌に興味を抱けなかった。
だからと言って、まったく何も感じないわけでもない。
毎夜毎夜、あられもなく聞こえてくる声にもやもやと刺激されて、身の置き場がなくなるような気分にさせられる。
(俺って被害者だよな……いきなり言葉も通じない場所に連れて来られて、こんな声聞かされて……ほんと、何してんだろ……)
考えれば考えるほど泣きたくなってくる。
アパートは日本と比べると汚い部分もあるけれど、快適に生活できるように管理が行き届いているし、一階に住んでいる管理人夫婦の人柄が温かくて、言葉は不自由しているけれど居心地はいい。
入居した日に案内してくれた夫婦はモーチンさんが説明したはずなのに、俺を学生だと思っている様子だ。
『勉強する時間はあるの? 何か困ってない?』
『いじめられてないか? 東洋人だからって小さくなる必要はないぞ』
ことあるごとに部屋まで来て、気を使ってくれるからありがたいんだけど、ちょっと複雑な気分にもなってしまう。
(俺、もう高校卒業してるんですけど……って言っても信じてもらえないしな。俺の英語が間違っているのか?)
近所にある店もようやく覚えて、ひとりで物が買えるようにもなり、来たばかりの頃に比べたら部屋から出る時間が増えてきた。
はじめは慣れることに意識が向いていて、夢中だったから気付かなかった、例えようもなく虚しくて、寂しくて足場がないような気持ちに、このところ毎夜声を聞くたびに思い出しては飲みこまれてしまう。
これがホームシックなのかな、と思う余裕もなく唇を噛んで、顔をベッドに押しつける。
(みんないまごろ何をしているだろう……神音はどうしているかな、ちゃんと食べているかな……俺がいなかったら自分で用意するしかないんだぞ、ちゃんとやっている?)
卒業記念ライブが終わって数日後に、神音は実家を出てマンションに引っ越した。
3LDKのその部屋に、俺も同居することに決めて、日本を出る一週間前からふたりで暮らしはじめたんだけど、食事の用意は基本的に俺が担ってきた。
俺がいなくなって、神音はちゃんと生活できているのか不安が募ってくる。
(八代さんや文月さんは何をしているのかな。働いて、大学へ行っているんだろうか……それにアレンさん)
閉じたまぶたの裏に、ぼんやりと浮かんでくる明るい光みたいな笑顔に涙腺が刺激される気がした。
(解散してしまったから、もうみんなと一緒にやれないのかな……どうして解散させられたんだろ。やっぱり俺が加入したから? それとも加入時期が遅すぎた?)
CDの音声に集中しようとするけれど、思考は底なし沼に落ちていくみたいに、暗い未来ばかりを映しだす。
そこに隣から聞こえてくる嬌声が加勢して、俺をさらに追いつめた。
(何なんだよ、まったく!)
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大きな荷物を持った巨体のモーチンさんが通れなくて、何度も声をかけたのだった。
『これは失礼した。僕はこの部屋に住んでる、アレクシス=シルトン。よろしく』
さらりとアレクシスは挨拶して、女性を抱いたまま部屋へ消えて行った。
あの時からなぜか俺は彼に対していい印象は持てなかったんだけど、毎夜声に悩まされているいま、悪印象しか残っていない。
(あいつ、大嫌いだっ)
ぼかっ、とベッドを拳で叩きながら、心の中で彼に悪態をついた。
柔らかさそうなブラウンヘアに、ブルーアイの整った容姿のアレクシスが、女性にモテるだろうなと言うのは予想できたし、実際に付き合っていたところで俺には関係ないはずなのに。
(あぁ、もう……すごく苛々するっ!)
初日に顔を合わせた時にキスをしていた女性と、その後何度か部屋に入っていく女性が別の人だったことも俺には関係ない。
毎日隣で何をしていようとも、どうだっていいことなのに、声が聞こえてくるたびに俺は苛立ちが止まらずに、叫び出したくなるのだった。
(何だってこんなに苛々するんだろ)
神音がいたら、溜まってんじゃないの? とか軽く冗談を言うんだろうけれど。
言語や生活習慣が違っても、共通する行為はある。
例えば寝ること、食べること、そして体を繋げることだ。
それを咎めるつもりはないんだけど。
(声が聞こえるのが悪いんだよ。隣が何をしてようとわからなければ苛々することもないのにっ)
最大音量にCDのボリュームを上げた。
居候していたアレンさんの実家を出て、神音とふたりで暮らしはじめてから、俺は眠れない夜を重ねていた。
環境が変わることに慣れていないせいで、アレンさんのところで居候をはじめた当初も寝不足気味だった。
海外に渡ったいま、さらに眠りは浅くなっている。そこに来て隣から遠慮もない声が聞こえてくるのだ。
苛立ちと慢性的な睡眠不足が、頭痛を生んでいる。
どれだけ聞いても馴染まない言語、遮れない隣からの声、そして奥深くで疼く頭痛。
(やっぱり今夜もすんなり眠れそうにないな)
しばらく体を丸めて目を閉じていたけれど、どれだけ時間を重ねても眠気を感じない。
ごろりと仰向けに体勢を変えて、時計を確認した。
あと少しで今日が終わる。
この時間に帰ってこないなら、モーチンさんは夜明け近くに帰宅することが多い。
(……いつもの場所に行こう)
このアパートの屋上には小さいけれど花壇があって、ウッドチェアやテーブルも置いてある。そこは住民が自由に使っていいことになっていた。
眠れない夜はそこに昇って、曇った夜空を眺めて眠気を待つのが俺の小さな楽しみだった。
紅茶をミルクで煮出し、簡単にミルクティーを作ってマグカップに注ぐ。
戸棚からクッキーの残りを取り出して、トレイに載せて屋上へ持って上がった。
「うわ……うん、やっぱり気持ちいい」
屋上のテーブルにトレイを置いて、夜風を吸い込みながら伸びをした。
深呼吸をくり返していると、少しずつ気持ちが足場を取り戻していくのがわかった。
(半年ってモーチンさんが言っていたんだから。ずっとこのままってわけじゃないんだ)
ミルクティーを吹き冷ましながら、会いたい人たちの姿を思い出さないように、懸命に夜空を見上げ続けた。
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全寮制男子校
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※話の内容は全てフィクションになります。現実世界ではありえない設定等ありますのでご了承ください
ブレスレットが運んできたもの
mahiro
BL
第一王子が15歳を迎える日、お祝いとは別に未来の妃を探すことを目的としたパーティーが開催することが発表された。
そのパーティーには身分関係なく未婚である女性や歳の近い女性全員に招待状が配られたのだという。
血の繋がりはないが訳あって一緒に住むことになった妹ーーーミシェルも例外ではなく招待されていた。
これまた俺ーーーアレットとは血の繋がりのない兄ーーーベルナールは妹大好きなだけあって大いに喜んでいたのだと思う。
俺はといえば会場のウェイターが足りないため人材募集が貼り出されていたので応募してみたらたまたま通った。
そして迎えた当日、グラスを片付けるため会場から出た所、廊下のすみに光輝く何かを発見し………?
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
目線の先には。僕の好きな人は誰を見ている?
綾波絢斗
BL
東雲桜花大学附属第一高等学園の三年生の高瀬陸(たかせりく)と一ノ瀬湊(いちのせみなと)は幼稚舎の頃からの幼馴染。
湊は陸にひそかに想いを寄せているけれど、陸はいつも違う人を見ている。
そして、陸は相手が自分に好意を寄せると途端に興味を失う。
その性格を知っている僕は自分の想いを秘めたまま陸の傍にいようとするが、陸が恋している姿を見ていることに耐えられなく陸から離れる決意をした。
新しい道を歩み始めた貴方へ
mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。
そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。
その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。
あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。
あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?
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