我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第二章

我恋歌、君へ。第二部 3:歌と酒

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 自分たちの部屋に戻り、俺はベッドに寝転んだ。
「ヒッキーはどうするノ? 可哀想なアレクシスくんのために、女装して踊ってあげる?」
 モーチンさんは実に楽しそうに、日本語で話しかけてきた。
「他人事だと思って、楽しんでいませんか」
「あはは……他人事だモンネ」
「モーチンさんっ!」
 また笑い声を上げたモーチンさんは、ふと表情をあらためた。
「クニちゃんに頼まれてたヴォイストレーニングに、今日から連れて行ってあげようと思ってたんだケド……ダンスの方が為になるカナ?」
 ヴォイストレーニングと聞いて、俺は飛び起きた。
「歌えるんですか? 俺、その方が絶対に為になると思います!」
 ダンスよりも歌いたい。
 日本にいた頃もこちらに来てからも、もうずっと歌っていない。せいぜいハミングくらいで、思いっきり声を出したい欲求が高まっていたのだ。
「お願いします、受けさせてくださいっ」
「ん~……でもねぇ。ここに来る前からお願いしてたのに、いろいろ揉めて今日まで約束取り付けれなかった相手なんだヨネ~……ちょっと心配」
 なぜかモーチンさんが渋い顔でためらっている。
「俺は歌いたいんです。富岡さんは『i-CeL』を解散させると言っていましたけど、もう一度みんなで活動できるように説得したい。その為に実力をつけたいんです。お願いします」
「……ヒッキー……」
 イギリスに来て約一月、眠れない夜を重ねる間に考えて出した答えだった。
(悩んだって仕方ない。俺はみんなと一緒に歌うと決めたんだし、みんなは富岡さんに従うと決めていた。その富岡さんが決めたことだったんだ。この半年間……残り五カ月で富岡さんに、俺をイギリスに送って正解だったと言わせる俺にならないと)
 モーチンさんは潤んだ目になって俺の両手をがしっと掴んだ。
「うん、うん立派だヨ、ヒッキー! その心意気だヨ、クニちゃんをフギャッと言わせてやりなサイ!」
 猛烈な勢いで首を縦に振りつつ、モーチンさんが励ましてくれた。
 どうでもいいけど『フギャッ』と言う富岡さんなんて、想像できないな。
「わかったヨ、連れて行ってあげる。ただ覚悟してネ。相当な変わり者だから……あのクニちゃんが理性の糸を何度も切断した相手だ……ボクとは会話が成立しないシ」
「……会話が成立しないって……そもそも英語が話せない俺は、どうしたら……」
 モーチンさんは俺をじっと見つめてきた。
 両手を握られたまま、俺もモーチンさんを見返すしかなかった。
 無言が続いて、やがてモーチンさんが言葉を放り投げた。
「行けばどうにかなるヨ」
「……えぇ~っ!」
 遠い異国に来ても、俺を待っているのは災難ばかりのような気がした。


 約束は午後だからと、モーチンさんとふたりで昼食を摂ってから部屋を出た。
 ちなみに色気も金もない俺と同居したいとモーチンさんが希望した理由は、日本人たる俺が作る日本食が食べたいからだそうだ。
「やっぱり本家本元、ご当地の人が作った料理の方が美味しいヨ~」
 おかげでふたりで食事する時は、基本的に俺が日本食を作っている。
 店に置いてないんじゃないかと危ぶんでいた材料や調味料は、ちゃんと扱っている店が近くにあるからとモーチンさんに案内してもらった。おかげで異国にいるとは信じられないくらいに、快適に日本食を作ることができている。けれどどれもが軒並み高い値段がついていた。
(食費はモーチンさんが払ってくれるおかげで買えるけど、俺の賃金じゃ味噌も買えない)
 右も左も、寝ても覚めても異文化に包まれているいま、身近な食材を手に入れられると安心できるけれど、その値段に故郷との距離を痛感させられるのだった。
 モーチンさんが案内してくれた先は、同じアパートの二階だった。
「アレ? いないなぁ……」
 呼び鈴を何度も押しても答えがない。
 困ったなと巨体を左右に揺らしていたモーチンさんに、たまたま通りかかった管理人の妻エレナさんが気づいて近づいてきた。
『あらあら。今日はどうしたの、坊や?』
 すっかり白く色を変えた髪をきれいにまとめ、いつもお洒落に気を使っているエレナさんは、実年齢よりも若く見える。
 にこにこ笑顔を絶やさずだれにでも優しく接する態度は、父方の祖母を思い出させた。
(こんなに華やかな人じゃなかったけど)
 庭の隅で静かに咲く花が祖母だとしたら、庭の中央で堂々と咲くバラがエレナさんだ。
『おはようございます』
 これだけは上手くなった英語で挨拶すると、エレナさんが一段と華やかに笑い、俺の頭を撫でてくれた。
『おはよう、キョウくんとモーチンさん。今朝はジュノさんにご用なの?』
『エレナさん、おはヨ~。ジュノちゃん部屋にいないみたいだけど、どこ行ったか知らなイ?』
 モーチンさんに聞かれて、おっとりとエレナさんが笑った。
『昨晩は十四日でしたでしょう? きっと『ニンジン亭』で眠っているわ』
 するとモーチンさんは手を打って、あぁと納得した。俺にはさっぱりわけがわからない。
『ありがとう、行ってみるヨ』
『はい、気をつけてね。キョウくんも、迷子になっちゃだめよ?』
『へっ……あ、はい』
 一週間ほど前に食材を買いに出た帰り道を間違えて、アパートに戻れなくなった俺を迎えに来てくれたのがエレナさんだった。
(恥ずかし~きっとずっと言われるよな、これ)
 迷子になっていた俺を見つけた人がエレナさんの知り合いで、エレナさんの名前を知っていたのが幸いだった。
 そうでなければアパートに戻れなかったかもしれない。
 出掛ける時は古い服を着て行けと、何度もモーチンさんに言われていたし、イギリスに着の身着のまま間で来た俺は、いま手元にある服はすべてこちらで揃えた中古品で全体的に大きい。
 中にはモーチンさんからもらった気古した服もあって、汚れや穴も多い。決してきれいじゃない身なりだけど、それでいいと言われていた。
 ただでさえ幼く見られがちな東洋人が、服を余らせて着ているのだ。
 たぶん声をかけてくれた人も俺を子供だと思ったに違いない。
 後でモーチンさんに聞いてみたところ、この近辺で在留している東洋人はいま少ないらしく、俺みたいに学生に間違われる年頃の東洋人となると、皆無なのだそうで。
 エレナさんのアパートに住む東洋人となると、俺ともうひとり噂のジュノさんだけらしい。
(みんな知ってるんだ……迷ったのこの辺りでよかった~)
 モーチンさんいわく、ジュノさんは韓国人で富岡さんと同じく同級生なのだそうだ。
「クニちゃんと同じで、自分が演奏するより他人の才能を伸ばすことが楽しくて仕方ないって言う奴だったンダヨ。あ、ちなみにクニちゃんは元は指揮者目指してたの、知ってル?」
「……いいえ、初耳です」
 エレナさんに教えられた『ニンジン亭』へ向かって歩きながら、モーチンさんが教えてくれた。
「耳がすごくよかったノ。でも指揮者にも飽きたって言いだして。みんなびっくりしてたよ、いくつかコンクールで結果出してたノニ……卒業したら日本に戻って、プロデュース業に転向しちゃったんだヨネ~。でも耳のよさは相変わらずでボクはうれしかったナ」
 モーチンさんが語る富岡さんの姿を聞いていると、ふと神音と重なる部分に思い当たる。
 もしかしたら、神音が富岡さんに信頼を寄せている理由のひとつに、同じ世界を見た仲間だからと言うのもあるのかもしれない。なんて勝手に想像してみた。
「ジュノちゃんははじめから指導者目指してた。周囲にいる人間みんな、ボクみたいに表現者目指しているのに、なんでここに来たノ? って当時みんな聞いてたんダヨ。そしたらジュノちゃん、真面目な顔して、自分自身が歌ってみなければ、歌い手の気持ちがわかんねぇだろって言ってタ」
 懐かしそうに目を細めてモーチンさんがそこまで語ったところで、一軒の店の前にたどりついた。
「パブ、『ニンジン亭』。この辺りじゃ行ったことない人いないってくらい、有名なパブなんだヨ。小さいけどステージもある。ジュノちゃん行きつけのお店」
 イギリスにはパブが多いと聞いていたけれど、入るのははじめてだった。
 日本ではまだ未成年の俺は、ここイギリスの常識では成人したと言ってもいいそうだ。
こういう場所に入っても咎められないだろうけれど、少し緊張する。
 壁一面に歌手のポスターやレーベルが飾られていて、ところどころ間接照明が粋な角度で照らしていた。
 お酒のボトルが並ぶカウンターにマスターらしい男性がいて、目の前でうつ伏せている男性に困り果てていた。
『おはよ、マスター。ジュノちゃん引き取りに来たワ』
 モーチンさんが陽気に片手を上げて挨拶しながら近づくと、気づいたマスターがぱっと渋面を解いた。
『助かったよ~揺すっても叫んでも起きないから、ほんとにお手上げだったんだ』
 と肩から力を抜いて笑ったマスターが、俺を見つけてあれ、と首を傾けた。
『エレナさんところの新入り。クニちゃんの一番新しい秘蔵っ子のキョウくんダヨ。いまボクが預かってるの』
『へぇ~君が噂の……』
 マスターがまじまじと俺を見つめはじめたので、いたたまれなくなって一歩下がった。
 気づいたマスターが盛大に笑った。
『ごめんごめん、怯えさせちゃったね。いや、昨夜ずっとジュノが嘆いてたから、どんなコなのか気になってたところだったんだよね』
『嘆いてた?』
 モーチンさんがジュノさんらしき男性の体を抱き起こしながら、マスターの言葉に耳を傾けた。
『そ。クニから連絡が来た、憂鬱だって一晩中嘆きっぱなし。酒のつまみ話がそのコのこと一色だった』
『そっか……うん、迷惑かけたネ』
 いいさ、仕事だからと手を振るマスターに見送られて、モーチンさんが背中にジュノさんを背負って店を出た。
 背中に追われたジュノさんは、すごく細くて小さい人だった。ひょっとしたら俺と同じくらいの背丈かもしれない。
 神音は別にして、バンドメンバーは全員俺より背が高いし、富岡さんやモーチンさんも背が高い。
 こちらに来てからも大柄な人ばかりだったから、ひょっこり現れた近い背丈の人を見ると、妙に安心してしまって話してもいないのに、勝手に親近感を抱いてしまう。
 目を閉じた顔だちは四角くて凹凸が少ない。昭和の文豪がかけていたような古い形の丸メガネをかけていた。
 ひげはだらしなく伸ばしたまま、髪もてきとうに切っただけ。服もしわまみれで、ところどころ色が曇っている。
(この人がジュノさん……富岡さんより年上に見える)
 東京の下町あたりの居酒屋で、野球観戦しながら酒を飲んでいても不思議じゃない。異国の出身だけど、世に疲れた感じが見慣れた日本のサラリーマンとよく似ていると思った。
 行きよりもゆっくりと歩いてアパートに戻る道すがら、モーチンさんが起こさないように声を潜めて話し出した。
「ジュノちゃん、毎月十四日はあの店のステージで歌うんだヨ。たった一曲だけど」
「へぇ……聞いてみたかったな」
「……亡くなった奥さんと初めてデートした店なんだって、あそこ」
「…………」
 薄い朝日の中で、突然はじまった話の内容の重さに、心がずしんと沈んだ。
 思わず視線を向けた先で揺れるジュノさんの手があった。
 小さく見える左手に指輪がはめられていた。
「十四日にあの歌でプロポーズしたんだってサ。ジュノちゃんが歌う日は、恋人同士で聴きに来る客ばかりだから、マスターが恋人の夜にしたんだけど……ジュノちゃんはいつも酔いつぶれる。ボクはジュノちゃんがヒッキーを指導してくれたら、立ち直れるんじゃないかと期待してるんだヨネ」
 何と答えたらいいのかわからずに、俺は足を見下ろした。
 隣人アレクシスや、ジュノさんが抱える心の重荷を、急に見せつけられて戸惑ってしまう。
(まだ俺自身がしっかり立ててないのに。期待されても困るよ)
 一ヶ月経っても最低限度の英会話がマスターできない。
 ヴォイストレーナーは酔いつぶれているし、踊ったことも生で見たこともない社交ダンスを踊って欲しいと、お門違いな頼みごとまでされている。
(俺、何してんだろ、本当に)
 しかも女装して踊ることになるなんて。
 まったく『i-CeL』の再結成につながるとは思えないことばかりだ。
 アパートまでの残りをため息だけを共にして辿り、着いたころには何もしたくないほど疲れ果てていた。
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