我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第二章

我恋歌、君へ。第二部 5:悪夢と同居

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 眠る時間は短くなっていたけれど、夢はみない毎日だったのに、その時は違った。
 ずいぶん久しぶりに見る、左手が痛みを叫ぶあの夢の中に、また俺は戻ってきていた。
 暗い部屋、圧し掛かる人、振り下ろされる凶器。
 激痛を抱えて、ひとりベッドに座り続ける幼い頃の俺がいる。
 空腹と喉の渇きに耐えられず、俺がベッドから降りる。二段ベッドの上段から手を庇いつつ降りて、キッチンへ行く。
 冷蔵庫の中から牛乳を取り出して飲もうとする俺を見つけて、母方の祖母が近づいた。
(あれ、この辺りは夢で見たことないな……いつもベッドで座りっぱなしだったのに)
 疑問に思いつつ見守るしかない夢の中で、幼い俺は祖母に気づいて手を止めた。
 幼い俺に牛乳パックは片手で持ち続けるには重たい物だったらしい。手が震えている。
 祖母は俺をすごく冷たい目で見下ろした後、腰を下ろして顔を近づけた。
『どうしてここにいるんだい?』
『…………』
 のどがかわいたから、と唇が動くけれど声は出ない。代わりに幼い俺は牛乳パックを置いて、指で牛乳と自分自身の喉を交互に指差した。
 反対側の手は包帯とギプスで覆われて、倍以上の大きさになっていた。
(あぁ、まだ怪我をして間もないんだ)
 パジャマ姿のボサボサの髪のまま、片手を大きくした幼い俺を、祖母はいきなり平手で張り倒した。
(えっ……!)
 こんな場面はいままでなかったのに。
(現実が夢に混じったのか?)
 幼い俺がキッチンに倒れ込む。
 その上に祖母が馬乗りになって、泣きだした俺の顔を両手で挟んで、自分の方を向かせた。
『何度言ったらわかるんだい。おまえはゴミなんだ、人間様みたいに食って眠る生活する資格なんてないんだよ。なのにどうしてまだ生きている?』
 祖母がやれやれとため息をついている。
 幼い俺はただ祖母を見上げて不安そうに目を揺らしていた。
 祖母の手が幼い俺の喉にかかった。
『いまはだれもいないからね。いまのうちに』
 幼い俺の首が締まるのが見えた。
 祖母の顔は静かだった。
『私が殺してやろうかね』
 そこには何の感情も見えなかった。
 ただ当たり前のように、幼い俺の首を絞めていく。
 まるで日常の雑事のひとつみたいな、肩に力の入らない自然体な顔で子供を殺そうとしている。
 俺は突然息苦しさに襲われて、急激に夢の世界から意識を引き剥がした。
 はっ、と目を見開くと、ここ一ヶ月で見慣れた天井が目に映った。
「……あ、れは……」
 知らず喉からこぼれた声はかすれ、右手で無意識のうちに首元を確かめてしまった。
 現実世界が過去の記憶と混同して、微妙に違った夢の世界になってしまっただけだろう。
 そう思う一方で、久しぶりに激痛で呻く左手に、背筋を氷が落ちていくような心地になる。
 神音が言っていた。生きるために俺はあの頃の記憶を、左手を折られた記憶を忘れたのだと。
(……あれはまだ思い出していなかった記憶なのか……いや、ただの夢だよな)
 願うように結論づけたそれへ、左手が抗議の声を上げているようだった。
 体を丸めて痛みが通り過ぎるのを待つ。
 体中が寒さで震えていた。
 いまは夏の入口だ。夜はまだ冷える日もあるけれど、寒さで震えるほどじゃないはずなのに。
 閉じたまぶたの裏で、また明るい陽射しのような笑顔がぼんやりと浮かんでくる。
 すがりつきたいと叫びかける心を、唇を噛んで押し殺した。
(いない人のこと、想ったって仕方ない。俺はひとり、ここに俺しかいない。俺がどうにかするしかないんだからっ)
 思い出した過去の幻に苦しむたびに、そっと寄り添ってくれていた温度を、心が勝手に思い出そうとする。
 何度もそれを打ち消しながら、痛みが遠ざかる時を待ち続けた。


 俺がアレクシスと喧嘩をしたことは、すぐにモーチンさんに伝えられた。
「ヒッキー。どうしたの、殴り合いのケンカしたんだって?」
 その日は公演が休みだとかで、珍しく早く帰ってきたモーチンさんに、急いで作った日本食を差し出しながら、あいまいに笑いながら頷いた。
 今夜は缶詰を空けただけの、手抜き料理になってしまった。
 結局左手の発作が治まったのが夕方近くで、慌てて食材を買いに行ったけれど帰宅まで間がなくて、これくらいしかできなかったのだ。
「……すみませんでした」
「ううん。謝って欲しいんじゃないンダヨ? どうしたのかなって、理由が聞きたいんだ」
「理由なんて……特にありませんよ」
「それくらいのウソはボクでも見抜けるヨ、ヒッキー」
「…………」
 まぁそうだろうな、と自分でもわかる。
 キッチンテーブルに向き合って座りながら、どう言ったらいいだろうと悩んだ。
「ジュノちゃんとこに行ったんでショ?」
「……はい」
 お互いに手を合わせて、箸を持ち上げながら話を進めた。
「ジュノちゃん、言い方キッツイからね……何か言われたデショ。ダメだとか?」
「…………」
 そもそも言葉がわからなかった。それに言葉にするには傷口が新しすぎて、素直にモーチンさんには伝えられなかった。
「……食べたらジュノちゃんに会いに行ってくるネ」
「えっ、な、何で」
 食べるのも忘れて、モーチンさんを呆然と見た。モーチンさんは器用に箸を使って、おいしそうに食べてくれていた。
「ヒッキーを預かっているのはボクだから、進捗状況聞いておかないとイケナイ。それにケンカしたって言うし、原因はジュノちゃんにありそうだから」
「ち、ちがいますよっ」
 俺は持っていた箸とお椀を置いて、立ち上がって抗議していた。
「やめてください、ジュノさんは関係ないですからっ」
「ん、でも行ってくる。旧友にちゃんと会いたいし、一昨日は酔いつぶれて話もできなかったんだカラ」
「……会話が成立しないって言っていたのに」
 これ以上言っても無駄だとわかって、力を失くして椅子に座り直した。
 ジュノさんの言葉に傷ついて、自棄を起こして喧嘩したなんて、恥ずかしくて聞かせたくなかった。聞けばきっと冷たく笑い飛ばすだろう。
 ぎゅっ、と箸を握る手に力がこもった。
「……ヒッキーは先に眠ってていいよ。ケンカしたんなら、疲れてるでショ」
「いいえ、大丈夫、ですよ」
 本当は久しぶりに見た夢の影響で、全身が物凄く重かった。まるで高熱を出した後みたいに。
 だけどそれを言ったら心配をかけるし、こんな情けないことは知られたくなかった。
(昔のことなんだから、忘れろよ)
 食後片づけはじめた俺を残して、本当にモーチンさんは出掛けて行った。


 喧嘩したせいか、久しぶりの悪夢のせいか。
 モーチンさんが帰宅する前に気絶するように、普段着のまま寝入ってしまった俺は、翌朝モーチンさんによって起こされた。
 身支度を済ませると、隣のアレクシスの部屋に連れて行かれた。
「……何ですか?」
 アレクシスの部屋の入口で突っ立ったまま憮然とした表情の俺を、中に入ったモーチンさんは苦笑しながら振り返った。
「昨夜ジュノちゃん、ロベルトちゃんとお話してね、こうするべきだと決めたンダ」
「どうするべきだと?」
「ん……ヒッキーは今日からアレクシスと同居しなサイ」
 俺の耳が音を拾うことを拒絶したらしい。
 一瞬、何も聞こえなくなった。
「……ヒッキー?」
「冗談、ですよね?」
「ん、ホンキだよ~マジって言うんだっけ?」
「……笑えません」
「笑わせるつもりないんダ~」
 にこやかなモーチンさんの笑顔が、この時は心の底から憎らしかった。
 巨体の向こうでロベルトさんが、今朝も隙のない身だしなみで立っていた。
 俺たちを笑顔で眺めて、相槌を打っている。
『共同生活はきっとおふたりにとって、よき成長の糧となりますよ』
『僕は断固拒否するよ』
『……嫌です』
 そっぽ向いたままのアレクシスの英語だけは、何となく意味がわかった。
 片手を上げて賛同した俺を置いて、モーチンさんが部屋を出て行ってしまう。
『ま、待ってくださいっ!』
「荷物取ってくるヨ~。大丈夫、給金はいままで通りに渡すから。ときどき食事を作りに戻ってきてくれるとうれしいナ」
 呑気に手を振って出て行くと、アレクシスの部屋の中は静寂に満たされた。
『……ロベルト、本気かい?』
『ええ、もちろんですとも』
 アレクシスが恐る恐ると言った様子で再確認する声にも、あっさりとそしてにこやかな肯定が返ってくる。
 俺もアレクシスも次の言葉を見つけ損ねて、殴り合ったことも忘れて目を見交わした。
(どうしてこうなるんだよ……)
 たぶんアレクシスも同感だったろう。
 同時にため息をついた俺の足元に、戻ってきたモーチンさんが鞄を置いた。
「着替えだけ持ってきたよ。足りなければ声かけてネ。あ、でも基本的にボクたちの部屋にはヒッキーはもう入っちゃダメ」
『えぇ~っ!』
 そこまでやるか、いきなり。
「んじゃ、ガンバッテ。ボクはお仕事行ってきま~す」
『行ってらっしゃいませ』
 ロベルトが律義に見送る声だけが、部屋に虚しく響いた。
『…………』
「…………」
『……ふたりとも、いい加減に受け入れてしまいなさい』
 立ち尽くす俺とアレクシスに、ロベルトが苦笑しながら座れと促した。
 いつかモーチンさんと四人で囲んだキッチンテーブルに、俺たちを座らせてロベルトはコーヒーを淹れてくれた。
(……イギリス人は紅茶好きのイメージがあったけど、そうでもないんだ)
 初対面の日もコーヒーを淹れてくれたと思い出しながら、どうでもいいことを考える。
 現実逃避だとわかっているけれど、受け入れることがまだできそうになかった。
 マグカップに淹れてくれたコーヒーをすすると、目の前でアレクシスも同じタイミングでコーヒーに口をつけていた。
「…………」
『…………』
 お互いに目を上げたタイミングが同じで、正面から視線がぶつかってしまい、慌てて視線を外した。
 アレクシスの隣に座ったロベルトが、またにこやかな笑顔で話し出した。
『ここでふたりで暮らしながら、ヒビキさんはダンスを覚えてもらいます。アレクシスはヒビキの分も家事をこなすこと』
 頬杖ついて、すごく気のない様子だったアレクシスへ、ロベルトが言い渡した。
 とたんにアレクシスがぱっと顔を向けて、喰ってかかる。
『何で僕がやらないといけないんだいっ』
『アレクシスの方が経験者で、暇人だからです』
『ひ、まじ……んって……』
 ロベルトが言い切った勢いに飲まれて、アレクシスの唇の端が引きつった。
『ヒビキさんはダンスと同時に英語の習得をしなくてはなりません。それに比べたらアレクシスは暇人でしょう。何しろ英語を習う必要もなければ、ダンスは眠っていても踊れる。パートナーにこれくらいの配慮はして当然でしょう?』
『ぐっ……』
『それにエントリーするのは女性であるヒビキさんです。アレクシス、あなたならこれ以上言わずともわかりますね?』
 テーブルの上でアレクシスの手が握りしめられたけれど、唇噛んだまま何も反論しなかった。
 わざとだろう、ロベルトは早口の英語でアレクシスに話しかけていた。俺が聞き取れないままでいい内容なんだろう。
(すっごくアレクシスが不貞腐れてるんだけど、何を言ってたんだ?)
 ただ同居することに不満があるだけじゃない様子のアレクシスが気になったものの、それよりも笑顔のロベルトが話しかけてきたことに意識が逸れた。
『ヒビキさん、ハイヒールは履いたことありますか?』
『……はい?』
 いま、何て言ったこの紳士は。
 目が点になった俺の脳内をフルスピードで電波が飛び交っている。聞き取れた英単語と、その意味が正しく結合しているかどうか、脳が検証しているのだ。
『ドレスを着たことはありますか?』
『……すみません、質問の意味がわかりません』
 この言葉はアレクシスの逆鱗に触れるかも、と思いつつ口に出せば、横目で確認したアレクシスはコーヒーを飲みながら無言だった。
『あぁ、これは失礼しました。女性としてダンスを踊るのですから、本番で転ばないように練習から慣れていただこうと思いまして』
『つまり、これからきみはドレスを着て、ヒールの高い靴を履いて踊るってことさ』
 興味なさげに目を閉じて、アレクシスが投げやりに説明を加えてきた。
『……俺、ダンス踊らない』
 どうか英語が間違っていませんように、と胸の中で祈りながら訴えた。
 共同生活することと、ダンスを踊ることは同じじゃないはずだ。
 祈りは通じなかったらしい。
『いいえ。日本にいるトミオカ・プロデューサーにも許可をいただきました。ヒビキさん、あなたにはアレクシスと組んで踊っていただきます』
 申し訳ないような、でも嬉しそうなロベルトの表情を見ただけで、何を言われているのかわかった気がした。
(あぁ、この世に神さまはいないのか)
 隣の部屋とあまり変わらない天井を見上げて、俺はため息をついた。
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