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第二章
我恋歌、君へ。第二部 4:幻と痛み
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疲れていたわりには、またも熟睡できなかった夜が明けて翌朝、俺は覚悟を決めてアパートの二階に降りた。
(とにかくいま、俺がやるべきことをするしかない)
英語の習得は半分あきらめて、ヴォイストレーニングと向き合おうと、昨日案内してもらった部屋の前に立っていた。
モーチンさんにベッドまで運ばれたジュノさんは、まるで起きる気配がなかった。
もういい大人だし、とモーチンさんが言うので昨夜は様子を見に来ることもしなかったけれど、あの調子で今朝は大丈夫なんだろうか。
呼び鈴を押す直前、指が触れるほんの数ミリ手前でいきなりドアが開いた。
「っ、わ……」
『ヒビキ・カタヒラ?』
ちゃんとジュノさんが目を開いて、俺を見ながら話をしていた。
俺の名前を確認しながら、不躾なくらい足から頭を眺めまわしてくる。その声は低くてガラガラに枯れていた。
『はい、ヒビキ・カタヒラです。よろしくお願いします』
英語で返して頭を下げたのに、ジュノさんは見もせずに部屋へ戻って行ってしまった。
『……来いって』
『え、はい』
廊下の先まで歩いてから、振り返って俺がドアのところに突っ立ったままなのに気づいたらしい。細い眉を寄せて、機嫌悪そうに声をかけてきた。
(ひ、え……富岡さんとは別の意味で恐いかも、この人~)
恐る恐る足を踏み出して、ジュノさんの後ろ姿を追った。
今朝はシンプルな白いシャツとブラックジーンズを来たジュノさんは、やっぱり俺とほとんど同じ背の高さだった。
むしろ猫背なので、俺より少し低く見えるくらいだ。
乱れたままのジュノさんの髪を見るに、あまり身なりに気を遣う人ではないらしい。
モーチンさんと暮らす部屋とここは同じ間取りかと思ったら、こちらは一部屋しかなかった。
その代わり広くなったその部屋の中央に、ピアノが堂々たる姿で俺を待っていた。
(うわ……けど、酷いなコレは……)
ピアノの周囲はとても人間が暮らしている部屋とは思えない散らかりっぷりだった。
(神音ですら、もう少しマシだったよ)
率先して家事をこなすタイプじゃなかったけれど、効率を求める神音は食生活ほど整理整頓に関しては無頓着じゃなかった。
ジュノさんは何においても頓着していないようだった。脱いだ服と食べた後の食器が一緒にピアノの足元に置かれているし、その隣には枯れた観葉植物の鉢がある。
雑誌や新聞、画面が割れたタブレットが放置してある。
よく見ると干からびたオレンジの皮が、脱いだままの服でサンドイッチされていた。
(……片づけたくなってきた。主婦病かな)
長年の習性がうずくのを、手を開閉することでやりすごす。
生活スペースの区別もまるでしていないここで指導するのかと、背筋に冷や汗が落ちた。
『突っ立ってんじゃねぇよ、歌えや』
『……は、はいっ』
歌えと言われたことは、何となくわかったので、目を閉じて部屋の有様を見ないようにして頭から閉めだした。
『ピアノ?』
真っ暗な視界にそっけないジュノさんの声。
ピアノが何だ、と思った後で伴奏が要るか聞いているのかと、ぼんやり思いつく。
勘に従って要らないと首を振れば、ジュノさんが軽く肩をすくめた。
『…………』
無言のまま、ジュノさんの指がピアノの表面を指で叩いた。そのリズムにカウントなのかと、数秒経って気づく。
富岡さんの指示で来たわけだし、『i-CeL』で歌っていた曲を歌った方がいいかな、と考えて息を吸った。
生まれてはじめて人前でマイクを使って歌った、『i-CeL』が代打で出演したライブで歌った曲『Deep Blue』。
神音が作曲する数が多くて、アレンさんと文月さん、ふたりがかりで作詞しないと追いつかないんだよね、と苦笑していた中で、珍しくこの曲は文月さんが作曲したのだと言う。
結成したての頃、特進入学した神音はしばらくペースを崩して、作曲数が減った時期があったらしい。
旋律が浮かんだのに、曲はできないと神音が悩んでいたところを、文月さんが代わりに作った後、聞いた神音が完成度の高さに嫉妬したんだそうだ。
作詞したのは八代さんで、『i-CeL』の曲の中でこのふたりの組み合わせで作った曲は数少ない。
文月さんらしい繊細でいながら奥底では激流のような音曲に、恋に焦がれる八代さんらしい恋情を描いた歌詞が融合すると、何とも味わい深い歌になると思う。
初ライブでは十分に歌いきれなかったこの曲を、いつかみんなと一緒にもう一度挑戦したいと思っている。
(あぁ……やっぱりみんなと歌いたい。ひとりで歌うとか、別の人とだなんて考えられないよ)
他のだれかがこの曲を演奏したとして、同じような曲にはできても、同じには弾けないだろう。
歌よりはわかりにくいかもしれないけれど、やっぱり楽器も音に個性が滲み出てくるものなんだ。
あの音、空気、そして熱は彼らとしか生み出せない。卒業記念ライブでそれを肌で感じられた。
いまこうしてひとりで歌っていると、なおさら心が音を求めているのがわかった。
この曲は彼らもいてこそ、輝くんだって。
(俺が未熟なだけなのかな?)
歌い終わった時、身近に仲間たちがいたような気配も一緒に空気に溶けてしまって、とても寂しい気持ちになった。
目を開いてジュノさんを見つけたとたん、現実がどっと押し寄せてくる。
ここはイギリス。みんなとは解散させられて、たったひとりでここにいる。
俯いちゃだめだと思うのに、歌っている間がとても楽しくて高揚していたせいで、現実に打ちのめされた振り幅が大きくて、自然と頭が下がった。
足元に読み散らかした本が落ちていた。その背表紙のアルファベットをどうにか読みとろうと目をこらす俺を、細い目をさらに細くして、ジュノさんが見つめた後、さらっと言った。
『駄目だ、救いようがねぇ』
『……え?』
おぼろげながら意味がわかって顔を上げた俺を、ジュノさんの冷たい視線が迎え撃つ。
『おまえ、なぜ歌ってんだ?』
『……わかりません』
理由がではなく、英語が聞き取れなかった。
『カラオケ行けや。何しにここまで来てんだよ』
ジュノさんの表情、吐き出される声の響きから、誉められていないことだけはわかる。
ピアノに手をかけて立っていたジュノさんが、椅子に腰かけてため息をついた。
やけに大きく響いたそれに、俺の肩が揺れた。
『……やる気にならんわ、やっぱ』
足元のいろんな物のかたまりの中から、ジュノさんが酒が入っているらしいボトルを取り上げた。
ふたを口で開けて、直接飲みだす。
『モーチンから聞いたぜ……ダンスしてた方がよっぽど勉強になるんじゃねぇの?』
ぽろん、とやけに澄んだピアノの音を弾いたジュノさんに、俺は絶望を抱いてすがりついた。
『……ダンス、ですか?』
その一部分だけ聞き取れたのだ。
『それと英語』
見下されて、突き放されたことだけは、言葉が通じなくても伝わってくる。
もうジュノさんは俺を忘れ、好き勝手にピアノを弾き鳴らすだけだった。
重い足取りでアパートの階段を上り、部屋に向かっている途中で、アレクシスに声をかけられた。
ゆっくり顔を上げる。俺たちの部屋のドアの隣、自分の部屋のドアに背を預けて、腕組みをするアレクシスがいた。
ハンサムと言っていい顔立ちに、人を見下すような笑みを浮かべているのが見えて、いまはとても話したくない気分だからと顔を伏せた。
そのままやり過ごそうと歩きだした肩を、ぐいっと掴まれた。
『きみ、ひどい顔しているよ』
『……はなしてください』
腕を振って手を引き離した。
ジュノさんに歌を否定された俺は、どうしようもない衝動を抱えていた。
だれかに、何かにそれをぶつけて、見る影もなく壊してしまいたいような、すごく激しく暗い衝動だ。
初対面からいい印象のないアレクシスに、これ以上触れられてしまったら、その衝動が止められずにアレクシスに向かってしまいそうだった。
『……話しかけないでください』
『ふぅ~ん……いつも巨人に隠れてるだけかと思えば、それなりに話せるじゃない。さっき歌声が聞こえたけれど、きみ?』
アレクシスは懲りずに俺の肩を掴んで振り向かせようとする。
俺は舌打ちしたい心地で、足を止めてアレクシスと向き合った。
(なんだって、今日に限って絡んでくるんだよ)
放っておいてくれ、と英語で何と言うんだったかと、滑らかに動かない頭の中を探っている間にも、アレクシスは英語で話しかけてくる。
『エレナさんに聞いたよ。きみ歌を学ぶために来たんだって?』
ぺらぺらと喋るアレクシスの声が、脳を通らずにすり抜けていくみたいだ。風の音みたいで抑揚すら感じとれない。
俺に余裕がないからだ。
(すぐにひとりになりたい。いま、すぐ)
英語が思いつかなくて、俺はとん、とアレクシスの胸を軽く両手で突き離した。
『ごめん』
それだけ英語で伝えて、部屋に戻ろうと振り返った。
『先日きみは僕の事情を聞いたんだ、今度はきみの話を聞かせてくれよ、イーブンにさ』
まだ追いすがって、手を掴んでくるアレクシスに、俺の中の何かが切れた。
「うるさいっ」
日本語で言い放った俺に、一瞬だけアレクシスがたじろいだけれど、すぐに笑顔に戻る。
『……僕だって嫌な想いをしたんだよ?』
「もう俺に話かけないでくださいっ」
今度はさっきよりも強くアレクシスを突き離した。
衝動が、もういますぐにでも皮膚を突き破って、周りを全部壊してしまいそうだった。
(すぐ、すぐにひとりにならないとっ)
だれかを傷つけるのも、みっともなく暴れる姿を見せるのも嫌だった。
こう言う時はベッドに丸まって、ただ嵐が過ぎ去るのを待つのが最善策だろう。
それなのにアレクシスは俺に手を伸ばしてくる。
その姿がなぜか急に別の人に重なって見えて、俺は身動きがとれなくなった。
(え……あれ?)
日本人にはない白い手。
彫りの深い顔立ちに、煌めく青い瞳。
春みたいな笑顔が似合う、どこにいても目立つ長身の彼。
(……アレクシス、だよね……ここにいるのは)
アレクシスは俺の頭に手を乗せて、顔を覗きこんできたみたいだ。何か言っているけれど、もう音すら聞こえなくなっている。
目もおかしくなってしまったらしい。アレクシスのはずなのに、彼にしか見えなかった。
なぜ、と思ったとたんに足元から床が消えたみたいになる。
(もう帰る場所がない)
こちらを見ないジュノさんから伝わる、冷たい気配。
ひとりで見上げる異国の空、まるでついていけない言語、見慣れない町並み。
送り出される前に見た、呆然としていた仲間たち。
高校卒業後、大学へ進学する予定だった俺は卒業直前に進学を撤回した。
当然ながら就職も間に合わないし、する予定もなかった。
アルバイトで食いつなぎながら、歌うつもりだったのだ。
そんな俺が実家に戻ったとしても母親がいい顔をするはずがなく、卒業する前に母親の本音を聞いてしまったいま、実家に戻ることは絶対にしたくなかった。
「歌上手くなって……富岡さんを説得するはずだったのに、ごめんなさい」
アレクシスに重なる幻に向かって、自然と日本語がこぼれていた。
アレクシスが目を見開いた。幻は変わらず微笑んでいる。
異国でも何とか立って歩こうと思えた最後の足場を、ジュノさんの拒絶が崩壊させてしまった。
心がどんどん暗く染まっていく。
幻の笑顔もかすんで、消えてしまった。
部屋に戻ろうとしていたけれど、部屋に戻る資格が俺にあるんだろうか。
(……くたばってくれたほうが、せいせいするわ……か)
視界が薄暗くなり、遠くから声が聞こえてくる。何度もくり返される嘲笑と拒絶。
これは卒業前に偶然聞いてしまった母と祖母の会話だ、と思ったとたんに体が揺れた。
『大丈夫かいっ』
何か聞こえた気がして、腕を掴まれた。
そのとたん、全身の毛が逆立った。
灰色の実家に封じてきたはずの亡霊に、ついに腕を掴まれた気がしたのだ。
「はなせっ!」
『……う、……』
手が離れた。支えを失って体が倒れる。
それでもいい、このままどこへ落ちてもかまわない。あの家でさえなければ。
寝不足の思考回路は、奇妙な満足感に包まれていた。
その時、頬をだれかに殴られた。
元々落ちていく途中だった体が、勢いつけて床にぶつかった。
衝撃で目の前が一瞬白くなって、霧が晴れるように現実が映し出された。
手入れされている木製の廊下が見える。
横には白い扉、廊下の先は階段。
背後に人の息づかいを感じて振り返ると、表情を険しくさせたアレクシスが、呼吸を乱して立っていた。
『……ア、レクシス?』
アレクシスは無言のまま、俺の胸倉を掴んで立ち上がらせた。
悔しいけれど、同性から見てもかっこいいアレクシスの顔に、赤い筋が走っていた。
左目のわずか下に数センチほど、斜めに走ったそこから、ぼんやりと血が滲んでいる。
『きみね、落ち込んでいるなら何をやってもいいと思っていない?』
『……わかりません』
底冷えする声で話しかけられたけれど、頭は英語を完全に閉めだしている。
聞きたくもない、みんな意味のわからない言葉ばかりだ。
なげやりに言い返してやったら、アレクシスの目元が不穏に震える。
でももうどうでもいいと、俺はふっと笑った。アレクシスが機嫌を損ねると予想できたけれど、それもどうだってかまわない。
アレクシスが舌打ちした。間もなく拳がまた頬を抉る。
廊下に音を立てて崩れ落ちた俺に馬乗りになって、アレクシスがまくしたててくる。
『わからないって逃げてないで、心を耳を目を開いて現実を見てみなさい。きみはどれだけいろんな人に助けてもらっていると思っているんだい? それもわからないのかい』
またわかりません、と言えば息絶えるほど殴ってくれるだろうか、と思ったけど唇が震えるばかりで言えなかった。
『みんながきみを見守っているってのに。きみを見ていると苛々するよっ』
殴られた衝撃でか頭がぼうっとするのに、英語で早口でまくしたてられて、理解できない苛立ちが加速していく。
「わからないって言っているだろっ」
『っ』
はじめて腕を振って人を殴った。
神音がピアノを習っていたことと、仲が良かったせいで、俺は殴りあいの喧嘩をしたことがない。
そこまで深い仲の友達もいなかったし、不良に目をつけられるような俺でもなかった。
慣れない俺の反撃なんて、アレクシスにとったら子猫パンチより軽いものだっただろう。
だけど不機嫌さが増して、アレクシスの目に険呑な光が宿った。
『どうしてそこまでひねくれていられるんだい、このわからずや』
「……何を言っているのかわからないけど、俺もあなたが嫌いだよ。見ていると腹が立つ」
人目も気にせず女性とキスをしていた初日。
壁越しに聞こえてくる淫らな声。
そのくせ過去に女性を傷つけた恐怖から、アイスダンスを踊れなくなったと言う。
(矛盾してる……)
ただ見ているだけで心を掻き乱す存在だった。その内情を知ると、さらに心に嵐が吹き荒れる。
「あなたなんか、どうせたいした踊りなんてできないさっ」
『……国の言葉かい。わからないけど、すごく不愉快だよ』
お互いに言葉は通じないまま、嫌い合っていることだけは通じた。
睨み合うこと数秒。
アレクシスがまた殴ろうとしたその手を掴んで、俺は噛みついた。
痛そうな悲鳴を上げたアレクシスに蹴られて、俺の体が廊下を転がった。
後はもう何が何だか、考えるまでもなく、本能のままにお互いを痛めつけた。
『何をしているのっ、アレク、キョウくんっ』
『あ~ぁ、こりゃいかんな。コレ、やめんかふたりとも』
管理人夫妻が騒ぎに気づいて駆けつけて、強引に引きはがされるまでやりあった。
荒い息をくり返しながら、ふたりとも睨み合ったままなのを見て、エレナさんが顔色を変えていたけれど、いまはどうだっていい。
大柄なアレクシスを旦那さんがはがいじめにして、部屋に連れて行く。
俺より少しだけ背が低いエレナさんが、おずおずと俺の肩に触れてきた。
『……部屋に戻りましょう? 傷の手当てをしなくちゃね』
『……はい』
エレナさんに押されて部屋に戻って、椅子に座らされる間に、だいぶ頭が冷えてきていた。
アレクシスは変わらず憎いけれど、エレナさんたちに迷惑をかけたことが申し訳ないと思えるくらいに。
『……ごめんなさい』
一度部屋を出て救急箱らしき物を持って帰ってきたエレナさんに、頭を下げて謝った。
すると強張った顔をしていたエレナさんが、顔をほころばせた。
だけどすぐに顔をしかめて、めっと言った。
『人を殴ってはいけないわ』
『はい……ごめんなさい』
素直に謝って、エレナさんに傷の手当てをしてもらった。
二回も殴られた頬は腫れあがって、口の中を切ってしまっていたらしく、唇の端から血も流れ落ちていた。
庇いもしないで殴り合ったから、腹や胸、腕にと赤い痣がいくつも散っていた。
『まぁまぁ、本当に男の子ったら……キョウくんは人を殴るコじゃないと思っていたのに』
呆れたような、痛ましそうな表情で体の痣を見るエレナさんに、心底申し訳なさを感じた。
湿布の代わりだろうか。冷たくなる薬を痣に塗りたくられた。触られるだけで痛かったけれど、心配かけたくなかったから唇を噛んで耐え続けた。
『……何かあったのね、よっぽどのことが』
優しい声音になったエレナさんの問いかけに、俺は答えられなかった。
『聞いて欲しくなったら、いつでも耳を貸すわ。言いたくないなら、聞かない。それがわたし、覚えていてね』
「いたっ」
仕上げとばかりに肩を叩かれて、打ちつけた場所だったから痛みのあまりに日本語で叫んでしまった。
エレナさんはわかってやったのよ、と言いたげな顔で片づけると、箱を持って部屋を出て行った。
間もなく隣の部屋からアレクシスらしき呻き声が聞こえたので、少しだけ気持ちが晴れた。
「……はぁ~……まいったな」
ジュノンさんの部屋へ行ってから、時間はそれほど経っていないはずなのに、激流に飲まれたみたいで心身が異常に重かった。
「だからひとりになりたいって思ったのに」
何でアレクシスは俺に声をかけてきたのだろう。
「……でも、よかった。俺が喧嘩慣れしてなくて」
ベッドに仰向けで転がって、腹の底から息を吐きだした。
さっきまでの衝動は消えていた。
けれどあの衝動が何なのか、考えると恐ろしくなる。
はじめてあの衝動を感じたのは、初ライブを経験した後だった。
そして次は実家で実母と祖母の会話を聞いた時。
最初や今回はまだいい。本当の標的は自分自身なのだから。
(だけどもし、あの時堪えきれなくなってたら)
灰色の廊下、呪詛みたいに聞こえたふたりの声が記憶の底に残っている。
突然体中の血が凍りついたようで、慌てて自分自身の体を抱きしめた。
もう考えるのはやめよう、とベッドの上で丸まって目を閉じた。
シーツを探った手が何かに当たる。
「……これか」
富岡さんにもらった、聞くだけで英会話がマスターできると言うCDがセットしてあるプレーヤーだ。
「こんなものっ……」
衝動的につかんで振り上げた。
けど腕が動かなかった。
(……ちくしょう。何をしても、俺は出来が悪い)
ジュノさんの最後の横顔が脳裏に浮かんだ。
毎夜飽きるくらい聞いても、まるで理解できない意味不明な音。
高校の授業を真面目に受けたつもりだった。でも成績は誇れるものじゃなかったし、実生活で活かされていない。
ようやくひとつ、これだけは胸を張れると思った歌に下された評価は、英語と同じで。
(惨めすぎる)
のろのろと腕を下ろし、プレーヤーをベッドに置く。
ジュノさんが富岡さんに頼まれたのなら、俺は駄目だと伝えるかもしれない。
半年待たずに帰国させられるかもしれない。
もう聞く必要はないCDだけど、これを壊してしまったら、日本との絆がなくなってしまいそうで壊せなかった。
パスポートとこのCDだけが、俺と一緒に海を渡ってくれた友なのだ。
「……帰れる、かな……」
日本に、ではなくて。
手放したくないと気づいたあの場所へ。
絶望に包まれて、久しぶりに静かな眠りへと意識が落ちていった。
(とにかくいま、俺がやるべきことをするしかない)
英語の習得は半分あきらめて、ヴォイストレーニングと向き合おうと、昨日案内してもらった部屋の前に立っていた。
モーチンさんにベッドまで運ばれたジュノさんは、まるで起きる気配がなかった。
もういい大人だし、とモーチンさんが言うので昨夜は様子を見に来ることもしなかったけれど、あの調子で今朝は大丈夫なんだろうか。
呼び鈴を押す直前、指が触れるほんの数ミリ手前でいきなりドアが開いた。
「っ、わ……」
『ヒビキ・カタヒラ?』
ちゃんとジュノさんが目を開いて、俺を見ながら話をしていた。
俺の名前を確認しながら、不躾なくらい足から頭を眺めまわしてくる。その声は低くてガラガラに枯れていた。
『はい、ヒビキ・カタヒラです。よろしくお願いします』
英語で返して頭を下げたのに、ジュノさんは見もせずに部屋へ戻って行ってしまった。
『……来いって』
『え、はい』
廊下の先まで歩いてから、振り返って俺がドアのところに突っ立ったままなのに気づいたらしい。細い眉を寄せて、機嫌悪そうに声をかけてきた。
(ひ、え……富岡さんとは別の意味で恐いかも、この人~)
恐る恐る足を踏み出して、ジュノさんの後ろ姿を追った。
今朝はシンプルな白いシャツとブラックジーンズを来たジュノさんは、やっぱり俺とほとんど同じ背の高さだった。
むしろ猫背なので、俺より少し低く見えるくらいだ。
乱れたままのジュノさんの髪を見るに、あまり身なりに気を遣う人ではないらしい。
モーチンさんと暮らす部屋とここは同じ間取りかと思ったら、こちらは一部屋しかなかった。
その代わり広くなったその部屋の中央に、ピアノが堂々たる姿で俺を待っていた。
(うわ……けど、酷いなコレは……)
ピアノの周囲はとても人間が暮らしている部屋とは思えない散らかりっぷりだった。
(神音ですら、もう少しマシだったよ)
率先して家事をこなすタイプじゃなかったけれど、効率を求める神音は食生活ほど整理整頓に関しては無頓着じゃなかった。
ジュノさんは何においても頓着していないようだった。脱いだ服と食べた後の食器が一緒にピアノの足元に置かれているし、その隣には枯れた観葉植物の鉢がある。
雑誌や新聞、画面が割れたタブレットが放置してある。
よく見ると干からびたオレンジの皮が、脱いだままの服でサンドイッチされていた。
(……片づけたくなってきた。主婦病かな)
長年の習性がうずくのを、手を開閉することでやりすごす。
生活スペースの区別もまるでしていないここで指導するのかと、背筋に冷や汗が落ちた。
『突っ立ってんじゃねぇよ、歌えや』
『……は、はいっ』
歌えと言われたことは、何となくわかったので、目を閉じて部屋の有様を見ないようにして頭から閉めだした。
『ピアノ?』
真っ暗な視界にそっけないジュノさんの声。
ピアノが何だ、と思った後で伴奏が要るか聞いているのかと、ぼんやり思いつく。
勘に従って要らないと首を振れば、ジュノさんが軽く肩をすくめた。
『…………』
無言のまま、ジュノさんの指がピアノの表面を指で叩いた。そのリズムにカウントなのかと、数秒経って気づく。
富岡さんの指示で来たわけだし、『i-CeL』で歌っていた曲を歌った方がいいかな、と考えて息を吸った。
生まれてはじめて人前でマイクを使って歌った、『i-CeL』が代打で出演したライブで歌った曲『Deep Blue』。
神音が作曲する数が多くて、アレンさんと文月さん、ふたりがかりで作詞しないと追いつかないんだよね、と苦笑していた中で、珍しくこの曲は文月さんが作曲したのだと言う。
結成したての頃、特進入学した神音はしばらくペースを崩して、作曲数が減った時期があったらしい。
旋律が浮かんだのに、曲はできないと神音が悩んでいたところを、文月さんが代わりに作った後、聞いた神音が完成度の高さに嫉妬したんだそうだ。
作詞したのは八代さんで、『i-CeL』の曲の中でこのふたりの組み合わせで作った曲は数少ない。
文月さんらしい繊細でいながら奥底では激流のような音曲に、恋に焦がれる八代さんらしい恋情を描いた歌詞が融合すると、何とも味わい深い歌になると思う。
初ライブでは十分に歌いきれなかったこの曲を、いつかみんなと一緒にもう一度挑戦したいと思っている。
(あぁ……やっぱりみんなと歌いたい。ひとりで歌うとか、別の人とだなんて考えられないよ)
他のだれかがこの曲を演奏したとして、同じような曲にはできても、同じには弾けないだろう。
歌よりはわかりにくいかもしれないけれど、やっぱり楽器も音に個性が滲み出てくるものなんだ。
あの音、空気、そして熱は彼らとしか生み出せない。卒業記念ライブでそれを肌で感じられた。
いまこうしてひとりで歌っていると、なおさら心が音を求めているのがわかった。
この曲は彼らもいてこそ、輝くんだって。
(俺が未熟なだけなのかな?)
歌い終わった時、身近に仲間たちがいたような気配も一緒に空気に溶けてしまって、とても寂しい気持ちになった。
目を開いてジュノさんを見つけたとたん、現実がどっと押し寄せてくる。
ここはイギリス。みんなとは解散させられて、たったひとりでここにいる。
俯いちゃだめだと思うのに、歌っている間がとても楽しくて高揚していたせいで、現実に打ちのめされた振り幅が大きくて、自然と頭が下がった。
足元に読み散らかした本が落ちていた。その背表紙のアルファベットをどうにか読みとろうと目をこらす俺を、細い目をさらに細くして、ジュノさんが見つめた後、さらっと言った。
『駄目だ、救いようがねぇ』
『……え?』
おぼろげながら意味がわかって顔を上げた俺を、ジュノさんの冷たい視線が迎え撃つ。
『おまえ、なぜ歌ってんだ?』
『……わかりません』
理由がではなく、英語が聞き取れなかった。
『カラオケ行けや。何しにここまで来てんだよ』
ジュノさんの表情、吐き出される声の響きから、誉められていないことだけはわかる。
ピアノに手をかけて立っていたジュノさんが、椅子に腰かけてため息をついた。
やけに大きく響いたそれに、俺の肩が揺れた。
『……やる気にならんわ、やっぱ』
足元のいろんな物のかたまりの中から、ジュノさんが酒が入っているらしいボトルを取り上げた。
ふたを口で開けて、直接飲みだす。
『モーチンから聞いたぜ……ダンスしてた方がよっぽど勉強になるんじゃねぇの?』
ぽろん、とやけに澄んだピアノの音を弾いたジュノさんに、俺は絶望を抱いてすがりついた。
『……ダンス、ですか?』
その一部分だけ聞き取れたのだ。
『それと英語』
見下されて、突き放されたことだけは、言葉が通じなくても伝わってくる。
もうジュノさんは俺を忘れ、好き勝手にピアノを弾き鳴らすだけだった。
重い足取りでアパートの階段を上り、部屋に向かっている途中で、アレクシスに声をかけられた。
ゆっくり顔を上げる。俺たちの部屋のドアの隣、自分の部屋のドアに背を預けて、腕組みをするアレクシスがいた。
ハンサムと言っていい顔立ちに、人を見下すような笑みを浮かべているのが見えて、いまはとても話したくない気分だからと顔を伏せた。
そのままやり過ごそうと歩きだした肩を、ぐいっと掴まれた。
『きみ、ひどい顔しているよ』
『……はなしてください』
腕を振って手を引き離した。
ジュノさんに歌を否定された俺は、どうしようもない衝動を抱えていた。
だれかに、何かにそれをぶつけて、見る影もなく壊してしまいたいような、すごく激しく暗い衝動だ。
初対面からいい印象のないアレクシスに、これ以上触れられてしまったら、その衝動が止められずにアレクシスに向かってしまいそうだった。
『……話しかけないでください』
『ふぅ~ん……いつも巨人に隠れてるだけかと思えば、それなりに話せるじゃない。さっき歌声が聞こえたけれど、きみ?』
アレクシスは懲りずに俺の肩を掴んで振り向かせようとする。
俺は舌打ちしたい心地で、足を止めてアレクシスと向き合った。
(なんだって、今日に限って絡んでくるんだよ)
放っておいてくれ、と英語で何と言うんだったかと、滑らかに動かない頭の中を探っている間にも、アレクシスは英語で話しかけてくる。
『エレナさんに聞いたよ。きみ歌を学ぶために来たんだって?』
ぺらぺらと喋るアレクシスの声が、脳を通らずにすり抜けていくみたいだ。風の音みたいで抑揚すら感じとれない。
俺に余裕がないからだ。
(すぐにひとりになりたい。いま、すぐ)
英語が思いつかなくて、俺はとん、とアレクシスの胸を軽く両手で突き離した。
『ごめん』
それだけ英語で伝えて、部屋に戻ろうと振り返った。
『先日きみは僕の事情を聞いたんだ、今度はきみの話を聞かせてくれよ、イーブンにさ』
まだ追いすがって、手を掴んでくるアレクシスに、俺の中の何かが切れた。
「うるさいっ」
日本語で言い放った俺に、一瞬だけアレクシスがたじろいだけれど、すぐに笑顔に戻る。
『……僕だって嫌な想いをしたんだよ?』
「もう俺に話かけないでくださいっ」
今度はさっきよりも強くアレクシスを突き離した。
衝動が、もういますぐにでも皮膚を突き破って、周りを全部壊してしまいそうだった。
(すぐ、すぐにひとりにならないとっ)
だれかを傷つけるのも、みっともなく暴れる姿を見せるのも嫌だった。
こう言う時はベッドに丸まって、ただ嵐が過ぎ去るのを待つのが最善策だろう。
それなのにアレクシスは俺に手を伸ばしてくる。
その姿がなぜか急に別の人に重なって見えて、俺は身動きがとれなくなった。
(え……あれ?)
日本人にはない白い手。
彫りの深い顔立ちに、煌めく青い瞳。
春みたいな笑顔が似合う、どこにいても目立つ長身の彼。
(……アレクシス、だよね……ここにいるのは)
アレクシスは俺の頭に手を乗せて、顔を覗きこんできたみたいだ。何か言っているけれど、もう音すら聞こえなくなっている。
目もおかしくなってしまったらしい。アレクシスのはずなのに、彼にしか見えなかった。
なぜ、と思ったとたんに足元から床が消えたみたいになる。
(もう帰る場所がない)
こちらを見ないジュノさんから伝わる、冷たい気配。
ひとりで見上げる異国の空、まるでついていけない言語、見慣れない町並み。
送り出される前に見た、呆然としていた仲間たち。
高校卒業後、大学へ進学する予定だった俺は卒業直前に進学を撤回した。
当然ながら就職も間に合わないし、する予定もなかった。
アルバイトで食いつなぎながら、歌うつもりだったのだ。
そんな俺が実家に戻ったとしても母親がいい顔をするはずがなく、卒業する前に母親の本音を聞いてしまったいま、実家に戻ることは絶対にしたくなかった。
「歌上手くなって……富岡さんを説得するはずだったのに、ごめんなさい」
アレクシスに重なる幻に向かって、自然と日本語がこぼれていた。
アレクシスが目を見開いた。幻は変わらず微笑んでいる。
異国でも何とか立って歩こうと思えた最後の足場を、ジュノさんの拒絶が崩壊させてしまった。
心がどんどん暗く染まっていく。
幻の笑顔もかすんで、消えてしまった。
部屋に戻ろうとしていたけれど、部屋に戻る資格が俺にあるんだろうか。
(……くたばってくれたほうが、せいせいするわ……か)
視界が薄暗くなり、遠くから声が聞こえてくる。何度もくり返される嘲笑と拒絶。
これは卒業前に偶然聞いてしまった母と祖母の会話だ、と思ったとたんに体が揺れた。
『大丈夫かいっ』
何か聞こえた気がして、腕を掴まれた。
そのとたん、全身の毛が逆立った。
灰色の実家に封じてきたはずの亡霊に、ついに腕を掴まれた気がしたのだ。
「はなせっ!」
『……う、……』
手が離れた。支えを失って体が倒れる。
それでもいい、このままどこへ落ちてもかまわない。あの家でさえなければ。
寝不足の思考回路は、奇妙な満足感に包まれていた。
その時、頬をだれかに殴られた。
元々落ちていく途中だった体が、勢いつけて床にぶつかった。
衝撃で目の前が一瞬白くなって、霧が晴れるように現実が映し出された。
手入れされている木製の廊下が見える。
横には白い扉、廊下の先は階段。
背後に人の息づかいを感じて振り返ると、表情を険しくさせたアレクシスが、呼吸を乱して立っていた。
『……ア、レクシス?』
アレクシスは無言のまま、俺の胸倉を掴んで立ち上がらせた。
悔しいけれど、同性から見てもかっこいいアレクシスの顔に、赤い筋が走っていた。
左目のわずか下に数センチほど、斜めに走ったそこから、ぼんやりと血が滲んでいる。
『きみね、落ち込んでいるなら何をやってもいいと思っていない?』
『……わかりません』
底冷えする声で話しかけられたけれど、頭は英語を完全に閉めだしている。
聞きたくもない、みんな意味のわからない言葉ばかりだ。
なげやりに言い返してやったら、アレクシスの目元が不穏に震える。
でももうどうでもいいと、俺はふっと笑った。アレクシスが機嫌を損ねると予想できたけれど、それもどうだってかまわない。
アレクシスが舌打ちした。間もなく拳がまた頬を抉る。
廊下に音を立てて崩れ落ちた俺に馬乗りになって、アレクシスがまくしたててくる。
『わからないって逃げてないで、心を耳を目を開いて現実を見てみなさい。きみはどれだけいろんな人に助けてもらっていると思っているんだい? それもわからないのかい』
またわかりません、と言えば息絶えるほど殴ってくれるだろうか、と思ったけど唇が震えるばかりで言えなかった。
『みんながきみを見守っているってのに。きみを見ていると苛々するよっ』
殴られた衝撃でか頭がぼうっとするのに、英語で早口でまくしたてられて、理解できない苛立ちが加速していく。
「わからないって言っているだろっ」
『っ』
はじめて腕を振って人を殴った。
神音がピアノを習っていたことと、仲が良かったせいで、俺は殴りあいの喧嘩をしたことがない。
そこまで深い仲の友達もいなかったし、不良に目をつけられるような俺でもなかった。
慣れない俺の反撃なんて、アレクシスにとったら子猫パンチより軽いものだっただろう。
だけど不機嫌さが増して、アレクシスの目に険呑な光が宿った。
『どうしてそこまでひねくれていられるんだい、このわからずや』
「……何を言っているのかわからないけど、俺もあなたが嫌いだよ。見ていると腹が立つ」
人目も気にせず女性とキスをしていた初日。
壁越しに聞こえてくる淫らな声。
そのくせ過去に女性を傷つけた恐怖から、アイスダンスを踊れなくなったと言う。
(矛盾してる……)
ただ見ているだけで心を掻き乱す存在だった。その内情を知ると、さらに心に嵐が吹き荒れる。
「あなたなんか、どうせたいした踊りなんてできないさっ」
『……国の言葉かい。わからないけど、すごく不愉快だよ』
お互いに言葉は通じないまま、嫌い合っていることだけは通じた。
睨み合うこと数秒。
アレクシスがまた殴ろうとしたその手を掴んで、俺は噛みついた。
痛そうな悲鳴を上げたアレクシスに蹴られて、俺の体が廊下を転がった。
後はもう何が何だか、考えるまでもなく、本能のままにお互いを痛めつけた。
『何をしているのっ、アレク、キョウくんっ』
『あ~ぁ、こりゃいかんな。コレ、やめんかふたりとも』
管理人夫妻が騒ぎに気づいて駆けつけて、強引に引きはがされるまでやりあった。
荒い息をくり返しながら、ふたりとも睨み合ったままなのを見て、エレナさんが顔色を変えていたけれど、いまはどうだっていい。
大柄なアレクシスを旦那さんがはがいじめにして、部屋に連れて行く。
俺より少しだけ背が低いエレナさんが、おずおずと俺の肩に触れてきた。
『……部屋に戻りましょう? 傷の手当てをしなくちゃね』
『……はい』
エレナさんに押されて部屋に戻って、椅子に座らされる間に、だいぶ頭が冷えてきていた。
アレクシスは変わらず憎いけれど、エレナさんたちに迷惑をかけたことが申し訳ないと思えるくらいに。
『……ごめんなさい』
一度部屋を出て救急箱らしき物を持って帰ってきたエレナさんに、頭を下げて謝った。
すると強張った顔をしていたエレナさんが、顔をほころばせた。
だけどすぐに顔をしかめて、めっと言った。
『人を殴ってはいけないわ』
『はい……ごめんなさい』
素直に謝って、エレナさんに傷の手当てをしてもらった。
二回も殴られた頬は腫れあがって、口の中を切ってしまっていたらしく、唇の端から血も流れ落ちていた。
庇いもしないで殴り合ったから、腹や胸、腕にと赤い痣がいくつも散っていた。
『まぁまぁ、本当に男の子ったら……キョウくんは人を殴るコじゃないと思っていたのに』
呆れたような、痛ましそうな表情で体の痣を見るエレナさんに、心底申し訳なさを感じた。
湿布の代わりだろうか。冷たくなる薬を痣に塗りたくられた。触られるだけで痛かったけれど、心配かけたくなかったから唇を噛んで耐え続けた。
『……何かあったのね、よっぽどのことが』
優しい声音になったエレナさんの問いかけに、俺は答えられなかった。
『聞いて欲しくなったら、いつでも耳を貸すわ。言いたくないなら、聞かない。それがわたし、覚えていてね』
「いたっ」
仕上げとばかりに肩を叩かれて、打ちつけた場所だったから痛みのあまりに日本語で叫んでしまった。
エレナさんはわかってやったのよ、と言いたげな顔で片づけると、箱を持って部屋を出て行った。
間もなく隣の部屋からアレクシスらしき呻き声が聞こえたので、少しだけ気持ちが晴れた。
「……はぁ~……まいったな」
ジュノンさんの部屋へ行ってから、時間はそれほど経っていないはずなのに、激流に飲まれたみたいで心身が異常に重かった。
「だからひとりになりたいって思ったのに」
何でアレクシスは俺に声をかけてきたのだろう。
「……でも、よかった。俺が喧嘩慣れしてなくて」
ベッドに仰向けで転がって、腹の底から息を吐きだした。
さっきまでの衝動は消えていた。
けれどあの衝動が何なのか、考えると恐ろしくなる。
はじめてあの衝動を感じたのは、初ライブを経験した後だった。
そして次は実家で実母と祖母の会話を聞いた時。
最初や今回はまだいい。本当の標的は自分自身なのだから。
(だけどもし、あの時堪えきれなくなってたら)
灰色の廊下、呪詛みたいに聞こえたふたりの声が記憶の底に残っている。
突然体中の血が凍りついたようで、慌てて自分自身の体を抱きしめた。
もう考えるのはやめよう、とベッドの上で丸まって目を閉じた。
シーツを探った手が何かに当たる。
「……これか」
富岡さんにもらった、聞くだけで英会話がマスターできると言うCDがセットしてあるプレーヤーだ。
「こんなものっ……」
衝動的につかんで振り上げた。
けど腕が動かなかった。
(……ちくしょう。何をしても、俺は出来が悪い)
ジュノさんの最後の横顔が脳裏に浮かんだ。
毎夜飽きるくらい聞いても、まるで理解できない意味不明な音。
高校の授業を真面目に受けたつもりだった。でも成績は誇れるものじゃなかったし、実生活で活かされていない。
ようやくひとつ、これだけは胸を張れると思った歌に下された評価は、英語と同じで。
(惨めすぎる)
のろのろと腕を下ろし、プレーヤーをベッドに置く。
ジュノさんが富岡さんに頼まれたのなら、俺は駄目だと伝えるかもしれない。
半年待たずに帰国させられるかもしれない。
もう聞く必要はないCDだけど、これを壊してしまったら、日本との絆がなくなってしまいそうで壊せなかった。
パスポートとこのCDだけが、俺と一緒に海を渡ってくれた友なのだ。
「……帰れる、かな……」
日本に、ではなくて。
手放したくないと気づいたあの場所へ。
絶望に包まれて、久しぶりに静かな眠りへと意識が落ちていった。
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